「時間」:たにやま哲学カフェ参加の御報告
先日、「たにやま哲学カフェ」という集まりに参加して参りました。
小川仁志先生の哲学カフェや私が主催するたがしゅう哲学カフェと同様、
参加者に守ってもらいたいルールは大体共通していました。
1.人の話は、最後まで聞きましょう。
2.発言は分かりやすく簡潔に。発言なしもOK!
3.分からないことは、どんどん発言しましょう。
4.普段の関係はここでは忘れて。
5.時間になったら終わります。
6.さいごに。(宗教やビジネス等での勧誘目的の参加はお断り)
ただこのたにやま哲学カフェでは特定の司会者は決まっていないとのことで、
毎回希望者がテーマを持って司会を名乗り出て、哲学カフェが運営されるという形式でした。
今度私も何かテーマを持ち込んで司会をさせて頂きたいと思っています。
参加費は100円、軽いお菓子とお茶が振舞われながら、1時間30分ほど自由な対話を楽しんで参りました。
今回は、司会者が20代の男性で、「時間とは何か?」というテーマで哲学カフェが始まりました。
参加者は男性が12名、女性が3名で年齢は20代から70代まで様々といった顔ぶれでした。
最初、司会の男性からまず考えるためのきっかけとして「時は金なり」という言葉が紹介されました。
皆、何となくは知っている言葉だと思いますが、「時と金は同じくらい重要な無駄にしてはいけないもの」といった意味だと思います。
ここで司会の男性は、時間とお金は厳密には同じではないのだから、この言葉は時間とお金に共通する性質のようなものを示しているのだろうということを指摘され、
それは例えば、どちらも有限で使うとなくなっていくものという事なのかもしれなくて、そういう所を考えていけば「時間」という言葉の本質にもう少し踏み込むことができるのではないかと投げかけられます。
その問いかけを受けて、私は頭の中で思いついた「時は脳なり」という言葉を皆さんに紹介しました。
私は神経内科医なので仕事柄、脳卒中診療に携わる機会が多いわけですが、
脳卒中は発症したらできるだけ早く救急医療機関へ搬送し、しかるべき治療を受ける事が必要とされる病気です。
例えば4時間30分以内であればt-PA(組織プラスミノーゲンアクチベーター)という強力に血液を溶かす薬を点滴することができ、
運がよければ脳梗塞が完成する前に血栓を溶解させることができて後遺症を残さずに済むかもしれません。
他にも最近ではカテーテルを用いた血栓回収術なども隆盛を極めており、
脳卒中診療は時間が命、脳卒中を起こしたら一刻も早く病院へ運ぶことというメッセージを伝える標語として考案されたのが、
「時は金なり」をもじって作られた「時は脳なり」という言葉です。
この場合の「時間」は、単純に「非常に重要なもの」という意味が意味が込められているのではないかと私は感じています。
ただもしかしたら元の「時は金なり」という言葉が生まれた当時の価値観からも、お金と時間の共通する重要性という意味合いが込められていたのかもしれません。
そんなディスカッションを皮切りに、話は時間そのものというより時間に込められた価値観や、時間がもたらす意義についての内容へと発展していきました。
例えば時間は若い時には無限にあるように感じられて、
その時間を1秒1秒大切にしてしっかりと生きようという感覚を持っている人はあまり多くないような気がします。
ところが人生も後半に差し掛かり、人生80年だとか100年だとか言われる時代の中で、
自分の人生の終わりを意識するようになってくると、翻って時間を大切にしようという気持ちが高まっていく構造があると思います。
ところがそれは万人に共通する価値観かと言われたらそれは違っていて、
若い人でも例えばプロを目指すアスリートの場合は、所属するスポーツの選手生命のピークが何歳くらいにあるかによって、
そのピークに至るまでの時間をトレーニングや戦略構築など非常に大事に過ごすようになる傾向があります。
かたや年をとっても人生の意義や目的を見出すことができずに時間を浪費するように、少なくとも傍からみてそのように見える生き方をしている人もいます。
要するに時間をどのように捉えるかという所に非常に人それぞれの価値観が入りこむ余地があって、
その価値観によって同じ時間であっても如何様にでも変化するというのが時間の面白さだと私は感じました。
かたやこんな質問も投げかけられました。"「時間(じかん)」と「時(とき)」は同じといっていいのでしょうか?"
言葉のイメージだけで言えば、時間という言葉は固くて決められた感じがあって、
時という言葉にはなんとなく柔らかさを感じられるように思います。
時間は客観的で、時は主観的だとも言い換えられる事もできるし、
時という変幻自在な概念の中に時間という切り取られた絶対的概念が存在しているという風に受け止めることもできます。
面白かったのは、「時間」と「空間」という言葉を対比させた時に、「時」と対比するのは「虚空(こくう)」という宗教的な概念ではないかという御意見でした。
「虚空」とは何もない空間で、誰にも認識しきれない空間で、何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所という意味だそうです。
時にもそのような広がりがあって、私達が時間を感じる時には、その無限の空間の一部を切り取って理解しようとしていること、
というよりも、何も感じられないことから生じる不安を避けるように、私達は時間や空間を感じようと欲しているのかもしれません。
最後に、充実した人生を過ごすための時間の過ごし方として、
対話の中で二つの大きな考え方が浮かび上がってきました。
一つは忙しない世の中で時間に追われ続ける生き方から開放されるためにも、
必ずしも時間を守ろうとせずにゆったりとゆとりを持って生きようとする考え方です。
もう一つは冒頭で述べたような有限の時間を決して無駄に浪費しないように、
一秒一秒の瞬間の時間を大切にしようとする考え方です。
両者はとても対立的で共存させるのは一見難しいように思える概念ですが、どちらも人生を充実させる時間の使い方です。
興味深いことに参加者の中にその両者をうまく両立させているという方がいらっしゃいました。
カメラマンの方でしたが、普段の仕事でシャッターを切る時には、それこそコンマ何秒の時間を逃さないように集中して時間に向き合うという姿勢で生きておられますが、
その反動なのか、それまでの人生経験からの教訓なのか、プライベートな時間、それほど急を要さない要件については自分で「時間を守らない」ということを周囲に公言してゆとりのある時間の過ごし方を心がけておられるそうです。
それを持って周囲と意見が合わなかったり、周りのあくせく働いている人達を見て、
「そんなに急いでどうするの」と感じられることもあるそうですが、
一つの生き方としてとてもヒントをもらえる御意見であったように思います。
しかし、時間を大切にということはわかっていても口で言うほど簡単ではない事は誰でも経験する所ではないかと思います。
残りの人生の時間を意識していたとしても、ある日不慮の事故で突然人生が終わることだってあります。
そうすると事前にいろいろなことを考えていてもすべてが終わってしまうのかもしれません。
だから私は「今ここにある時間」に集中して生きること、
人生のどのステージでも、いつ死んでも後悔のないように生きていくことが、
どんな逆境に見舞われようとも「いい人生だった」と思いながらこの世を去れる最大の秘訣なのではないかと感じた次第です。
哲学カフェ、普段考えないことをじっくりと考えて、
大切なことを気付かせてもらえるとても面白い試みです。
全国で哲学カフェは開催されているようです。
皆様も是非参加されてみてはいかがでしょうか。
たがしゅう