尼子再興を悲願としながらも戦国時代、毛利に殺された山中幸盛(鹿介)の末裔のお話を一つ。 山中幸盛の次男 山中幸元(通称 新六)は父の死後、七歳で摂津国川辺郡鴻池村の大叔父山野信直の下で匿われていました。 やがて武士を廃業して、伊丹の酒屋に奉公し、酒造りの技術を身につけ、濁酒の醸造販売をてがけるようになります。 精進の結果彼は清酒の醸造に成功し、これが爆発的に売れて財をなします 一説には、新六に恨みをもった使用人が腹いせに酒樽に灰を投げ入れたのが偶然にも清酒となったとか。 新六は村の名前にちなんで、姓を鴻池、屋号を『鴻池山中屋』としました 江戸時代の大豪商、「大名貸し」で有名な鴻池家の始まりです。 新六は1619年大阪の久宝寺(現大阪市中央区)に移り、酒造業だけでなく清酒の江戸運搬のため海運業にも乗り出し、諸藩の蔵米などの商いを通して鴻池家の繁栄の基礎を築きました。 手がけた事業が全て大当たりであったにも関わらず、新六の実生活は実に清楚であったと言われています 亡き父の生き様を見習ったのでしょうか。 1650年(慶安3年)81歳でなくなりました。お墓は大阪中央区「顕孝庵」にあります。 新六の八男鴻池善右衛門(山中正成)が継ぎ、これが本家になります 善右衛門は両替商を開業し江戸時代の十人両替の1りとなり、鴻池家は代々世襲され 三代鴻池善右衛門(山中宗利)の時代になると尾張、紀伊藩はじめ32藩への「大名貸し」をするなど巨万の富を蓄えます。 また蓄財した1万両を投じて鴻池新田を開墾したのもこの頃です しかし山中鹿助に繋がる家系ゆえか、鴻池家は毛利家に対して財政支援を行わなかったそうです。 そして幕末になると、鴻池家は新選組のスポンサーとして近藤と土方を支援し続けます 十代鴻池善右衛門(山中幸富)の時代です。 文久3年には武器両として200両。このお金で有名なダンダラ羽織を作っています また元治元年には、鴻池家ら大阪豪商が合わせて5600両に相当する銀を貸し さらに慶応3年には鴻池家だけで400両ものお金を貸し出しています。 借用となっていますが実態は寄付に近い支援でした 近藤愛用の刀虎徹も鴻池からの贈り物だそうです 関東からやってきた無名の浪士たちを鴻池善右衛門は損得抜きで何故にこうも支援したのでしょうか? それは新選組が対長州(毛利)の最大最強の先鋒だったのも大きな理由と思えますね。。。 戦国時代からの積年の恨みが時代を超えて息づいていたと思うとビックリです。 播磨の上月城で信長、秀吉に見捨てられ毛利に捕られ、山陰の麒麟児、山中幸盛ははかなく散りましたが、その子孫達は毛利や徳川をも凌ぐ栄華を極めることとなりました。 鴻池家は明治になり三和銀行となり、最近UFJから東京三菱銀行に合併されました。 注)この記事は、2006年3月30日に「天下布武」ブログに掲載しました。
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コメント(11)
この話は全く知りませんでした。山中鹿之助は忠臣で有名ですが、その子孫がUFJ銀行の創設者だったとは。しかも武家の誇りを持ち続けた商人だったのですね。カッコイイです。
2006/7/20(木) 午後 10:55 [ NextStage ] 返信する
山中鹿之助と鴻池組の話は知っていましたが、新撰組への資金支援の解釈は面白いですね。大坂商人のショバ代として、なかば脅しの半強制的寄付とばっかり思っていました。
2006/7/21(金) 午前 0:03 [ タイガードラマー ] 返信する
TBしちゃいまーすw
2006/7/21(金) 午前 0:34 返信する
新選組と鴻池家との関係は私達が想像する以上にフレンドリーだったようすね。
2006/7/21(金) 午後 7:39 返信する
鴻池財閥なんて明治になってからのポッと出かと思ってました。( ゚∀゚)ゝ”そんな歴史があったとは~!
2006/7/21(金) 午後 8:03 [ ペネロペ ] 返信する
NextStageさま、天下布武でこの記事を掲載したときも、意外と知られていないんだなあ~と思いました。いわゆる金貸しと忠臣鹿之助とのイメージにギャップがあるようですね。でも武士を廃業したとはいえ、鴻池家は鹿之助の末裔であることを誇りにしていたと思います。
2006/7/23(日) 午前 1:25 返信する
大河さま、私も最初は新選組に対して「半強制的寄付」と思っていたのですが、鴻池家の資料を調べるとそうでもないことに実は驚いた次第なんです。鴻池善右衛門さんの手代や番頭が屯所に訪ねてきたときは、近藤局長、自らカステラ切って接待したそうですし、函館称名寺に歳さまの碑を建立したのも鴻池の手代(大和屋友次郎)だったそうです。これは本当に発見でしたね。
2006/7/23(日) 午前 1:29 返信する
まるこさま、TBありがとうございます!
2006/7/23(日) 午前 1:29 返信する
なつみさま、薩長が幅を利かせていた上方で、嫌われ者の新選組に財政支援を行ったのは、鹿之助を討った毛利へのあてつけと同時に、やはり近藤&土方の人間性にもあったのではないかなあと。。。贔屓目ですが。
2006/7/23(日) 午前 1:34 返信する
まさをさま、鴻池財閥のご先祖さまが戦国時代の敗戦の将であったってのは、なんともドラマティックでしょ~!
2006/7/23(日) 午前 1:36 返信する
はじめて見さしていただきました。
岡山には鹿ノ介の大きな墓がありますが、その後の子孫のことはしりませんでした。
2009/7/29(水) 午後 10:48 返信する