浄霊とは、明主様の救いの御力であり、明主様によって打ち建てられた神法であり、本教の救いの一大特徴です。
人間のあらゆる苦悩や苦しみは、霊の曇りが原因であり、その霊の曇りを解消する簡単にして確実な方法が浄霊なのです。
浄霊のお取り次ぎは、お祈りして手をかざすと同時に、明主様の御光が取次者の「みひかり様」に至ります。そして、その人の霊体を通して手より放射され、浄霊対象者の霊の曇りを解消します。その結果、病が癒されたり、悩みや苦しみが解消し、幸福が得られるのです。
浄霊の御力は修業や技術によるものではなく、入信し「みひかり様」をいただくことによってどなたでもいただくことができます。
本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当からいうとそれだけではないので、もっと大きな意味がある事をかいてみるが、一言にしていえば浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気といっても勿論浄化であり、その因は霊の曇りの解消作用であるのは今更言うまでもないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。
従って貧乏も争いも浄化の現れで、私の言う病貧争悉くがそれである。ところが一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、これは生命に関するものであるからで、従って病気さえ解決出来れば、貧乏も争いも自然に解決されるのは当然である。勿論そうなる事が幸福の根本であるから、不幸の原因は全く霊の曇りであるのは、余りにも明らかであり、その霊の曇りを解消する簡単にして確実な方法こそ、浄霊であるから、最初に述べた如く浄霊は独り病気のみではない事である。それについて一層詳しく書いてみよう。
以前書いた事があるが、人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、霊界の状態がそのまま霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命のその根本は霊界にあるのである。そうして霊界も現界と等しく、上中下多数の段階になっており、これを分ければ大別して三段階になっている。その内の一段が六十階、それが三分され二十段ずつになって、合計百八十一階級である。そうして一は主神であるから主神以外は如何なる神様でも、百八十の内のどれかの段階におられるのである。右は経を言ったものであるが、今度は緯を言ってみると、緯の広がりの一つ一つの段が地獄から天国までそれぞれ異なっている。仮に現在自分の霊とすると、下の六十段のそのまた下の二十段にいる場合は、最底地獄に相応するから、これ以上ない程の苦悩に満ちた世界で、これが体に映って苦境のドン底にある訳である。またその上の二十段に上ると幾分楽になり、そのまた上の二十段はもっとよくなるというように、それぞれの段階一段々々その苦楽の異うのは勿論である。それで右の如き下の六十段を突破すると、今度は中の段階になる。即ち中有界、八衢であり、ここは現界に相応する。そのまた中から上の六十段へ入ると、ここは天国であるから天人の地位となり歓喜悦楽の境遇となるのである。
右のようにその人のいる段階そのままが運命となるのだから、一段でも上に行くよう心掛けるべきで、上になる程益々苦しい忌まわしい事がなくなり、幸福は増すのである。つまり浄化すべき苦痛の必要がなくなるからである。だから人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振るい、骨を折っても幸福は得られないのである。というのはこれが神の天則であって、霊主体従の法則は厳として冒す事が出来ないからである。故に幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛けるべきで、それ以外に方法は絶対にないので、ここに浄霊の大いなる意義があるのである。
(昭27・3・25)
これは以前からよく信者が新しい患者を扱う場合、浄霊の原理を訊かれるので、簡単に分かり易く説明をしたいという希望を聞くので、私はここにかいてみたのである。というのは散々医療を受けても治らない病気が、浄霊を受けるやアッ気ない程速やかに治るので、驚くと共にその理由を知りたいと思うのは無理もない話である。尤も浄霊する方にしても、一度はそういう経験が必ずあるであろうが、今までのところ時期尚早の関係もあって、私は余り徹底的には説かなかったから、ここに詳しくかくのである。ところで昔から病気は医者と薬で治すものとの相場が決まっているばかりか、今日の人間は何事も科学ならでは信じられないという科学至上主義になり切っている以上、解するに苦しみ、訊きたいのも当然であろう。それについて最も肝腎な事は医学と科学との関係であって、これを先ず知る事である。成程他の凡ゆるものは科学で解決出来るのは言うまでもないが、独り医学に限ってそうはゆかないどころか寧ろ見当違いも甚だしいのである。というのは人間と人間以外の一切とは根本的に相違している事である。それを詳しくかいてみよう。
抑々人間なるものは万物中最高級なる生物であって、実に神秘霊妙到底人智では計り得ないものがある。ところが科学はそのような深い点は全然未知なるが為、人間を以て単なる一個の動物と看做し、物質である肉体のみを対象として来たのであるから、病気を以て肉体の毀損と解し、薬剤や機械等の物質を以て修理しようとする甚だ単純な考え方であった。しかし事実はそんな簡単なものではない。人間は肉体以外生命力という寧ろ肉体以上重要な霊的個体が存在しており、それが体との密接不離な関係にあって、人間は生きて活動出来るのである。しかし霊は無に等しいものである為、唯物科学では発見されなかったのである。という訳で科学は肉体のみの研究に耽っていたのは、彼の死体の解剖などを見てもよく分かる。従って何程進歩したといっても、両者の一方だけであるから跛行的進歩でしかない以上、如何に努力したとて結局徒労以外の何物でもないと言えよう。
以上の如く人間は霊と体との両面から成り立っており、霊が主で体が従となっているのであって、これが万有の法則である。そうして病気なるものは体にある保有毒素が霊に移写して曇りとなる、それに自然浄化作用が発生して曇りが解消すると共に、それがまた体に写って毒素は溶解し排除されるので、その苦痛を言うのであって、つまり前者は霊体一致の緯の作用であり、後者は霊主体従の経の作用であるのであって、この理を充分知る事が肝腎である。では一体曇りの本質は何かというと、これこそ無色透明である霊に不透明な部分が発生するそれをいうのであって、これが真の病原であるから、これを払拭すれば病気は治るに決まっている。この方法が浄霊であるから、浄霊とは読んで字の如く霊の曇りを浄める手段で、これが真の医術である。従ってこれ以外の療法は悉く真の医術でない事を知るべきである。以上が病原と治療との根本原理であって、一言にしていえば病気とは外部に現れた症状であり、病原は内部にある曇りである以上、この解消こそ真の治病法である。ところがその理を知らないが為医学は現れた症状さえ除けばいいとしているので、仮令効果があってもそれは一時的で、必ず再発するのは医師も常に経験しているはずである。
では一層突き進んで浄霊の根本原理を科学的に説明してみよう。それには便宜上科学の方程式に則り、理論科学と実験科学の両面から検討してみるが、今のところこれが最も正しい方法であるからである。そこで霊の曇りとは何であるかという、これこそ薬剤の毒化したものであって、その本質は不純水素である。不純水素とは水素中に毒粒子が混入されたので、この毒粒子を潰滅すれば純水素となり、病原は根絶される訳だが、これには非常な高熱を要する。それによってこの毒粒子を焼尽出来るからである。しかしこの高熱は地球上未だ嘗て存在しなかったところのXであるが、幸いなる哉この説明に最も好都合な一事が発見された。それが彼の原子爆弾であって、人も知る如く原爆の高熱も今まで全然なかったもので、二十世紀の今日初めて発見されたもので、この点よく共通しており、偶然の一致というよりも勿論神意の表現である。只異うところは原爆の熱は体の熱で、浄霊のそれは霊の熱であるから、その強力さは比較にならない程のものである。即ち体熱の方は限度があるが、霊熱の方は限度がない程の高度であって、勿論科学では発見出来なかったのである。尤も発見出来ても人為的には作り得ないから、この点から言っても原爆とは比べものにならない程の性能である。しかし科学が現在より数層倍進歩した暁、あるいは発見出来るかも知れないが、それは今のところ未知である。ではこの本質は何かというと、これこそ太陽の精であって光と熱の霊である。私はこれを名付けて火素といっているが、この火素が不純水素に向かって放射されるや、水素中の毒粒子のみ一瞬にして焼き尽くされる。つまり病原を焼いてしまうのである。というのは体的不純物と異い、霊の方は霊熱でなくては焼けないからである。その方法として私は一紙片に『光』の文字を書き、これを御守として懐中へ入れるや、太陽から不断に放射されている火素が、私を通じて御守に伝流され、その人の掌から放射される。丁度太陽が放送局とすれば私は中継所であり、術者は受信機と見ればいい。それによって毒粒子は全滅し純水素となって漿液中に吸収され、かくして病気は全治するのである。これを一層分かり易くいえば、例えば痛む個所に向かって手を翳すや忽ち痛みは去る。それは患部の曇りが間髪を容れず解消し、体に映るからであって、しかも毒粒子は結核菌でも伝染病菌でも凡ゆる菌の発生原であるから、それが全滅するとしたら、これこそ万病治癒の理想的医術である。以上で大体判ったであろうが、これを大雑把に言えば、医療は溶けかかった毒素を固める方法であり、浄霊はより溶解し排除させる方法であるから、前者は病気保存法であり、後者は病気解消法である。としたら公平に見ても、治る方が科学であり治らない方が非科学であるから、私は医学は非科学であるというのである。その例として医学の説明をみればよく分かる。成程微に入り細に亘ってはいるが、悉く枝葉末節的で、根本には触れていない以上実際に合わないのは医師も認めているはずであろう。丁度枯死せんとする樹木は、原因が根にあるのを知らず、枝や葉を研究するようなものである。
これで病理と医学の大体は理解されたと思うが、要するに現代医学は根本が不明である為合理性がない低科学である。これに反し浄霊医術は合理的高度の科学であり、未来の科学である。その証拠として科学の頭脳を以て浄霊の驚異的効果を見る時、奇蹟として驚嘆するが、実は奇蹟でも何でもない。治るべき理由があって治るのであるから当然である。これについて何人も知りたいであろう事は、一体太陽の精などという素晴らしい力が、何故私という人間を通じて万人の病を治すのかという事で、全く世紀の謎である。しかしこれを説くに当たっては深奥なる神秘を露呈しなければならないから、次に譲る事とする。
(昭29・1・13)