731部隊(Ⅳ)  人体実験、これだけの根拠
 (4)陸軍幹部らの証言


 「731部隊」の「研究」ぶりは、決して石井四郎らの勝手な「暴走」ではありません。明確に、関東軍、そして参謀本部が関与していました。

 この項では、「731部隊」の活動実態を知る立場にあった、陸軍幹部の証言をいくつか紹介します。



< 目 次 >


1 三笠宮崇仁・支那派遣軍参謀

2 朝枝繁晴・陸軍参謀

3 岡村寧二・北支那方面軍司令官

4 井本熊男・陸軍参謀

5.遠藤三郎・陸軍中将


6.小出作郎・軍医中佐






 三笠宮崇仁・支那派遣軍参謀


 まず、三笠宮崇仁殿下です。よく知られている有名な証言で「今さら」感もありますが、証言者のステイタスの高さを考えると、これを外すわけにはいかないでしょう。

 三笠宮崇仁氏は、昭和天皇の弟。1943年1月、「若杉参謀」の名で、支那派遣軍参謀として南京に派遣されました。こちらでも取り上げましたが、「略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か」など、軍部を戒める発言を行っていたことでも知られます。

三笠宮崇仁インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」より

(聞き手 中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員) 

 ―最近また南京大虐殺について、閣僚の発言が問題になりましたが、同じような問題が何回も繰り返し問題になるのはまことに困ったことだと思います。三笠宮殿下はこの問題についてどのように受け止められておられますか。

三笠宮 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。

 また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これごそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。

 しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将(陸士十六期・東京出身)などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行って、直接聞いたことがあります。

 日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと聞きました。戦後ロシア人の捕虜が日本内地に収容されていましたし、第一次大戦の時にはドイツ人の捕虜がたくさん来ていました。彼らは国際法に基づいて保護されていましたから、皆親日になったのです。彼らの中には、解放後も日本に残って商売を始めた人達さえいました。神戸には今でも流行っているパン屋さんやお菓子屋さんがありますね。

(「THIS IS 読売」1994年8月号 P54-P56)

※「ゆう」注 『古代オリエント史と私』P16-P17にも、ほぼ同趣旨の証言があります。

 「毒ガス」実験については、こちらで詳しく触れました。

 731部隊の「映画撮影」については、「撮影した側」として、731部隊総務部調査課写真班・T・K氏の証言が残っています。

総務部調査課写真班・T・K氏の証言

 悪夢のような諸実験がすむと、わたしは、本部一棟の写真班に戻った。時間があれば、すぐ現像にかかる。たいてい二、三日のうちに現像をおえて、その実験の担当班に連絡する。やがて担当者が写真を受けとりにくる。

 焼きつけるのは、通常手札判で、原則として一枚だった。とくに要望があった場合に、焼き増し、引き伸ばし(キャビネ判まで)を行なった。

 16ミリ映画フィルムの場合は、編集という作業が加わるため、完成まで少し時間がかかった。これも一本だけしかつくらない。

 できあがったフィルムは、週一回、本部一棟二階の奥の会議用の大部屋で行なわれる「学会」で上映された。この「学会」には、部隊の各研究班長などが出席して、研究成果を発表し合っていたようだった。

 フィルムのなかでも、とくに極秘のものは、隊長室で上映した。二部屋続きの隊長室の手前の方の控室だった。この場合は、隊長の他に、二、三名しかみることができなかった。

 ネガフィルム類は、すべて、うつした班員が、何年何月撮影と書きこんだうえで、キャビネットに保管した。単純に年代順だったと思う。キャビネットには鍵がかけられた。(P36-P37)

(郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』より)

 このような映画のひとつが、「軍幹部への宣伝用」として南京に流れ、三笠宮氏の目に触れることになったものと思われます。


 余談ですが、ネットでは、「こういうのは、本来、極秘中の極秘の筈である。・・・それをわざわざ映画に撮って宣伝して回るとはどういうことか」「本物でないからこそ、映画に撮ったのではないのか」などと、「映画はニセもの」と断じる「思い付き否定論」を見かけることがあります。

 言うまでもありませんが、「宣伝」の相手は、軍の上層部です。上層部は「極秘中の極秘」を当然知り、秘密を共有する立場にありましたので、「わざわざ映画に撮」って実験の「成果」を彼らに見せることに、何の不思議もありません。

 きっとこのライターは、「731部隊」は街の映画館上映用の映画を撮影した、とでも思っているのでしょう(笑)



 朝枝繁晴・陸軍参謀


 朝枝繁晴は、1942年7月より関東軍参謀。1944年5月には参謀本部作戦課に転任しました。1942年2月の「シンガポール華僑虐殺」に関与した疑いでも知られます。

 朝枝は、終戦にあたり、「731部隊」の「証拠湮滅」を指示します。いくつかの同趣旨の証言が残されていますが、こちらでは、共同通信社『沈黙のファイル』版を紹介しましょう。

共同通信社社会部編『沈黙のファイル』

 靖福和の一家を絶望のどん底にたたき込んだ七三一部隊。その撤収命令を出したのは大本営の対ソ作戦担当参謀、朝枝繁春だった。

あの時は決死の覚悟だった。ソ連に七三一部隊の人体実験の証拠を握られると、まかり間違えば天皇陛下まで責任を問われかねない。それだけは絶対阻止しようと満州に飛んだ

 八十三歳になった朝枝が、川崎市の自宅で五十年前の出来事を振り返った。切れ長の鋭い目付き。顔を紅潮させ、野太い声でまくしたてる。

 一九四五年八月九日未明。ソ連軍は満州北東のアムール川や、西のモンゴル平原の国境線を破り、進攻した。関東軍国境守備隊との激しい戦闘が始まった。

僕が関東軍から『ソ連と交戦状態に入った』と直通電話で連絡を受けたのは午前四時だった。すぐ大本営の対ソ作戦命令を書き上げ、十一時には関東軍総司令部やソウルの司令部に電報を打ち終わった

 その直後の午前十一時二分、長崎に原爆が投下された。翌十日未明、御前会議で国体護持を条件にポツダム首言受諾が決定した。朝枝は混乱する参謀本部を後に、東京・立川の飛行場から軍用機に乗り込んだ。(P136)

 十日正午すぎ、偵察機や連絡機が慌ただしく離着陸する満州の首都・新京の飛行場に着くと、一八〇センチを超す長身の男が滑走路で待っていた。太い八の字の口ひげ。金地に二つ星の襟章。七三一部隊の創設者の軍医中将、石井四郎だった。

 朝枝はつかつかと石井に歩み寄り、声を張り上げた。

「朝枝中佐は参謀総長に代わって指示いたします」

 石井は背筋をぴんと伸ばし、直立不動の姿勢を取った。

貴部隊の今後の措置について申し上げます。地球上から永遠に、貴部隊の一切の証拠を根こそぎ隠滅してください

 石井は母校京大などから優秀な医学者を集め、ハルビン郊外の平房に世界最大規模の細菌兵器開発基地をつくり上げていた。

 朝枝が「細菌学の博士は何人ですか」と聞くと、石井は「五十三人」と答えた。朝枝は「五十三人は貴部隊の飛行機で日本に逃がし、一般部隊員は列車で引き揚げさせてください」と指示した。

「分かった。すぐ取りかかるから安心してくれたまえ」

 石井は自分の飛行機へ数歩、歩いて立ち止まり、思い直したように引き返してきた。

ところで朝枝君、貴重な研究成果の学術資料もすべて隠滅するのかね

 朝枝は、思わず声を荒らげた。(P137)

何をおっしゃいますか、閣下。根こそぎ焼き捨ててください」(P138)

 


 朝枝はここでは明言を避けていますが、この「証拠隠滅」の対象には、生き残っていた数百人の「マルタ」の処分も当然含まれるでしょう。「細菌戦裁判」(中国の細菌戦被害者による賠償請求裁判)の担当弁護士、一瀬敬一郎氏によれば、裁判では、朝枝が「人体実験用捕虜の焼却処分」を指示した、という証言が用意されていた、とのことです。

一瀬敬一郎『細菌戦裁判と松村証言』 

 元大本営参謀の朝枝繁春氏は、細菌戦裁判で陳述書を提出し、一九四五年八月十日、石井四郎に対し、七三一部隊の施設を含む一切の証拠物件の隠滅、人体実験用捕虜の焼却処分などを直接指示した旨供述した (死亡により証言できず)。(P340)

(『裁判と歴史学』所収)  


 その他、私が確認できた限りの朝枝証言を、こちらにまとめました。どれもほぼ同じ内容であることがわかると思います。

※ネットで検索していたら、この朝枝を「ソ連のエージェント」と決めつけるサイトがヒットしました。その根拠はというと、終戦後ソ連の捕虜になった、というその一点のみであるようです(笑)。まともに検討するのも馬鹿馬鹿しいので、コメントは省略します。




 岡村寧二・北支那方面軍司令官

 岡村寧二は、1932年8月、関東軍参謀副長に就任しました。その後参謀本部などを経て、1941年には陸軍大将に昇進、1941年7月には北支那方面軍司令官の地位について満洲に戻りました。

 その間、731部隊とは、かなり濃密な関わりを持った様子です。長文になりますが、まずネットで見かけることはない文章ですので、全文を掲載します。

『岡村寧二大将資料』(上)

 石井機関については、私は創設時から終戦後、石井四郎氏の晩年にいたるまで熟知している関係にあるので、本機関の内容史実は、永久に発表すべからざるものと思うが、念のため附録として書き残しておくことにした。

 附録 石井極秘機関

 石井機関の創設については、本省では、大臣、次官、軍務局長、軍事課長、医務局長ぐらい、関東軍では小磯参謀長と私だけが知っているという極秘中の極秘事項とし、私だけが直接石井と密会して中央と連絡するということになっていたので、私が独り同機関の現況を知っていたのであった。

 しかし時日の経過に伴い、現地に秘密機関が現存しているため自然に、その所在を軍内の多くの者が知るようになった、その内容は熟知しないまでも。

 超極秘であったため、私の日記にもー切これに関しては書き留めてないので、記憶をたどって、その概要を述べることにする。(P387)

 石井四郎は千葉県の豪農の生れで、頭脳明晰の青年であったらしい。陸軍の委托学生として京都帝国大学に学んだが、石井四郎夫人は当時の京大総長の令嬢であったことからみても、最優秀の学生であったことを証するに足る。

 ときは昭和八年のある月ある日であったと思う。石井研究機関は、ハルビン東南方拉賓線の駅の近い背陰河に設置された。捕えた匪賊の収容所の隣である。

 機関長の石井軍医少佐には歩兵少佐の被服を着用させ、部下の軍医も階級相当の歩兵科被服を使用させ、下働きの大部分は、石井の郷村から選抜してきた青年で固め、一切の外出を禁止したので、石井はこれら青年に娯楽を与えるのに苦心していた。

 一ケ月に一、二回石井は、新京の参謀副長官舎に来て必要の連絡を行った。私が差出した菓子、果物など一切手をつけず、その代りその全部を持ち去ったことを憶えている。

 何分モルモットの代りに、どうせ去りゆくものとは云え本物の人命を使用するのであるから、効果の挙がるのは、当然と云えば当然であった。着々と医学的の成果を挙げたがその内容は固より私はよく知らないが、終戦後石井の直接洩らしたところによれば、専売特許的の成果件数は約二百種に上るという。

 しかし、このように驚くべき成績を挙げた原因は、前述の本物試験資材の外、石井の頭脳明敏と熱意と勇気に加えるに、これを補佐した部下軍医の献身的努力に因るものと思う。

 当事者であった軍医大尉二名は、馬疽の実験其他のため殉職した。私は中央の諒解を得て、架空の戦況を設けてこの両名のため殊勲を申請したことを憶えている。

 石井は、また極めて勇敢で、上司の許可を得て、屡々大戦闘に際し、歩兵の最前線まで進出して、戦死の有様などを撮影した。

 進級のためでもあるが、石井もときどき他の普通の軍務にも従事させられた。私が北支方面軍司令官時代にも、隷下第一軍の軍医部長として山西省に来任した。このときも本務の傍らその使命とする特別研究を行い、かずかずの成果を挙げた。

 特に凍傷の治療には、C三十七度の湯に浸すのが最良の方法であるという結論を得た。これは本物の人体を使用して生かしたり、殺したり、再生させたりした貴重な実験に基づくものであった

 しかし、何の事実によるか知らないが、これを中央がなかなか採用しないので、私は北支軍限りにおいて、この方法を採用した。例えば討伐に行った歩兵小隊に凍傷患者が出た場合、取敢えず小隊全部の者の小便を集め、患者をこれに浴せしめて初療を完うすることができた。第二期に入り患部が相当崩れ変形した患者でも、この方法を気ながに採用すれば全治することができた。(P388-P389)


 岡村は、部隊の「医学的成果」を強調する、むしろ「731部隊擁護」の立場です。しかしその中で、「人体実験」の事実は明確に認めています
※なお岡村の書き方だと、「死刑囚」を「マルタ」として活用していたかのように誤解されかねませんが、731部隊に送り込まれたのは、実際には正式の裁判を経た死刑囚ではありません。憲兵隊が捕らえた人物が、憲兵の独断専行で「マルタ」として送り込まれたものでした。念のためですが、例え死刑囚であったとしても、苦痛を伴う人体実験を繰り返し行うような残虐な「刑罰」は、倫理的にも許されるものではないでしょう。


 上の続きです。

『岡村寧二大将資料』(上)

 終戦後も石井は、多くの問題を残した。

 終戦前というよりも、私が第二師団長として昭和十二年春、ハルビンに着任したとき既に、石井機関はハルビン南郊に相当立派な建物によって存在していた。石井軍医中将は、軍医学校教官をも兼務していたので、ソ軍がハルビンに迫り来るに先ち、研究資料のエキスを三個のカバンに容れて、飛行機に乗って帰京し、これを牛込戸山町の自宅に隠匿しておいた

 終戦後、ソ米両国間に、この細菌戦の権威者たる石井の研究資料に対する激しい争奪戦が起ったのである。満洲に縁故の深いソ聯が、既に石井機関の存在を知っていたのは不思議ではないと思うが、米軍もこれを重視していたのには、その諜報の優秀性を物語るものと思う。

 終戦後のある時、占領軍司令部当局は、連絡官たる有末精三中将に対し、石井四郎軍医中将を連れて来いという。それは戦犯か、利用かと有末が質したところ、後者であるというので、有末は安心して石井を軍司令部に伴った。

 その後いろいろ接衝があり、石井に金子なども贈与されたこともあったが、結局、右の貴重な三箇のカバンは内容とも、悉く米本国に持ち去られた。その後米国は、押収した陸海軍の文書は大部返還してきたが、この三箇のカバンは遂に還らない

 ソ聯側の石井に対する研究資料獲得の運動も猛烈を極めた。ソ聯将校の石井訪問は、最初は規定に従い占領軍司令部の係官が立会ったが、その後は深夜係官ぬきで石井を訪問する。当時石井は、自宅を以て旅館を経営していたので、来客を謝絶するわけにはゆかない。ソ聯将校は、脅したり哀願したり、資料の一部分でもよいと譲歩したり、あまり頻繁に来訪するので、石井は遂にノイローゼとなって郷里に移住したこともあった。

 米は勿論、ソも最初は、石井を戦犯に指定しなかったが、石井から何等資料を得られないと明するやソ聯は一般の戦犯裁判から大に遅れて、昭和二十三年秋頃であったが、山田関東軍司令官等、石井機関関係者を戦犯裁判に附したのであった。(P389-P390)

 わが医学界でも、伝染病研究所関係者を始め石井の研究を高く評価する者があり、既に結論は出ているのであるから、モルモットその他の動物で再試験して学界に公表すべしと石井を激励してくれる者もあり、石井は将来を楽んでいたが病死したのは惜しいことであった。

 石井の直接部下であった者で、生活費を求めるため、研究資料を小出しにしていた者もあると石井は申していた。血液の結晶などその例であるという。


註 なお、石井ばかりではない。私の関東軍参謀副長在任のとき、某国立大学の外科担当教授二、三名が来訪し、陸軍省の諒解の下匪賊処分のとき、刀を以て首を切ったときの断面を実視したく、またとない好機であるからなるべくば、その機会を与えてくれと、窃かに頼み込まれたので、吉林の部隊に紹介したことがあった。(P390)

 このうち、石井が「三箇のカバン」を持ち帰ったエピソード、あるいはソ連が「頻繁に」石井のもとを来訪していたという話は、岡村手記にのみ登場するものです。現時点では真偽判断を保留しておくのが無難でしょう。



 井本熊男・陸軍参謀

 井本熊男は、1935年参謀本部作戦課を皮切りに、主として「参謀」として、大本営、支那派遣軍などに勤務しました。当時の自らの業務日誌などを資料とした『支那事変作戦日誌』『大東亜戦争作戦日誌』は、今日でも歴史研究者の貴重な資料として利用されています。

 氏自身は、「とくに日教組と称する共産勢力のグループが日本の教育を数十年あやつり、多数の国民に反国家的思想を植えつけた罪悪は甚だしい(『支那事変作戦日誌』P3-P4)という、どちらかと言えば「右側」の思想の持主です。

 共同通信社によるインタビュー(1995年)が、『沈黙のファイル』(文庫版)に44ページにわたって掲載されています。そのうち12ページほどが「731部隊」関係です。主として「細菌戦」について語っていますが、下記部分などは、「人体実験」も視野に入れているようです。(インタビューのうち「731部隊」に関係する部分を、こちらに掲載しました。参謀本部が「部隊」をどのように見ていたかがわかり、興味深いものがあります)


インタビュー 井本熊男

―― なぜ中国で細菌兵器の実戦使用や人体実験をやったのでしょうか

戦争をやってるんだから目をつむるというのが当時の考えだった。戦争は非人道を伴うからやむを得ない。日本は中国を支那と軽視していた。日清、日露戦争が終わった後、非常に弱い国という印象が与えられるような教育を受けた。細菌や毒ガスを使うことに大きな罪悪感を持っていなかった

 あのころと現代では雲泥の差がありますね。支那の要人、今考えるとあんな偉い人を、と思うような人を捕まえて面と向かって『われわれはあんた方を人間と思っちゃいないんです』と平気で言うような人間がおるんです。そのくらいの思想を持っておった。

 (だから)こういうことを試験的にやることに罪悪感を持っていなかった。それが事実です。時代思想というものを抜きにして、常に現代の思想をもって過去を判断したら非常に難しい問題になる。マレーシアの大統領が日本の今の首相に言ったように 『五十年前のことを言うのは間違いである』、それが世界的な常識だと思うね。これを直さんと日本は普通の国にならんような気かしとるんです。列国並みの思想に直さないと本当の国際政治はできないと私は考えます。(P363-P364)

(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)

※なお井本の業務日誌は、一九九三年に防衛庁防衛研究所図書館により公開され、「細菌戦」実施についての貴重な資料となっています(その後防衛庁は「プライバシー」を理由に非公開扱いに変更)。ネットではこの日誌に見当違いの攻撃をかけるサイトも存在しますので、後に、「ネットで見かけたトンデモ議論」コーナーで採り上げる予定です。




 遠藤三郎・陸軍中将

 遠藤三郎は、関東軍参謀、参謀本部第一課長、大本営陸軍部参謀などを歴任。最終軍歴は陸軍中将。戦後は一転して平和運動に携わり、片山哲元総理らと「平和憲法擁護国民連合」を組織、また、「日中友好元軍人の会」を結成するなどの活動から、「赤い将軍」とも呼ばれます。

 遠藤は、1932年、関東軍参謀として満洲に赴任した時に、石原莞爾大佐から石井部隊の「面倒を見てほしい」との依頼を受けました。この時の視察により、部隊の実態を知ったようです。


遠藤三郎『日中十五年戦争と私』

 細菌兵器の開発について

 細菌戦に関しては、大正の末期頃から日本陸軍も軍医学校で石井四郎軍医大尉(後の軍医中将)が主任となって研究しておったことは、私が参謀本部作戦課勤務の時直接石井軍医の報告で承知致し、軍医学校の研究室も参観しましたが、当時の研究は極めて小規模のものであり、目的も仮想敵国の細菌攻撃に対する防衛が主であると聞いております。

 昭和の始め私が仏国留学中休暇を得てワルシャワに遊んだ時、偶然石井軍医が同地の国際医学会諸に列席しているのに会いましたが、私は同軍医から細菌戦の研究は列国とも熱心に進めていることを聞きました。

 一九三二(昭和七)年私が関東軍作戦主任参謀として満洲(現東北)に赴任した時、前任の石原莞爾大佐から〝極秘裡に石井軍医正に細菌戦の研究を命じておるから面倒を見てほしい〟との依頼を受けました。寸暇を待てその研究所を視察しましたが、その研究所は哈爾濱、吉林の中間、哈爾濱寄りの背陰河という寒村にありました。

 高い土塀に囲まれた相当大きな醤油製造所を改造した所で、ここに勤務している軍医以下全員が匿名であり、外部との通信も許されぬ気の毒なものでした。部隊名は「東郷部隊」と云っておりました。

 被実験者を一人一人厳重な檻に監禁し各種病原菌を生体に植え付けて病勢の変化を検査しておりました。その実験に供されるものは哈爾濱監獄の死刑囚とのことでありましたが、如何に死刑囚とはいえまた国防のためとは申せ見るに忍びない残酷なものでありました。死亡した者は高圧の電気炉で痕跡も残さない様に焼くとのことでありました。

 本研究は絶対極秘でなければならず、責任を上司に負わせぬため作戦主任参謀の私の所で止め、誰にも報告しておりません。石原参謀から面倒を見てほしいと申送られましたが具体的に私のすることは何もありませんので、研究費として軍の機密費二十万円を手交し目的を逸脱せぬ様厳重に注意しておきました。

 ところが或る時細菌の試験以外に、健康体に食物を与えて水を与えず、あるいは水を与えて食物を与えず、または水と食物を共に与えずして幾日の生命を保ち得るか等の実験をもしていると聞き、本来の目的を逸脱した医学的興味本位の研究と直感し、石井軍医正を招致して厳重に叱責し、今後もし目的を逸脱した実験をするが如きことがあれば一切の世話を打ち切ると宣言したこともありました。

 その後在職間さらに一回現場を視察しましたが試験場が整頓されているほか格別変ったことはありませんでした。

 一九三四(昭和九)年私は兵学教官として陸大に転じ、次いで聯隊長として小倉に赴任致しましたからその後の経過は知りません。(P162-P163)

 元来細菌戦は純武力戦の域を逸脱したものであり、一般軍隊の取り扱い難いものであります。したがって私が参謀本部第一課長、次いで大本営第一課長の時も細菌戦に関する教育には一言も触れず、ただ一般的に『従軍兵士の心得』の中に健康管理に努め病気にならぬ様注意を喚起したに過ぎません。

 修水河畔の戦闘で細菌を使ったかどうか私には断定出来ませんが、一般軍隊は使用し得なかったと思います。(P163)

 

 なお念のためですが、遠藤は、上の通り「細菌戦」については断定を避け、また南京事件についても「私の耳には敗戦後まで入りませんでした」(『日中十五年戦争と私』P153)と書き記すなど、「知らないことは知らない」スタンスを通しています。自らの日誌を元にした記述であるだけに、信頼性は高いものと思われます。




 小出作郎・軍医中佐


 防衛庁防衛研究所図書館の所蔵資料、『大塚備忘録』第六巻に収録されている、小出作郎・軍医中佐の満洲出張報告です。


小出中佐報告(満州出張)

『大塚備忘録』第六巻より

1944年5月23日


 チフス保菌者治療

 胆嚢部超音波 サルバルサン注射が効果あり
 サルバルサン、注射ワクチン ― 着手せんとす、手術的治療 ―マルタ実験 胆嚢■ ― 縮、膿菌を入れる、効果あ(り)

(中略)

ウジ弾 ― 製作の希望あり、宮田参謀に申せり、予算と資材を申出よとの事なり

ホ号関係

 高々度よりする集中攻撃 命中及濃度構成ありしが、現在効果をあける見込みなき如し
 Px(ペストノミ)製産 田中少佐の研究 餅の使用十二分の一となる
 丸太五〇〇名
 局長、餅を犬にしては如何、犬を使用し実施し在り、石油罐を培養罐に代へ在り

今冬より春にかけ演習成果

 ペストの液菌
 ハ弾でやる(破片より入る)傷者の一〇-三〇%発症
、弾子につれいく
 ウジ弾 菌傷二〇の中一割発症
 乾燥ペスト菌成功せず、一立米四ミリの濃度を必要とするとの見込
 混菌 寒い所で凍て発症せず
 将来関東軍はxで行かず菌で面に乾燥菌で耐寒耐熱膠着性を考へ行かんとす
 脾脱疽 食道感染は疑問なりしが効果あり、ウジ弾で行かんとす
  局長-消化器から入りしならん
 辰見大尉及部下二名感染す、皮膚より入る、生命はとりとめた、第二部攻撃に参加する若い将校は良くやって居る
 脾脱疽 消毒薬はない、之が製造も研究の要あり

 (中略)

丸太使用実験は中央として大いに全軍的に重要な事を解決せしむる為也
 Pxha弾丸の有功章の問題
 草知(ママ)参謀 秘密事項今発表せんで可ならん
 高山参謀 有効(ママ)章をやる如く連絡す、発表の方法を考慮しやんと

 (中略)

発疹チフス予防施療液

 五万人分を有す
 関東軍は労む者に使用し在り、効果ある如し、ワクチンを作る時の残滓はワイルフェリックス反応のみ明瞭に反応するとの事、軍隊にも使用して可ならん

大連衛研 第四性病の診断液良好なる■たり

(『季刊戦争責任研究』No2(1993年冬季号)所収)



 「メモ書き」のままではややわかりにくいので、共同通信社・太田昌克氏の解説を、そのまま記しておきます。

太田昌克『731免責の系譜』

 一方、陸軍省医務局医事課に在籍していた小出中佐にとっても、人体実験は身に覚えのある重要な処理対象案件だった。小出は新妻より四つ年上の一九〇六年生まれで新潟県出身。三〇年に東京帝大医学部を卒業した外科専攻の軍医だ。医事課は国内外の各地の陸軍病院をはじめ、中国や東南アジアに展開する各軍の防疫給水部を所管していた。(P42-P43)

 その小出中佐が四四年五月二三日付の陸軍省課長会報で、満州へ出張した際の七三一部隊の視察結果を報告している。そこでは、①ペスト菌液を入れた「ハ弾」と呼ばれる榴さん弾を爆発させた実験で被験者の一〇パーセントから三〇パーセントが感染した、②ウジ型(陶器製)爆弾を使った実験でマルタ二〇人のうち一割が発症した、③炭疽菌は食道感染することが人体実験で確かめられた ― といった「演習成果」が説明されている。

 ウジ型爆弾は鉄よりもろく壊れやすいという陶器の性状を利用、爆発に必要な火薬量を最小限に抑えられることから、ペスト菌など熱に弱い細菌を殺さずにすむ利点がある。鉄製の爆弾も各種開発されたが結局、陶器製が最も有効との評価が部隊内で下されていた。石井部隊長が考案の中心とされ、「石井式陶器爆弾」 の別名をもつ。

 さらに小出はこの課長会で、ウジ型爆弾の製作を希望する部隊側の意向やマルタ五〇〇人の新規調達を求められたことなどを報告した。またウジ型爆弾の件で関東軍の宮田参謀に相談したところ、「予算と資材を申し出よ」と好意的な反応があった事実も伝えている。宮田参謀とは関東軍作戦主任で七三一部隊担当の竹田宮恒徳王である。

 そして一連の出張報告を聞いた陸軍中央は人体実験をこう評価した。「マルタの使用実験は全軍的に重要な事を解決するためだ」 ―。(P43)



 

(2016.11.5)


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