昭和36年1月発行初版 野木治郎著

 

「邪教教団・創価学会」P152〜P160より

 

・・創価学会はこうしてつくられた・・

昭和十二年、創価学会ができた前後の事情を実証する一つの事実は、東京都杉並区方南町在住の柴田登志子・方位学研究家の証言である。もう一つは、ドキュメンタリードラマの『狩野川物語』である。それにしてもこの重要な証言と、もう一つの実録ドラマの内容については、『人間革命』全六巻のどのページを探しても見当たらない。
 

<柴田登志子・方位学研究家の証言>

 昭和六年六月末、一人の男が東京・有楽町 駅前のガード下で、 小さな台の上に木工材工品を盛り上げて売っていました。当時、私は主人と会員制度の『講演パンフレット』という出版物(東京都内で開催される学術・宗教関係などの会議に速記者を出して講演内容を記録してパンフレットにし、会員に配布するもの)を出していましたが、そのために私は毎日、丸の内界隈をセールスや集金するためにまわっていました。
 そんなときの夏の日、たまたま”どうですか、これがあると子供の算術がよくできるようになりますよ”という呼び声をかけられ、ちょっと立止まって、そのものを見たのです。朴の白木造りの青さと同じくらいの蒼い顔色をした中年の男が、口を利くのもけだるそうな声で言いました。その顔は、俳優の伴淳さんのような顔をもっと力を抜いて、いく日も食わずにいるような顔でした。私は、そんな子供がいないので、そのまま丸の内に向かったのです。この栄養失調の男、これが後年、インチキきわまる「宗教」の看板を出して世間をたぶらかすようになった人物-戸田になろうとは、夢にも思いませんでした。
 その年の秋、満州事変が起きました。翌年の二月ごろ、回覧板に満州で国防に挺身する兵隊さんに防寒着を送るため、家庭内にある毛製品の古いものを供出しましょう、無料ではなく一貫目三十銭で買い上げる、と書いてあるのを読み、国家に忠とはこのさいとばかり、まだ使用できる毛ものを抱えて、指定の場所である麹町小学校に行きました。青年団の人がリヤカーで運んでいるのもあり、小学校の講堂では愛国婦人会員の奥様方が供出品を選別しておられました。しかし、これをやらせている人間が、あの夏の日に有楽町のガード下で、変な木工細工を売っていた男と同一人であることには、まだ全然気がつきませんでした。
 その実相は、戸田が自分で考案した子供の算術の勉強に役立つという積木細工みたいなものを作って露店で売りに出したものの、一個も売れないので、制作費の支払いにも困るようになり、恩師である牧口常三郎のところへ相談に行ったのですが、良い知恵もなく、その家の二階を借りていた宮内省のコックをしている人に相談したのです。ところがそのコックさんがしばらく考えていましたが、あなた方に金儲けの道を紹介してあげよう、と言って軍部にてづるを求めて紹介状を書いてくれたのです。軍部ではたまたま民間からウールの古いものを買い上げる仕事をする者をほしがっていたので、ただちに戸田らに委任状を発行したのです。それで戸田らは、すぐに手筈をととのえ、全国にわたり在郷軍人会と警察を通して二回供出させたようです。

 ところでこのころ、戸田、牧口らは朝から晩まで高級料亭で、在郷軍人会長や警察署長などを誘っては美味・美酒・美色(!?)にふけっていたのです。そういうことが、なぜ、できたかといえば、夕方になると、その日の儲けを山分けするのです。供出品のなかの良品は全部横流しをして、悪いものだけを軍部に出したからです。それで、毎日朝から晩まで飲み食いしたのを支払っても、一人分千円以上の利益があったそうです。当時は千円で一軒の家が買えるような時代でした。しかし、二度目の供出が終わると、さすがに品物も少なくなったのです。それでそのころ、東京・池袋に一万円で古寺が売りに出されてあったのを、戸田らは残金で買いました。現在、池袋で常◯寺とかいって大寺となっているのがそれです。

 一方、供出で味を占めた牧口・戸田の師弟は、いくら優秀な品物でも買う相手がいなければ駄目なのだと考えました。たまたま、牧口と戸田の二人は、昭和三年に日蓮正宗に入信していて、牧口常三郎は「利・善・美」とかいう変な価値論を唱えていましたので、それでは世界一のすばらしい宗教という看板を上げて組織をつくることだ、そしてこの組織・集団にもっともらしい理屈づけをして、宗教関係のものを売りつけたり、寄付金などを募ったら、どんどん金儲けすることができるだろう、と考えたようです。
 そこで牧口と戸田が、牧口の唱える人生の最高の価値は幸福であり、それは利益である、といった物質・金銭至上主義の価値論と、日蓮正宗の御本尊の功徳を結びつけて、インチキ・邪教・ゴリヤク信仰の教義(?)をつくり、これによって信者を集め、集めた組織から金を吸い上げて金儲けしようという、たくらみをもってつくったのが創価学会設立の真相なのです。

 ですから、牧口・戸田らが、宗教家ぶりをしだしたのは、せいぜい、昭和九年末か、十年ごろからでしょう。それまでは、そのようなことは全然ありませんでした。

 こうして昭和十二年になっていよいよ創価学会の発会式をあげ、牧口が会長、戸田が理事長におさまったのです。

なお、現・公明党参議院議員のYと、もう一人の同年輩の女性は、戸田の二号ですよ。そのほか、戸田の女ぐせ、酒ぐせの悪かったことも有名です。この戸田に育てられた池田大作は、戸田に勝るとも劣らない悪党です。池田大作とはいつでも対決します。

 

このような柴田証言は、『狩野川物語り』に展開されている牧口、戸田関連の内容とほとんど一致しており、それはまた、現在の創価学会の実態とも一致するものである。

 それでは『狩野川物語り』(昭和三十六年一月刊、著者・野木治郎、発行所・アジア綜合研究会出版部、定価三百円)とは、どういう本であろうか。

 その「序」によると、この本の内容は、あの狩野川台風によって荒らされた、伊豆の自然と人間のありのままのいとなみを主題にした、ドキュメンタリー風のものである。そして著者は、「あとがき」でこう述べている。

 「悲しみに張り裂けそうな胸中を切りさいなまれていくような創作の仕事に、全身の血の総てを傾けて書き続けるほかなかったのです。ある夜半、胸の血が、そのままペン先に流れて文章になっていくような錯覚を起こしたこともありました。書きはじめて忽ち二年の歳月がすぎ、その間、何百人の人々から励ましを受け、生活費、出版費ばかりでなく、妻のはじめたユースホステル経営のため、寝具その他の援助もうけて、ようやく災害のなかから立ち上がることができました。」

 これからみても、この本の内容は、実際の狩野川台風の災害に取材した真摯な実録のドラマ風のものであるということができよう。そして、創価学会に関する部分は、牧口と戸田を軍部に紹介したという、さきの柴田証言にある宮内省のコックさんから著者が聞いた「ざんげ話」にもとづいているので、牧口と戸田が宗教利用の虚業・創価学会をつくる前後のもようを知るうえでの貴重な「歴史的文献」であると思われる。それで、現在、一般には見当たらないこの本の中から、創価学会発足前後の実情を紹介してみよう。

 なお、文中は

 戸田城聖が「城田聖人」

 牧口常三郎が「柿田牧三郎」

 創価学会が「創意教会」

 などと、固有名称でさえも微妙に変えられていることは、この本がでた昭和三十六年当時、創価学会の「言論出版妨害」が、いかにひどいものであったかを物語っている。

 ちなみに創価学会・公明党の「言論出版妨害事件」が表面化したのは、昭和四十四年末から四十五年にかけてであった。そういう私自身

 隅田洋著『創価学会・公明党の破滅』(東北出版社刊)

 福島泰照著『創価学会・公明党の解明』(展望社刊、のちに太陽出版社刊)

 というような、筆名で書いた私の創価学会・公明党についての批判書が、直接、関節に、彼らから大きな妨害をこうむったなまなましい経験をもっている。

 

<本文抜粋はここまで>

 



 ーーーーーーーーーーー

【私の好きなブログ】

 

メンタルを武装せよ!もう騙されるな!

『創What?』 by LIARさん

 

この怒りと愛を受け止めて下さい!

『サラバ☆創価学会』 by 空さん

 

創価に悩める人は必見です!

静かに創価学会を去るために

『対話を求めて』 by シニフィエさん