2019年になりました。1月1日の午前零時の祈祷から始まって、3日間の行事が終わりました。

 

2018年の終わりのブログ記事の中で、神様の真の家庭に関する内容を中心としましたが、文顕進会長の2019年の初頭の3日間のお話は、まさに真の家庭に集中したものでした。2019年から神様の主権をたてる歩みが始まると語られ、神様の主権が神様の真の家庭を通して顕現することに関する祈祷とお話がありました。

 

こうした内容はすでに昨年の末のブログ記事の中で、ある程度書いているので、その内容をそっくり繰り返すのは避けます。1月1日からのお話は、合計、10時間以上にわたる内容ですから、それを詳細に伝えることもできません。私にとっては、自分の思っていることが、文顕進会長の思っていることとアラインしているかどうかを確認する時間でもあり、まずは自分の中の軸を立てることから始まる一年でした。私が年末に中心点として書いた内容と、文顕進会長が年初に語った内容は、ある程度一致していたものの、レベルの食い違いのようなものがありました。それは、初頭の3日間の最後に語った、羊とヤギが分けられる時、という内容に象徴されるように思います。

 

もう少し付け加えると、この3日間を通して、私は「もう中間地帯のようなものはない」という印象を受けました。それはまるで、海が二つに割れて、分かれた水の間に道があり、その神様が守る道を突っ切るようなものかもしれません。その道を通って、神様の福地に至ることは、神様の摂理に同参するのなら、キリスト教徒でも、イスラム教徒でも、仏教徒でもできます。でも、神様の摂理を妨害する立場に立つのなら、たとえ祝福家庭でも、たとえ文先生の家族でも、水の中の人とみなされる、ということだと感じました。もちろん、それは、永遠に水の中と運命付けられたことではなくて、悔い改めを通して、神様の福地に至るを歩むことは可能であることも意味します。

 

そのような審判の時であると同時に、2019年を出発として、神様の主権の実体化が展開される時でもあります。神様の主権というのは、原理講論に繰り返し出てくる言葉ですけれども、あまり詳しく説明されておらず、また、誤解を招く言葉でもあります。その説明をしようとすれば、神様の主権を認めて出発した米国の歴史についても言及する必要があります。

 

米国における神様の主権は、国民一人一人が神様から与えられた不可侵の人権と自由があり、国民一人一人が良心と信仰の自由により、神様との関係の中で生きるという前提の中で、立てられてきたものです。そうであるのなら、神様と人間の関係が回復されて、その関係が深まり、神様が人間を通して御自分をあらわすことが可能になればなるほど、神様の主権は目に見える世界に顕現します。神様が直接主管の中で対することができて、なおかつ、人間の責任分担成就の条件が整っている人は今はわずかだとしても、神様は全ての人に働きかけていて、特にキリスト教徒やイスラム教徒や仏教徒、など様々な信仰を持った人たちに働きかけています。神様は、この世の宗教の壁を超えた方です。

 

では、私たちが至るべき世界への道を知るために、私の文章を書き始めます。今日は短くしておきます。

 

文先生の平和メッセージ13が語られた時は、2013年1月13日に向けて、最後の準備がなされる時でした。平和メッセージの内容が重要なのです。神様の実体的主権が打ち立てられるためのものでした。基元節とは、真の父母、真の家庭が定着し、国の基盤の上になされるべきものでした。2019年から、国が作られていくのです。

 

全ての葛藤は、人間が神様とアライン(合致)することができないことから生じました。祝福家庭は、神様の真の家庭の価値がわかる必要があります。文先生のお子さんたちの多くは、間違ってしまったのですが、落胆してしまうのではいけません。文顕進会長の家庭の基準が、誇りの源となります。

 

文顕進会長は、お子さんたちに、近道はない、ということを教えているのですが、とても入学するのが難しく、議員の推薦まで必要なような、米軍のエリート校に行き、卒業してから国に奉仕するのも、家庭の誓いの中で忠臣として語られている基準のことです。家庭の誓いが単なるリップ・サービスではないからです。家庭においては孝子、国家においては忠臣、世界においては聖人、そして、聖子の道です。

 

良い父母は、子女が難しいことに立ち向かうことができるように養育します。ただ可愛がるのではないのです。10代になる中で、自分たちの足で立つことができるようにならなければなりません。自分たち父母がもうこの世にいなくなっても、自分たちで道を切り開くことができなければなりません。そのような基準まで育てなければなりません。信仰を相続し、自分より優れた人にするのです。それは鉄を鍛錬するようなものです。熱したり、冷水で冷ましたり、何度もするのです。試練とは、子女が直面するのを避けさせるべきものではなくて、挑戦して乗り越えさせるものです。自分の血統に対する主人意識を持ち、基準に対する責任を持つレベルに育てるのです。

 

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