4時限目のゼミを終え、慌ただしく移動して5時限目の教室にたどりつく。今日は授業開始まで数分の余裕があるから、そのあいだに頭の中を整理して冷静に授業をはじめられそうだ。
内心で安堵しつつ次々と教室にやってくる学生たちの様子をなんとはなしに観察していたら、不意打ちのようにその声が聞こえた。
「私、この論文嫌い」
もちろん無関心ではいられない。5時限目は恋愛や結婚、性的欲望などに関する論文を読んでグループでディスカッションする授業なので、「この論文」とはその日の課題文献のことを指しているはずである。
もちろん学生が読むべきだと思って私が選んだものなので、「嫌い」な理由いかんによっては私の選択が間違っていたということになるかもしれない。
ちなみにその日の課題文献は女性の美容整形を題材にしたフェミニズムの文章で、主張は次のようなものだ。
「美容整形というのは本人の自由意志でやっているだけのものだ」という見方はこの社会が女性の外見に課す過剰な要求(「いつ見た目で判断されてもよいよう、常に美しくあれ!」)を無視している。他方で、「女性は社会によって整形させられている被害者」という見方は、女性自身の意志を無視している。
フェミニズムは、美容整形という現象を考えるとき(だけでなく、この社会において女性が生きていくことの難しさを考えるときはいつでも)、女性自身の意志と社会の影響の双方を考慮しながらその現象の問題性と向き合わなければならない。
この文献のよさは「女性は無力な被害者でしかない」といった一面的な主張をしないところにあると私は考えていて、だからこそ学生にフェミニズムの考え方を理解してもらうのにふさわしいと思って選んだのだった。だから、その学生(女性)の放った「嫌い」という言葉の強さに、私はけっこうなショックを受けた。
話を聞いていると、その学生が「嫌い」と言ったのはこの論文の中に「思い込み」が書かれているかららしい。
実はこの論文に対して強い嫌悪感を抱く学生がクラスの中にもう一人(こちらも女性)いたのだが、二人の話を総合すると、この論文の中でフェミニズムが向き合うべきとされているエピソードは、体験した女性、あるいは論文著者自身の「主観」にすぎない「思い込み」や「被害妄想」の類なのだというのである。
とはいえこれはあとから振り返った話。実際は不意打ちに体勢を立て直す間もなく、5時限目の授業がはじまった。学生たちのディスカッションを見守りときに介入しつつ、私の脳は二人の学生への応答を高速回転で考えはじめる。この状況には、フェミニズムにとって重要な二つの論点が関係しているはずだ。