巨人離れを加速させる
ビジネス哲学の欠如、展望の甘さ

 V9世代の私は少年時代、「燃える男・長嶋」に子ども心を鷲掴みされ、長嶋氏への憧憬から巨人ファンになっていた。大学時代に「江川事件」が起こり、スポーツライターになった当初、広報担当から冷たくあしらわれてもなお、巨人への想いはすぐ断ち切れなかった。心に根ざした強いファン意識は理屈では消せないものだからだ。

 以後20年余の流れの中で熱い気持ちはすっかり冷め、いまは巨人の勝敗に関心を抱かなくなった。それと同じような、理屈抜きの巨人離れを今回の出来事は加速させる可能性がある。

 その背景には、読売巨人軍のビジネス哲学の欠如、将来展望の見通しの甘さが透けて見える。

「常勝軍団でなければならない」という大前提(古い思い込み)を、巨人は真剣に見つめ直した経験があるだろうか。「強いことがファンを惹きつける最大の要素である」「スーパースターの存在が人気の必須条件」、そして「巨人が中心にあってこそ日本のプロ野球は繁栄する」といった幻想は、かつての隆盛の要因だったのは確かだが、今も通じる普遍的なビジネスモデルではない。そんな当たり前の時代認識を、巨人という球団は共有できていない。

 例えば、まさに丸が好例だ。広島に入団した当初、丸は飛びきりのスター選手ではなかった。広島で育ち、ファンが丸を愛し、一体となって育てた「我らがヒーロー」だ。

 阪神のように、「勝てなくても勝てなくても」熱烈に応援し続けるタイガース・ファンのような光景を、おそらく巨人は冷笑している。勝者が敗者を見下すおごりを、巨人というチームは残念ながら持っている。

 もしかしたらファンも同じかもしれない。巨人を愛することがどこか優越的な側に寄り添いたい自分の気持ちの表れだと気付き、そのことに自己嫌悪を抱き始めれば、巨人ファンを公言できない気持ちになる。まさに私自身、そうだった。そんな葛藤を振り捨て、「だって東京人だから巨人を応援するのは当たり前でしょう」と言い切れない面倒さも、いまの巨人にはある。そんな微妙なファンの悩みを、巨人という球団は救ってくれていない。あるのは、勝利者であり続けることへの悲しいまでの執着。敗者となってもファンとつながれる地平を歩む覚悟は見せることができない。

 実際には、プロ野球チームが末長く繁栄する道はむしろタイガース的な方向性にある現実を、巨人は受け入れていない。ここ数年の巨人は決して勝てていないのに、まだ「勝つことで復活」を最大の目標に据えている。根本的な方針転換より、草創期やV9時代に培われた圧倒的な支持の残り火にすがっている。