皆様、こんにちは、ひでです。
「源義経は大陸に渡って、チンジスハーンになった」
富山県高岡市にある「雨晴海岸」。地名の「雨晴」は源義経一行が奥州平泉に逃れる際、ここで雨宿りをしたからだと伝えられている。
前回、日本の武将・源義経には、「義経北行伝説」という、古くから「奥州北方へ脱出し蝦夷地(北海道)に渡った」という伝説が語り継がれ、江戸時代に入ると遂に大陸に渡り、チンジスハーンになったのだ。という誇大妄想の領域にまで伝説が広まってしまったところまでお話したかと思います。今回は、その続編です。なぜ、義経が遠い異国の建国者であるという伝説にまで広まってしまったのか。日本において「義経=チンジスハーン」説をもっとも最初に提唱したのは、実は日本人ではありませんでした。では、一体誰か?
チンジスハーン=義経説を支持したオランダの軍医、シーボルト
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。ドイツ人医師。鎖国時代の日本に、長崎・出島のオランダ商館医として来日した西洋人。日本人なら、誰もが歴史の授業で彼の名前を先生から聞かされてきたはずです。その彼が何故このような「トンデモ」説を支持したのでしょうか?実はシーボルトに「義経伝説」を伝えたのは時の長崎通詞(通訳)だといわれています。そして、彼の書である『日本』にもこの「義経=チンジスハーン」説が掲載されるようになったのです。それによると彼は、下記の5点において日本とモンゴル文化に共通点が見られると指摘しています。
1新井白石『蝦夷史』の記述。
2チンジスハーンと源義経の年齢の近さ。
3モンゴル語の「ハン(汗)」という尊称は、日本語の「守(かみ)」の類似。
4日本の宮廷とモンゴルの宮廷文化の類似点。
5チンジスハーンが使用していた弓が通常モンゴルで使用されていた短弓ではなく長弓である事。
しかし、どう客観的にみても、上記の共通点とされる項目に関してはこじつけの部分が多いのは否定できないでしょう。当時、日本ではそもそも「義経=清朝祖先」説が唱えられていたのです。おそらく、日本の歴史事情にうとかったシーボルトが、北方民族によるユーラシア王朝について、清朝(満州)とモンゴルを混同した可能性(韃靼=モンゴル?)が大きいと思います。しかし、この説がシーボルトの『日本』によって紹介された事により、状況は一変してしまったのです。
「義経=チンジスハーン」説を取り上げた末松謙澄
小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義經也』を痛烈に批判した金田一京助
明治以降、日本が富国強兵策により欧米列強とに「追い付け追い越せと」張り合い、また主に満州方面への大陸進出政策により日本人の「大陸熱」も盛んになってきました。そのような状況下において「チンジスハーン=義経」説が再び脚光を浴びるのです。この説を熱弁した代表的な人物といえば下記の2名になります。
◎末松謙澄『義経再興記』
◎小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義經也』
とくに東北・秋田出身の宣教師であった小谷部は「チンジスハーン=義経」説を熱狂的に支持し、その人生をかけてこの説を追及してゆく事になります。彼の唱えた日本とモンゴルの文化的共通点の一部を抜粋すると・・・
1チンジスハーンは別名を「クロー」と称した。これは「九郎判官」ではないか?
2チンジスハーンが1206年にハーンに即位した時の「九旒の白旗」の建立は源氏の氏の長者、武家の棟梁の宣言ではないか。「白旗」は源氏の旗印であり「九旒」は九郎判官を意味するものではないか?
当然、このような半ば妄想的な俗説に対して、大正時代の日本の歴史学会は総がかりで小谷部の説を否定してゆきます。
1「クロー」は部落の長を意味する「グルハン」の訛りにすぎない。
2「九旒の白旗」は「テゥク」と呼ばれるものであり、古い大陸からの伝来によるもの。源氏とは何の関係もない。
と、言語学者の金田一京助を初めとした面々により、小谷部の珍説はほぼ全て論破されてゆきます。(Wikipedia「義経=ジンギスカン説」より)
やがて日本が太平洋戦争終結により、日本人の大陸への関心が薄くなると、この「チンジスハーン=義経」説が日本の学会・言論界において話題になることは少なくなりました。数百年に渡って、日本人の間に長く語られてきた「チンジスハーン=義経」説は、現在ではモンゴル史研究が進むにつれてその史実性は失われ、「歴史ロマン」として、専らミステリー小説ファンの間で語られてゆくのみとなりました。
参考文献:
森村宗冬『義経伝説と日本人』(平凡社, 2005年2月)
森田雄蔵『モンゴル国ものがたり-神話と伝説と挿話と-』(文元社, 2004年2月)
(寄稿者:ひで)
コメント
コメント一覧 (2)
今回ご指摘された件ですが、記事全体そのものは私のオリジナル文章であります。
但し、以下の箇所でWikipediaより一部抜粋した箇所があります。
1チンジスハーンは別名を「クロー」と称した。これは「九郎判官」ではないか?
2チンジスハーンが1206年にハーンに即位した時の「九旒の白旗」の建立は源氏の氏の長者、武家の棟梁の宣言ではないか。「白旗」は源氏の旗印であり「九旒」は九郎判官を意味するものではないか?
1「クロー」は部落の長を意味する「グルハン」の訛りにすぎない。
2「九旒の白旗」は「テゥク」と呼ばれるものであり、古い大陸からの伝来によるもの。源氏とは何の関係もない。
その部分にたいする抜粋した旨の記載が漏れておりました。従いまして、誤解を招かないよう下記のように記事を変更いたしました。
と、言語学者の金田一京助を初めとした面々により、小谷部の珍説はほぼ全て論破されてゆきます。(Wikipedia「義経=ジンギスカン説」より)
改めましてご指摘ありがとうございます。今後は、このような記載漏れのないように注意致したいと思います。何卒よろしくお願い致します。
ひで