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渡邊雄太は3人目?NBA初の非白人選手は両親が日本人の日系人スポーツ 2018.10.30

ワッツ・ミサカ公式サイトより

 

 10月27日、NBAチームのメンフィス・グリズリーズから、渡邊雄太が試合終盤の第4クウォーターに出場。史上2人目の日本人NBA選手になった。

 

得点はわずか2点だったが、日本人離れした身長206センチと外角のシュートを武器に、今後NBA定着も期待できる。

 

 

 とはいえ、日本人がNBAで活躍するには高い壁がある。2004年、田臥勇太がフェニックス・サンズと契約。史上初の日本人NBA選手になったが、わずか1カ月で解雇されてしまった。

 

 アジア人というくくりで見ても、初めてNBAでプレイしたのは、2001年、中国のワン・ジージーとかなり遅い。やはり、日本人がNBA選手になるにはかなり難しいのだ。

 

 だが、NBAで史上初の非白人選手は、実は「日本人」なのだ。
 それは、日系二世の三阪亙(ミサカワタル、以下ミサカ)で、ニックネームは「ワッツ・ミサカ」。両親は広島県尾道市の離島・岩子島出身。父の「ふさいち」は1902年、母の「たつゆ」は1922年にアメリカへ移民し、結婚。

 

 1923年12月21日、ミサカは長男として、ユタ州のウィーバー郡オグデンで生まれる。

 

 父は地元では「ベン」と呼ばれ、床屋「バーバーミサカ」を経営していたが、1939年に他界。そのとき母は、親族のいる日本に帰ることも考えたが、アメリカに残ることを決意する。

 

 1941年、日本が真珠湾攻撃をすると、アメリカ政府は日系人を強制収容所に送るなど、厳しい締め付けが行われた。だが、日系人の少なかったユタ州は比較的ゆるく、ミサカは大学でバスケットボールをする機会に恵まれた。

 

 1943年、ユタ大学に編入後、守備の名手として名をあげる。
 チームは全米選手権の「NCAAトーナメント」で優勝。170センチと低い身長だったにもかかわらず、ミサカはベンチから出場する「シックスマン」として活躍した。

 

 その後、徴兵され、両親の故郷・広島の原爆後の調査に従軍。2年の兵役の後、復学し、スターターとして活躍。1947年3月、もう一つの全米選手権「ナショナル・インビテーション・トーナメント」(NIT)で優勝を果たす。

 

 2つの全米選手権の優勝に貢献した大学のスター選手に、プロからの注目が集まる。1946年に創設されたアメリカ初のプロバスケットボールリーグBBA(後のNBA)の1947年ドラフトで、ミサカは日系人にもかかわらず、ニューヨーク・ニッカーボッカーズ(現ニューヨーク・ニックス)から1巡目に指名されたのだ。

 

 BBAではわずか3試合で解雇されてしまうが、ミサカの功績は大きかった。2009年、オバマ大統領(当時)がミサカに対して、アメリカに貢献したアジア系アメリカ人として称賛したほどだ。

 

 日本のバスケファンが長年待ち望んでいた日本人NBA選手は、実は日本人を両親に持つ「日系2世」選手によって設立当初に達成されていた。渡邊雄太に注目が集まるなか、いまこそミサカの功績に思いを馳せたい。

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