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千年の月日を超えたいま、たとえ総理大臣や国会の両院議長の名前を知らなくても、日本人なら誰もが紫式部という名前を知っています。
千年の間、日本中の人たちが、みんなずっと彼女の友達です。そして彼女の心は、いまも日本人みんなの心に生きています。
その意味では、彼女は日本一愛され続けている女性ということができるかもしれません。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に
雲隠れにし 夜半の月影(めくりあひてみしやそれともわかぬまに くもかくれにしよはのつきかけ)
(現代語訳)
久しぶりにめぐりあったけれど、見たかどうかもわからないうちに、月影のように雲に隠れてしまいましたわ。
紫式部といえば『源氏物語』で有名です。
『源氏物語』は、世界最古の長編女流文学として、いまでは世界二十カ国語に翻訳され、国内でもいろいろな先生方が現代語訳を発表しています。
日本人なら、『源氏物語』の作者、紫式部の名を知らない人はいないくらいです。
その紫式部は、生涯に多数の歌を遺していますが、藤原定家が百人一首に「この一首」として選んだのが、この「めぐり逢ひて」の歌です。
この歌は『新古今和歌集』(一四九九)に掲載され、詞書(ことば がき)には、次の記述があります。
「はやくより、
わらはともだちに
侍(はべ)りける人の、
としごろへて
ゆきあひたる、
ほのかにて、
七月十日の比、
月にきほひて
かへり侍りければ」
現代語にすると次のようになります。
「童女の頃からの幼ななじみの友達だった人と、
年頃になって出会いました。
僅かな時間で、
七月の十日の月に競うように帰られたので」
そして「久しぶりにめぐりあったけれど、見たかどうかもわからないうちに、月影のように雲に隠れてしまいましたわ」と詠んでいるわけです。
ここで「逢」という漢字が使われていますが、この字は一般には男女の逢瀬を意味しますが、もともとは「道で偶然出会う」といったときに使われる漢字です。
従ってここで出会った相手は、幼馴染とわかるだけで、男か女かはあまり問題になりません。
その友達と偶然出会って、友達と別れたのが夜半です。
たまたま道で偶然出会ったわけですが、この時代、高貴な女性が夜半に外を出歩くことはあまりありません。
相手の性別はわかりませんが、紫式部は女性ですので、二人が出会った時間帯は、まだ陽があるうちであったことになります。
ところが別れたのが夜半です。
つまり数時間、二人はおしゃべりに花を咲かせていたわけです。
それが振り返ってみれば一瞬のことにしか思えない。
つまり物理的時間としては、まる半日のおしゃべりだったけれど、心理的には、ほんの一瞬のことにしか感じられなかったと、彼女はこの歌に詠んでいます。
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https://www.mag2.com/m/0001335031.html 下の句にある「月影」ですが、「月」は満ちたり欠けたりするもの、つまり「めぐるもの」です。
歌い出しが「めぐりあいて」で、末尾が「月」で「めぐるもの」です。
何か意図がありそうです。
さらに「月影」です。
藤原定家が「百人一首」に先駆けて編纂した「百人秀歌」やカルタでは、この歌の末尾が「月かな」になっています。
最近の解説書なども「月かな」となっているものがあります。
「月影」よりも「月かな」のほうが意味がとりやすいからです。
どういうことかというと、「月かな」の場合は、「幼馴染とたまたまめぐりあったけれど、すぐに別れてしまいました。見上げると、そこに十日の月が浮かんでいましたねえ」といった歌意になるからです。
ところが末尾が「月影」になると、少し意味が変わってきます。
月影というのは月の光に映し出された姿のことです。
十日の月というのは、十五夜お月さまの満月になる前の半月よりも少し太ったお月さまです。
夜半ということですから、その月は中空にかかっています。
満月ほど明るい月夜ではありません。すこし暗い。
その月の光に照らされた幼馴染が、月の光が雲に隠れてしまってあたりが真っ暗になってしまうように、去って行ってしまったと詠んでいることになります。
もともとそんなに明るくない。
けれどその少ない光さえも消えてしまうように、去ってしまったのです。
何があったのでしょうか。
紫式部は、父が蔵人式部丞(くらんどのしきぶのじょう)で、そこから式部と呼ばれています。
初めのうちは、彼女が藤原姓であったことから藤式部と呼ばれていたのですが、一条天皇の御生誕の祝儀のとき、大納言の藤原公任(だいなごんふじわらのきんとう)が、「わか紫やさぶらふ(若紫みたいな女性だね)」と話しかけたことがきっかけで、以後、紫式部と呼ばれるようになりました。
つまり紫式部は、はたから見ても薄紫色がイメージされるような、静かでおとなしい雰囲気のある女性だったのでしょう。
そんな彼女は二十代の半ば頃、父の転勤に付いて、越前国(いまの福井県)で暮らしています。
彼女が都に戻って『源氏物語』を執筆するのは、その後のことです。要するに紫式部は、地方転勤族の家庭に育ったわけで、その彼女と幼なじみの友というなら、その友もまた、転勤族の子であった可能性があり、年齢的には、本人またはその配偶者が転勤族であったのかもしれません。
そしてその友が、あまり意に沿わない遠隔地への転勤が決まる。その挨拶回りをしているところに、たまたま紫式部はばったりと出会うわけです。
この時代、日本海側の越前や越後は、日本海交易が盛んな地域で、いまと違って太平洋側でなく、日本海側が商業や産業の中心となっていました。
ですから紫式部の父のように、越前や越後の国司に任ぜられるということは、収入の多いエリートコースでした。
けれどもそうでない地域への赴任となれば、それはいわば「都落ち」のようなものです。
無事に都に帰れる保証もありません。
そのような状況の幼馴染とたまたま路上で出会う。
つい話し込んでしまって、別れたのが夜半です。
月は「めぐるもの」で、初句の「めぐりあい」との縁語(えんご)です。
そして「月影」さえも消えてしまうのです。
そこに「めぐりあったけれど、相手の幼馴染にとっては、けっして喜ばしいとはいえない事情を伺うことができます。
けれどもそんな友人を紫式部は、
「いつかは時がめぐって、
また都に帰ってくる日がきっとくるよ。
ね、だからはやく都に帰っておいでよ」
と、やさしく励ましています。
そしてこうした歌意から、さらに紫式部がどのような女性であったかを、察することができます。
訪ねてきた友達は幼なじみです。
幼い頃の紫式部は都で生活しています。
つまりその友達も、同じ都で生活しているのです。
にも関わらず、その友達と紫式部は、「としごろへてゆきあひたる」、つまり何年ぶりかに会っています。
しかも半日以上にも及ぶ長い時間のおしゃべりが、紫式部にとっては、ほんの一瞬にしか感じられなかったほどです。
紫式部にとっては、その友達は、大切な幼馴染の友であったのでしょう。
けれどその友達にとっての紫式部は、どういう存在だったのでしょうか。
それほど親しい友なら、同じ都にいるのです。
もっと頻繁に交流があってもよさそうなものです。
けれど、それをしていない。
つまり紫式部との関係は、わりと疎遠です。
紫式部は、十代の頃に兄が読んでいた漢文の『史記(しき)』をたちまち暗記し、兄の間違いまで指摘してしまったほどの才女です。
そして宮中に入ってからは『源氏物語』や『紫式部日記』を執筆し、さらに自撰和歌集『紫式部集』を編纂するほどの才能の持ち主です。
しかしそういう文筆タイプは、これは今も昔もですけれど、わりと孤独な人が多いものです。
おそらくは紫式部は、とても頭の良い才女ではあったけれど、決して友達は多いほうではなく、そういう面においては、寂しい女性であったのかもしれません。
その寂しさがあったからこそ、彼女の思いは創作へと向かい、あれだけの大作を執筆しています。
紫式部は、和泉式部のように男性への愛に生きた女性ではありません。
また、清少納言のような、底抜けに明るくて、いつも友達に囲まれてはしゃいでいるような明るいタイプの女性でもありません。
素朴でおとなしくて、もの静かで地味で、薄紫をイメージさせるような女性です。
紫式部は、『源氏物語』というたいへん有名かつ素晴らしい文学作品を世にのこした女性ですから、周囲からちやほやされて、いつもたくさんの取り巻きに囲まれていたスターのような存在と思いがちですが、本人は物静かなひとりでいることを好む女性であったのでしょう。
そのようなタイプの人は、男性でも女性でも、周囲から敬遠されがちです。
めぐり会ったその幼馴染も、だから日頃は紫式部とあまり接していません。
それでも紫式部は、相手のその幼馴染を自分にとっての大切な友と思い、その友に久しぶりに出会えたことがとても嬉しかったし、「元気ではやく都に帰っておいでよ」と優しく励ますという気遣いを見せています。
この歌の表面的な意味は、単に「久しぶりに幼馴染の友に会ったけれど、すぐに別れて(帰って)しまいましたわ」というものです。
けれども「見しやそれともわかぬまに」「月影」というヒントから、この歌の真意を読み解いていくと、なんとその友の辛(つら)い状況から、紫式部の人柄や人生にまで触れることができてしまうのです。
紫式部の人生は、流行りの作家といういっけん華やかなものに思えてしまいますが、実際には優秀な作品を書いた分、とても孤独で寂しかったものであったのかもしれません。
けれど、その孤独が不朽の名作の『源氏物語』を生んでいます。
また紫式部は、友達への優しい思いやりの心を育ませています。
どんなに自分が孤独な状況にあったとしても、人をたいせつに思い、人へのやさしさを失わないで紫式部は生きたのです。
そして千年の月日を超えたいま、たとえ総理大臣や国会の両院議長の名前を知らなくても、日本人なら誰もが紫式部という名前を知っています。
千年の間、日本中の人たちが、みんなずっと彼女の友達です。そして彼女の心は、いまも日本人みんなの心に生きています。
その意味では、彼女は日本一愛され続けている女性ということができるかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございました。

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