この記事は、作者の意図を探ることを目的としたものではありません。あくまでもそういう読み方が可能であるというだけの話です。
この記事には、単行本未収録分の『ゼロの日常』のネタバレが含まれます(2018年11月29日現在)。
現在週刊少年サンデーで連載中の安室透スピンオフ『ゼロの日常』(新井隆広/原案協力:青山剛昌)は、演出・構成のひじょうに素晴らしい漫画作品になっています。
年明けまで連載がおやすみということで、『ゼロの日常』の話がしたい気持ちを持て余しているので、特に面白かった回を例にあげつつ、『ゼロの日常』の魅力の一側面をここですこしでも掘り下られればな〜と思います。
TIME.21「逃げてください」(少年サンデー2018年43号/単行本未収録)
「逃げてください」は演出・構成ともにとても素晴らしい短編でした。ストーカー被害にあった栗山緑は、それを喫茶ポアロで安室透・榎本梓に相談します。梓の披露した護身術で彼女たちは盛り上がりますが、安室はそんな彼女たちに「逃げてください」ときっぱり告げます。その夜、緑を見送った安室は、遮断器の降りた踏切を隔ててストーカーを確保し、一件落着となりました。
「何かあったら、逃げてください!」という言葉は、安室透の根底にいる降谷零の祈りであると同時に、まったくもって正論です。正論であればこそ、最後のコマの彼女たちは、先程の浮かれた気分はどこへやら、すっかり水を差され、ばつが悪そうな顔をしています。
普段の安室なら、平穏に暮らす市民の会話に水を差すことなく、笑って相槌を打つことでしょう。これまでの『ゼロの日常』でも、幅広い知識の一端を披露することはあっても、彼女たちが楽しそうに話していることなら、たとえそれが自分のとうに知っていることであっても、相手を立ててさも知らなかったかのように聞いてみせていました。
つまりこれは、「安室透の振る舞い」としてはきわめて異常なのです。日本の平和のために献身する降谷零として、ストーカーという犯罪行為を前に、彼はどうしても言わずにいられなかったのだと推測できます。
安室は「しかし訓練を受けていない人間が、咄嗟にできることは少ない…」とも言います。そんな彼が遮断器の降りたほんの数刻の間にストーカーを撃退してみせるのも、この話のひじょうに面白いポイントです。
踏切は、それを挟む二者の断絶や社会的抑圧を示唆する演出として頻繁に用いられるモチーフです。144〜147ページに渡って描かれる踏切は、まさしく公安警察である降谷零と一般市民である栗山緑との断絶です。
安室透は人々とつながります。それが安室透の役割であるとも言えるでしょう。しかし彼が降谷零として実力行使に出るためには、安室透とつながる人々から断絶される必要があります。彼はみずから望んで断絶され、ひそやかに彼女たちの平和に貢献する。「逃げてください」は、喫茶ポアロの中に刹那滲んだ降谷零と、踏切によって断絶されてはじめてその姿を露わにする降谷零の話なのです。
TIME.9「いけないよ」(週刊少年サンデー2018年33号/『ゼロの日常』1巻)
「いけないよ」はTIME.5「君も…」で初登場した迷い犬・ハロを降谷が拾うエピソードです。「君も……独りぼっちか……」と言いながらハロの頭を撫でていたところから察するに、ハロは降谷自身、更に言えば幼少期の降谷と相似の関係にある存在なのでしょう。
「いけないよ」の特徴はその不自然さにあります。それは、ハロが徹底して人間や他の犬からまったく無視されている、いないものであるかのように、透明な存在として扱われているということです。透明といえば「透けてるってことは何もないって事…だからゼロ…」(『名探偵コナン』84巻「ギスギスしたお茶会」)が想起されますが、まさにこれは、かつて透明な子供であった降谷が、宮野家のおかげで見つけてもらえる子供になったことのリプライズなのでしょう。
冒頭、安室の隣人とその犬は安室たちにまったく反応しません。隣人はともかく犬までも一瞥さえしないのです。そして最後にハロを轢きかけた男は、安室には気遣いを見せますが、ハロのことには一切ふれません。まるで最初から見えていなかったかのようです。唯一ハロに反応するのは一匹の野良猫だけですが、それも威嚇というネガティブなものであり、何より彼らは野良という透明な存在どうしです。そして、同じく透明な存在どうしである降谷とハロが心を通わせてゆくのです。
もちろんこれらはページ数の都合で省かれただけのものかもしれませんが、そう読んでみると面白いな〜という話です。
また、TIME.8「綺麗にしてやる」では、降谷がハロにリンゴを分け与えるシーンがありました。なんでリンゴ持ってんの? わからん……
先程「透明な存在」という言葉を使いましたが、「透明」「リンゴ」で思い出されるのが、幾原邦彦監督の『輪るピングドラム』です。わたしは「運命の果実を一緒に食べよう」が重要な言葉であったこの作品がとてもとても好きなので、ハロまわりのエピソードで完全に気が狂いました。みんなにも狂ってほしいので『輪るピングドラム』を観てほしいです。よろしくお願いします。
ちなみにこの作品では「カレー」「罪と罰」も重要なモチーフなのですが、TIME.15「カレーに失礼」のオマケ絵も『輪るピングドラム』を知っていると狂えるのでオススメです。
話をハロに戻します。
踏切と同様、横断歩道もまた断絶を示唆するモチーフです。しかし、この横断歩道には信号機がありません。遮断器が降りてしまえば断絶が確実なものとなる踏切とは異なり、信号機のない横断歩道は断絶としては不十分なもの、心持ちひとつで越えてゆけるものです。
この記事はテクストを自分にとって気持ちいいように解釈するものなので好き放題やりますが、『ゼロの執行人』での降谷はいつの間にか橋を渡りきり、風見裕也や江戸川コナンを置いて消えている男です。橋と横断歩道は視覚的にも概念的にもかなり類似したモチーフと言えるでしょう。
しかし、「いけないよ」において、降谷はハロのために横断歩道を引き返します。そして彼はハロの行動にかつての自分を見て取り、自分の傘にハロを招き入れるのです。
ここで思い出したいのは、ハロ初登場回の扉絵です。
そう、横断歩道と傘です。いやもうマジでどこまで意図してやっているのかわからないんですけど本当にすごくないですか? すごすぎるんですよ。
傘はしばしばATフィールドのようなものとして演出されます。ご存知の方も多いでしょうが、ATフィールドとは『新世紀エヴァンゲリオン』に登場するシールドであり、作中では「誰もが持っている心の壁」「自分と他者を隔てるもの」であることが匂わされます。降谷はハロをその内側に入れたのです。
「いけないよ」は最後のコマが公園であることもまた味わい深く、ちょうどTVアニメがED57「さだめ」に切り替わったタイミングとも重なって、郷愁めいたせつない気持ちを掻き立てられました。
ちなみにこのEDは歴代劇場版のアクションパートなどで素晴らしい活躍をされている金井次郎さんの手掛けたものなので、その点も踏まえてぜひご覧ください。『純黒の悪夢』冒頭の警察庁でのアクションなどが金井パートです。
TIME.22「ポアロの兄ちゃん」(週刊少年サンデー2018年49号)
公園といえばこの「ポアロの兄ちゃん」です。
この表紙もすさまじいノスタルジーを感じさせます。ED57での景光は、画面奥側、夕焼けを眺める形で座っていました。対してこの表紙の降谷は、画面手前のブランコに、洛陽に背を向ける形で座っています。あまりに対照的で、ED57を踏まえると不在の空白が胸を打つ構図になっています。
「ポアロの兄ちゃん」は少年の視点の使い方がひじょうに秀逸な短編です。それは「子供の視点」であり「小市民の視点」であり、そして何より「降谷零がかつて手にした幸運を手に入れられなかった少年の視点」です。
少年は榎本梓に淡いあこがれを抱いているのでしょう。しかし彼女は体よく安室に少年の面倒を押しつけることに成功しています。その一方で、降谷は他でもない初恋のひとである宮野エレーナから自転車の乗り方を教わっているのです。
エレーナはハーフである彼に親近感や同情心を持っていたことが伺えますが、そこにはきっと彼の境遇に対する憐憫も含まれていたのでしょう。
降谷は周囲の子供が当たり前に持っているものを持っていない子供だったことが本編からも推察されます。だからこそ、エレーナから自転車の乗り方を教わるという体験を手に入れられたと言うこともできるでしょう。しかし、母親も友達もいて、猫を飼える家庭環境で、やや肥満体型にも見えるこの少年は、そうであればこそ、榎本梓に自転車の乗り方を教わるという体験が得られないのです。
降谷は少年に仮面ヤイバーのシールを与えます。それはともすればひどく残酷な行動です。彼は、自分が少年にとっての榎本梓、自分にとっての宮野エレーナになれないことを自覚しています。だから彼には少年の落胆が理解できるし、シールが必要であることもわかっているのです。
少年にとっての安室透は、最後まで「レアリティの高い仮面ヤイバーのシールをくれたポアロの兄ちゃん」でしかありません。それを安室自身も自覚し、前提として行動しています。その苦さこそがこの話の魅力です。
無粋な言葉はひとつもなく、ただ相似と相違の構造だけで降谷やエレーナの感情に思いを馳せさせる、ひじょうに繊細で丁寧で巧妙な短編になっています。
『ゼロの日常』の宮野エレーナといえば、この次のTIME.23「真似しないように」でも、姿こそありませんが彼女の存在を窺わせるシーンがあります。
スキー教室中に行方不明になった少年を救出する彼は、「大丈夫…また会えるから!」と言います。この言葉の背景には、エレーナの「バイバイだね…零君…」(『名探偵コナン』84巻「ゼロ」)があるのでしょう。彼はエレーナとの思い出を抱きしめながら、ときには直接手を差し伸べ、ときには気づかれぬようひそやかに、日本の未来を担う何人もの少年を救ってきたのでしょう。
TIME.18「大物狙い」(週刊少年サンデー2018年46号/『ゼロの日常』2巻)
降谷の過去にふれる手つきがひときわ丁寧だった回として、「大物狙い」の話もしておくべきでしょう。こちらも降谷の過去と感情について、まったく言葉にすることなく、漫画の力だけで読者の心を揺さぶる素晴らしい構成です。
「大物狙い」はほんの12ページの短編ですが、「釣り」というメインプロットにちらりと差し挟まれた「工藤邸の監視」が、「大物(赤井秀一)狙いで辛抱強く待つ」という点できれいに重なり、見事な構図が立ち現れます。
さらに、「小さい魚は海に戻す」様子が描かれた一方で、「どんなに待っても取り戻せない過去」を重ねてくるのもズルいくらいにきれいです。読者は勝手に胸を締め付けられるのに、当の降谷はさわやかな微笑を浮かべて朝日を臨んでいる。降谷零というキャラクターとの距離感も絶妙な塩梅です。
これは深読みが過ぎると自分でも思いますが、チヌ(黒鯛)の寿命は十数年と言われます。降谷が釣ったものは大きさからして20年近くは生きているでしょう。ひょっとすると、景光と釣りをしたあの日に逃がしてやったちいさなチヌが帰ってきたのかもしれません。
細かい話ですが、わたしはこのページがとても好きです。ポアロの明かりが消えることでその日の安室透の役割が終了したことが示され、夜中のビルに侵入したバーボンが情報を抜き取り、そして工藤邸の前で、職業人格とも異なる剥き出しの降谷零が現れる。TIME.1「三足の草鞋」にも匹敵する、ひじょうにスマートなトリプルフェイスの表現になっています。特に最初の2コマのポアロの消灯がとてもお洒落な演出でだいすきです。「大物狙い」の膨大な情報量を拾っていくと、新井先生の筆力にただただ感服するばかりです。
降谷の過去といえばTIME.7「眠れないんですか?」でもふれられていましたが、こちらも演出の面白い話でした。
フレーム内フレームには場合によって様々な効果がありますが、窓枠はしばしば二者の断絶を示すものとして用いられます。ここでは降谷とノートパソコンを隔てる形で窓枠が描かれています。次のページで液晶に表示されるのは、警察学校時代の友人たちの写真です。生者と死者の断絶を表す演出として読むこともできるでしょう。
また、続いて1巻109~111頁で描かれたカーテンの隙間から差し込む朝日は、降谷の身を引き裂くかのように見えます。この光が心臓をつらぬいているのもまた憎い演出です。眠りという擬似的な死、彼岸と此岸のあわいで死者の夢を見た彼は、朝日にその身を引き裂かれるように此岸に引き戻されるのです。彼の秘めたる痛苦と感傷を伺わせる、ひじょうに読み応えのある見開きとなっています。
窓枠演出といえば、TIME.2「It’s a piece of cake」にも言及せざるを得ません。
「It’s a piece of cake」のラストのコマでは、ベランダに干された3着の洗濯物が描かれています。このシャツはそれぞれ降谷零、安室透、バーボンの服なのでしょう。窓枠によって仕切られたそれらは興味深い配置になっています。降谷零のシャツの窓枠を越えた袖、その比較的近くに吊るされた安室透のシャツ、そしてそこからやや離れた位置にあり、唯一窓枠を一切越えていないバーボンのシャツ。トリプルフェイスの示唆として、これもまた味わい深い演出です。
『ゼロの日常』は、『ゼロの執行人』や本編『名探偵コナン』を受けて、毎週のように進化し続けている漫画なのではないかと思います。色々と考えていることはあるのですが、長くなってきたので今回はこのへんで筆を置きます。
ここまで読んでくださってありがとうございました。みなさまの『ゼロの日常』の楽しみ方がすこしでも広がればさいわいです。
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