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【芸能・社会】

ビリー・バンバン、あす50周年 恩師・浜口庫之助さんに感謝の半世紀

2019年1月14日 紙面から

恩師の故浜口庫之助さんの妻渚まゆみさん(中)と墓参りするビリー・バンバンの菅原孝(左)と菅原進=神奈川県鎌倉市で(五十嵐文人撮影)

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 兄弟デュオ、ビリー・バンバンが、15日のデビュー50周年を前に、このほど神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園を訪れ、恩師の作詞作曲家浜口庫之助さんの墓前で、感謝と報告の祈りを捧げた。

 約4年前に脳出血を患い、車イスが欠かせなくなった兄の菅原孝(74)は、着くなり「ありがとー」と声をあげた。

 兄弟と浜口さんとの出会いは、孝が慶応大学2年の時。父親の友人が浜口さんの知り合いだった縁で、レッスンに通い始めた。「僕は泣いちっち」「涙くんさよなら」など、すでにヒット曲を飛ばしていた浜口さんにとって、事実上最初の弟子。米国の名歌手ビング・クロスビーのような歌い方を学んだ。「力まない、クセをつけない、普通に呼吸するように歌えっていうこと。普通に、が一番難しいんだよ」と孝。

 代官山の屋敷の庭にあったブランコに揺られながら、弟の進(71)が作曲したのが、デビュー曲になった「白いブランコ」。作詞コースにいた小平なほみさんと、あっという間に書き上げた。「通い始めて1年ぐらいのころ。まだコードもそんなに知らないけど、自然に浮かんできたんだよね」(進)。

 浜口さん宅のピアノの上にはビリー・バンバンの写真が最後まで飾られていた。「いろんな作品をいっぱい作ったけど、もしかしたら、あの兄弟が私の違う意味での一番の作品だったかもしれないね」。亡くなった後、浜口さんが知人にそう話していたと聞いて、孝は「うれしかった。先生がいなかったらビリー・バンバンはないよ」。

 大腸がんを克服した進は、ようやく転移の恐怖から逃れつつある。在りし日の恩師を思い出して、「ギターをポロンとやって声が出た瞬間、世界が広がる。あんな人いないよ。歌がうまいんじゃない、ソウルなんだな」と今更のように話した。

 2人は、5月から50周年ツアーをスタートさせる。墓参に同行した浜口夫人の渚まゆみさん(74)は、「昔の風景が思い出されてうれしい」と懐かしんでいた。 

<50周年ツアー> 5月12日東京国際フォーラムC▼9月21日大阪・森ノ宮ピロティホール▼同23日仙台サンプラザホール▼10月5日大分IICHIKO音の泉ホール▼11月16日東京かつしかシンフォニーヒルズホール

 

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