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皇国史観が 用いる 「 インドネシア 情報相の 佐藤総理への言葉」 にある これだけの疑問

 昨日 私は 「皇国史観」の方々の言う インドネシアと、 現地の教科書との 余りの差に 彼ら 「修正主義」の引用する インドネシア高官の 発言について 調べてみたいと 書いた。 まず、 「原典」が わかった 「ブン・トモ情報相」の発言から 報告したい。

 この発言は ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』で、 座談会の形を 本にまとめたもののようで、 執筆者は 次の方々なのだそうだ。

  関 正臣(横浜・舞岡八幡宮宮司)    田中 正明(評論家)    玉井 顕治(亜細亜友之会参与)
  中島 慎三郎(ASEANセンター代表)           名越 二荒之助(前高千穂商科大学教授)
  難波江 通泰(国士舘大学武徳研究所助教授)         原子 昭三(前弘前市議会議員)
  藤田 豊(東京教育研究教会会長)

現在の 「皇国史観」の元を作ったといわれる 名越 二荒之助氏 が 入っている。 彼の略歴を 少し調べてみると …  

 シベリア抑留後、 復員して 岡山県で県立高校の社会科担当教諭・教頭を歴任。
 1956年 小田村寅二郎が設立した国民文化研究会に関わり 青年夏合宿の講師を務める。
 1968年 家永教科書裁判の国側証人となる。
     『大東亜戦争を見直そう』原書房  デビュー作で 大きな反響を呼ぶ
 1976年 高千穂商科大学助教授に就任、社会思想史を講ずる。

 昭和32年当時、 大きな影響力を 彼が持っていたとは 考えられないので この話は 「伝え聞いたもの」であろう。 伝聞だから 「捏造」と 言って 切り捨てては、 現在のように 平行線の議論に 終わってしまう。

 日本会議 (誇りある国づくりへ 国を愛する新しい国民運動ネットワーク)のホームページにも、 みんなで靖国神社に参拝する国民の会のサイトにも、 次のように書いてある。

 インドネシア独立戦争の指導者の一人ブン・トモ情報相は昭和三十二年、佐藤栄作首相にこう述べている。

《 われわれ アジア・アフリカの有色民族は、 ヨーロッパ人にたいして 何度となく独立戦争を試みたが、 全部失敗した。 インドネシアの場合は、 三百五十年間も失敗が続いた。 それなのに、 日本軍が 米・英・蘭・仏を われわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。 われわれは 白人の弱体と醜態ぶりをみて、 アジア人全部が自信をもち、 独立は近いと知った。 一度持った自信は 決して崩壊しない。 日本が敗北したとき、 “ これからの独立戦争は 自力で遂行しなければならない。 独力でやれば 五十年はかかる ” と思っていたが、 独立は 意外にも早く勝ち取ることができた。

 そもそも 大東亜戦争は われわれの戦争であり、 われわれがやらねばならなかった。 そして実は われわれの力でやりたかった。 それなのに 日本にだけ担当させ、 少ししかお手伝いできず、 誠に申し訳なかった。 》

                                           (ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』)

 昭和32年の5月に 来日しての 話らしいが、昭和32年に 「佐藤栄作」が 総理大臣であるはずがない。 岸信介であり、 その後が 池田隼人、 そして 佐藤栄作 ( 1964 ~ 1972)。   タイ国元首相にしても そうだったが、 こういう 「歴史修正」を 日常茶飯事のように 行う。 

 これは 多分に 引用者による 曲解ではないか、と思う。 名越 二荒之助氏 について、 以前 「反対派」は トンデモな 捏造者と捉 (とら) えて非難した。 しかし、 彼は それなりに 「そういうことがあった」ことを 収集している。 ただし、 その事象を 歴史の中で見ずに、 「皇国史観」に 都合よく解釈しているだけである。

 「佐藤栄作」が 総理大臣でなかったことだけで、 この論戦を終りには しない。 まず、 インドネシアのブン・トモ情報相は なぜ 来日したのか、 それが分かれば、 この発言内容も 理解できるはずだ。 これは、 「 タイ国元首相 」 の言葉として 紹介される言葉は、  20年も前の 新聞記者当時に書いた「単なる歓迎記事」だったことと 同じで、 「 それならありうる 」 と 皆さんも納得する。 ただし、 言っている意味が 180度違うことになるだけだが …

 当時、 インドネシアと日本は どういう間柄であったか、 次のニュースが ヒントになるだろう。

1958年 (昭和33年) 1月20日、日本とインドネシアの賠償協定はジャカルタで藤山愛一郎、スバンドリオ両外相の間で締結され、4月15日批准書を交換して発効した。日本が戦争中にインドネシアに与えた損害を償うものである。
 賠償金総額223百万ドル(当時の円換算で803億円)を物資か役務で提供するものである。その他に焦げ付き貿易債権177百万ドルの放棄、経済協力借款4億ドルを加えると総計約8億ドルの規模である。

 
 当初、 インドネシア側は 「175億ドル」の 戦後賠償を要求していた。 「修正主義者」の言うように、 インドネシアが この戦争に対し 「感謝」しているのなら あり得ない話である。 だから、 この交渉は 「暗礁」に 乗り上げてしまった。 こういう 歴史の背景を 全く考えずに 「ある言葉」だけを取り上げ その字面どおりに 読んで  自分に都合良く解釈する -- それが 「修正主義者」 が 本当の歴史を読めない原因になっている。

 8億ドル規模の 「賠償」で すんだのは 「日本への感謝の表れ」 か。 それも 違う。 ニューギニア島は、かつてドイツ、イギリス、オランダの3国によって分割支配されていたが、このうち、東経141度以西の西イリアンはオランダ領として“オランダ領ニューギニア”となっていた。オランダ領ニューギニアは、 オランダ領東インドと隣接した地域であったため、1949年12月27日にオランダから独立したインドネシアは領有権を主張。これを否定するオランダと対立した。

インドネシア 佐藤栄作
ブン・トモ情報相が昭和三十二年、佐藤栄作首相に話した、 は 誤りであるが、 その話の内容は検証しても良い。 

 その後、1956年、 イリアン地方自治省を設置したインドネシアは、翌1957年、 ついに オランダの資産を接収してしまった。 イリアン問題がこじれ、 オランダ王立郵船会社(nl:Koninklijke Paketvaart Maatschappij, KPM)は インドネシア海域から すべての船舶を引き上げた。 島嶼国家インドネシアは 島間の海上輸送が停滞し、 軍事行動のみならず 経済活動に支障をきたした。 1957 (昭和32年) 年というのは そういう年だったわけだ。 けっして、 「大東亜戦争」の ことばかりで 世界は動くものではない。

 インドネシアは、 外貨もなくなり、 船舶もなくなるという 非常事態に陥ってしまった。 取れる外貨を 早急に手に入れる以外 生き残る道がなかった。 金額には 「目をつぶり」、 協定を結ばざるを得なかった。 だから、 インドネシア高官が 来日し、 オベンチャラを言ったとしても、 それをそのまま 「真に受ける」というのは、 余程おめでたい人か、 「修正主義」以外に 眼が向かない 人々だけだろう。

 とうとう1960年には、インドネシアはオランダとの国交を断絶し、武力解決も辞さない構えを示していく。

 戦後賠償で インドネシアが低額であることは、 フィリピンと面積、人口を比べて 理解していただけるだろう。
                                      下の表は 戦後賠償の妥結額  
 
          ビルマ           720億  円           2億      ドル 
        フィリピン           1980億               5億5000万
        インドネシア          803億880万          2億2308万
         ベトナム           140億4000万            3900万

 ところが、現在まで 政府が支出した ODAは インドネシア向けが 突出している。 ( 金額は 1年の平均額 )
    インドネシア-2-

 日本からインドネシアへのODA支援の 累積総額(1966~2010年)は 約4兆5,500億円にも のぼる。日本の最大 ODA支援国である。 90年代では 中国にトップの座を譲り、 それ以降は なぜか トップが イラクであるので 第3位を占めている。 インドネシアの 政治家が 靖国神社を 参拝しているとなれば、 彼らの一歩は 何十億という ODAの 資金援助に繋がっているだけである。

 現在、 インドネシアとは 経済的にも深い関係にあるので、 現在実施している ODAが 戦後賠償とは言わないにしても、 当初は そういう意味合いが強かったことは、 援助国を見れば お分かりだろう。 中国は 国交回復後 インドネシアと 同様の現象が起きている。 さて、 政府の国際協力機構の ホームページを見てみよう。

 2020年までに さらに 1兆円からの ODAが 計画されている。


                        2012年10月9日 独立行政法人国際協力機構 ホームページ より

1.10月9日、東京において、日・インドネシア両国政府によるジャカルタ首都圏投資促進特別地域(MPA)第3回運営委員会が開催されました。玄葉光一郎外務大臣とハッタ・ラジャサ経済担当調整大臣が共同議長を務め、枝野幸男経済産業大臣ら、両国政府から複数の閣僚が出席しました。同委員会において、国際協力機構(JICA)が2011年5月から実施してきた「ジャカルタ首都圏投資促進特別地域(MPA)マスタープラン調査」が承認されました。

3.同M/P調査のもとで、優先事業(早期実施事業を含む)の実施のために、2020年までに必要となる事業総額は、官民合わせて約3.4兆円規模と見積もられました。今後約10年間に必要な資金のうち、約1兆円は日本のODAを含む外国援助による資金協力が期待されています。これらについても、本日の運営委員会で確認されています。   (引用終り)

 なぜ、 この時期に 「インドネシア高官」が、 「太平洋戦争を賛辞」したのか、 おおよその結論が出たように思う。 西欧諸国と 激しく対立する中で、 経済的苦境と 外貨不足、 船舶の不足が 政権の目の前に立ちふさがり、 「金額」には 目をつぶって 日本の戦後賠償金を 手に入れねばならなかった。

 交渉は 暗礁に乗り上げていたが、 それを一刻も早く 妥結する必要が インドネシア側に 生まれてしまった。 この時期の 「インドネシア高官」の 発言には そういう 「歴史的背景」があることを 理解する必要がある。 そうでなければ インドネシアの教科書に 「オランダの植民地政策は、 数百年に及んだが、 短かったとは言え、 日本の植民地政策の方が、 インドネシア国民にとって 過酷であった。」 などとは、 書かないであろう。

 ここを訪問される 「平和主義者」の皆さんの中にも、 「歴史修正主義」の方が 示す 数多くの外国 要人の発言を見て (私でもそうだが) 、 自分の考えの方に 何か見落としがあるのではないか、 と心配になられるだろう。

 今、 私が それらを調査した段階では、 いずれも はっきりと 引用の意図が 間違っている、とおもう。 検証は さらに続けたいと思う。 参考になることがあったら、 是非 ご教授 賜りたい。

        「 戦争ができる普通の国 」 ではなく、
        「 戦争をしない普通の国 」になるよう、
         皆さんと共に がんばっていきたい。 



                                  
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