4年前に、このブログのコメント欄に一つの物語を書きました。
タイトルは「薬を飲ませ続けたおばあさん」と翌年もう一度載せた時につけました。
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昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。二人とも歳はとっていましたが、飲むだけで元気になるという噂の薬を毎日飲んでいました。おじいさんはそれを薬だと思っている。もちろんおばあさんも同じようにずっと薬だと思って飲んでいたのだけども、なかなかこれといった効き目がないものだから、なんかおかしいなと思い始めました。そして同じようにその薬を飲んでいた近所の人に訊いてみたら「あれは薬じゃない。何にも効かないよ。まだ飲んでたの」と言われました。
おばあさんはビックリして、他の多くの人にも訊いて回ったのですが、みんな「あれは薬なんかじゃないよ。みんなそれがわかったから、あの薬屋には行かないようになった。行ってるのは何も知らずに薬だと信じている年寄りだけだよ」と言っていました。それでおばあさんはよくよく考えてみることにしました。自分のこれまでの体験にも照らし合わせてみたところ、それが薬じゃないと仮定したら、みんなつじつまが合うのでした。そこでおばあさんはおじいさんのことを思って「それはじつは薬じゃななかったんだよ」と言いました。
おじいさんは思ってもみないことを言われたのでビックリすると同時に、おばあさんは頭がどうかしたんじゃないかと心配になりました。ついこのあいだまで一緒にこの薬を飲んでいたのに、なんで今さらそんなことを言うのかわかりませんでした。おじいさんは薬屋から「これは絶対よく効く薬です。でも元気になると信じて飲まなければ効きません。効き目を疑ったりしてはいけませんよ」とくりかえし言われてきたことを思い出して、薬をやめようとはしませんでした。おばあさんはそんなおじいさんの姿を見て、なんとか薬をやめさせなければと思い、客観的な証拠をたくさん集めておじいさんを説得しようとしました。しかしその薬を疑うことで効き目がなくなることを恐れたおじいさんは、おばあさんの話を聞こうとはしません。かえってそこまで言うおばあさんは自分のことを嫌ってるんじゃないかなどと疑心暗鬼に陥ってしまいました。
そんな態度のおじいさんを見て、おばあさんはとても悲しくなりました。「おじいさんはどうして私の言うことを信じてくれないんだろう」とさらに考えました。そしておばあさんはこう思ったのです。「おじいさんは薬を信じているのではなくて、薬をくれている薬屋のことを信じているんだわ。だから薬が効いてなくても効いているような気になってるのよ」。おばあさんはその薬局のことを調べました。するとその薬局では、お客さんに「これはよく効きます。でも信じなかったら効きません。それに効かないと文句を言ったりしたら、今まで飲んだ薬の効き目もなくなってしまいますよ。そして薬を飲むのをやめたりでもしたら、病気になってしまいます。初めから飲まない人よりも悪くなるんです。ですから絶対この薬はやめないでくださいね。はい、今月のお薬代1万円」。
おばあさんはビックリしました。「薬を飲まない人よりも具合が悪くなるだなんてどういうことでしょう」おばあさんはますますこの薬局は怪しいと思って、さらにいろいろと調べてみました。するとこの薬局はときどき薬の内容を変えていたのです。つまり仕入れ先ともめて、いままでの薬が仕入れられなくなったものだから、その薬の成分表を仕入れ先から盗んで、自分たちで勝手に薬をつくって売るようになりました。お客さんには「こんどお薬の中身が変わりました。今度の薬はもっと効きますよ。じつは今までの薬にはちょっと問題があったので、私たちでもっといい薬を開発したんです。今までよりちょっと高いんですけど、安心して飲んでくださいね。私たちがいい薬を作ったものだから、いままで作っていた仕入れ先が私たちのことを妬んで、あることないこと言ってますけど気にしないでくださいね。それから、飲んだことのない人にも紹介してくれたら、この薬はもっと効きますよ。これはそんなとってもありがたい薬なんです。でも効き目を疑ったりしたら毒になってとっても苦しみますから注意してくださいね。はい2万円」。
もうおばあさんはビックリ仰天です。ただの薬屋が、勝手に薬までつくって売ってるのですから、それは驚きます。これでその薬屋が完全に怪しいことがわかりました。「やっぱりこの薬屋は効きもしない薬を客に騙して売りさばいて金儲けをしているんだ」おばあさんはやっと気がつきましたが、おじいさんにそのことをいくら話しても聞こうとはしません。おじいさんはそんな話を聞いたら、今まで飲んできた薬が効かなくなるどころか、病気になると思って怖がっているからです。そしておじいさんは、あろうことかおばあさんが自分を病気にしようとしていると思い始めました。「こんなばあさんの話なんか聞いてられるか」と、あんなに仲の良かったおじいさんはおばあさんを憎むようになってしまいました。おばあさんは途方に暮れます。「おじいさんのためを思ってここまで言ってあげているのに、どうしてわからないんだろう。いままで何十年もいっしょに暮らしてきた私をさしおいて、あんな薬屋の言うことを信じるなんてあんまりだわ」おばあさんも、いいかげんおじいさんを嫌いになり始めました。
おばあさんは、その薬を何十年も飲んできました。その薬を飲んで来たからこそ、たいした病気もせずに、おじいさんと仲良く暮らして来れたと、その薬に感謝もしていました。でもよく考えてみると、この薬のおかげで元気だった証拠なんてどこにもありません。それにこの薬をやめてずいぶんとたちますが、体調の変化もありません。ただおじいさんのことが心配で、不眠症になったぐらいです。そこでおじいさんが飲んでいる薬の成分が何なのか調べてみました。そしたらなんとただの小麦粉だったではありませんか。おばあさんは愕然としました。「私とおじいさんは何十年も何千万円も出して小麦粉を飲んでいたんだ」おばあさんは気が遠くなりそうでした。
そこでおばあさんは気を取り直して、もう一度よく考えてみました。「おじいさんはどうしたら気がついてくれるだろう?」「もし自分がおじいさんの立場だったら?」「みんなどうしてあんな薬屋の言うことを信じてしまうんだろう?」いろんな疑問が次々に湧いてきました。そしてこう思いました。「みんな何かを信じている。何かを信じるには、それなりの理由があるのだけど、それは科学的な根拠だとか、目の前の事実だとか、そんなものは理由にならないんだ。どんなことであっても、いったんその人がそれが正しいと信じれば、その人にとっての真実になってしまう。たまたまこの薬を飲んだときと、病気が治ったことが重なって、この薬のおかげだと信じきってしまうのも当然だわ。だってそう信じたいんだから。信じるって、信じたい気持ちが、ものごとをそんなふうに見せるのね。でも、この世の中に何があっても動かない絶対的な真実なんてありはしないとお釈迦さまも言ってた。あるのはその人にとって都合のいいことを真実だと思い込んでしまうこと。それこそが人間の不幸の原因であり、不幸の始まりなんだと、2500年も前に教えてくれてる。だからまわりからどんなにあからさまな間違いを指摘されても、それが何を意味するものかがわからなくなるんだわ。おじいさんの都合では、あの薬屋の言うことが真実だから、それと違うこととなると、私がどんなに間違いである事実を言っても聞かない、聞こうともしないのは当然なのよ」おばあさんはそう納得してはみたものの、それではおじいさんを救えない。原因がわかったところで、このままじゃおじいさんはただの小麦粉に大金を払い続けることになる。それよりも何よりも、このままでは私とおじいさんの仲が壊れてしまう。私は優しかったおじいさんと一緒にいつまでも暮らしたい。なんとかしておじいさんの優しい心を取り戻さなければ…」。
おばあさんはおじいさんを説得する材料がないか、さらに調べました。その薬局のことも。そしたら、その薬局の社長がどうもそうとうな悪人らしいのです。その社長は自分のところの薬が効くことを客に信用させるために、ただの小麦粉を薬だと騙して売ったお金を使って世界中の著名人と会ったりしているところを写真に撮らせて、それらを載せた会報を有料でお客さんに売っていました。ただの小麦粉に高い値段をつけて売っているというのに、さらにそのお客さんの家族や友人知人にもその会報を購入させているのです。お客さんを自社の商品の販売員としてタダ働きさせているのでした。お客さんは、自分が飲んでいる薬が効くようにと、その薬を売ってまわります。どこまで欲深い社長でしょう。ところがなぜ会報を売ったら薬が効くのか、なぜかお客さんは何の疑問も持ちません。それはそういうものだと信じているからです。お客さんは薬が効きさえすれば何だってする気持ちになってしまっています。お客さんにとってはもはや理屈などどうでもよくなっていることに、おばあさんは恐ろしいものを感じました。
それからその社長は薬を飲んでいる人同士を集めて、その薬や会報をたくさん購入するにはどうしたらいいかを相談する会合を開くようになりました。たくさん薬を売ったお客さんが体験発表をして、まだあまり売れてない人を激励するようになりました。そのうち、あちこちにそんな集まりができて、お互いに競争するようになり、それがだんだんエスカレートしていくと、あろうことか売れなかった会報をひとりで何冊も買う人が出てきました。もうおばあさんは開いた口が塞がりません。薬が効くようにと会報を何冊も買う人の気持ちは普通の人には理解できません。でも、そんなことを言っても、お客さんたちは何の疑問も持ちません。それで自分が飲んでいる薬がいっそう効くのだと本気で信じているからです。おばあさんは思いました。「人間、信じるものを間違えると大変なことになる。もしかしたらおじいさんも一生このまま小麦粉を飲み続けて死んでしまうかもしれない」。おばあさんは寒気がしました。
さらにその薬局の社長が今何をしているのか気になりました。なにしろ自分の大切なおじいさんに、バカ高いただの小麦粉を飲ませ続けているのですから。すると、どうもその社長は近頃人前に姿を見せないのだそうです。もうかれこれ4年半も。おばあさんはおかしいと思いました。「会社の社長が4年半も社員の前にすら顔を出さないなんてあるかしら。でも病気じゃないと言うし、あいかわらず会報には大量の執筆をしているし。でももっとおかしいのは、そんな社長のことを社員もお客さんも誰一人として心配していないことよ」おばあさんは、何かあると思いました。「社長がいなくても、この薬屋はどんどん小麦粉を売りさばいているし、社員も何一つ文句も言わずに働いている。会報には薬を飲んで幸せになったお客さんたちの満面の笑顔がびっしり載っているし、社長の文字だけのメッセージには、なぜか大昔の社長の写真が載っている」おばあさんは思いました「あまりにも不自然だわ」。
ある日のこと、おばあさんは結論を出しました。「おじいさんに正気に戻ってもらうには、この私を信じてもらうしかない。はじめから理屈なんかじゃどうにもならなかったのよ。私はおじいさんに元気になってもらいたい。以前の優しかったおじいさんに戻って欲しい。おじいさんは自分が信じているものを私が否定したから私を嫌って、ますます私のことを信じられなくなっているんだわ。だから私は何があってもおじいさんを信じなくちゃいけないの。私までその小麦粉にふりまわされてなんかいられない。私が大事なおじいさんを信じていけば、きっといつかおじいさんもわかってくれる日が来る」
それからおばあさんは、その薬の話はいっさいしなくなりました。おじいさんの言うことにいちいち反論したり、冷たくしなくなりました。そしたら次第に優しいおじいさんに戻ってきました。おじいさんは優しくなったおばあさんの変化に少し気がつきましたが、薬をやめようとはしません。おじいさんにとって、おばあさんと薬はなんの関係もないからです。
おばあさんは何事もなかったように、優しくおじいさんに接しました。おじいさんも何事もなかったように、仲良く暮らしました。それからさらに20年の月日が流れ、いよいよおじいさんの寿命が尽きようとしています。もう動けなくなったおじいさんに、いつもかいがいしく面倒を見てきたおばあさんも、別れの覚悟を決めるときが来ました。
「ばあさんや、わしもいよいよお迎えが来たようじゃよ。いままで本当にありがとう。いろいろ世話になったな。贅沢はさせてあげられなかったけど、こうして今までたいした病気もせずに、事故にもあわずに生きてこれたのは、ばあさんのおかげだよ。感謝してるよ。ありがとう」
「いいえ、おじいさん。私こそ、いままでほんとうにありがとうね。私はおじいさんと生きてこれて幸せでしたよ。途中でいろんなことはありましたけど、おじいさんを信じて生きてこれた私は幸せでした。ほんとうにありがとう」
「それとわしがこうして元気で来れたのも、若い時からずっと飲み続けてきたこの薬のおかげじゃよ。この薬にも感謝しないとな。まあ、ずいぶん高い薬ではあったが、命には換えられんものな」
「そうね、感謝しなくちゃね。ほんとにいい人生だった。私もすぐあとから追いつきますからね。また一緒にくらしましょう」
そうやって、ふたりは最後まで心を重ねたまま幸せに生涯を全うしたのでした。
ただひとつ、おばあさんはおじいさんに言わなかったことがありました。それはおばあさんが薬の正体に気がついた20年前から、あの薬を台所にある小麦粉にすり替えてきたことでした。
チャンチャン(^^)
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今回のテーマは「信じるということ」です。
何かを信じるということは、人としてとても尊いことだと思います。自分を信じる。他人を信じる。あるいは神を信じることも、人によってはかげがえのないことだと思います。ですから、そうした「信じる」ということにおいて、人は強制されてはいけない。何かを信じること、あるいは信じないことを、誰からも強制されてはならないことを国民の権利として憲法に保障しているのが戦後日本の民主主義です。したがって国家権力であろうと、人に何か特定のものを信じるように強制するのは民主主義の国では許されないことです。
戦前の日本政府は神話を現実にあったことだとして人間であるはずの天皇を神様だと国民に信じ込ませていました。今考えたらとんでもないことですが、70年前までの日本はそういう国でした。女性には選挙権すらありませんでした。今でこそ、人間は誰しも平等であり基本的人権も信教の自由も国民の当然の権利という感覚がありますが、私の両親が若い頃はそれがありませんでした。特定の人間を神だと信じなければいけない社会だったのです。
つまり、人は状況によってはなんでも信じてしまうということです。第二次大戦突入する過程で、静かで思慮深いドイツ人がナチスに熱狂しました。ほとんどのドイツ人が優生思想に蝕まれ、ユダヤ人の虐殺を見て見ぬ振りをしました。日本も同じく「天皇陛下万歳」と、年端もいかぬ多くの若者が戦地で命を落としました。子供を失った親が悲しみにくれました。
「信じるということ」とは、場合によっては尊いことですが、それは「何を信じるのか」によって全く違うということを、ここでもう一度考えてみたいと思います。
「信じるということ」と信仰とはまた別のものだと思います。自分を信じるのは信仰とは言えないと思います。でも私は自分を信じることができなければ、人は生きていけないとも思います。また何かしら神のような人間の力では抗うことのできない強大な力の存在に自らの生き方を委ねたりするような一神教。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がそれに当たりますが、日本においては日蓮本仏論を標榜する日蓮正宗と創価学会だけが、この一神教的な「強大な力の存在」に依存する信仰形態を取り入れています。ここで宗教の教義について議論する気はサラサラありませんが、本来の仏教の基本的な考え方は、釈迦がのちに仏教と言われる哲学を見出す以前のインドにおいて長いこと信じられていたバラモン教やその他の土着信仰で、それは宇宙の根本原理であるブラフマンが当時の権力者バラモンと同一であるという思想に基づいて、社会を成り立たせていました。そうした特権階級中心の社会に異を唱えて出てきたのがアンチバラモンである仏教でした。つまり仏教はブラフマンといった「宇宙の根本原理」の存在を否定したところから始まったのです。日本においてはなぜか仏教であるにもかかわらず日蓮正宗と創価学会だけが宇宙の根本原理の存在を主張するブラフマン思想を主張しています。そしてその宇宙の根本原理とは南無妙法蓮華経という言葉に集約され、その言葉を唱えることで宇宙の根本原理と一体化することができて、無常の幸福境涯を得ることができるというのが日蓮正宗と創価学会の基本的な教義となっています。それを仏教ということ自体がおかしなことだと普通は考えられていますが、日蓮正宗と創価学会だけは、自分たちの考え方以外は間違ってるということを主張するので、日本の宗教界の中では完全に孤立してきました。
「何かを信じること」は尊いけれども、「何を信じるか」を他人から強制されるのは重大な人権侵害であるということは、少なくとも今の日本においては言えるでしょう。ではなぜこのように明らかな人権侵害行為を創価学会は会員に強制するのかを、学会員のみなさんは考える機会があってもいいのではないかと私は思います。
上に再掲したおじいさんとおばあさんの物語の中で、おじいさんは小麦粉の薬を飲んだから幸せになったと信じています。おばあさんはおじいさんとの幸せを考え抜いた結果、おじいさんが信じているものを死ぬまで否定せずに貫きました。幸せになると信じて飲んでいた薬がただの小麦粉とだということを知ってしまったおばあさんは、ショックを受けておじいさんにもわかってもらおうと必死に訴えますが、その薬が自分たちを幸せにしてくれると信じきっているおじいさんは、逆におばあさんを信じられなくなります。そこでおばあさんはおじいさんが信じているものを否定しないことにしました。真実を訴えることで自分を信じてもらえなくなるとわかったからです。それではおばあさんは何を信じていたのかという問いかけでもあります。
それが何であろうと自分が信じているものを否定されるのは耐え難いことだと思います。耐え難いだけに否定した人に憎悪の感情を抱くのも仕方のないことだと思います。世界の戦争や紛争の原因のほとんどがそうしたディスコミュニケーションから生じるものだと思います。また、そうした構造を利用して、他国において一部の特権階級にいる人たちにより意図的に戦争や紛争を起こして暴利を貪ってきたのが世界の近現代史だと言えます。そういう意味でも「何かを信じること」あるいは「何を信じるのか」といったことは人間の幸せを左右する大きな問題だと言えます。
このスレッドのテーマは「何かを信じるということ」とさせてただきます。このテーマに関してみなさんの思うところを聞かせてください。よろしくお願いします。