モンゴル帝国始祖、チンギス・ハーン チンギス・ハーンの生誕年には、1154年・1155年・1162年の3通りの説がある。 そのためか日本には、文治5年(1189)4月30日、藤原泰衡の軍勢数百に襲われ、籠る持仏堂で妻と娘を刺殺し、若干31歳で自害した義経に哀惜の念からか、「源義経」=成吉思汗説がある。 私が読んだ「成吉思汗の秘密」は高木彬光著(昭和33年 1958年)で、名探偵・神津恭介が、「義経=成吉思汗」説の謎に挑む長編ミステリーである。神津恭介の推理が余りにも尤もらしく、尚且つ説得力にひかれ親に大学の講義が休講になったと嘘を言い、一気に読んでしまったことを思い出した。 ブログを書くにつけ「義経=成吉思汗」説が他にないか探したところ、大変面白い本を見つけた。 「義経伝説と日本人」である。 左:義経 右:チンギス・ハーン 以下に引用いたします。 大正13年(1924)11月義経の死後735年経ってから「成吉思汗ハ源の義経也」と銘打った書物が世の中を騒然とさせた。著者は、小谷部全一郎。総頁数300。2円80銭。発売元は冨山房。 「源義経は衣川で死んでいない。平泉から蝦夷地(北海道)に脱出した後、中国大陸に渡り成吉思汗になった」と言う内容のものである。小谷部全一郎は歴史学者として在野の属するが、アメリカのエール大学で哲学を学び、ドクター・オブ・フィロソロフィーの学位を取得した博学の人であった。 小谷部は著書の巻首の辞で、出版決意の理由を次の様に記している。 「先輩諸賢が唱える「義経衣川自刃説に対して反駁する言葉の少々不遜の傾向があるのは、詰まるところ苦心研鑽して大陸に義経復興の跡が明確に残っているのを認めたためである。その上、鎌倉にもたらされた「義経が衣川で自害した」との報せは、藤原泰衡らの苦肉の策から出た事実無根の上申に思い及ばず、鎌倉側では真実と思い込んで「吾妻鏡に記して以来700年間、ほとんどの学者が定説としてきた。本書は「義経は衣川で死んだ」とする千古の史疑を払拭し、不遇の英雄に真実の光を当てようと思う誠の心から出たものである」 同月11日、小谷部は徳川達孝伯爵が華族会館で開催した会に出席、徳川一門を始め、いわゆる清和源氏に属する華族たちの前で講演を行っている。この講演は翌日、東京日々新聞の7面に次ぎのタイトルで取り上げららた。 「義経は成吉思汗・弁慶はお供に蒙古いり」 当然の如く、義経=成吉思汗説は歴史学会から厳しい批判にさらされた。大正13年12月3日の都新聞で中島利一郎が「成吉思汗が義経だとは嘘の骨頂」という談話を発表し、翌年の2月には国史講習会発行の「中央史壇」が「成吉思汗は義経にあらずと題した臨時増刊号を緊急出版した。執筆者は前出の中島利一郎に加え、大森金五郎・金田一京助ほか(略)大勢の国史学、国語・言語学、国文学、民俗学、東洋史学の錚々たるメンバーが名前を連ね、様々な角度から小谷部の義経=成吉思汗はに検証を加え、批判した。 だが小谷部も黙っていなかった。同年の10月「成吉思汗ハ源義経也ー著述の動機と再論(反対論者に答う)」により反論した。 源義経の復活劇は、大正13年の義経=成吉思汗説が最初ではない。実に6回、義経生存説が世間の関心を集めている。時代と内容を簡潔に記すと次の通りである。 イ;江戸時代中期=享保2年(1717) 義経は衣川で死なず蝦夷地(北海道)に脱出。義経はアイヌに神として崇められつつ、現在も蝦夷の どこかで生存しており子孫はアイヌの棟梁となった。 日高国義経神社の由来(金田一京助「旅と伝説」) 古く浄瑠璃の伝播した御曹司島渡りの説話が蝦夷地に渡って、アイヌの口にも判官様が知られているのを、後世の人々が驚き報じて、内地の学者へ耳よりの語り草を提供した時、茲に義経の足跡を蝦夷地に嗅ぎだそう敏感になった耳へ、アイヌの大国主ともいえるオキクルミ神が、さながら物色していた丁度そのキャラクターにふさわしく聞こえた。惣ち「蝦夷のオキクルミが即ち義経だ」と言うことになり、「義経を蝦夷はオキクルミと呼んで今に伝えている」と言う声になり、遂にアイヌに向かってまでも「汝等の伝えているそのオキクルミは、こっちから渡っていった判官様だよ」と話すような機会がたまたま素朴なアイヌをして、変だなと思わせながらも、そうかなぐらい受け取らせてしまったから、根が張ってしまった。オキクルミはアイヌの始祖である。アイヌの神話によれば、国造りの神が人間界を作った際、オキクルミはさまざまな試練を受けたのち、人間界に降臨し、農業・造船・狩猟の技術、神を敬うことの大切さなどを教え、飢饉を救い、悪鬼どもを退治してアイヌの生活の一切のもとを開いた英雄神とされている。 八雲・長万部アイヌに言わせれば日高神社がある位だから日高アイヌは義経うを信じているかも知れないが、私たちには伝説もなければ誰も信じていないという。 ついでに言えば、アイヌには神社を立てるような習慣はない。義経神社の建立者は幕末期の探検家・近藤重三である。寛政10年(1798)に蝦夷地を訪れた彼は、義経伝説にいたく興味お持ち、江戸に帰って神田の仏工に義経像を彫らせた。翌年再度、蝦夷地にやってきた近藤重三は、ハヨピラ(日高支庁沙流郡平取)に祠を立てて像を安置した。これが義経神社の始まりである。ちなみにハヨピラとは、オキクルミが降臨した土地としてアイヌの聖地となっていた場所である。 ロ:江戸時代中期=享保2年(1717) 義経は蝦夷地に脱出した後、当時韃靼(中国大陸北方)を支配していた金国に入り、皇帝の章宗から厚遇され、子孫も栄えた。 ハ:江戸時代後期=天明3年(1783) 義経は蝦夷地から韃靼に渡った。子孫は繁栄し、やがて「清国」を建国した。 ニ:明治時代初期=明治18年(1924) 義経は蝦夷地から韃靼を経てモンゴルに入り成吉思汗になった。 ホ:大正時代末期=大正13年(1924年) 小谷部の「成吉思汗ハ源義経也」によって、義経=成吉思汗説が空前の大ブームになる。 また、岩手県宮古市の郷土史家・佐々木勝三も昭和33年に「義経は生きていた」を刊行ひて以後「源義経蝦夷亡命追跡の記」「成吉思汗は源義経」などを樋口忠次郎・大町北造・横田正二といった協力者たちと著し、精力的に義経生存説を唱えた。近年では、三好京三・中津文彦・山田智彦など著名な作家たちが義経生存に題材をとった作品を発表している。最初の勃興から約300年。義経生存説は息の長い歴史ロマンである。 |
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