『女性ライフサイクル研究』第8号(1998)掲載

教育とマインド・コントロールの違い

狭山心理相談室・セラピスト  服部 雄一

1. はじめに

 2年前から大学で「教育とマインド・コントロールの違い」という講義を教えている。これは日本の教育をマインド・コントロールの角度から分析する講座だが、学生の反応が興味深い。学期末までには、多くの学生は極端な二つの反応をして、賛成派と反対派の二派に分かれるのである。ある学生はこの授業を受けて良かった、世界観が変わったと言い、この講義は日本人全員が受けるべきだと言う者までいた。それとは逆に、講義を受けなければ良かった、自分が惨めになるだけだった、講義を聴いていて辛かったと不満をもらす学生がいる。一言で言えば、「教育とマインド・コントロールの違い」は学生に大きなインパクトを与える。
 私が日本の教育とマインド・コントロールを結びつけ始めたのは、96年の地下鉄サリン事件以来である。私はこの事件をきっかけに、アメリカのマインド・コントロールの文献を調べるようになった。そして、カルトが信者をマインド・コントロールするテクニックに新鮮な興味をおぼえ、その世界にのめり込んでいった。マインド・コントロールを理解するにつれて驚いたのは、そのテクニックが日本の教育制度でも使われている事実だった。日本の教育をカルトのマインド・コントロールと結び付ける人は少ないが、日本の教育には明らかにマインド・コントロールのテクニックが使われている。
 マインド・コントロールの目的は、指導者(教祖)と組織に絶対服従するメンバー(信者)を形成することにある。この目的のために様々なテクニックがあり、カルトはそれを駆使して自分たちに都合のよい人間」を作り上げてゆく。そのテクニックが日本の教育でどのように応用されているかを説明してみたい。マインド・コントロールの理解は教育問題の本質を明確にするので、知る価値はあると思う。私はマインド・コントロールのテクニックを行動的テクニック、情報的テクニック、組織的テクニックに分類している。この分類はマインド・コントロールの理解に役にたつので、日本の学校にそれがどのように応用されているか紹介したい。

2. 行動的テクニック

 行動的テクニックの最も顕著なものは細かい規則による生活の支配である。カルトは信者の服装、好み、食生活、余暇の過ごし方など、個人の生活領域を細かい規則でコントロールする。カルトの規則には幾つかの目的があるが、最も大きな狙いは、細かい規則で信者を縛り、リーダーに絶対服従する習慣を作ることである。信者は何をするにも「上の指示」を得なければならず、自主性を失った信者はやがて自分で考えなくなる。
 細かい規則による生活支配のテクニックは日本の学校ではよく使われている。そのシステムは管理教育と呼ばれ、細かい規則で生徒をコントロールすることでよく知られている。日本の学校の校則はカルトの規則とよく似ており、子ども達の生活を細かくコントロールしている。服装(髪型、制服、あるいは下着や普段着まで)を細かく規定したり、余暇の過ごし方(クラブ活動日曜日や夏休みの過ごし方など)を規制したり、社会生活(男女交際、アルバイトやバイクの禁止など)を制限している。校門で服装検査したり、教師が規則違反を摘発するために学校内を巡回する学校まであるのはよく知られている。
 こうした細かい校則は子ども達に言われた通り動く習慣を養うことになる。校則に縛られた子ども達はやがて自主性を失い、上の指示に従うだけの人間になる。現代の子ども達は指示待ち人間が多いと批判されるが、それが校則と関係していると指摘した人は少なかった。
 カルトでは児童虐待が発生する。カルトの規則を子どもにも厳しく適用するために児童虐待が発生するのである。カルトの規則は絶対真理であり、それに背くことは議論の余地のない絶対悪となる。こうした虐待は外部の人間から見ると信じられないくらい馬鹿げた理由で行われる。不信者と口をきいた、反抗的な態度をとった、集会中におしゃべりをした、など些細な規則違反で、子ども達は殴られ、怪我をし、殺される者までいる。子どもが規則違反すると「邪悪な人間」のレッテルが貼られるので、虐待する信者には罪悪感がなく、子どものためを思って罰を与える。虐待することが子どもへの愛情の証になるとさえ考えられている。カルトの児童虐待は専門家たちがいつも指摘する問題である。
 カルトの児童虐待は子どもに恐怖心を与えて従順にする目的が隠されている。恐怖を味わうと、子ども(大人でも同じだが)は命令に従順になるのである。別の言い方をすれば、規則違反の虐待も計算されたマインド・コントロールのテクニックである。カルトでは、親も周囲の人たちも虐待を支持する。親が教祖の意志を忠実に実行する代理人になるのである。従順な人間を求めるカルトが児童虐待をするのは必然的な結果とも言えるだろう。カルトは児童虐待をきれいな言葉で粉飾して(修行、堕落からの救い、愛のムチなど)組織の方針とするのが普通である。
 日本の学校にもカルトと同じ児童虐待がある。ただ、それが児童虐待と呼ばれず、「体罰」とか「教育指導」と呼ばれているだけである。体罰も教育指導も、カルトの児童虐待とかなりの共通性が見られる。学校の虐待(教育指導)のきっかけは単純な罪のないものばかりで、前髪が長いだけで竹刀で叩かれたり、宿題を忘れただけで平手打ちをうけたり、遅刻をして蹴られたり、授業中に話をして殴られた例などは限りがない。外部から見ると些細な理由だが、こうした体罰の背後には、カルトと同じ考え方が隠れている。規則は絶対真理であり、規則違反に対する罰は当然という考え方である。規則の正当性が問題にされることはなく、子どもは言い訳を許されない。規則を守れない子どもに問題があるからだ。
 こうした「教育指導」と「体罰」の目的は、子どもに恐怖と苦痛を与えて従順にすることである。体罰の正当化も頻繁に行われ、カルトと同じ「愛のムチ」の論理が使われる。「子どものことを思ったら体でぶつかるしかない」、「言っても分からない子どもには体で教えるしかない」などは体罰教師達がよく口にする言葉である。こうした議論の特徴は、カルトと同じで、自分たちの暴力を問題にせずに、悪い子どもを罰するのは当然という考え方を基礎にしている。また子どもを叩くことが教育熱心さの現れ、愛情の表現だという歪んだサディズムも背後に隠されている。この種の「指導」は80年代と90年代初頭の日本のマスコミをにぎわせた教育問題であり、現在では報告が少なくなっている。しかし、それが体罰の減少なのか、報告の減少なのかは明らかではない。
 教育指導がカルトの児童虐待と似ている点は他にもある。例えば、子どもが反抗する時にひどい虐待が発生することである。カルトは子どもが従わない時にひどい罰を与え、その結果、子どもに怪我をさせたり、子どもを殺す場合さえある。多くのカルトは不服従を子どもの最大の罪と見なす。日本の学校にもカルトと同じ考え方があり、新聞記事になるようなひどい体罰は子どもが服従しない時に発生する。口答えした、子どもの態度が生意気、言っても聞かなかった時に、教師はカッとなり、子どもに暴行をくわえてケガをさせる。新聞を注意して読めば分かるが、生徒の鼓膜を破るような体罰事件のほとんどは、子どもが服従しなかった時に発生している。
 日本の学校では規則違反の体罰で子どもが殺されたケースがある。修学旅行の高校生が禁止されたヘヤードライヤーを使い殺された事件がそれである。その高校生は旅館で友人と一緒にドライヤーを使っているところを見つかり、担任教師の処罰をうけることになった。3人の生徒は正座させられ、担任から平手打ちの制裁を受けた。そのうちの二人はすぐに謝ったが、一人の生徒は反省の態度を見せずに反抗したのだった。逆上した教師は殴る蹴るの暴行をくわえて、生徒は意識不明の重体となり、二時間後に病院で死亡した。死因は体罰によるショック死であった。
 この高校生が殺された理由は規則違反もあるが、それ以上の罪は「反抗」したことにあった。他の二人の高校生がそれほどひどい虐待を受けなかったのは素直に「反省」の態度を示したからである。殺された高校生は態度が反抗的で、反省の態度を見せなかったのだった。これがひどい虐待を受けた原因である。つまり、規則違反よりも、反抗的な態度の方がはるかに「悪い罪」なのである。これがカルトの児童虐待と教育指導の体罰との共通点である。不服従はカルトの最大の罪だが、それは日本の教育現場でも同じある。日本の学校では口答えが厳しく罰せられ、素直な子どもが誉められるのである。しかし、素直な子どもとは絶対服従する人間のことである。結局、自分を捨てて権威者に絶対服従する人間が求められるのである。この点はカルトも学校も同じである。
 カルトの児童虐待と教育指導のもう一つの共通性は、児童虐待を周囲の人たちが止めない点である。多くの日本人は指摘しないが、体罰教師は見せしめのために他の子どもの前で生徒を虐待する場合がある。一人の生徒を皆の前で殴ったり、蹴ったりするケースは少なくない。見せしめ虐待が体育館や校庭で行われる場合、他の教師と生徒は何もせずに見ているだけである。体罰教師は学校から暗黙の支持を受けており、学内では力が強い。他の教師が反対しても「指導に熱心ではない(カルトの場合は信仰がたりないと言われる)」と批判されるので、教師たちも反対できない。また、体罰を支持する親も多く、子どもを厳しくしかってくれと頼む親もいる。学校と地域社会が虐待を暗黙に指示するために、体罰反対の親が地域社会から孤立したり、他の親から批判されるケースはめずらしくない。結局、周囲の人たちは虐待を止めず、子どもは孤立無援となる。これは他の先進国には見られない日本特有の社会現象であり、非常にカルト的である。
 こうした社会情勢を背景にして体罰問題は30年も続いてきた。体罰問題がこれほど長く続く主な理由は、教育制度と司法制度が暗黙に体罰をサポートするからである。体罰事件が報道される度に、教育委員会は訓告などの注意をするだけであった。体罰教師に刑法は適用されず、刑事処分を受けるケースはほとんどない。ふつうの市民ならば傷害罪として処分されるのだが、教師はよほどひどい事件を起こさない限り、刑事処分されない。これは司法制度が体罰を間接的に支援した結果でもある。体罰教師たちが「言っても分からない子どもは叩くしかない」と豪語する背景には、法の裁きをうけない安心感があるからだった。もし刑法が適用されれば、体罰教師たちはとっくの昔に体罰を止めたはずである。しかし、司法制度そのものが法の前の平等という原則を守らなかった。司法制度は、体罰が学校教育基本法に反するという議論から逃げ、子どもの人権が侵されているという弁護士や市民団体の問いかけにも無関心の態度をとり続けた。結局、司法制度は管理教育には体罰が必要なことを認めたのだった。体罰がないと子ども達を服従させられないからである。教育委員会が体罰教師に寛大で、司法制度も彼らを処罰せず、学校から体罰が消えない理由がここにある。ほとんどの日本人は気づいていないが、公の組織が体罰教師を保護するのは先進国には見られない珍しいケースである。
 こうして見ると、日本の学校にはカルト的な生活支配と児童虐待があることが分かる。そして、ここまで日本の学校とカルトの共通点が見つかると、日本の教育をマインド・コントロールの角度から分析するのは興味深い作業となる。カルトとマインド・コントロールの特徴を見つけて、それが日本の学校教育に存在するかを調べるのである。カルトはある共通する特質を持っており、どのカルトも似たような思想や組織を持っている。また、マインド・コントロールのテクニックは多くのカルトに共通している。従って、カルトの特性を理解すれば、彼らの行動を先読みすることができる。日本の学校にカルト性があるならば、カルトの知識は教育問題の理解に役に立つ。

3. 情報的テクニック

 情報的テクニックの一例として「議論の罠」がある。カルトは議論を巧妙に操作して、信者の事実認識や理性的思考を歪めてしまう。議論の罠にかけられたカルト信者は重要な事実の認識ができなくなり、的はずれの議論を延々と繰り返す。こうした議論から何も得ることがなく、信者は混乱したり、教祖に都合のよい考え方を身につけるだけである。
 二年前、私はオウム真理教から脱走した女性信者と話したことがある。彼女によると、オウム信者が情報操作されているというのは世間の誤解にすぎない、上九一色村のサティアンの中でも信者たちは充分なニュースが得られ、地下鉄サリン事件を自由に議論しているという。しかし、よく聞いてみると、オウム信者たちは地下鉄サリン事件は日本政府の陰謀ではないか、事件の報道は役者を使った「やらせ」ではないのか、地下鉄サリン事件が本当にあったのかという議論をしているのだった。自由に議論しているようだが、実際は議論のテーマを巧妙に操作されており、オウム真理教がサリン事件に関係しているかを議論していなかった。議論の罠にかけられた信者たちはサリン事件の実態をよく知らず、彼女に質問してみると、事件の実態を知らず、どこでいつ発生したのか、被害者の状況についての情報を持っていなかった。上九一色村のサティアンから脱走した彼女は「地下鉄サリン事件が本当に起きたのかを自分で調べてみたい。それにより信仰を続けるかを決める」と言った。この例の様に、議論の罠は「制度と指導者に都合の悪い問題を議論させないテクニック」であり、個人の事実認識と理性的思考を歪めてしまう。議論の罠はアメリカのカルトにも豊富な例があり、カルトの犯罪行為が社会から批判されると、新聞社や政府が宗教弾圧をしているなどの話題にすり替えてしまう。議論の罠にかけられた信者は組織の問題を議論することなく、自分たちの組織には何も問題がないと思いこんでしまう。
 教育問題でもカルト的な議論の罠が頻繁に使われてきた。こうした議論では文部省と管理教育の問題は議論されず、個人や一般社会の問題だけが議論される。一言で言えば「文部省と制度に問題はない。悪いのはお前たちだ」という議論が延々と続くのである。
 登校拒否の問題では議論の罠が頻繁に使われた。80年代の初頭にかけて登校拒否が増加した時に文部省は「登校拒否は心の病気」と定義した。これは学校に行かない子どもは精神異常という意味である。「学校に行かない」などという精神障害はないのだが、文部省は登校拒否の原因を子ども自身に求めたのだった。そのときに文部省は学校の体罰といじめの問題にはふれなかった。しかし、その後も登校拒否は減らずに、文部省は「登校拒否は家庭の問題」という新しい見解を提示し、子どもを甘やかす母親や権威を失った父親に問題があるという議論を提供した。教育問題の原因を家庭内に求めたが、もちろん、体罰といじめは議論されなかった。しかし、登校拒否はそれでも減らずに、文部省は最終的に「登校拒否は誰にでも起こり得る」という見解を発表せざる得なかった。これにより文部省は子どもと親を責めることはできなくなり、新しいスケープゴートを見つけなければならなかった。そして、文部省が「いじめと登校拒否は教師の指導力不足」という見解を提示した時に次の悪者が教師となったのだった。文部省が新しい見解を提示する度に、日本人はそれに振り回されて、文部省以外の誰かに原因があると思いこんでしまった。無意識のうちに「制度に問題はない。悪いのは個人だ」という議論を繰り返したのである。
 こうした議論の罠は日本人の事実認識と理性的思考を歪めてきた。日本人は、先に述べたオウム信者と同じく、議論をする割には教育問題の実態を理解していない。例えば、体罰問題が30年も続いていること、教師に刑法が適用されないこと、体罰は子どもを服従させるために行われること、体罰を他の教師が止めないこと、管理教育には体罰が必要などの事実を認識していない。そして、自分たちに教育を変える力がないこと、民主国家では日本のような体罰問題はあり得ない事実も認識していない。これは議論の罠の結果である。
 私は「教育とマインド・コントロールの違い」の講義では学生たちに文部省の議論の展開に注意するように警告している。文部省はこれからも「自分たちに都合の悪い議論」を日本人にはさせないからである。最近の議論の罠は、中教審が提示した「大人社会のモラルの低下、家族の絆の強化、地域社会と学校の取り組み」である。社会と地域社会が新しい悪者として加わり、さらに、ファーストフードばかり食べないようにとの忠告まであった。日本人はこうした答申案を、教祖を信じるカルト信者と同じように、厳粛に受け止めてしまう。議論の罠とは「制度と指導者に都合の悪い問題を議論させないテクニック」であることを理解する必要がある。
 議論の罠に関連する情報的テクニックとして「知識人の利用」があるので付け加えておきたい。知っていれば「市民の敵である知識人」に騙されないからだ。マインド・コントロールでは知識人が大きな役割を果たす。こうした知識人は「アポロジスト」と呼ばれ、日本語では御用学者という意味になる。アポロジストはカルトと利害関係(金をもらったり、研究費を負担してもらう)があったり、自分自身が信者になっているケースがある(オウム真理教の青山弁護士は典型的な後者のアポロジストである)。アポロジストはふつうカルト組織の外で生活しているので、一般市民はアポロジストとカルトとの関係を見抜けずに、中立の知識人として信用してしまう。アポロジストは教祖に都合のよい考えを社会やカルト組織内に広げる役割をもっている。大学教授、専門家、医者、弁護士など社会的に尊敬される知識人が多く、カルトが社会から批判されると、教団への反対意見を「根拠がない」、「偏見である」などと批判する。アポロジストはカルトが世間から批判されると、非難の矛先を変えたり、社会を混乱させるために大活躍する。
 120年の歴史をもつ文部省はアポロジストの利用が非常に上手である。文部省は自分たちが選んだ知識人に自分たちの意見を発表させる。文部省は社会の動きを見ながら、その時々に、適切な答申案や中間報告を発表する。アポロジスト達は、市民の利益を代表するような姿勢を見せながら、文部省に都合のよい見解を作成し、世間に発表する。日本人はこうしたアポロジストを無批判に信じてしまう。教育問題ではアポロジストが大活躍して、一見学問的な見解を社会に発表し、文部省に都合の良い見解を広げてきた。
 こうしたアポロジストが日本社会に与える被害は想像以上に大きい。登校拒否がよい例だろう。学校の体罰やいじめのために学校に行けなくなった子ども達は、一様に「心の病気」というレッテルを貼られて、子どもと親は二重の苦しみを背負ったのである。アポロジストたちは子どもの養育歴、家庭環境を問題にしたが、学校内の体罰、いじめ、管理教育を議論しなかった。また、「学校に行かない」という精神障害などは存在しないのに、それを心の病気として定義して子ども達を責めたのである。これは典型的な議論の罠であった。
 日本の教育問題では中立の第三者の機関による調査が極端に少ない。また、市民団体が調査してもそのデータが政府に取り上げられることが少ない。この状況は文部省のアポロジストたちにさらに強い影響力を与えている。

4. 組織的テクニック

 マインド・コントロールのテクニックは非常に複雑だが、組織の支配者がメンバーを心理的、社会的に操作する点では共通している。これから組織的テクニックを説明するが、それもメンバーを操作するテクニックである。カルトの代表的な組織的テクニックとして、中央集権制度と上意下達、忙しくさせるテクニック、メンバーの監視制度、そして教義の二面性を紹介したい。
 カルトは外部世界から孤立した閉鎖集団を作る。そして、権力が教祖に集中する階層制度を形成する。組織内のメンバーは勝手な行動(自分で考えて行動すること)が許されず、いちいち上の許可を得なければ動けないシステムになっている。カルトが排他的で上の命令に盲従するのはこのためである。決定権は教祖や一部の指導者だけに独占され、それ以外のメンバーは命令に従うだけの存在となる。こうした全体主義制度の中では、教祖の命令が上意下達され、幹部と末端の信者たちは言われたままに行動する。そんな信者たちは下からのコントロールをいっさい持たず、組織を批判したり、制度を変えることが出来ない。一言で言えば、カルト組織は非常に反民主的であり、個人の意志と利益が組織に反映されることはない。
 日本の学校制度もこうしたカルト的な組織形態になっている。文部省を頂点とする中央集権体制ができあがり、その下に教育委員会、校長、教師、生徒の階層制度が存在する。文部省は教育内容の決定を独占しており、全国の教育方針の決定、教科書の作成、指導要綱の作成、教師の指導など、教育ビジネスのすべてをコントロールする。こうした教育の全体主義体制の中で、教育者達はなんでも文部省の指示を仰がなければならない。教師の意見は教育方針に反映されず、与えられた教科内容をこなすだけの存在、つまり文部省の方針を実行する代理人になりさがる。校長も教育委員会の指導に従い、自分で決定するよりも「上の指示」に従おうとする。こうして校長も教師も「上に目が向いた」人間ばかりとなり、肝心の子どもが見えない教育者たちが生まれてくる。このシステムの中では、教育者が自由に教育を決めることはできない。下からのコントロールがないので、子どもや親や教師の意見が制度に反映されることはない。彼らは上意下達の「教育指導」に振り回されるだけである。
 よく知られたマインド・コントロールのテクニックに、忙しくさせるテクニックがある。メンバーに次から次に仕事を与えて、睡眠と自由時間を奪うテクニックである。その目的は二つあり、一つは疲れさせて余計なことをするエネルギーを奪うこと、もう一つは忙しくして考える時間を奪うことである。忙しくさせるテクニックは私生活を管理するテクニックでもある。カルトの信者は次から次と新しい仕事を与えられ、睡眠も不足し、常に疲労し、落ち着いて物事を考える時間を奪われてしまう。信者は他のことをする自由時間と気力がなくなり、思考が停止した人間となる。組織から見れば、信者が忙しくしている限り、余計なことを考える恐れがないのである。組織は反抗的な信者に忙しい仕事を与え、仲間から孤立させ、行動の自由を奪うことができる。忙しくさせるテクニックは反抗を防ぐテクニックである。
 日本の学校でも忙しくさせるテクニックは使われている。教師たちの殺人的な忙しさは新聞でもよく紹介される事実である。彼らは授業の準備、研修と報告書の作成、家にまで持ち帰る事務仕事、そして生徒の私生活にまで目を配るなど、目の回るように忙しい生活を強いられている。そんな彼らには他のことをする余裕が残っていない。教師が批判される度に、彼らは「我々教師もできる限りのことをしている」と主張するが、それはウソではない。彼らはもう余力がないほど働いている。日本の教師が忙しくなったのは、教職員組合と文部省の対立が関係している。文部省は長い時間をかけて、反抗的な教師たちを鎮圧するために、教師を忙しくさせたのだった。その目的は余計なことをするエネルギーを奪うためである。私は1965年に中学を卒業したが、その頃の教師は小学校も中学校ももっとのんびりしていた。
 教師達は子ども達にも忙しくさせるテクニックを使うようになった。管理の強い学校では子ども達を常に忙しくさせる。次から次に新しい知識を詰め込まれ、それをこなせずに塾通いする生徒が多い。また、部活動を強制され、朝と放課後の自由時間をクラブ活動に奪われてしまう。休みの日も練習に励む子ども達がいる。子ども達は、教師と同じく、目の回るような忙しい日々を送るのである。そして、他のことをする余裕を失い、余計なことを考えなくなるのである。教師達は時折「生徒達がクラブ活動で疲れてしまえば非行などはしなくなる」と本音を漏らすが、それは彼らの意図を明確に表している。
 しかし、忙しくさせられた子ども達は仲間から孤立し、修行(勉強)にはげむカルト信者のようになる。馬車馬のようなゆとりのない生活に疑問をもつ子どもが、教師に疑問を投げかけると「今はそんなことを考える時期ではない」、「君は嫌なことから逃げているだけだ」と批判され、考える機会を奪われてしまう。こうした子ども達は与えられた仕事をこなすために忙しい生活を続けてゆく。その図式は、伝道や奉仕活動に熱中し、思考の停止したカルト信者と全く同じである。マインド・コントロールは考えない人間を作るのが目的だが、忙しくするテクニックはこの目的に合致している。
 日本の学校がカルト組織と決定的に似ている点は「生活指導」だろう。生徒の日常生活を監視する制度は外国には見られない組織でもある。カルトはふつう信者を監視する組織を持っている。監視の目的は組織の方針に従わない者を発見し罰するためである。カルトは信者の日常生活を細かくモニターするために、幹部が目を光らせたり、信者同士に密告させる。カルトによっては専門の監視グルーズをもつ場合もある。そして、監視制度を通して違反や謀反(教祖と反対の意見をもつこと)を見つけると、カルトは様々な形の虐待や弾圧で信者を苦しめる。カルトによっては違反者を殺す例もある。
 監視制度と虐待制度が一体化すると、信者たちは恐怖心のために組織の批判をいっさい口にしなくなり、建前(組織が認めた意見)だけを言うようになる。批判はすぐに教祖の耳に入るからである。こうしたカルト組織の中では、誰も本当のことを言わない。本音を言えない信者たちは横の関係を失い、結束できず、孤立してゆく。カルト組織の中で信者の反乱が起きないのは、この監視制度と虐待制度のおかげである。
 戦争中の日本にも監視制度と虐待制度があった。特高警察と憲兵隊である。この二つの組織はカルトの監視・虐待制度と同じ機能を持っており、軍部の方針に従わない人たち(非国民と呼ばれていた)を発見し罰することにあった。二つの組織は日本人の日常生活を監視し、不埒な言動(反対意見や反戦運動)をする者を捕らえて拷問にかけ、殺す場合もあった。特高警察と憲兵隊に対する恐怖のために、日本人は本音を言わなくなり、建前(軍部の意見)ばかりを言うようになった。隣組も監視するので、うっかりしたことを言うとすぐ憲兵や特高警察の耳に入るシステムになっていた。当時の日本は近所同士の密告制度まであったのである。
 学校の生活指導は憲兵隊を小型にしたものである。生活指導の仕事は、憲兵隊と同じく、学校の方針に従わない者を発見し罰することにある。生活指導教師は生徒を監視し、髪型、服装、生活態度に違反がないかチェックし、違反者に容赦ない体罰を与える。80年代には学校内を竹刀をもって巡回する生活指導教師の姿があちこちで報告された。生活指導教師は、生徒に密告を強制することもあり、違反者の名前を白状させるために、生徒に拷問まがいの体罰を与える場合もある。生活指導教師は、昔の憲兵と同じく、日本人を虐待する権限をもち、よほどの事件を起こさない限り刑法で罰せられない仕組みになっている。生活指導教師が「言っても分からない生徒は叩くしかない」と豪語できるのは、法律の保護と組織の後ろ盾があるからである。そして、昔の日本人が憲兵を恐れたように、生徒たちは生活指導教師の暴力を恐れ、表面上は服従する。
 体罰事件が報道されると体罰教師だけが批判されるが、それは問題の一部でしかない。生活指導が存在する理由は、学校が全体主義的教育を推進するためである。学校方針に服従させるために指導教師達は子どもを監視し、違反者に体罰を与える。校長や教育委員会は、こうした生活指導教師の強制力を利用して、管理教育をするのである。従って、学校と教育委員会が体罰教師を守るのは当然の結果である。暴力をふるう人間がいないと子ども達を服従させられないからである。

 ここまで説明すれば、日本の教育とカルトのマインド・コントロールの類似性に気づくかもしれない。「教育とマインド・コントロールの違い」の講義を受けて「嫌気がさした学生」たちも、こうした説明に嫌悪感を感じたのだった。教育問題の見方が極端に変わるので「講師にマインド・コントロールをかけられた」と言う学生までいた。しかし、日本の教育をマインド・コントロールの角度から分析するのは、その本質を理解するのに役にたつ。最後にカルト教義の二面性を説明して終わりにしたい。
 カルトは二重の教義をもち、世間に紹介する教義と組織内の教義が違う。オウム真理教は世間に対して人類救済や魂の自由を主張した。しかし、彼らがしたことはその逆であり、地下鉄にサリンを巻いて一般市民を殺害したり、邪魔な弁護士を家族と共に殺したり、脱会信者を虐待したり監禁したのは周知の事実である。カルトの二面性とは言葉と行動の矛盾でもある。この二面性は「ウソ」とも呼べる。カルト教義の二面性は世間を騙すのが目的であり、一つの教義しかもたない正統派の宗教や組織団体(組織の内外で同じ教義を持つ組織)との大きな違いと言われている。ほとんどの日本人は議論しないが、日本の学校の多くはカルトと同じ教義の二面性を持っている。そうした学校は世間に対して個性と自主性の尊重をうたうが、学校内では正反対の方針を持っている。生徒を細かい規則で縛り、違反者を迫害(体罰を与える)し、統一行動を強制する。子ども達は自分では何も決められず、勝手な行動は許されない。これは全体主義的な教育なのだが、世間に対しては一人一人を尊重するなどの教育スローガンを掲げる。本音の教育方針を表現する学校は極めて少ない。「我校は生徒の生活を徹底的に管理する。統一行動は学生生活の基礎である。個人の自由と権利などは本校では認めない。ここに来る者は校則と教師に絶対服従しなければならない。それの出来ない者には体罰が用意されている」と言えばウソはないのだが、「我校は国際人の養成を目的とし、自主独立の精神に富んだ人材の育成を教育方針とする」などと言うから教義の二面性が生まれてしまう。つまり、教育者がウソをつくのである。
 教育の二面性は日本の子ども達に計り知れない害を与えている。教育者たちは一人一人の命を大切に、生きる力を重んじる教育などと世間には聞こえのよいスローガンを掲げるが、学校内の生活はその逆である。子ども達は面白くもない授業、半強制の部活動、校則違反と口答えに対する体罰、遊びの余裕のない生活を強いられている。最近では内申書によるコントロールに振り回されており、教師の顔色を見ながら、自分の意に反する部活動やボランティアをしている。また、体罰やいじめが報道されると、学校が事件を隠蔽し、自殺者がでると「我が校にいじめはなかった」とウソをつく。そんな子ども達が教育者たちを不信の目で見るのは仕方のないことである。
 日本の子ども達はこうした体験を通して態度の二面性を身につけてゆく。それは本音(個人の意見)と建前(世間向けの意見)を身につけるという意味である。彼らは世間に表現する意見と、本当に思っていることが別なのはあたり前という考え方を身につけるのである。これはウソを肯定することでもあり、処世術を身につけることでもある。こうして状況に応じて本音と建前を使い分ける日本人が生まれてくるが、外国人はこの二面性を「偽善」あるいは「うそつき」として激しく非難する。彼らにとって、意見と態度の二面性は不誠実、信頼できない人間の証拠なのである。しかし、日本人は最初から二面性(本音と建前)を持つわけではなく、長い教育のプロセスで物事の二面性を学んでゆくのである。
 日本の教育がウソを教えるのは非常に不幸なことである。子ども達は人に見せる自分と本当の自分を使い分ける人生を送るからだ。そうした人生に真の喜びはなく、満足感もない。自分の態度を粉飾する限り、真のコミュニケーションは開かず、うわべだけの人間関係しか持てない。そして、自分の二面性に気づいたときに、激しい葛藤とアイデンティティの危機を経験する。自分が誰なのか、何をしたいのか分からなくなる。アメリカの研究では、マインド・コントロールにかけられると二重人格になることが判明している。カルト信者は組織が求める人格と本来の人格の二つを持つのである。日本の子どもの場合、人に見せる自分と本当の自分という二つの人格を形成している。
 教育とマインド・コントロールの違いを理解するには、自然の木と盆栽の違いを考えてみるといいだろう。教育が自然の木を育てることならば、マインド・コントロールは盆栽を作ることである。教育の目的は個人の潜在的能力を伸ばすことにある。そのために教育者は子ども達の権利を尊重し、自由にのびのびと育てあげる。自然の木には個人の自由があり、自分が何になるかを決められる。子ども達はこうして自分の潜在能力を伸ばすのである。
 しかし、マインド・コントロールの目的は教祖好みの人間を作ることにある。盆栽はそれを明確に象徴している。植木職人(教祖や管理教育者たち)が木の成長をコントロールし、木が勝手に成長するのを許さない。植木職人は好ましくない芽をつみ、余計な枝を切り、自分の好みに合わせて枝も幹も曲げてしまう。そんな盆栽を世間の人は美しいというが、もし盆栽に脳と神経があるならば、その苦しみはどのようなものであろうか。盆栽の苦しみが分かる人は、現代の子ども達の叫びにも耳を傾けることができるだろう。植木職人がいくら盆栽が美しいと主張しても、その木が成長の止まった奇形である事実を否定することはできない。植木職人は木が自由に成長する権利を否定している。
 教育とマインド・コントロール。この二つの違いは個人の自由があるかどうかで決まる。教育は個人の自由を尊重するが、マインド・コントロールは個人の自由を完全に否定する。この意味において日本の教育―管理教育―はマイントコントロール的である。なぜならば、子どもの自由を否定し、指導者たちの好みの人間を作るからだ。さらに、文部省と学校は世間に対しては個性尊重をうたうので二重にマインド・コントロール的である。弁護士や市民団体がこうした教育に反対するのは当然だろう。子どもの人権を否定しているからだ。
 アメリカの研究では、マインド・コントロールにかけられた人は精神的な発達が止まると言われている。15才でカルトに入った30才のアメリカ人の元信者の男性は「自分は15の時から、デートもせず、旅行もできなかった。自分には人並みの生活がなく、自分がしたことは奉仕活動と伝道活動ばかりだった」と言っている。彼の人生は15才の時に失くなり、それ以後はカルトが与えた人生を送ったのである。そんな彼は精神的に成長する機会を失ったのである。日本の子ども達も彼と似たような環境にいる。受験勉強、強制的なクラブ活動、校則による生活のコントロールなど、自由を奪われた生活を送っている。カルト信者と同じ様な生活をする子ども達は精神的に成長する機会を失っている。集団行動しかできない日本人は外国人から子どもっぽいと見られる場合が多い。外国人は日本人が年齢に比べて幼稚と感じるのだ。しかし、日本人の幼さはマインド・コントロールの結果かもしれない。
 以上が教育とマインド・コントロールの比較だが、ここでその内容をもう一度まとめてみよう。今後の教育問題の進展に関して、日本人は以下の項目を理解していると役に立つはずである。
(1)カルトは必ず個人の権利と自由を否定する。しかも、表向きはそれを尊重する態度をとる。
(2)カルトは言葉と行動が違う。教義の二面性はカルトの第一の特徴である。
(3)カルトは細かい規則を子どもに強制し、その結果、児童虐待が発生する。
(4)カルトは児童虐待の実行者を組織全体で保護し、親も虐待を支援する。
(5)カルト信者たちは自分の制度を変えることはできない。下からのコントロールを持たないからである。
(6)カルト組織内で問題が発生する場合、悪いのは常に一般信者か外部の人間である。教祖と組織の問題点は議論されない。
(7)カルト組織は、指導者にすべての権限が集中する階層制度をもつ。
(8)文部省を頂点とする日本の教育制度はカルトに似た階層制度と性質を持っている。
(9)体罰教師は、昔の憲兵と同じく、日本人を虐待する特権を持っている。日本人はこの事実を充分に認識していない。
(10)文部省は二面性のある方針を持っている。表向きはいじめ、ゆとりの教育など、教育問題に取り組む姿勢を見せているが、その裏では日の丸、君が代、教育内容の増加には異常な執着を示している。
(11)中教審などが新しい見解を紹介すると、日本人は教祖のお告げをうけるような態度で聞き、日本社会に広く浸透する。
(12)日本人は、文部省に都合のよい見解を用意する知識人がいる事実を認識していない。文部省のアポロジストのために今後も混乱した議論が続き、教育問題の本質はますます見えにくくなる。
(13)文部省に都合の悪い議論は今後も行われない。文部省以外が悪いという議論がこれからも続く。