「アスペのせいで格闘センスにほぼステータス全振りなんだが」前編・~白きエルフに花束を~ |
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第一章・『白の章』 《1》 「オラァ、レイヤァ‼汝いゃー真まっ昼間ふぃるまでー寝にんとーんぐわーしーがぁ?(オラァ、レイヤァ‼てめえ真っ昼間までねているつもりかぁ?)早々起きれェ‼(さっさと起きろォ‼)」 朝一番だというのに、父親に重い一撃を腹に叩き込まれた。 『剛柔流空手・足刀蹴り』 「ぐふぶぇっっ」 嗚呼、また止めどない暴力と、不条理に満ち満ちた一日が始まってしまった。 起きないと更に暴力を振るわれそうなので、布団を蹴り飛ばし、飛び起きる。 「ったく、こうでもしねえと起きねえんだもんな?くぬふらーが!(この馬鹿が!) さっさと飯食って学校に行け!」 急いで階段を駆け下りる途中で、妹と母が神に祈っているのをちらりと見かけたが、見なかった事にしよう。 うちの妹は、十二の齢にしてキリスト教の敬虔な信徒なのだ。 おまけに聖書の【創世記】の始めから【ヨハネの黙示録】の終わりまでだけでなく、アポクリファまでも既に全て暗記していて、その敬虔深さと知識量が認められて、牧師の資格を持っている。 そんな自慢の妹だからこそ、そっとしておいてやろうと思うのだ。 「……それにしてもあんな起こし方はねぇだろ・・・、イテテ・・・」 エクス●ァック!マイファーザ-! 父親に肚(はら)の底で悪態を吐きながら、朝餉(あさげ)の席に着く。 「そういや最近は地鎮祭をやっていないな」 階段を下りてきた我が家の暴君が唐突に耳慣れないことを言い出した。 この父親は、実の息子に暴行しておきながら、何を平然と宣っているのだろうか。 言いたい事は山ほどあるが、文句を言うと正拳が飛んでくるので「ああそうだったね」と、適当に返しておく。 我が家の暴君の顔が引き攣つった。 話に付き合えということだろう。 この幼稚なかまってちゃんが。二連蹴りをお見舞いしてやろうか……などと思ったが、近所の人へ迷惑がかかるので、おとなしく話に付き合うことににした。 「地鎮祭って何だっけ?確かこの辺りのお祭りだったような」 「近所の爺さんによるとそういう事らしい。 あの爺さん、休日の昼間に突然訪ねて来るなり、『居られるかー‼』って神奈川弁だか何だかで玄関先に怒鳴り込んできちまったから、もう参っちまったよ」 「ありゃ、それは災難だねえ。 そんで、その爺さんの用って何だったの?」 薩摩芋としめじの味噌汁をかき込みながら、返事を待つ。 「それがどうも、三社百度参りに参加してくれる氏子を探しているんだとさ」 「ええっ?それって、も、もしかして……」 父は細長く太息した。 「神社前の階段を上って、お参りして、そして降りる、ってのを三社の神社で同時に百回繰り返す……。 今のご時世、とてもじゃないが誰もやらんよな」 もっと言えばうちの家族、つまり風祭家は沖縄からの移住者なので、氏子ですらない。 地元民でなくて本当に良かった。 「氏子じゃないつったら、肩透かし食らったみたいな顔して、すごすご帰って行ったんだよ。 何か悪いことしたみたいな気分になっちまってさあ」 「なるほどねえ。 それじゃ、ご馳走様でしたっ」 食器をシンクに運んでしっかりと洗い、通学鞄を肩にかけて玄関へ向かう。 「行ってきます」 《2》 「ね゛ーぇっ。 返してよ、ほんともう早くもーう、い、や、だあー」 「返してほしけりゃここまでおいでぇっ!」 僕は鉛筆を取り合って追いかけっこを始めた幼稚な同級生に、冷たい視線を投げかけていた。 時々、ここは中学校なのに小学校ではないかと錯覚する事がある。 この出来損ないの溜まり場と化した、教室の風景。全く頭が痛くなる。 ここが特別支援学級であるという位置づけ上、発達障害を抱えた学生の中でも学習能力が低い者が集まるのは仕方のないことだが、どうしてこうも生徒の品位までレベルが低いのか。 「どうにかならないもんかねぇ」 ちゃーならん(どうしようもない)とはこのことを云うのだろう。 全く、溜め息しか出ないではないか。 何よりも奴らときたら、己らが何の悪気もなく授業妨害していることに気づいていない。 何気なくただ、早く放課後になって欲しくて空を見上げる。 「風祭さん、勉強は進んでいますか?」 ふと振り向くと、いつからそこにいたのか井上先生が僕に凛とした声で問いかける。 彼女はこのクラスの初代主任で、以前別の学校で障害児教育に長年携わってきたベテランである。 ロマンスグレーの天然パーマと六頭身がチャームポイントだ。 「いいえ、全く。 奴らが喧やかましいので一向に進みません」 僕は頭を掻き毟り、気だるげにぼやいた。 「こうしてパーテーションで間仕切りしても、かなりうるさいものねえ」 「個人指導制の教室だからできることがあるとは言えど、困りましたよ……」 井上先生は、何か少しでも授業がマシになる方法を考えているようだ。 「あっ、そうだ!」 何か名案を思いついたらしい。 「面白い問題があったんだった!ちょっと待っていて」 井上先生はそう言うと、僕のそばを離れ、教員用のデスクに据え置かれた古臭いパソコンを操作し始めた。 すると窓際に据え置かれたコピー機から、答案用紙が吐き出される。 一体どんな問題だろう? 「この地図を見てください」 机に広げられた答案用紙は、なんとうちの近所の地図だった。 「この地図には三つの神社が記されています。 以下の問題に答えなさい。 問一、神社と神社の全ての間に線分を引きなさい。 問二、問一で出来た地図上の図形の中心を求めなさい。 問三、その中心に地図上では何があるのか答えなさい」 しばらく考えたが、なるほどこれは面白い。 こういう趣向を凝らした問題は嫌いじゃない。 興味が湧いたので一応やってみることにした。 まず定規で線分を引き、問一を解く。 次に三角形の頂点を除く角と角を合わせてそれぞれ三回折り、折り目に沿ってそれぞれの角を頂点とし、底辺の中点まで線分を引く。 狙い通りコンパスがなくても交点をつくり、中心を求めることが出来た。 「やばい、これ超楽しい……」 では、肝心の問三だが、その交点に記されていた地名は。 「『要石の祠』……?」 確かに中心に描いた交点上にはそう描かれている。 「そうです、正解! 良く解けましたね。 実はこの三角形、結界が張られている地域を示しているんですよ」 「いや、まさか」 どうにも信じがたいが、そうはいったもののこれがただの偶然とはとてもではないが思えない。 「この結界の話には続きがありましてね……。 なんでも、この三つの神社でお祭りをすることによって『要石の祠』を封印しているのだとか……」 固唾を呑み下し、井上先生の怪談に耳を傾ける。 「その『要石の祠』は異界へと続いていて、三社祭が行われなかった年の二年後に何人もの行方不明者が出ているそうですよ……?」 「はっさよ!うりじゅんにやいびーが?(えーっ!それ本当ですか?)」 「しっ!声が大きいですよ……! いくらパーテーションで間仕切りしてあるからといっても、ここからの話は誰が聞いているかはわからないんですから」 二人で固唾を呑んで話を続けていく。 「風祭さん」 「……はい」 僕が返事をすると、人目を気にするような素振りを見せた。 怪談なんて秘密にする必要なんてないのに、どうしたんだろう? 「異世界に行く方法が一つだけあると言ったら、どうしますか?」 「え?」 ちょうどそのとき授業終了のチャイムが鳴った。 「もう時間ですね。 そろそろホームルームの準備をしなくちゃ」 そういって僕は机の席から立った。 「そうですね、じゃあ教科書とか片付けておきますね」 こうして帰る支度をするはずだったのだが。 「秘密の話の続きは私の家でしましょう。 住所はここですよ」 そんな言葉をのせて、すれ違いざまに住所が書かれたメモを残し、井上先生は春風のように去って行った。 《3》 三月末ごろ特有の暖気と涼風が同居する微妙な天気の中、僕は少し寄り道をしていた。 「異世界……かぁ」 どうしても、終業間際に井上先生が告げた一言が胸に刺さって取れないのだ。 何よりもあの井上先生が、人目をはばかる様な様子をどうして大げさに見せたのかが不可解だ。 まあ、井上先生が、少々大げさに人目を気にするところを見せた事を隠していたことくらいぐらい、僕とて分かりきっているのだが。 いつもの通学路の途中に先生の家があったことに、今までどうして気が付かなかったのかは自分でもわからないが、とにかく僕は井上先生の家の前で呆然と突っ立っていた。 何故ならば。 「で……っか!」 かなり広大な敷地を持つ瓦屋根のお屋敷だったからだ。 枯山水が引かれた美しい日本庭園には高そうな鯉が泳ぐ池があり、指先一本でも触れようものならそれこそ何百万円もの弁請沙汰になりかねないほどの価値が有りそうな盆栽が、有田焼の植木鉢に植わっている。 ガチガチに緊張しながらも正門前のインターホンを押した。 「はい、どちら様でしょうか?」 「風祭です、お話の続きを聞きに伺いました」 緊張のあまり、柄にもなく謙譲語を使ってしまった。 「あらそう?来てくれて私はとてもうれしいですよ! どうぞ、バ・レ・な・い・よ・う・に・勝手口から入ってね」 「は、はあ」 どうやらよそよそしくは思われていなかったようで、僕はほっと安心した後に言われるがままに井上邸の勝手口へと向かっていった。 《4》 カシミヤのガウンを羽織った井上先生が揺り椅子に座り、優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた。 「いらっしゃい、よく来てくれましたね。 そこにでも掛けて、ミルクティーでもいかが?」 この圧倒的なブルジョア感に気圧されてまたもや僕は立ちつくしてしまった。 このままだと三十分は棒立ちになってしまうかもしれないと思い、「でで、では遠慮無く!」と突飛なタイミングで素っ頓狂な声を上げる。 日本庭園が見える窓辺の席に着き、ようやく人心地が付いた。 「では、本題に入りましょうか」 「はい、望むところです」 そう固くならないで、と微笑む井上先生に、ここまでの豪邸は初めてですし、無理ですよ、と苦笑いする。 「まず、日枝神社、椿稲荷神社、八雲神社の三社で同時に行われる三社例大祭の事は話した通りだと思うけれど、そこまでは覚えていますね?」 首が千切れ飛びそうなほど頷く。 「それならよかった。 これから話す計画を簡潔に話すと……。 一、これからその内お年寄りの方々から、氏子でなくてもいいから参加してほしい、と風祭さんへ依頼されます。 二、風祭さんが例大祭が行われる前に特殊な細工を施した狩衣を着て、要石の祠で神楽を奉納します。 三、私たちが住むこの『陽界』という枝葉に当たる世界から、『陽界』と呼ばれる根っこの異世界へいってらさーい、という訳です」 あまりの突拍子のなさに、しばらく僕は唖然とした間抜けな顔のまま絶句した。 「本当に、それだけで良いのですか?」 「そうですよ、こことは違う世界という場所は分厚い扉で閉ざされているだけで、意外と近くにあるものなのです。 私たちが住むこの宇宙は全部で七つある『陽界』の一つでしかないのですよ」 またもや絶句。 その阿呆面を見た先生がクツクツと笑う。 「まあ、この話を信じろと突然言われても信じられないでしょうし、この話は無かったことに……」 「その話、乗ります」 「しませんよ?」 わざわざ話を遮ってまで取引に食いついたので、その返答に大いにずっこけた。 「その代わりにこのことは誰にも話さないと約束して下さいね?」 「ハイ!」 《5》 下校途中のいつもとは少し違う帰り道。 僕は先生との密談を振り返り、これ以上ないほどわくわくしていた。 「いいことを聞いちゃった……。 フフフフフッ!」 ついに、ついにこの日が来たのだ。 僕は長年『異界の門を開く方法』を探し求めてきた。 空手を極めると決めたのもこれがきっかけだった。 全てはこの日の為に! 「このくそったれな世界を抜け出して、僕は旅に出るぞっ‼」 その為にはやるべきことは山ほどある。 決めた。 「師匠の下へ行こう。 まずはそれからだ」 《6》 僕は道場へ赴いた。着くと一礼し、音を極力抑えて門を開いた。 僕の師匠がいた。 長年にわたり着古された道着、そして黒帯を超えし究極の帯、赤帯をお召しになってらっしゃる。 赤帯とは、空手界に功績を残した達人しか帯びることを許されない『名誉段の証』だ。 このお方こそ、木村師匠。 僕が『この世界で』一番畏敬するお方だ。 僕はやおら、されども突然、師匠の前に跪いた。 「木村先生、僕に八極拳を授けて下さい。 お願い致します」 師匠は沈黙を堅持していた。 「ついにこの日が来たか」 「はい、『探し求めていたもの』が見つかりました」 「そうか。 ……何年続けるつもりだ?」 その言葉は、双肩に千の山に等しい重圧を加えるには十分だった。 この、殺気だけで死にそうだ。 「二年、二年間の全てを、修練に捧げます」 「立て」 「はい」 「来い、見せたいものがある」 「はい、参ります」 師匠は僕を道場の神棚の御前にお連れして下さった。 師匠は二礼二拍手一礼の後、神棚の神にこれ以上ないほど真剣に祈った。 その祈りは僕と先生にとってとても貴いものだった。 「我が弟子に幸を授け賜ります様、畏み畏み申す」 そして師匠が、なんと有ろうことか、神棚の御神体を取り出したではないか。 「師匠……!?」 「よいのだ。 すでにこの時が迫っていることを、私は知っていた。 身は清めてある」 「……はい」 そして、ご神体を開封し取り出す。 「これは」 師匠の手の中にあったのは、呪符ではなく、この道場の秘伝書だった。 「これは……、剛柔流空手の基本にして奥義おくぎである『三戦サンチン』、そして最高位形、『壱百零八手(スーパーリンペェ)』の『上』・『中』・『下』、それぞれを記した教本だ」 「……、壱百零八手(スーパーリンペェ)の、『中』と、『下』は、失伝して久しかったのではないのですか? ならばこれは……」 「そうだ。 流祖、宮城長順先生の直筆だ。 これを世に広めれば、間違いなく空手界の歴史に残る発見となるだろう」 だが、と木村師匠は区切る。 「これを先にお前に授ける、ただし、お前の言う通り二年を修練に捧げ切ってからだ」 「そんな……! 僕なんかにはもったいのう御座居ます!」 「謙遜するな」 「……」 「人を侮る前には必ず自分を侮っているものなのだ。 それは、必ず命取りになる」 「はいっ!分かりました。ありがとうございます!」 「……礼は言わずとも良い。 修練の内容について簡単に説明する。 『壱百零八手(スーパーリンペェ)』と、八極拳を併修し、劈掛掌についても少し触れる。 それでいいな?」 「はい!」 「学校には私から掛け合っておく。 写しは取っておいたから案ずるな。 父上と母上をしっかりと説得せよ」 「はい……! 承知致しました。 先生」 《7》 その日から厳しい修練の日々が続いた。 三戦甕(サンチンガーミ)と呼ばれる石を詰めた水がめを、両手の指先だけで持ち上げたまま 、『四向鎮(シソウチン)』や『十三手(セイサン)』、『転掌』といった上級形を正確に こなしていく。 特に重点的に取り組んだのは、沖縄空手道に古くから伝わる守りの形、『三戦』 だった。 全身の筋肉を意識的に操作し、統合的に引き締めることで、玉鋼の壁の如き揺るぎない防御力と、 竹の様にしなやかな体を手に入れることがこの形の趣旨だ。 爪先で床板をつかむように踏みしめ、足を八の字にずらして膝を軽く曲げて立つ。 うでを外側に構えて脇を引き締め、拳をしっかと握り親指で封をする。 言うのは簡単だが、体の内側に眠る筋肉を総て用いて行う独特な『三戦の呼吸』 は生半可な努力で為せる業ではない。 空手の形には、『分解』、別名『妙技』と呼ばれる数々の技が秘められている。 その一つ一つを、時間が許す限り威力と精度を上げていく。 稽古した形の中でも『久留頓破(クルルンファ)』は想像を絶する程、難解だった。 木村師匠の指導がその形については特に厳しいことも影響し、要求される身体感覚の水準が段違 いに跳ね上がっていたからだ。 僕は我を忘れるほど研鑽を重ねた。 「……エイッ‼‼」 そして『壱百零八手(スーパーリンペェ)』を体得した僕の拳は、半分にして天井から吊るした電話 帳を切り裂くほどの威力を備えていた。 《8》 気づけば二年の歳月が過ぎた。 八極拳をも体得した僕は、免許皆伝の証書を大事にボストンバッグに仕舞い込み、道場の門の 前に立っていた。 師匠と、ついに別れたのだ。 忘れ難い修行の日々について思いを馳せる。 「守破離か……。 僕はやっとここまで成し遂げたんだな……」 感慨深く木村邸を眺める。 「よし……、征こう」 僕は運命の場所へ、そう、要石の祠へと向かった。 ボストンバッグやらキャリーバッグやらに、一週間分の食料品と寝袋、着火剤、拳法着、かるたとトランプ、そして帯と道着と実用性が高いと思われる本を詰め込んで、迷宮の様に入り組んだ路地を抜け、四坪ほどの狭い墓場にたどり着いた。 並び立つ墓、墓、墓。 そして無数の卒塔婆そとば。 その数は、背が波立つほど夥しい。 「ここが……、『此方こなたの岸』か」 その奥に異界へと続く門の役目を担う、苔むした祠が佇んでいる。 今までの二年という長い歳月と、矢の如く過ぎ去った二週間を思い返せば、正に試練の連続だった。 異界へ旅立つ前に、最低限の知識と生存用品を備えておこうと画策していた矢先のことだった。 所属する中高一貫校の、形骸化した進学試験をサボった僕は、何故かそのまま進学できてしまった。 高校の歴史の選択科目で、郷史を選択できた。 これ幸い、とばかりに、今更ながらまともに授業を受けた。 わざわざ近隣住民に頼み込んで聞き込みをする必要が失せてくれた。 渡りに船とはこのことだ。 ―――聞けば、別名『此方の岸』と呼ばれるこの地は、古くから度々怪事が起きることで音に名高かったそうだ。 二年前、特別支援学級の井上先生がこの地について話したように、事実、この周辺では三社祭が行われなかった翌々年に、幾十もの人が不審な失踪を遂げている。 それを裏付けるかのように『此方の岸』には毎年【独りでに墓が現れるという】。 関係があるかは判然としないが、異界に姿を消した者の死霊が、生前の強い怨みを持って『此方の岸』を訪れ、この地の氏子を呪殺すると言い伝えられている。 そう考えるとつまりは。 「……じゃあ、この墓って」 その考えに行きついた転瞬に全身が一斉に総毛立った。 「全部ッ、彼の岸で死んだ者達の、墓なのか……‼」 皮肉にもここは、その惨劇が繰り替えされないように死者を供養する為の場所でもあったのだ。 後退りながら必死に口を塞いで吐き気を堪えたが、言語に化し難い悍おぞましさに耐え切れず、反吐を己の顔や地面に吐き散らしながら頽くずおれた。 「う、げ、ォリョロロロロオェッ、グゴエッ、ゲエッァ!」 胃の腑が捩じ切れそうなほど絞り上がる。 おそらく、あの祠に住まって居るのは。 この世ならざる【魔】だ。 それでも征かなくては。 膝小僧を握りしめ、力を振り絞って立ち上がる。 これは、試練だ。 己の覚悟を試す禊みそぎなのだ。 最後に妹の華へ別れを告げておけば良かった。 そう強く想う。 背後で鞄が落ちた。 「お兄、ちゃん?」 不意に背中へ鈴の声が投げかけられた。 振り返るとブレザー制服を着た華が立ち尽くしている。 オニキスの輝きを湛えた瞳から、滂沱の涙が滑らかな頬を伝う。 「そんな、穢れた所で何やッてんのよォッ!?」 必死の形相で絶叫に近い金切り声を上げて僕の元へ駆け寄り、ありったけの力を籠めて抱きしめた。 「何って、この下らない世界に別れを告げるんだよ」 体中がぐったりとして言うことを利かないけど、何事も無さげに暴言を吐いた。 「この世界が下らない……!?じゃあ、私を含めて下らないって言いたいって事!?」 そんな妹の全身全霊の力を籠めた抱擁が途轍もなく鬱陶しいので、「当たり前じゃないか」と気怠げに呟き、本人の意思を完全に無視して無理矢理引き剥がそうとする。 「ふ、ざけんじゃないよッ‼馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿ァ‼甘ったれた事言うなァッ‼ じゃあ、じゃあっ……‼残された私はどうなるって訳!? あんた、私が自殺したら責任とれるの!? だって私……、お兄ちゃんの事が好きなん……、ぁ」 気づいた時にはもう遅い。 投げつけた言葉は、僕の心へ衝突して弾け飛び、もう帰ることは無い。 「最近、お母さんの部屋に閉じこもって、何か懺悔しているなと思っていたけれど、結局そういうことか。 『君』は、家族にも関わらず【僕の事が異性として好きだった】んだね?」 初めて妹を女の子扱いしてあげたと同時に、空気を読めない僕は彼女の自尊心をズタズタに虐殺した。 「お、兄ちゃん」 血の気が無くなるまで顔を青く染めた愚妹を嗤う。 これでいいのだ。 独り善がりで、なおかつ傲慢な自分を褒めてやりたい。 「……空気が読めていないことは重々解ってはいるけど、【ゴメン、そういうのマジ無理】って言ったら、華は放してくれるかな? たとえ僕が死んだとしても、僕にしてみれば殺したい奴なんて何人も居たからさ。 もうこの世界にはうんざりなんだよ」 「ぃ、ひ、違うッ!あんたの都合なんか聞いていないの‼ 周りがどれだけ心配していると思っているの!?あんたが消えたら」 「だれも後悔しない」 僕は極悪人みたいに嗤った。 僕に縋り付く華を、両手で軽く突き離す。 「よく見て居ろ」 己の指先に犬歯で噛み付き、傷口から血を流した。 そして狩衣の上着を脱ぎ、胸に血の五芒星を描く。 その中心に原始的な漢字で【飽】の字を書いた。 それから口の周りに血を塗り、祠の前に平伏した。 「彼方と此方の狭間にまします幽かな主よ。 此処に渡世(わたらせ)の詞ことばを捧げ奉(たてまつ)る。 吾(われ)の軛(くびき)を砕き給たもれ」 僕は祝詞を挙げ、伝承どおりに滅茶苦茶に踊り狂い、異界の【魔】に詠み人知らず詩を奉納する。 〽 幽かそけき 深みに まします主ぞ 聲こえを聴給たもえ 巡りたる 九十九重(つづらえ)の 籠世(かごよ)の網目を 裂き給たもれ 古の 大門(おおかど)に 三顧九拝 捧ぎけり 其の文 示すや 現世(うつしよ)返る子 喰らふべし 八十八(やそや)の 暁(あかつき)に 呪禁之(ずごん)の血啜(すす)り 盟(ちかい)けり 渡世(わたらせ) 賽之瀬(さいのせ)ぞ 千代に八千代に去り行かむ 手の道 楽土道 いざや彼岸に参らむ 狂舞と渡世唄を終えると、どこからともなく風が襲い掛かる。 その風は空気を一瞬にしてさざめかせ、僕を青黒い業火の内に押し包んだ。 「おにィちゃああああああああん!!」 華の叫号だけが、淀んだ曇天に、高く、どこまでも高く、飛んでいった。 《9》 澄んだ爽やかな空気につつまれ、濃密な森林浴を存分に味わう。 僕は瞼を開いた。 「ついに来たのか」 樹齢五千年はゆうに超えるであろう巨木が鬱蒼と林立している。 見上げればいよいよ高く、枝葉なんてとてもじゃないが見えやしない。 大地は一寸ほどの苔に覆われ、歩けば足跡が付きそうだ。 「ここが、陰界……」 感慨深いものがあるが、そうもいっていられない。 異世界に来れた、それは良い。 だが、案の定、遭難しているともいえるのだ。 「色々と準備しておいて良かった」 日も落ちてきたのだし、夜営の準備をせねば。 唐突に、強く嫌な予感がして、後ろを振り返る。 本能が、誰かの命が終わりかけている事を告げた。 「……何故、人の殺気が?」 転瞬、荷物を全部持ったまま、気配を殺し、殺気を感じた方角へ三戦(サンチン)の歩法を応用して、忍び寄る。 茂みから伺うが、女性一人、男数人ほどがいるという視覚情報以外、得られなかった。 大方察しが着いた。 茂みに荷物を隠し、素早く手近な若木の幹へ上る。 枝葉の隙間から恐る恐る覗く。 「……こいつらッ……!」 最低だ。 詰まる所、この男共三人は、少女の純潔を貪ろうとしている直前だったのだ。 「はい、決まりっ。 こいつら、ミンチ確定だな」 その罪、地獄で償って頂くとしよう。 やおら巨漢の頭目掛けて、跳躍。 『剛柔流空手・跳び膝蹴り』 硬き膝が、名も知らぬ巨漢のしゃれこうべを皮越しに強かに粉砕。 そのまま首がひしゃげて動かなくなった。 おそらく即死だろう。 片手の拳をもう一方の片手で包み、軽く哀悼を捧ぐ。 いわゆる『拱手』と呼ばれる中国の軽い礼だ。 その場の僕以外が全員ポカンとしている。 こういうことは中々言えないので言わせてもらう。 「全日本空手道剛柔会派・剛柔流空手道・第六代目継承者、風祭礼也、参上」 呆然の間をさらに深めた大柄な巨漢達は、やっと目が覚めたのか、僕に「バッゲンッ!」だの「ボッギュ!」だの、凡そ未成年が聞くにあたってよろしくなさそうな異界の罵声を浴びせる。 全く意味が分からん。 恐らくこちらの言葉も、向こうには通じていないだろう。 地面に足を真っ直ぐ叩き付ける。 「招(受けてみろ)!」 『風祭氏八極拳・震脚・冲捶』 「ハッ」 腰に構え、体を横に向けながら放つ強力な突きが鳩尾を直撃、抉る。 『摔(ツァイ)拍(パイ)肘(ジョウ)・剛柔流空手・中段突き』 眉間と股間をはたかれ、重い肘打ちが極まり、止めに中段突きが炸裂した。 突きに一寸勁(チンクチ)を掛けたために起こるダブルインパクト。 山のような体躯が一瞬にして崩れた。 残るはあと一人。 怯えているのかガチガチに防御している。 『風祭氏八極拳・六連閂串破』 敵の防御ごとぶち破る六つの大技「六大開法」を纏め上げた套路を繰り出す。 決め手の頂肘が決まった瞬間。 疲れ果てて目の前が真っ暗になった。 《10》 軋む体が意識を完全に置き去りにしてあーだのこーだの不平を漏らしている。 寝返りを打つと、窓辺から差し込む陽ざしが瞼を透し、僕は目を開いた。 強い太陽光により暫く目がくらむ。 「うぅ・・・、って、え?」 気付かないうちに隣に白い女の子が座っていた。 「っ・・・!!」 僕は驚いて絶叫したいところをぐっと堪えた。 その女の子は、事切れたばかりの死体みたいにカチコチになった僕を見て非常に心配そうな顔をした。 「・・・っふぅぅ」 大きく深呼吸して緊張を解いた。 人さまの顔を見て仰天絶叫するなんて、化け物に鉢合わせたのではあるまいし、ましてや年頃の異性に対して無礼千万ではないか。 少々無理やり起き上がってその子の容姿をはっきりととらえた。 純白だ。 第一印象としては『白』という概念が服を着て座っていたとしか表現しようがない。 時を奪われた滝のように、腰まで届く長い白髪。 足跡一つない雪野原みたいに透き通った肌に、華奢な四肢。 自然豊かな土地柄の影響のせいか、かなり引き締まった体の持ち主のようだ。 白い麻布で仕立てた服はかなり軽装で、首からへそ出しトップスを吊り下げて、更にその下にショートズボンを下げ、その下にズボンの裾が下がっている。 風通しがよさそうで、涼しげな格好だった。 首には太陽の欠片を水晶で包み込んだように燦然と輝やくペンダントネックレスを掛けている。 よくよく見てみると、その子の体には生々しい打撲痕がいくつも刻まれていた。 剥きたての卵みたいに柔らかそうな肌は、無残にも内出血により青黒く変色していた。 まるで、白色そのものに脅かされて生きてきたみたいに、真っ黒な瞳が寂しそうに揺れている。 儚げな雰囲気も相まって、明らかに生い立ち当たりに問題がありそうな類の少女……と、僕は結論付けた。 「・・・もしかして、君はあの時の女の子?」 僕がそう問うても白い少女は不思議な顔をするばかりだ。 だが、彼女はふと何かを思い出したようなそぶりを見せた。 待っていてほしい、と身振り手振りでいうので、うなずいて見せた。 了承したらしく、手すりを伝って幹の上を歩いて行った。 「・・・、それにしてもこの場所は不思議なところだな」 察するにここは木の上に足場を渡して作られた家の類だろう。 幹と足場の隙間に補強が施されており、万が一の備えにあちこちに手すりらしきものが規則正しく設置されている。 あたりの様子を見回していると、先ほどの白い少女が戻ってきた。 何やら重そうな荷物を抱えているが、何だろうと思いきや、何のことはない。 正真正銘僕の荷物だった。 もうこれを見てしまった以上、問い質すまでもなくこの子は僕が助けた女の子だ。 彼女はどうやら、中身が気になってしょうがないのを堪えて、知らんぷりをしているようだ。 もうすでにバレバレなのに、こちらの苦笑いに気付いていないあたりが可愛らしい。 だが言葉が通じない以上は、本当の意味で表情をなぜ隠したいのかは分からない。 理由が僕を警戒しているのか、或いは子供っぽさを取り繕うためかはともかくとして、先ほどの事件は何事なのか聞かねば話になるまい。 言葉なんて通じなくとも、僕が言いづらそうな話を切り出そうとしていることを、器量のいいこの少女はすぐに察した。 何事かを僕に告げ、一個の指輪を取り出した。 銀色に輝くその指輪には、美しいオニキスが嵌め込まれていた。 もし現実に星空の輝きと夜闇の帳を凝縮しダイヤモンドに封じ込められるとしたら、きっとこの様な魔性をその内に込めることができるのかもしれない、と夢見てしまいそうなほどである。 その輝きに魅せられて、薬指を指輪に通した。 「私の言葉はもうわかる?」 頤を弾かれたみたいに顔を上げた。 不安げに引きつった笑顔を浮かべている。 あのようなことがあったせいもあってか、精神的衝撃と頬骨の青痣が邪魔して上手く笑えていない。 「うん、もう分かるよ。 ・・・、でもそんなことより、僕のためなんかに無理して笑わないでいれば、君も僕も今よりは幾らか楽に話せるんじゃないかな。 僕は戦う術があって日ごろ体を鍛えている上に、元々頑丈な体質だからそんなに心配してくれなくたっていいと思う。 でも何より、今の君が怪我をしている僕よりも、ずっと辛そうな顔をしていると思うんだ」 あまりにも痛々しいその姿が無性に悔しくて、そのままこれから彼女の頬を伝うであろう一筋の涙を追うようにして目を逸らした。 俯いたままでも、助けた以上は聞くべきことが確かにある。 今の彼女がどんな気持ちかわかってしまえば、多分二の句が継げぬまま、互いに黙り込んで話を終えなければならないかもしれない。 どう切り出すか暫く逡巡し、口を開いた。 「守り切れなくてごめん。 今言ったセリフやこれから聞くことは本来、通りすがりの関係ない奴がとやかく聞くことじゃないし、言うことじゃないかもしれない。 だけど敢えて訊こう。 なぜ君はあのような連中に袋叩きにされたんだ?」 間髪容れずに「な、何でも、何でもないの!あれはただ」と誤魔化す彼女の声を「僕はただ、君が心配なだけだ」ときつく眉根を寄せたまま、温かい言葉で容赦なく遮った。 「…あ、あは、は。 あ、そうだ! お腹すいていない? この辺に旅人さんが来たのは初めてなの。 色んな話を聞きたいな。 この辺に今夜泊まるところもなさそうだし、家に泊まっていくといいよ! ああ、それと自己紹介を」 《あの話》によほど触れたくないのかあくまでも明るく振舞うその女の子の顔に信じられない物を見た。 「なぜ、泣いている?」 「へ?」 「君、今とっても自然に笑っているはずなのに、なぜ笑いながら泣いているんだ?」 目を据えたまま、彼女は頬をなぞった。 「……嘘」 そのまま紙のように真っ白な少女は緊張の糸が切れたみたいにくずおれた。 《11》 うずくまり泣きじゃくる女の子を前にすると、男はこれほどまでに無力なのかと身をもって思い知らされた。 ここまで人様を泣かせておいてのんびり人の家で養生させてもらえるほど流石の僕だって無神経ではない。 とっくにハンモックから転げ落ち、足場が抜けかけたが如き錯覚に陥ったことなど、今の事案に比べれば、僕にとっても些細なことでしかない。 宥める手立ても、近寄っていいのかさえも分からない。 「どうしようっ、どうしようッ!」 偏った自前の脳みそと、そよ風だけが虚しく空回りしている。 当たり前だ。 僕のように、自分自身の癇癪すら納められない粗暴な拳法家などに何が出来ようか。 家主を泣かせた以上は僕にこそ責任があるのだから、どうにかせねばなるまい。 「ええと、そうだ、心理学の本はどこに…。 ああ、これだ。 ええと、興奮時の対処法は・・・」 かなりぶ厚い心理学の書籍を、目の前の白い少女が返してくれたボストンバッグから慌てて引っ張り出し、少女を宥める方法を探すためにひたすら目次を指でなぞる。 すると、ある項目が目に留まった。 《ゆっくりと話し、ゆっくりと行動してください。 それだけでも大分落ち着きます。 また、対話により理性や深層心理に働きかけることも効果的でしょう》 本をゆっくりと閉じて、少女のほうを向いた。 「・・・大丈夫?」 その女の子が凄く可哀想で見ていられなくて、僕は優しく問いかけた。 あくまでも、そっと心の傷に触れぬように、ゆっくりと訊ねた。 嗚咽を漏らしながら彼女は顔を上げた。 目元に限らず、顔全体が涙と呼吸器系の色々なものでびしょびしょに濡れていた。 おそらく、この幼気な少女をこれほどまでに泣かせた大人は、あの程度の人数ではなかろう。 悲しくてやるせなくて、ただただ腹立たしい。 返答を待つ。 「・・・『ダイジョウブ』って何?」 「え?」 今何を、言ったか分からず聞き返した。 「そんな言葉、聞いたことない」 その瞬間僕は悟った。 この少女をこのままにしてはならない。 もし、彼女が『安全』を意味する単語をだけを知らずに生きてきたのだとしたら。 「じゃ、じゃあさ。 『安心』とか、『ホッとする』とかって聞いたことはある?」 その娘は即座にかぶりを振り、「知らない」と呟いた。 やはりそうだ。 この子は生まれてからほぼ一度も安全な環境に身を置いた事がないのだ。 「変な事を聞いて悪かった。 それと、君さえよければなんだけれど・・・。 君を守らせてくれないか?」 その子は呆気に取られたまま硬直した。 「守るって、私を?」 少女は自分の鼻を指して、間の抜けた声色で僕に尋ねた。 「命を助けてくれたお礼だよ。 何よりもあんな目にあった女の子を捨て置くなんて、僕には出来ないよ。 どうだろうか?」 白貌の少女はボーっと僕の目を見つめている。 僕もその目を見つめ返した。 「私のことを、一生守ってくれるの?」 かなり厳しい質問だが、ここでそれを尋ねられて怯むような僕ではない。 「そうだよ」 「どうして?私は人間じゃないのに、化物なのにどうして?」 「君が自分を化物と呼ばなければいけないほど、苦しんでいるからだよ」 その女の子は何かに取り憑かれたような目つきで、僕の目をじっと見つめる。 そう、こういう状況を浮き世の人々はこう申すのであろう。 曰く、魅了されたと。 そして彼女はすくっと立ち上がり、僕自身にまるで吸い寄せられるように歩み寄り。 「っ!」 ひしと抱きしめた。 この突飛な行動自体に、それほど驚かなかった自分自身に寧ろ驚いたというべきか。 想定内ではあったが、まさかここまで積極的な反応を示すとは内心意外ではあったが。 そして彼女は自分の覚えている限りの悲惨な生い立ちと、両親との離別や凄惨な迫害の数々を涙ながらに支離滅裂なまま語り、ただただ今までの苦しみを全て吐き出した。 聞くだけでも胸が串刺しにされそうなくらい、辛い思いが伝わってくる。 だがしかし、その子の酸鼻極まりない過去を聞いて悲しむ自分がいる一方で、こうも考えていた。 不謹慎なことに《ビンゴ!興味深い研究課題ゲット!》と考えていたのだ。 人間らしい当たり前の感情を司る脳みそが働く一方で、知的好奇心に任せて「では実際どうすればこの哀れな女の子を救えるのだろう」などと全く別のことを考えていた。 後で『考え方が機械みたい』等と軽蔑されないように。 ただひたすら人間味を加味したうえでスーパーコンピューターじみた処理速度で、現実的解決策を考え続ける。 僕は事実上彼女が語る過去を感情的には受け取らず、その記憶の一つ一つを頭の中で細かく仕分けていた。 ひとしきり主要なインシデントや諸々のケースについてカテゴライズが完了し、常軌を逸した速さでそれらのデータベースが、ハイパーリンクとして関連付けられた。 いわゆる、《インストール完了》だ。 有機物である上に、人間という生物である僕の脳みそに対してこの語用は弊害を生むだけだ。 なので、口には出さないことにしている。 全く、サイボーグじみた機械的な考え方しかできない自分自身に吐き気を催しそうだ。 そして少女は涙と諸々を拭い、アーモンドの花のような笑みを咲かせた。 「こんな、化物の私のためなんかに、ありがとう」 化物はきっと君などではあるまい。 そう言いかけて、ぐっとこらえる。 人生を救われて幸せそうな顔を見せている人が目の前に居ても我慢できずに。 「その顔を見ても何とも思わない僕のほうが、ずっと、おぞましい化物だ」 彼女が変性意識の渦中にある事を自分への言い訳にして、ひそりと呟いた。 《12》 このツリーハウスに住んで三日は経つだろうか。 慣れないことはかないあるが、中でも一番驚いたことは「食事の際は手づかみで食べるのが常識」だった。 とにかく、熊肉を焼いたのでも山菜の盛り合わせでも何でも手で食べるので、何を食べてもおいしかった。 彼女は自然の恵みを直接取り入れて生きて来たのだと毎回実感する。 ある日の夕方。 夕飯時なので食事の準備もそこそこにしてさっさと飯にすることにした。 頂きますもご馳走さまもなければ、食器もないので至れり尽くせりだ。 少女は大葉みたいな香りを放つ大きな葉っぱで挟んだ、熊肉の丸焼の欠片をはむはむと頬張っている。 人が食べているものをじろじろ見ないのがマナーらしく、ずっと黙って食事を楽しんでいたのだが、 僕は何かを忘れている気がして、少女にこう切り出した。 「・・・そういえばさ。 君の何かを聞き忘れている気がするんだけどな・・・。 なんだろう?」 ちらりとこちらを一瞥して、飲み込む。 「わからないけど、なんだろうね?」 「あ、思い出した」 「何?」 「君の名前だ」 少女は妙ちきりんな顔をした。 およそ形容するのが難しいであろう変な顔をして、一言。 「名前って何?」 「言うと思った」 「旅人さん、また面白い話を聞かせてくれるの?」 「うん、まあ君からすれば面白い話だね」 「聞かせて聞かせて!」 こんな風に瞳を輝かせ無邪気に話をねだられると、どんなにありきたりなことでもつい話したくなる。 「じゃあね、君は何時も熊のことは何て呼んでいる?」 「え? 普通に熊って呼んでいるよ。 でもなんでそんな事を聞くの?」 女の子がこてっと小首を傾げる。 「それも名前の一種なんだけど、実はね、人間には一人一人違った呼び方があるんだ。 それが名前だよ」 「ああ、そのことね。 じゃあ、私でいうと『名前』は何だろう?」 「お父さんやお母さんに何て呼ばれていたかによるね。 昔、君を生んでくれた人や育ててくれた人には何て呼ばれていたの?」 女の子は水を溜めておいた小がめで手を洗ってから考え込んでいる。 髪を人差し指に巻きつけては解いて、巻きつけては解いてを繰り返すのが彼女の癖らしい。 「アイリーンってよばれていたよ」 「え?」 「だから、アイリーンだってば」 かなり流暢な発音だったが、どうやら人名に関して指輪の翻訳効果は無いらしい。 「へえ、綺麗な名前だね。 宜しくね、アイリーン」 初めてアイリーンの名前が聞けて嬉しい。 名前を呼ばれてまんざらでもないのか、アイリーンははにかんだ。 「ま、まあ、よろしく」 そっぽを向いて照れ隠ししている。 ツンデレ万歳である。 「じゃ、じゃあさ、旅人さんの名前は?」 「僕の名前は、風祭礼也だよ。 レイヤ君って呼んでね」 自分から君付けで呼ばせるのは、デリカシーとしてどうだかは置いておいて、僕は常識を教えることを優先した。 「あれ? なんで、《クン》が付くの? あなたの名前はレイヤでしょう?」 アイリーンは不思議そうな顔をする。 「ああそれね。 普段仲のいい人同士では、本当の名前で呼ばないことが多いんだよ。 親しみを込めて別の名前で呼び合うのが名前の面白いところでね。 その一つに、男の子には《君》、女の子には《ちゃん》、ちょっと距離がある人や少し目上の人には《さん》、物凄く偉い人に対しては仲が良くても悪くても《様》とかを付けることが多いね」 「へー、面白い! じゃあ、これからは《レイヤ君》って呼ぶね。 宜しくね!」 「ああ、宜しく」 和やかに笑いあって、僕らはその日の夕飯を締めくくった。 《13》 「うぅっ……」 冷たい風に煽られてすっかり目が覚めてしまった。 「おかしいな……?」 大分獣の毛皮などを着込んで寝たはずだったが、やはり樹上にハンモックを張ると勝手が違うものなのかもしれない。 異世界なだけあって、気候そのものが根っこから違う代物なのだと納得することにした。 ふと、何気なく外に目を向けてみる。 思わずため息が出た。 何故そんなことを言えるのだ、と誰に問われようとも、初めてこの光景を目の前にして何も思わずにいられるものなど、果たして存在するのだろうか、と問い返したくなるのが人情だろう。 そこには、朧月に優しく照らされた大草原が広がっていた。 理屈がどうこうではない。 風と共に波のように舞う我こそが正に陸の海と呼ぶに相応しいのだ、と見るもの全てに語りかけていた。 「…………」 悠久の時が草原を流れていく。 「草原、か」 遠く彼方に忘れ去ったはずの歌が聞こえる気がする。 その曲の名は、『サトウキビ畑』。 「ッ……」 もしかしたら僕は、こういう光景なんて思い出そうとすら、したくなかったのかもしれない。 ましてや、沖縄のことなんか。 「クス(クソ)ッ!」 何でこんなときにまで、うちなーぐちが口を突いて出るのだ。 訳がわからない。 「……山羊乳でも飲むか」 因みに何処に食べ物がしまってあるかは当然ながら僕などに知る由もあるはずがない。 上の幹に架けられた梯子を登り切り、瞑目。 きれいな風を肺に閉じ込めて、息を吐く。 そっと目を開くと、アイリーンが観月していた。 それも独りっきりで、三角に体を抱きよせている。 何となく近寄りがたい空気を醸し出してはいたが、ここは敢えて声をかける一手に限るだろう。 「……そんな所でしょぼくれて、どうした? アイリーン」 声をかけても返事をする様子はない。 座ってもいいか、と聞くのさえためらい散ざっぱら悩んで、ようやく僕は隣ってもいいか、と尋ねられた。 草原に小さな津波が駆け抜ける間、僕らは黙っていた。 「話、聞きたい?」 「ああ、君のことなら何だって聞きたい」 「なら、一杯付きあってよ」 「分かった」 アイリーンの側へ歩み寄り、隣に座った。 アイリーンは、顔も見ずに僕の側にコップを置いた。 何となくアイリーンの方を見るのが無粋な気がして、黙ってコップを受け取る。 中身はキンキンに冷えた山羊乳の筈が、……仄かに酒精が鼻をくすぐった。 「『カーフィャ』っていう子供用のお酒。 お母さんが生きていた頃、よく作ってくれたんだ」 彼女はうなじが見えるのも構わず、水差しから無骨な木杯にカーフィャを注ぎ、一気に煽った。 「ふぅ……」 アイリーンの目はここではない何処かを見ていた。 恐らく知識や経験なき者には『考える人』の像のような眼差しにしか見えぬであろう。 だが、それは見当違いそのものだ。 実際の『考える人』も今、目の前にいる少女も、本当は『地獄を見つめる人』であることを、この世界の人は僕以外誰も知らない。 「それで……一体、あれは何だったのさ?」 僕の発言にアイリーンはゆるゆると首を振り、やけくそ交じりにカーフィャを飲み干した。 「今度こそは聞き逃すつもりはなさそうね?」 歯軋りしながら苦々しげでいて、不安そうに悪態をつく。 「当たり前だろ? 話を聞きたいか、って持ち掛けたのは君のほうなんだからさ」 僕としては手厳しいやもしれないが、こう言う他はない。 沈黙の灯火をかき消すみたいにため息をついたら、やっと口を開く気になったようだ。 「私は家族がいない」 「そうだろうな。 でなけりゃ、あんな物言いなんてするわけがない」 「一言余計だと思わないの?」 辛辣な一言に正直立つ瀬がない。 素直に頭を下げる。 「済まなかった。 それで?」 「私が幼いころ、ムラが一斉に焼き払われて沢山の同胞が死んだわ。 必死に逃げ回って、両親を探したけど……。 その肉の山の一部になっていた。 兄弟姉妹も何処で暮らしているか見当もつかないままここで暮らしているの。 何故だか分かる?」 「大よその想像はつくよ、……迫害を受けたんだろ?」 よくわかったね、と目を丸くするアイリーン。 僕はその大袈裟な顔つきに、不謹慎と判っているのに思わず微笑んでしまった。 「そうだよ。レイヤ君の言う通り、人種差別が元で私達は迫害を受けたの。 私達は『白の帝国』という強大な都市国家を作り上げた、白エルフと呼ばれる一族の末裔。 200年の時を生き、食べたもの全てを魔力に変えて生きる気高き魔人と呼ばれていた。 そう、550年前まではね」 一体、550年前に何があったのか。 思い当たる可能性としては……。 「戦争を吹っ掛けて負けたとか?」 アイリーンは疲れ切った様子で弱々しく頷いた。 「正確には、王家の中から適性がある者を引っ張り出して、全てを破壊する神の真名・・・。『ゼ・ノン』という名前を付けてその人を破壊神へと変えたの。 そのまま諸外国に戦争を吹っ掛けて大地の隅々まで滅ぼしてしまった・・・。 そして、破壊神に大地と星を繋ぎ留めておく竜脈というエネルギーを全て注いでしまったの。 繋ぎ留めておくエネルギーがなくなった大地はバラバラになり、天空へ浮かび上がっていった。 そうして出来たのが私たちが今立っている白の大陸と四色大陸なんだ」 成程、脱線したけどよく理解できた、と僕は思った。 「それにしても、そんな事まで出来るほどの人類が今はあの扱いか。 進化したところで何処の人間様もやるこたぁ変わらないな。 つまりだな、その首から下げているペンダントも、何かそのことと関係があったりするのか?」 アイリーンはいいえ、と言って首を振る。 「分からない。 一番上のお兄ちゃんとはぐれた後に、目が覚めたら何時の間にか首にぶら下がっていたの」 「確かに訳が分からないな。 手に入れた覚えもないものが、手元にあるなんてさ」 「そうね、だけどこれを身に付けていると何故かお兄ちゃんが側にいる気がして……、安心するの」 「あ、最近まで知らなかったのに、今『安心する』って言えたね?」 「そうだね、やっと言えた」 ほんのりと酒気を帯びたままクスクスと幸せな笑みを浮かべ合う。 「さて、もう寝るか」 コップを片付けようとしたその時。 「……? あの鳥、こっちに向かってくるぞ」 遠方より足におかしな物が括り付けられた鷹が飛来してきた。 「ああ、この子はきっと伝書鷹だよ。 お疲れ様、少し休んでいてね」 アイリーンが伝書鷹に餌をやっている間に、僕は鷹の足に括り付けられている手紙を取り外して読み上げた。 『前略 アイル・イン様へ 貴女様のご兄弟の内、長男ケイ・イン殿の所在が判明いたしました。 破壊神ゼ・ノンの力に取り憑かれており、各地に災厄を起こす可能性があります。 《真風第三教会》にて緊急会議を開きますので至急此方までお越しください。 フォエイタンス真風教支部 レノ司祭より』 「……ふーん、そうなんだ、何とかしなくちゃなぁ」 僕はアイリーンの耳がピクンと動くのを、目の端で捉えてしまった。 「………………………」 「あの、アイルさんでいいのかな、アイルさん?」 「……………………なに?」 「どうして黙々とそのでっかい袋におそらく旅に必要そうなものをよりにもよって今、袋に詰めているんだい?今何時だと思う?」 アイルはガキッと石像のように固まり肩をわななかせた。 「あれ、大丈夫?薄着だから寒いのかな、上から毛皮持ってこようか?」 それでも返事はない・・・なんかいやな予感がする・・・あ、もしかして怒って 「いい加減にしてよッッ!!」 鼓膜が張り裂けそうなほどの大音声が僕の脳みそに突き刺さった。 「どうして、どうして、まだ生きているかもしれないお兄ちゃんが生きていたって書いてあった時点で旅支度を手伝ってくれないの!? すぐ来てほしいとも書いてあったし、空気を読めばすぐわかるでしょうがッッ!!」 り、理不尽すぎる。こんなのあんまりだ。 「そんな一瞬で空気なんて読めないよ!!いくらなんでも無茶苦茶だ!!」 「……ッ! ……いいわ、仮にそれを許したとしましょう。 それでも、さっきのセリフは何なの? 私のことなのに、あなたのさっきの口ぶりだとまるで他人事じゃないのッ!!」 「ま、待ってくれ、落ち着いて話を」 僕の言い分を全く聞こうともせず話を遮るアイル。 「レイヤ君は私のことを一生守ってくれるって言ったよね? でもあなたの言動や行動からはやる気が感じられな」 「僕は片輪なんだよッッ!!」 ふたたび、アイルは氷の彫像のように硬直した。 「な……んですって……?」 池に氷が張ったかのように張り詰めた緊張感が辺りを支配した。 「僕は、生まれつき脳ミソの何処かに小さな傷があって……出来ることと出来ないことの差が激し過ぎるのさ。 社会で生きていけないくらいに」 心臓が弾け飛びそうなほど鼓動を刻んでいる。 頭の中を不安というウジ虫が這いまわっているみたいだ。 「守りたい人が側にいても、どんな気持ちでその顔を見せているのかすら分からないッッ!! 傷つけてしまってからでは遅いと分かっていても・・・、どうやったら悲しませないで済むのかだって何一つ分かりゃしない・・・。 そして、やがて独りになる。 この、気持ちが、君に分かるのかァッッ!?」 涙で顔がグシャグシャになったまま、声の限りを尽くして叫び散らした。 肩を上下させて息を荒げる両者。 やがて息が鎮まり、二人の間に、また草原の風が通り抜ける。 「分かるよ、その気持ち」 「え」 意外な答えに不意を突かれた。 「分かるよ、私も同じ気持ちのまま独りになったから」 ……あれほどの不幸があったあとなのに、それでもまだこの少女の身に辛い過去があったというのか。 なんて薄幸な子なのだろうか。 「私ね、ドレアっていう男の子とサリーっていう女の子と友達だったの。 ドレアもサリーも全然別の人種だったけれど、すっごく仲良くしてくれた」 「……うん、それで?」 僕の控えめな促しに対してアイルは小さく頷いた。 「でも、近くの森の花畑で遊んでいたら夕日が見えるころになっちゃって、帰ろうとしたら山賊に襲われてしまったの……、そして今気が付いたら、私はたくさんの木々がなぎ倒されて出来た広場に傷だらけで倒れていたんだ」 「はぁ!?一体それはどういうことだよ?気絶するにしては原因として軽すぎるし、普通そんなのあり得ないだろ……?」 「レイヤ君が言ったとおりの事をその時の私も感じたよ。 必死になって二人を探したわ。 でも、……二人は血だまりの中で冷たくなっていた」 山賊に殺されたのか、と僕は聞いたが彼女はかぶりを振った。 「山賊も近くで同じように死んでいた。まさか、と思って口元を拭ったら」 動悸が激しくなる。目の前が霞む。頭がクラクラして、きっとこの先を聞けば卒倒してしまうかもしれないという不安に襲われる。 「ドロドロの人の血が沢山手に着いたの」 「な、ど、どうして……」 「大怪我をして意識を失い一時的に魔人になった私は、防衛本能によって代謝が爆発的に上がって、そこら中の物を『人ごと』魔法で魔力の塊へ変えて、食らいつくした……。そのときようやく事実に気が付いたの」 絶句、の一言に尽きた。 「その場で一晩中泣き続けたよ。 此のまま人とかかわり続ければ、何時かまた人を殺してしまうんじゃないかって、それだけが怖くて、大切な友達を何で殺してしまったんだろうって、毎日自分を責め続けた」 酒が回ってきたのか意識が朦朧として、頭に鈍い痛みが広がるのを感じる。 固く口を引き結び、涙を堪えるその姿に何と声を掛ければ善いのか分からなくなってしまった。 山羊乳酒の匂いが今だけは何故か物悲しい。 「ドレアとサリーの村の人が一辺に押しかけてきて、私にリンチを掛けたあの時の事が……、今となっては夢に出るくらい忘れられない。 だから、レイヤ君の気持ちが私にはよくわかるよ」 そして彼女は製パン用の木槌を、キッチンから持って来て柄の方を僕の方へ向けて足場に置いた。 「ん?な、何を」 そして何と平伏したではないか。 「そうとは知らずに酷いことを言って御免なさい」 これは、この世界で言う土下座のようなものだろうか。 こういうときどう対応したらいいのか困惑していると、「許してくれるなら、木槌を逆さにして下さい。許す気も怒る気もないなら木槌を蹴っ飛ばして下さい。どうしても許せないなら、三度までならどんなに叩かれても甘んじて受け入れます」とアイルは告げた。 暫く逡巡して、ならばと、僕は木槌を手に取り振り上げ――――――――――――――――――――――-、アイルの頭を軽くコン、と叩いた。 「これで勘弁してやるよ」 その僕の言葉にアイルは神様でも見上げるみたいに、僕の顔を覗き込んだ。 「……本当に?」 「おうとも。突然土下座なんかするんだもんな。全くびっくりさせるなよ」 僕は涙を豪快に拭い、ニカッと屈託なく笑った。 「本当に、良いの?教会の手紙の事で散々怒鳴り散らしていた私にあんなに怒っていたのに、こんなにあっさり許してくれて……レイヤ君の気は済んだの?」 アイルの未だにお仕置きを受ける前の仔犬みたいに震えている姿を見て、僕は愚問と言わんばかりに笑い飛ばした。 「なんだかんだ言ってもお互いデリカシーが足りなかったのは事実だし、タダで許すのもしゃくだからこれぐらいで許してやるってだけの話だよ。 気にすんな!」 俯き加減のまま彼女の体の震えはますます増していく。 さっきとは別種の嫌な予感がする……。 「……あ、あの~、アイルさん?」 「……レイヤ君、大好きっ!」 アイルが勢いよく僕に抱き着いてきた。 余りの衝撃に、堪らず床に倒れ込んだ。 「どわぁ‼は、離せ、色んな意味で堪らん、離してくれよぉ!」 アイルの控えめな胸がモロに僕の胸に密着しているし、体重が僕のアソコに掛かってマジで痛い、痛すぎる!! おまけに僕のソレを体重がかからないようにどけようと手を伸ばせば伸ばすほど、アイルの下半身に間違って触れそうになる。 まるでそういうことをしてるみたいで、無茶苦茶恥ずかしい!! 「私、レイヤ君が大好き! 好き、好きっ!大好き!」 バニラエッセンスと胡椒を混ぜたような甘くてスパイシーな体臭が、嗅覚をこれまたモロに刺激する。だが、今の状況ではこれが女の子の香りなのか、と感動する余裕さえないではないか。嗚呼、勿体無い!と心中で絶叫する。 「ぐえぇ、解った、解ったから離してくれぇ……」 「嫌っ!離したくないもん!私、レイヤ君を愛してる!そうよ、友達としてね!だから大好きーっ」 どんなに懇願しても依然として僕の顔に頬ずりするアイル。 どうやら暫くの間は離してくれる気はなさそうだ。 アイルのするがままに任せていると、何時の間にか彼女の動作が鈍くなり大きな欠伸をして、すうすうと息を立て始めた。 どうやら、寝てしまったらしい。 「……全く、可愛すぎだろこの子は」 安らかな寝顔がどこまでも愛しくて、思わず笑みがこぼれる。 「僕も大好きだよ、アイル」 優しくアイルを抱き締めて、僕も共に眠りに着いた。 第二章・『赤の章』 《1》 明くる日、僕はアイリと、森の小道をひたすら歩いていた。 「……キツイ坂道だな」 心地いいはずの風が汗だくの僕らの体を寒からしめる。 「……教会の用事とはいえどうして私がこんな目に……。 うぅっ、散っ々心配したのに全部あのクズ兄が破壊神なんかになったせいだ……」 純白の少女、アイルが僕の横で破壊神となってしまった(らしい)兄、ケイにぶつぶつ恨み言を言っている。 彼がこの大陸のどこかで災いを振り撒こうとしている、という話には最初こそ驚かされたが、昨晩のアイルの独白が僕にはどうしても嘘には見えなかった。 ぼんやりと空を眺める僕を尻目に、アイリは我が身を抱いて眉を顰めながら涼風に震えた。 ピりついた空気にいたたまれなくなり、彼女に何事かを告げて宥めるべきだと僕は判断した。 「まあまあ、仕方ないじゃないか。 起きてしまったことはどうしようもないんだし、これからどうするかを考えよう」 はぁ、と一つ溜め息をつくアイル。 「まぁ、そうだね……。 レイヤくんの発作を治める方法が見つかるかもしれないしね。 もう、昨日は本当にうるさかったよ……。 これが仕方なくないことだったら許してないんだからね?」 「確かに。 よくあんな奇声を我慢してくれたと思うよ。 本当にありがとう」 済まなそうにお礼を告げるとアイルは拗ねて、そっぽを向いてしまった。 「全く、勘弁してよね」 ぷんぷんという擬音が似合いそうな様子で、少し不満が籠った視線を向けるアイルと、恐々として縮こまり苦笑いを浮かべる僕。 「そろそろ、教会へ着くんじゃないか? ほら、あそこ」 僕は持っていた地図から顔を上げ、坂の上を指差した。 経年劣化のせいだろうか。 元々は純白だったことが伺える、古びた教会がそこに建っていた。 宗教的な装飾や彫刻がなされており、とても怪しげだ。 こんなところに入って大丈夫なのか、という思いが頭をよぎったが、疲れすぎて今はそんな事などどうでもいい。 僕らは棒になった足で坂をやっと登りきったが荷物を投げ出し、へたり込んでしまった。 「「 つっかれたぁーーーーーーっ……」」 背後に着いた手がジャリジャリした砂の感触を伝えた。 長い間、馬車馬のごとく歩いたおかげで体が悲鳴どころか、疲れを嘆く歌を絶唱している。 玉のような汗をかいたアイリは、同じく隣に積んだ汗まみれの荷物に枕してうなだれていた。 「なあ、アイル……。 僕、もう疲れたから魔法で風を起こして立たせてくれない? もう体力が限界だからさぁ…」 僕が気力を振り絞って言うと、アイルはやれやれといったふうにかぶりを振った。 「レイヤ君ってば、何を言ってるの? 私、クタクタなのにレイヤ君みたいに重い人は起こせないよ」 「え、そうなの?」 すっとぼけた返事にアイルはなぜか呆れ果てている。 「私が疲れてるの見ればわかるでしょう? それに、磁力魔法が使えるようになったからってはしゃぎすぎ!」 「あれ? 僕ってそんなにはしゃいでいたっけ」 どうもその辺の記憶がない。 「はしゃいでましたっ! だいたい魔子操作の限界を無視しすぎ! 崖から崖へ曲芸師みたいに飛び移ったり、大岩を浮かべ上げて空中で振り回したり……、さすがに呆れちゃったよ。 さぁ、わかったら自業自得なんだから自力で立ちなさい!」 僕はすげなくアイリに断られてしまい、すっかりたじたじだ。 「でも、君と同じ事を僕が言ったら、ちゃんと立つの?」 「あら、か弱い女の子に荷物を全部持たせておいて、何を言ってるのかしら? こんな荷物さえなければ、とっくに立ってますよーだ」 アイリは目尻を横に引っ張ってあっかんべーした。 熊を数発で殴り倒すような体力を持ってるくせに、何を言ってるのだろうか。 とはいえど、可愛い女の子に勝てないのが男のつらいところだ。 「分かった、分かった、自分でやるよ……。 『ウォ・ラハ・ドルデ・ステン・ジンガ』」 僕は疲れた体に鞭打ち、気怠けに立ち上がりながら、オウムが歌うように呪文を唱える。 すると足元に転がっていた拳大の石ころが浮揚した。 それにしても道中で、散々自分に合った属性を調べては練習したが、何故こんな物理法則を無視しているようにも見える現象が引き起こせるのか、謎だ、謎である。 「あのさ、魔法ってどういう原理で発動しているの?」 「そんな事も知らないの?……全く、仕方ないわね。 いい?大気中の魔子っていう元素が空気振動によって他の元素に干渉するの。 それを人為的に引き起こすのが魔法なんだけど、今みたいな特殊な発声法じゃないと発動しないわけ。 上手い人だと、無音詠唱って言ってなぜか呪文なしでも魔法が使えるらしいけどね」 「へー、そうなんだ。 不思議なこともあるもんだねえ」 「うん、たまにそういう天才がいるらしいんだけれども、滅多に見かけることは無いと思った方が良いよ」 アイルは感心する僕を見て、こんなこと当たり前なのに変な人、と妙な顔をして呟いた。 話が済んだので早速鉄扉を三度程叩いた。 ゴウン、ゴウン、ゴウンと、重厚な金属音が轟いた。 余りの轟音に思わず二人して固く耳を塞いだ。 すると中から何者かの扉へ駆け寄る足音が聞こえた。 「合言葉は?」 「白き風の行くままに」 「お入りください」 中の人にアイリから聞いた合言葉を即答すると、内側からかけられた鍵が耳障りな金属音を立てて開いた。 僕は渋るアイリを立たせて、重い扉を押し開いた。 そこに立っていた者は中肉中背の三十路後半くらいの男だった。 青く縁取られた白い牧師が着そうな服を着ており、種族は見たところ黒エルフだった。 鋭い切れ長の目だが、瞳には優しく穏やかな光が灯っている。 この人が手紙の主、レノ司祭なのだろう。 「お待ちしておりました。 我らが真なる鑑、アイル・イン様」 その司祭は風を表すように宙を掻き、拳を胸に当てて頭を垂れた。 それにしても妙な宗教だ。 先祖崇拝なら聞いたことあるけど生きてる人間を崇めるなんてほとんど聞いたことない。 それにそもそも彼女とっては、そんな呼び方でいいのだろうか? 少し戸惑いを隠せない僕の様子に、彼女はその困惑を感じ取ったのか、気遣わしげな視線を僕に送る。 お互い気まずさを誤魔化すように苦笑いした。 司祭は初めて僕の存在に気がついたのか、手を後ろに組み、僕を値踏みするような眼で眺める。 「アイル様。 何故このような怪しげな小童を連れてこられたのかこの無知なる私にご教示いただけませんか?」 僕を不審者だと勘違いしたらしく、司祭は僕をジロリと睨みつけた。 「あら、レノったら私の一番の友達が発作で苦しんでいて困ってるから、 薬草を分けてもらいに来ようとしたのに随分なご挨拶ね? このお礼は後できっちり返してあげるわ」 「な、なんですとっ!? 申し訳ありません、アイル様! そ、それだけはご勘弁を」 「そうねえ、レイヤ君にきちんと謝ってくれれば考えてあげてもいいわ」 「承知致しました。 小童などと宣ってしまい大変失礼いたしました、レイヤ殿」 アイルが目配せを送ってきたが、あいにく僕ほどそういう曖昧なコミュニケーション手段が苦手な奴は、中々いないだろう。 僕がいつまでもどう返事を返していいかわからずにまごまごしてるので、二人とも焦れた様子だ。 頭の中に疑問符がいくつも湧き上がった。 「ねえ、言わなくても分かるでしょう? 私たちは何をしにここに来たんだっけ?」 「えーと、あたまがよくまわらないんだけれど……、お腹減ったしそろそろ昼飯する、でいいのかな?」 「ゔゔーーっ‼ 何でモトイ君まで私の言うことをわかってくれないのッ!? 疲れているんだから、いい加減にしてよッ‼」 長い旅路による疲れと、この男に失礼な態度をとられたことと、僕が空気を読まなかったせいで相当機嫌が悪いのか、アイルは『僕にとって』凄まじい大声で怒鳴り散らした。 僕の頭の内側を耳鳴りが反響する。 めまいが視界を揺らす。 「……ぁ」 彼女が気づいたときには後の祭り。 過剰な情報が洪水のように脳になだれ込み、耳鳴りとともに僕の脳細胞を、燎原の火のごとく焼き付くさんとニューロンを蹂躙する。 (痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ‼) ダメだ。 僕は大きい音がとても苦手なのだ。 このままでは、発作が起きてしまう。 「んっ、キョッ、キョッ、キョゥッ、キュアァッ、キュアァッーーーーーーーー‼」 ついにやってしまった。 司祭は唖然として微動だにしない。 それは当然だ。 なぜならば先ほどまで普通に振る舞っていた少年がねじ巻き式バネ人形の様に飛び跳ねながら聞くだに堪えない甲高い奇声をあげ始めたのだから。 アイルは、悔然としてため息をつく。 それも当然だ。 なぜならば、感情的になり、配慮に欠けた怒声を放った者は他でもないアイリなのだから。 僕は初対面の人の前でこんな狂態を晒してしまったことがただただ悲しかった。 「アイル様…!? 彼はいったいどうしてあのように……?」 司祭が愕然とした面持ちで、なおも狂ったように叫び続ける僕を瞬きもせずに見つめて問うた。 「アレは、彼の『二次障害』なのです。 あの発作を放っておくと呼吸困難になってしまう…。 早く部屋に連れてあげなさい。 話は薬草の準備をしてからです」 「それはもちろんですが、あの状態の彼に近づくのは危険ではないですか? あの様子では治療どころではないはずですよ? ……もしや、薬草の準備とはまさか……!?」 司祭は、息が詰まったまま固まってしまった僕に釘付けだったが、アイルの意図に気づいた途端、 突然アイルの方へ振り向いた。 「そのまさかです。 彼には鎮静作用があるお香でおとなしくしてもらいます。 もうそれしか方法はないのです」 アイルは司祭の突飛な行動に驚きもせず、ただ淡々と事実を告げた。 「なりません‼ あれは鎮静作用だけではなく、人の内面を浮き彫りにする作用があり、人によって効き方がそのどちらになるか予測できないことをお忘れですか!? 噂では、あれは怪異を引き寄せる魔香だとか……。 そんなことをすれば彼がどんな目に」 アイルは涙をたたえた双眸で司祭をキッと睨みつけ、ツカツカと歩み寄ると、 平手でその頬をひっぱたいた。 「私がこんなこと好きですると思うっ!? あなたこそ私が、他でもない私が、レイヤ君にどんな目に遭わせちゃったのか見ていて わからないのっ!?」 アイルは驚愕する司祭を感情のままに糾弾した。 「レイヤ君は、ああいう風になっちゃうと、とっても苦しいって言っていた……。 だから薬もたくさん用意したけど全部 使い切っちゃって、残りはもうここのしか……、だから……。 邪魔しないで」 アイルの末語は強く、鋭く、司祭の心に突き刺さったかのように僕の目に映った。 その光景は益々ニューロンに刺激を与えた。 「っぶはァッッ‼ はァはァはァはァはァはァはァ、助けギュェェーーーーーーーーーーーーーーーーッ‼」 体内の魔子がビリビリと震えるのを感じる。 体が分子レベルで疼き出す感覚に、耐え切れなくなってしまいそうだ。 「不味いッ‼ 魔子が暴走し始めてますッ‼」 「分かってるってば‼ えっと、あれ、あの吹き矢は、あった‼」 アイルは持ってきたカバンの中から必死になって探り当てた吹き矢を僕に狙いを定め針を放った。「アギャァッ!?」 頸動脈を伝って 痺れが徐々に 神経を侵していく。 不随意運動を起こしていた体も動かなくなり、 ゆっくりと無意識の海に溺れていく。 「レイヤ君、レイヤ君―――――!!」 彼らの声が聞こえた気がしたが、 感じるもの全てが闇に溶けて消えていった。 《2》 ここはどこだろうか。 夢の中だろうか。 どうやら中学校の教室の前の廊下らしい。 だからこの廊下にいる僕を含めた全員がこの制服のブレザーを着ているのだ。 そうだ、僕は学級崩壊してしまった障害者専用クラスの特別支援学級に居場所を見出せず、通常学級くんだりまで来てしまったのだ。 学級隔離はもうこりごりだ。 ならば早く友達の輪に加わるために、 挨拶回りに行かなくてはなるまい。 早速引き戸に手をかけ、開く。 何だこれは。 教室がしわくちゃの鏡面に映り込んでしまったかのように歪みに満ちている。 おかげでクラスメイト達が、餓鬼畜生のように見えるではないか。 彼らは、若者言葉で不可解な交流を楽しんでいる。 女子高校生語や男子高校生語とかいうスラングだろうか。 自分を相当若いのだが、全く理解できない。 だが自分と違うからといって物怖じしてはだめだ。 その恐れは必ず差別につながることを僕は知っている。 だから思い切って話しかけることにした。 「初めまして! 僕の名前は 風祭 礼也 っていうんだ。 よろしく!」 僕は溌溂と挨拶した。 だが。 「そういうのはいいからさ、いつもみたいに何か面白い事してくれよ」 僕はクラスメイトの一人に言われた言葉の意味が分からず 一瞬目を瞬かせたが、 挨拶を無視して失礼だな、と思った。 しかし一発ギャグでもかませれば仲良くしてくれるかなと思い、古めのネタをやってみる。 「でも、そんなの関係ねぇ‼ ハイオッパッピー‼」 途端に哄笑の渦が巻き起こる。 「もう一回やって‼ もう一回ッ‼」 「あのさぁ、それよりも君たちの名前をまだ聞いてないんだけど……」 「ああ、俺のこと? 俺、△ 田、よろしく」 「俺、○ 木」 「俺、✕光。 これでいい? ほら、またやれよ」 クラスメイトらは僕を見下しゲタゲタと下品に嗤う。 僕はバカか。 要は障害を持っている僕を道化に仕立て上げ、物笑いの種にしようという魂胆なのだ。 彼らは僕と仲良くする気など砂一粒ほどもない事に僕は気が付いてしまった。 このクズ共め。 悔しさと赫怒がふつふつと湧き出る。 「クズがクズがクズがァッ‼ お前ら何で 僕はそんな風に嗤うんだよォッ!? 僕はただ君らと友達になりたかっただけなのに……‼ やめろ……‼ やめろやめろやめろやめろやめろォ‼ 僕が何をしたって言うんだ⁉ そんな目で僕を見るなぁっ……‼」 何かを破壊する音で僕は目覚めた。 「わぁッ‼ って、夢か。 ていうか何なんだよ、今の音は!」 アイルは慌てふためく僕を見て目を丸くしたが、すぐに普段通りの僕の様子に安心して微笑む。 「レイヤ君が元気になってくれてよかった! 私、ほっとしちゃったよぉ」 例のお香の効果だろうか。 何故か彼女の声が間延びしている。 「ありがとう。 でも、今はそんなことよりも今の馬鹿でかい音の源がどこで何が壊れて生まれたものなのか教えてくれないとか安心できないんだ。 だから教えてくれないかな?」 彼女が不安にならないよう細心の注意を払いながら―――――何せ先ほどの僕の身には、あれほど激しい発作が起きてたのだから――――――、 僕は優しくアイルに尋ねた。 そんな僕の 気遣いに満ちた 配慮は。 「え〜? 今はそんなこといいじゃない。 何のために司祭に命じて、この寝室にあなたを担ぎ込ませたせたと思ってるの?」 と言ってとろんとした目のまま、仏頂面になる。 「えっ!? そ、それは」 「それにせっかく心が落ち着く効果のあるお香を焚いたのに、そんなに興奮してた意味ないじゃなーい」 彼女の意外な言葉で粉々になった。 自分まで薬の効果を喰らう必要なんかなかったのに、わざわざ看病してくれたのは嬉しいのだが、どうやら今の彼女に何を話しても無駄のようだ。 僕は色々と口に出したかったことを飲み込んで考え込む。 どうやら彼女は例の薬を使ったお香の作用によって惚けてるようだ。 まあ同じように僕も落ち着けているのだが。 (じゃあそのお香とやらはどこにあるのだろう?) 僕は羽毛らしき代物を固めた寝具に座ったまま何気なく前を向く。 これは宗教画だろうか? 後光と思しき複雑な模様が額の上部を半円状に埋め尽くしている。 その辺の中に、僕に隣る少女に似た男が魔力の殻を鎧って悪しき者を滅している。 そんな絵画だった。 部屋を見渡すと客人にとって使いやすいように設えられた 様々な調度品が僕に清潔な印象を与えた。 木製の扉、漆黒の竹を編んだ衣装棚、窓際に置いてある水差し、外から心地よい春風が吹いているが、先ほどから絶えず響き続ける破砕音のせいで台無しだ。 枕元へ視線を落とすと、玉ねぎに猫の足がついたような金属の道具が熟れた果実のような甘い芳香を放っているではないか。 きっとこの香箱のせいで彼女は酔ってるのだ。 「レイヤ君」 「なんだい?」 アイリが僕の名を呼ぶので振り返る。 「さっきは、あんな大声で怒鳴ってごめんね。 レイヤ君は悪くないのに私、どうかしていたよ。 本当に」 瞬刻。 『グヴォォォォァァァァ―――――――――ッッ‼』 千の獣の遠吠えを編み上げたような凶悪な慟哭が轟いた。 「キャアッ‼」 「わぁっ‼」 「……ねぇッ‼ さっきから気にしないようにしてたけど、ずっと鳴ってる何かが壊れる音といい、今の叫び声といい、やっぱりまずいんじゃない⁉」 僕は頭を抱えながら深遠なるため息を吐いた。 薬のせいとはいえ、この子は大丈夫なのだろうか。 「だ・か・らぁっ。 さっきから心配だって言ってるじゃん‼ そーうだよっ、まずいよこれッ‼ 絶対行かなきゃダメなヤツだよ!」 僕も僕で相当迂闊だった。 建物の中で何かが壊れたような音がしたら普通はびっくりして駆けつけるものだ。 どうも二人とも随分ぼーっとしていたらしい。 「そうだね‼ でもレイヤ君に、ちゃんと謝れて……」 僕はあえて彼女の言葉を無視し、急いで香箱の火の始末を済ませ、廊下への扉を開け放ちアイルの手を取る。 「そんなことは気にするな!!さぁ、さっさと行くぞ!!」 「えぇっ!? ちょっと待っ」 『ウォ・ラハ・ドルデ・ミー・ フェール・ レフク』 僕は磁力魔法を唱え、アイリの手を繋いだまま、壁に落ちてゆく。 「きゃぁぁぁぁぁぁ―――――――!?」 壁に墜落する寸前で方向転換し次の壁へ落ち……、を繰り返して移動する。 「あ゛ァッ‼もう五月蠅ェ‼ なんだってこんな音が大聖堂から鳴ってんだよっ!?」 僕は風を肌で感じつつ、不満を叫んだ。 「こんな乱暴なことする人には教えないもん‼」 彼女はその続きを呟いたが風切の音で途切れた。 「何だよ!? 何か気づいたんだったら教えてくれよ‼ 嫌な予感で胸が張り裂けそうなんだ‼」 僕は伝えきれないほどの不安をアイルに訴えた。 「あなたが気絶してる間、司祭が大聖堂に用事がありますので失礼します、とか言って駆け出して言ったの。 それだけ」 僕の顔から血の気が引いた。 「何がそれだけだよ!? 司祭さん暴れてるやつに殺されてるかもしれないっ。 早く行こう‼」 「怪我しても知らないんだからね‼」 僕はアイルの刺々しい言葉に舌を打ち、アイルと共に大聖堂前へ減速、しかけた。 「わぁっ‼」 しかし激しい地鳴りに足をすくわれて転んでしまい 集中を途切らせたせいで重力操作が解けて、床に叩きつけられた。 「アガァ……‼」 受け身を取ったおかげで大事には至らずとも落下した衝撃たるや常にあらざり、烈然と僕の身を打った。 「だから言ったじゃない」 アイルは軽々と着地した。 「『急せいた先には崖がある』ってことわざを知らないの? ほら立って」 アイルは急がば回れ的なことを言いつつ、僕に手を差し伸べた。 「……ありがとう」 何も文句は言わず、アイルの手を取って立ち上がる。 どうやら気が付かないうちに、大聖堂前の鉄扉にたどり着いたようだ。 しかし、試しにドアノブを押し引きしても開かない。 「ああ、もうじれったいなぁ‼ こうなったら……!! 『ウォ・ラハ・ウィルフーン・ べェイ・ェアム』」 アイルは、痺れを切らしたのか地団駄を一つ踏むと早口で呪文を詠唱した。 「こーっやってェ…‼」 なんと彼女が一抱えの疾風の塊を自ら鉄扉に投げつけようとしてるではないか。 「おい、何する気――――」 「開ける、のッ‼」 その風の塊で鉄扉を強撃。 「嘘ーん……、え」 信じられないことが二つ起きた。 一つは押しても引いてもびくともしなかった鉄扉を風属性の最高位魔法『ウィルフーン』の暴威でこじ開けてしまった事。 もう一つは、開いた扉の砕けた石材のその先で。 紫紺の筋繊維がむき出しになった人型の【異形】が、こちらに背を向けて辺り構わず彫刻をぶち壊していたことだ。 「ぎゃ」 叫びかけた僕の口をアイルがとっさに塞いでくれた。 「しっ! なるべく音を立てないで一度逃げるよ…!」 アイルは口を塞いだまま僕を伴って遁走しようとした。 だが退路は不可逆となった。 僕らが通った入り口が崩落したのだ。 「どうする…ッ!!?」 僕は声を潜めて彼女に問う。 「やるしかないよ」 「やるってまさか……」 「そのまさかだよ。 逃げられないから戦うの」 アイルは悲壮な覚悟を瞳に宿し、僕がこの場で最も恐れていたことを口にした。 「………そうか、じゃあ、奴を潰す前に一つ聞きたいことがある。 あれは司祭さんが化けた…、ってことで納得していいんだよね? どうしてあんな風になっちゃったんだ?」 その根拠を胸にアイルに問う。 「……多分、司祭に例の『虚(ウロ)』がとりついたんだと思う」 「ウ、虚(ウロ)って、破壊神になっちゃったお兄さんの使い魔じゃないか!! そんな化け物に勝てるわけないだろう‼」 「じゃあ私たちは猛獣と一緒に檻に囚われた兎みたいに殺されるしかないって言うの? 冗談じゃないわ‼」 アイルの悲痛な叫びに胸と言葉が詰まった。 「……………」 「……………」 「後さー、どうでもいいけどアイルちゃんの本名ってアイル・インなの? それともアイリーンなの? どっち?」 僕は自分でも本当にどうでもいい質問だなぁ、と思いつつも現実から目をそらすために聞いた。 「……あなた、本当に空気が読めないわね……。 自分の置かれた状況が解って、逃げてェッ‼」 何時の間にか音もなく忍び寄ってきた異形により、ほとんど悲鳴に近いアイルの声が彼女ごと吹き飛ばされた。 壁に叩きつけられたアイルを花芯に、壁に白い血の華が咲く。 「アイルゥッ!!」 次いで、直感に従って振り仰ぐ。 異形が僕を撲殺せんと、手にした鎚を振り下ろそうとしていたのだ。 だが胸ががら空きだ! 「隙ありッ!!」 『剛柔流空手・刻み上段突き・中段回し蹴り・中段逆突き』 僕は心にまとわりつく恐怖を押しのけ、異形の頭にジャブを叩き込み、脇腹に体の軸の回転を加えた横蹴りを浴びせかけ、 止めに異形のみぞおちについている宝玉に、渾身の正拳突きを打ち噛ました。 『グヴォァッ‼』 正拳突きが宝玉に直撃した瞬間だけ手応えがあった。 異形は鎚を取り落とし、うめき声をあげながらたたらを踏む。 『ウォ・ラハ・デルド・ニコレ・ボレステッ』 異形の胸部に強磁場を生成し、片足を軸に反転、掌底を叩きつける。 『大東流合気術・てっぽう』 武術の本を読みかじって木村先生に内緒で練習した技によって異形を突き飛ばした。 はずだった。 『■■・■■・■■■■■■■・■■■■』 奴がおぞましい声を上げて消えた。 厳密にはドーム状のこの大聖堂が黒に閉ざされたのだ。 視界を真っ暗にする呪いをかけられ、僕は目が使い物にならない事実に根源的な恐れを抱く。 「な、なんだこれは!? アイルーッ!! どこにいるんだーッ!? いるなら返事してくれ‼」 返事がない。 こうしてる間にも奴は僕の命を虎視眈々と狙ってるのだ。 構えておくことに越したことはない。 『剛柔流空手・三戦サンチン立ち』 僕は足をハの字に締め、前後にずらす立ち方で構えた。 背中に生ぬるいものが触れた。 ソレは皮をすり抜けて僕の五臓六腑をぬとぬとした魔手でかき回す。 怖気に襲われ嫌な汗がぶわっと吹き出した。 (何だ、嫌だ……、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッ‼) 『ウォ・ラハ・スタッパ止めろ‼』 口からついて出た願いが たまたま呪文となり 金属を叩き割ったような音と、光明が異形を僕の体から 叩き出したかと思いきや、やつは闇の向こうにふうと消えた。 胸には魂を千切り取られた後のような喪失感が残った。 今のを喰らい続けたら、確実に人間ではなく別のものになってしまうかもしれない。 早くこの状況から抜け出さなければならない。 そのためにするべきことは何か…? 「闇を払うもの…。 ヤミ、やみ。 闇魔…、魔を祓うもの。 それだ‼」 ズボンのポケットに突っ込みっぱなしだった例のブツを取り出す。 麻の帯を丸めた、炸裂弾である。 帯には解呪の呪文が書き込まれているので、これさえあれば呪いが解けるはずだ。 アイリが『魔法使いの必需品だからもしもの時のために持っておいてね』と、白百合のように笑ったことを思い出す。 とにかく急せかねば。 僕は床に炸裂弾を叩きつけた。 すると、幾何学的な模様が地面に燐光とともに展開していく。 僕は魔法陣に現れた呪文を手順通り唱えた。 『ウォ・ラハ・イクサス・ギーヴァ・ザッタ(祓ひ給へ雷ぞ)・ラハ・ クルーム・ギーヴァ・セルト(清め給へ御光ぞ)・アイク・ブラガ・アー・ダクネ(我闇を滅す者なり)』 足元の魔法陣から風が吹き荒れる。 全身に激しい力が宿っていく。 『ノウ・ビーク・ブラッギ・ヒウ‼ (今こそ彼に滅びを)』 もう駄目だ。 制御しきれない。 黒き風が魔手と共に影となって僕のもとへ這い寄る。 『ウォ・ラハ・セルトザッタ・ダ‼』 全身が上空へ放電を引き起こし、辺り一帯に天怒が降り注ぐ。 その白が空間を支配していた黒を塗りつぶした。 視界が晴れていく。 《3》 「……ここは?」 どうやら大聖堂のようだ。 突然背後から両の拳が、僕を左右から叩き潰しにかかった。 「剛柔流空手・夫婦手(めおとーでぃ)・両手中段受け」 その拳を腹式呼吸によって防御力を高めた両腕が仲睦まじい夫婦の様に互いに連携し、辛くも防ぎ切った。 隆々とした筋骨をしっかりと掴む。ネッチョネチョしていて気持ち悪い。 『合気会合氣道・ 後ろ両手取り四方投げ【表】』 腕の骨が耳障りな音を立てた。 「ぐぎ……ィッ‼」 腕がもげるかと思うほど痛い。 それでも、泣くものか。 「フゥッ‼」 異形に無理な体勢を強い、思いっきり投げ飛ばした。 そのまま奴は土煙を上げて石畳へ倒れこむ。 異形が起き上がろうとたたらを踏む今こそ、僕は丹田に力を込め直す。 (僕はあの子を守れなかった、だから) 此奴だけは倒す。 前屈立ちに構え、万全の体勢を取り、踏み込み。 『ウォ・ラハ・ナール(跪け)』 『剛柔流空手改之魔法拳・ 伏し突き』 気合一閃、鋭い正拳突きがガツンッと異形の胸の宝玉に炸裂した。 『グヴォォォッ‼』 宝玉、否、核と思しきそれがひび割れる。 僕は一歩身を引く。 「チェックメイトだ」 僕は恐るべき異形の目の前で人差し指を下に降った。 強磁力場が地面に展開、地面と異形が引き合い撃沈。 二度と奴は動かなくなった。 フゥ、と深い息を吐く。 両手を重ね、闘気を納めて一礼する。 どんな相手に対しても礼に始まり礼に終わる。 形は変われども、それは変わらない。 それが空手の『道』を貫くものとしての掟だ。 「―――それにしても……、この化け物どうやって元の司祭に戻そうか……」 【ウォ・ラハ・マテラミゼ】 「え」 聞き覚えのある呪文に振り向く。 そこには化け物と化したアイルの姿があった。 《4》 私の胸が強心剤を飲んだ時みたいにドンって高鳴った。 少しの間だけ息が苦しかったけれど、それもすぐに弱くなった。 身体がものすごく熱くて気持ち悪い。 魔臓(おなか)が、ものすごい勢いで空いていく。 きっと体中の栄養が急激な自然治癒に使われているんだ。 早く魔子を食べなくては、食べなくては、何か獲物(ごはん)が何処かに。 私には『魔臓』という内臓がある。 でも代わりに、普通の哺乳類が持っている胃を持たないため、魔子でできた栄養しか受け付けないようにできている。 だから早くしないと、飢えか血が足りなくて私は死んでしまう。 そうしたらレイヤ君に、もう会えなくなってしまう。 そんなの、絶対に嫌だ。 私はまだ生きたい。 生きたいんだ! 私の視線がふらりふらりと宙をさまよう。 (見つけた…。 あの虚憑きの核を食べよう) 食欲に突き動かされてゆらりと立ち上がる。 【ウォ・ラハ・マテラミゼ】 魔子化した虚憑きの核を食べようとした。 食べようとしたのに。 レイヤ君が私の目の前に立ちふさがっていた。 《5》 アレは何だ。 先ほど見た宗教画が脳裏を横切る。 何故、白い血の華が咲いた場所に、肌が紙よりも白くなってしまったアイルではなく。 高密度の魔子を鎧い、爪を尖らせ、瞳を白くした少女が―――――――――。 血に飢えた獣のような誰かが、立っているのだ? 魔人がゆらりと異形に近づく。 僕は反射的に魔人の前に立ちふさがる。 「君は、アイルだよな? 司祭さんに何する気だ?」 あまりの戦慄におびただしい量の汗が僕の肌を伝う。 彼女が立ちふさがる僕を前にして、何故という顔を見せる。 【食べるの】 ―――――――は? 理解できなかった。 何を、食べると言ったのだ? 【そこの司祭の胸についた核を食べるの】 カァッと体の体温が上昇する。 僕は完全にブチギレた。 「ふ…ざけんなァァッ‼ 化け物になっちまったとはいえ、 仮にも人だったやつの体を食らうだとッ⁉ それは、人間が絶対犯しちゃならない禁忌なん」 【……………ふふふっ、アハハハハ、ハハハ】 魔人は首を後ろに傾げて、笑っている。 「何が可笑しい?」 【アッハハハハハハハハハハハハ邪魔立てすると引き千切るよ?ニンゲン】 唐突に魔人が僕に能面めいた顔を向けて低く警告した。 僕の皮という皮が本能的な悪寒に総毛立つ。 (ひ、ヒィッ‼) 退かねば、確実に殺される。 僕は尻を地に落とし、退きながら失禁した。 (アレはアイリじゃない…‼) 魔人が異形に近づく間、僕の直感が告げた。 (アイリは、そんなことを絶対言わない‼ 言うとしたら……、あれは狂ってる) 否、結局僕は、アレがアイルではないとそう信じたいだけではないのか。 アレこそがあの娘の本当の(考えたくない考えたくない考えたくない考えたくない考えたくない‼) 姿なの(考えちゃだめだ考えちゃだめだ考えちゃだめだ考えちゃだめだッ‼)だろうか? (僕の中のアイルが僕の中のアイる) 魔人が異形の背中をほじくり、 返り血を浴びた。 「ギャャァァァッ‼」 僕の中でアイルという偶像が 崩れ去った。 血の雨が大聖堂に降る。 《6》 私は 心の中で何度も大好きな人達へ謝りながら魔子を貪っていた。 もう嫌だ。 何でこんな事を言っちゃったんだろう。 こんな生臭くて汚いものなんか食べたくないはずなのに。 そう思いつつも、生存本能の赴くままに魔子を喰らう口が止まらない。 悲しいと思いたいのに幸せ、不味いと思いたいのに美味しい、臭いと思いたいのにいい匂い。 まるでかばん語の初歩みたいだ。 感覚の全てが想いと矛盾している。 罪悪感で胸がいっぱいで、悲しくて悲しくて涙が流れ口にこびりついた血とないまぜなってしまった。 同じ過ちを繰り返してしまう自分の運命を呪った。 体の痛みが急激に引いていく。 食べるたび、喰らうたび、貪るたびに、魔臓(おなか)の中身がすぐに無くなってしまう。 (体が熱、い、苦、しい、よぉ……) 色々な思いが断片的に、寄せては返す潮騒や、その意識の海の泡沫(うたかた)のように浮かんでは消えた。 魔子の塊を食べ尽くした途端、私は不意に強烈な睡魔に襲われて、昏倒した。 《7》 崩落しかかった教会の回廊に、慌ただしい靴の音が乱反響する。 「急行せよ‼ アイル様の御命が危ないッ‼ 事態は緊急を要する‼ 我らが身命を賭してでもお守りするのだッ‼」 私は教会聖衛士団長の威信にかけて、90 mm迫撃槍砲付属大盾、通称『機盾きじゅん』を携えた部下たちに檄を飛ばした。 「「「「「ハイッ‼」」」」」 『グヴォォォッ‼』 激震とともに禍々しい叫び声が響いた。 「大司祭猊下、今のは……!!」 「疑う余地はあるまい。 小間使いのものは買い出しに出かけておるようだ。 この地は異界ゆかりの者か、信者でなければ 近づけないよう厳重に警備しておる 。 そして伝書鷹でレノ司祭から届いたあの一報……。 カノルよ、そなたはどう思う?」 聖衛士団の緊張がらに高まる。 「もしや、レノ司祭に虚(ウロ)が……」 同朋の不幸に心が激しく揺れる。 なんてことだ。 あの司祭と盃を交わしたことは一度ではないというのに。 どうしてもっと早く気づかなかったのだ。 「着きました‼ 団長、この先は落盤していて進めません」 「いかがいたしましょう、団長」 「構わん、ぶっとばせ!!」 お伺いを立てる部下に対して、私は過激な号令を下した。 「総員、機盾(きじゅん)用意!!」 副団長の指示に従って全ての部下が崩落して塞がった大聖堂の門へ銃口を向けた。 「止めんか、バカタレが」 「「「「「アイダッ!?」」」」」 突如として現れた四十路の大男が私の全部下にグリーヴを履いた足で華麗に蹴り込みを入れた。 「オレガノ、お前何でここに!?」 オレガノは私に背を向けたまま短く刈り上がった黒髪を荒っぽくかきむしると、私にかっ怠そうないかつい面を向けた。 「そりゃこっちが聞きたいぜ、カノル団長さんよぉ。 オマエラもオマエラだよ。 せっかく姫サン助けに行くぞーっつって気勢あげて支部くんだりまで来たっつーのに、中にいる姫サンごと発破かけてぶっ飛ばす御馬鹿様盲従するお前らの背中に、今日から俺が究極のノータリンとして太鼓判にお墨を付けてでぇかでかと押してやる。 よかったなあ? これでお前らも晴れて真なる脳筋馬鹿だ‼」 「貴様、姫サンとはアイル・イン様のことか?」 私の部下の一人が前に進み出て声高らかに叫ぶ。 「ああ、そうだが? 俺には自分の哀れな生い立ちに酔って、お前らみたいなバカなんか従えて悲劇のヒロインぶってる高慢ちきなお姫様にしか見えないぞ?」 当代随一の実力を持つと言われる衛士オレガノが、のけ反りながら呵々大笑した。 「我らを侮辱するだけならまだしも、アイル・イン様を貶すなど、俺が許さん! 成ば」 「黙れカス」 次の瞬間、その私の部下の装備はドロドロに溶けていた。 オレガノが二丁の機盾(きじゅん)を以て、腐食性散弾を早撃ちしたからだ。 「ああ、俺の自慢の装備が……!」 装備を台無しにされた私の部下は戦意を喪失してしまった。 「あーあ、だから先輩に会ったら大人しくしとけって言ったのに……。 それにしても、そろそろ先輩が現れてガントレットはめたままド突いてくる頃じゃないかなぁ、って思っていたらグリーヴを履いた足で一瞬にして全員に蹴り込み入れるなんて…。 予想が斜め上の角度を通り越して斜め下に行っちゃっていて、ついていけないですよ…。 全く…」 私の部下の中でもベテランの団員がぼやく。 一団に同感の空気が漂う。 この状況はどうも気に入らない。 「ハハッ、それにしてもよォー。 今日も罵倒の感性が今日も冴え渡ってるなあ? えぇ? 『双機盾流(そうきじゅんりゅう)』サンよォ」 相当に、今の台詞は聞き捨てならなかったのだろう。 オレガノはようやくこちらに振り返った。 「『罵倒の感性』とは随分と我が身に余るご挨拶を賜り誠に恐悦至極に存じますが、そういったお世辞は一切結構ですのでやめていただきたく存じます。 カノル団長殿」 「ア゛ァ゛!? 団長権限で罰として何処ぞの山奥に坑あなにすっぞゴルァッ⁉」 凄んでも オレガノは動じる様子も見せない。 「『坑あなにする』、つまり生き埋めにするという意味の古語を用いて公衆の面前で言語的自慰行為をしながらサクッと権力を使って嫌がらせですか…? あまつさえ、こうしてる間にも姫サン達が手遅れになってしまうことにも気づかないなんてあまりの鬼畜ぶりに俺ッ…‼ 情けなすぎて涙が出てきちまいます……‼」 オレガノは目頭を押さえて本気で泣き始めた。 たぶん人をおちょくるためのお得意の演技だろう。 だが時折本気で泣いていたりするので嘘なのか本当のかわからない。 まさに迫真の演技だ。 「おいおい、止してくれよ…。 冗談だろう? そんなふうにマジで男泣きされたら私まで情けなくなってくるじゃないか! クソッ‼」 私は苛立って瓦礫がれきを蹴って八つ当たりした。 すると。 瓦礫を支えていた小岩が倒れて石が転がる。 「土砂崩れが起きるぞッ‼ 総員退避せよォ――――‼」 突然の号令の中、多くの者は逃げ惑う。 オレガノただ一人を除いて。 『あの馬鹿‼』と逃げた者は全員そう思ったことだろう。 だが私はこの質の悪い冗談みたいな怪傑が何かやらかす予感がした。 オレガノが背負っていた一対の細長い機盾を腕にはめて、その先端を地に突き立てた。 ドドウッと怒濤の如く、土砂が押し寄せる。 「クソッ、総員機盾点火ァ‼」 『ウォ・ラハ・ブレイバ・べェイ・ガッテ・オウ』 機盾に標準装備されている90 mm 経口砲が、立て続けに噴火する。 爆風の反作用によりオレガノが防ぎきれなかった土石流からかろうじて逃げ切る。 団員たちは受け身を取り、冗談みたいな光景を目の当たりにした。 「ふゥ、機盾の砲弾を杭にして本当に正解だったぜ……。 ありゃ? おーい、そんなところにぽかーんと突っ立ってねェでさっさとこっちこいよー‼」 あの凄まじい土石流に直撃したのに、平然としているオレガノの姿だった。 事態が至急を要する危険な状況であることに遅に失して思い出す。 瓦礫だらけの回廊を越え、薄くなった瓦礫の壁に駆け寄る。 「押し崩すぞ」 「「「「いち・にの・さんジンガ・ニル・トレイ」」」」 力を合わせて、 団員4人がかりで瓦礫に体当たりして破る。 崩れた拍子に薄汚い土埃が舞った。 「ゲェホッ、ゲェホッ‼ ……嘘だろ!? おい、カノルッ‼」 オレガノが、『冗談の権化』の異名に似つかわしくない様子で、私を呼びつける。 「どうしっ、これは…ッ!?」 オレガノのガントレットが震え、指し示す。 「なんでこんなにぶっ壊されてんのに……」 むせかえるような血臭と凄惨な破壊のその先に。 「レノの野郎が人間なんだ…?」 血だまりの上にレノ司祭とアイル様が沈んでいた。 「レノッ‼ アイル様ァ‼」 頭の中がほぼ真っ白になって、 私は二人のもとへ駆け寄る。 「普通核を壊してから祓わなきゃ人間には戻れねェだろ……」 「そんなこと言ってる場合かッ‼ レノ、おい、レノ‼ ひどい、なんて傷だ…。 猊下げいか‼ お願いします…、彼に、治療を‼」 猊下げいかへ、死の瀬戸際に立つ我が友への救いを必死の思いで求める。 だが、大司教猊下はただ、酷く悲しそうに首を横に振るばかりだ。 「…何故、ですか…?」 私の部下たちが不安げに囁きを交わす。 「自分で確かめてみなさい」 血が凍えるような悪寒と、涙さえも燃えるような激情が私の中で混ざり合った。 私はたまらなくなってレノの手を取る。 「……死んでいる」 唯一の親友だった彼の手は冷たくなっていた。 なぜ。 「なぜだ。 なぜだ、なぜだなぜだなぜなんだァ‼ 畜生ォ‼」 私は、どんな顔すればいいのか分からず、 物言わぬ亡骸となった我が友を前に慟哭する。 「何故、何故お前が先に逝ってしまうんだ……‼ ……おい、オレガノ……‼」 私はふざけた冗談の化身みたいなオレガノの肩を、ガツッと掴んだ。 「すまなかった」 私はそのままの格好で、深々と頭を下げた。 「カノル、それは何のつもりだ?」 オレガノが私に訝しげな顔を向ける。 「お前、私に言ったよな? 『民族を保護するという意味であの子を保護するならまだしも、神格化して崇め奉ってしまうのは筋が違うと思うぞ』と」 一団に不穏な空気が漂う。 「あの時のお前の言葉を否定した私は間違っていた。 もう一度謝る、すまない」 オレガノは沈黙したままだ。 「オレガノ?」 オレガノは私の手を肩から振り解いた。 「がッ」 視界が回転木馬のようにぐちゃぐちゃに回りだす。 墜落。 すでにその次の瞬間には、 私は地べたに這いつくばっているのだと、遅ればせながらにして気が付いた。 「この、大馬鹿野郎ォッ!! なぜ人死にが出るまで気づかなかった!?」 ヘラヘラしたただの毒舌家だった筈のオレガノが、今まで溜めていたものを吐き出すかように激昂した。 「何でお前がここにいるってお前が聞いた時に、俺はお前に聞いたよな? 『それはこっちが聞きたい』ってなあ?」 オレガノが私の胸ぐらをつかみ、羅刹の形相で問い詰める。 「そ、それは」 「そうだ。 ここにいる資格が無い奴は俺じゃなくて『お前ら』ってことだ。 そして、俺に謝る資格はお前にはねぇよ」 「……お前こそ、なぜ黙っていた」 「下手なこと言ったら、お前らに粛清されるだろうが。 それと、どうしても謝る相手が見つからないんだったらあの哀れな姫サンに」 『暗拳・印堂渡し』 眉間に強い衝撃が加わったと思うと、目の前が暗転し始めた。 だんだん目が回って、淀む脳裏に意識が吸い込まれていく。 「地べたに這いつくばって謝れ」 急所を突かれた私は目の前が真っ暗になった。 「う、うぅ」 突然目が覚めてしまった。 僕は打ち上げ花火の玉にされ、深い海の底から空中へ発射される夢を見たのだ。 僕に関わりがあった人々が、夜空に咲いた贄にえの花を見て幸せそうな顔しているという夢だ。 その中でアイルだけが、なぜか、切なそうな顔をしてたのは、なぜだろう。 さすが、夢境である。 全くもって意味不明だ。 「おい坊主、何時までぼさっと寝ぼけてやがる。 恩着せがましいようでなんだが、礼の一つぐらい言ったらどうだ」 こめかみを押さえている間に流し目で見ると、40代ぐらいの麻の普段着を着た男が簡素な黒い竹の椅子にぶっきらぼうな態度で座っていた。 「すみません、あなたのことは存じ上げておりませんが……。 あの後、一体僕らに何が起きたのですか?」 壮年の男はハァ、と疲れを吹き飛ばそうとしているみたいに溜め息を吐いた。 「やっぱり覚えてなかったか。 ――――もっともお前には関係のないことだが。 あの後な。 俺は、この教会の中心人物に引導を渡したんだよ」 しばらくの間、未理解による沈黙が漂う。 「え、それって」 「教会聖衛士団長・カノルと大司教・グレスの事だ」 「……………。 それ、誰ですか?」 「だから関係ないって言っただろう? まぁ、強いてお前に関係があるとすれば、アイルをあそこまで傲慢にさせてしまった張本人ってやつだな。 四色連邦弁護官の逮捕権限でそいつらの身柄を確保した」 「は、はあ」 まるで怪文書にかかれた他人事みたいである。 嗚呼、意味不明だ。 「あー、そういえば名乗り忘れてたな」 「そうですね」 お互い改まって向き直る。 「俺の名は、オレガノ。 ライアットー・オ・オレガノだ。 よろしくな」 オレガノは無骨な顔に似つかわしくない爽やかな笑顔を僕に見せた。 「へー、かっこいい名前ですね。 僕の故郷から遠く離れた国に、 ラインハルトって苗字があるんですよ。 それにちょっと似ていてかっこいいな」 「まあ、種族や地方によっては俺をラインハルトって呼ぶやつもいるけどな。 でもそれは、相当南の方の呼び方だぞ」 「え、そうなんですか? じゃあ、挨拶する時に『ハロー』と言うのは……」 「おいそれは、完全に南方方言だぞ⁉ 何処で勉強したんだ?」 オレガノは興味津々といった様子で 身を乗り出して僕の話に食いついた。 「えーと、一応お父さんが この言葉ペラペラでその影響で少し喋れるようになりました」 正直に事実を言うと、彼は感心しきりといた様子だ。 「ほー、こいつぁすごい! 他には何が話せるんだ?」 「他に日本語と沖縄語が話せます」 「おいちょっと待てよ。 南方方言だろ、呪文語だろ、ニホン語、オキナワ語……、ジンガ、ニル、トレイ、フォス……」 この世界独特の指の折り方だろうか。 彼は親指で自分の指の間を数えると大げさに驚いた。 「四ヵ国語も喋れるのか⁉ お前すごいぞ‼ どっかのお国の文官になれるじゃねぇか! すげーな!」 褒められて悪い気はしないので、照れてしまった。 「そうだ、近いうちにお前を本当に文官に推薦してやろうか?」 「え!初対面なのに本当にいいんですか?」 「おう、いいとも。陛下は将来有望なものを好まれるからな。 うまいこといけば、秘書官になれるかも知れんぞ! 「そうだ、名前を聞いておかなきゃな。何て言うんだ?」 「僕の名前はレイヤ。 カザマツリ・レイヤです。 日本語の名前の中でも特に珍しい部類だそうで」 「頭も良くて名前まで珍しくて、しかも虚ウロ憑きを叩きのめすほどの強さを持っているなんてなぁ。 こりゃぁ、女が惚れるわけだぜ」 いやぁ、それほどでも……」 なんだか非常に照れくさい。 「まぁ、挨拶はこの位にして、お前に伝える事がある。 ……あの事件が起きた原因を俺なりに調べてみたんだ。 まず、司祭が虚に取り憑かれた原因なんだがな。 直接の原因はわからない、だが」 「発現した原因だけは、わかるということですね?」 「その通りだ。 お前にも心当たりがあるんじゃないか? 例えば怪しい薬品とか」 「もしかして……。 あのお香のせいで」 彼は大きく手を一つ鳴らすと、「それだ!」と叫んだ。 「あとはもうわかるな? レノ司祭には元々虚が憑いていて……」 「潜伏状態だったのに、本性を露わにするという副作用があるお香のせいで発現してしまった、と……」 「そういうことだな」 彼は、ひどく哀れみを込めて大きなため息をついた。 「ああそうそう、念のため忠告しとくぞ……。 お前みたいに頭がいいやつだから言うんだけどな? アイルに飼い犬みたいに支配されちまわないように、気を付けろ」 僕は目を瞬かせて、その後思いっきり大笑いした。 「あはははは‼ ご冗談をおっしゃらないでくださいよ! まさか彼女がそんなことするわけがないでしょう」 「あの子の周りに十年間も友達がいなかったことを引き合いに出したとしてとしてもか?」 「だって、彼女が差別されてたから彼女の周りには友達がいなかったんですよね?」 「それも一つの大きな要因だが、お前は重要なことを見落としている。 それは、あの子の周りに同じ年頃の同じ種族の子供がいた場合だ」 「それは、どういうことですか?」 「実を言うと白エルフってのは、元々人類の中でも少し社会性が低い種族でな。 大勢の人と関わるよりも気に入った親友同士でムラを作って少数で行動するのが普通なんだ。 ところがアイルはムラに入ろうとして追い出されちまった。 なせだかわかるか?」 嫌な予感が脳裏をよぎった。 「もしかして…………、年下なのに、偉そうだったから」 彼は、僕の答えを噛み締めるように目を閉じて頷く。 「ご名答。 全くもってその通りだ。 あの子は、周りからお姫様みたいに扱われたくてしょうがなかったのさ。 本心では自分を丸ごと愛してくれる人を求めているのにな?」 彼は片目で僕を見つめ、『そうだろう?』と問いかけてくる。 「だから俺は、あの子に対して哀れみと憐憫を込めて『姫サン』と呼んでいる」 「どうしてそんなことがそこまでわかるんですか?」 「俺はあの子の付き人をやっていたことがあってな。 それであの子のことはよく知っている」 (まさか彼女にそんな過去があったなんて……) なんということだろうか。 彼女からそんな話は一度たりとも聞いたことがない。 とてもではないが信じられない気分だ。 「そいで、この教会と癒着してわがまま放題やってるって訳さ」 「信じたくないですが――――、それが事実なんですよね」 僕は少し切なくて目を伏せた。 「そうだ。 ……そしてこの話には、続きがある。 あの子はムラを追い出された後、 実家に帰って親に泣きつこうとしたらしい。 だが……」 「いやこれ以上はやめましょう」 僕が制止すると彼は意外そうな顔した。 「あの子のことをよく知らなくていいのか?」 僕はオレガノのすっとんきょうな口調に、肩をすくめて「そんなわけありませんよ」と適当にあしらった。 尚も、オレガノは「本人から直接聞いた話なんだが、お前なら最後まで聞きたがると思ったんだけどな」などと食い下がる。 僕は、その物言いにわざとらしく咳をした。 「自分のいないところで一から十まで根掘り葉掘り自分の噂されて、気分の良い人はいないでしょう? 彼女のためを思うなら、やめておくのが無難というものです」 それに、彼女のことをこれ以上嫌いにはなりたくなかったというのも、本音中の本音だった。 「そうか、まあ、その方が賢明だな」 「ところで、件の彼女はどこですか」 「ああ、それがだな……」 オレガノは、至極いいにくそうに答えようとする。 「実のところアイルは廊下の奥の部屋で泣いてるんだよ。 お前の名を呼びながら、何度も謝っていた。 ……流石にこればっかりは姫サンの責任とは言えねぇし、痛ましすぎて俺には見てられないぜ」 「…………」 人を食い殺してしまった後なのだから当然だ。 彼女のことだから、きっと何か理由があるのだろう。 「そこでお前に頼みがあるんだ」 オレガノの面差しに真剣味がました。 「あの子に寄り添って慰めてやってほしいんだ。 なんだかんだ言ってアイルが一番信頼してるのはお前だからな。 あの子の本心を癒してあげられるのはお前しかいないんだよ。 初対面でなんだが、頼む」 オレガノは自分の手を重ねて親指で閉じた。 宗教が違うからか、人にものを頼む時のしぐさまで違うようだ。 真剣に頼み事をしている人を前にして、本気で頼まれているという気がしない僕は不誠実なのかな、とか余計な事を考えた。 「僕なんかでいいのかな」 「何故?」 「へ?」 突然、問いが僕の顔面に投げつけられた。 「何故、お前が断る?」 「だって僕は彼女を」 「守れなかったからこそ、慰めてやるのが、お前の責任なんじゃないのか?」 ゆっくりと、聴く者の精神を言葉の石臼で挽き潰すように、彼は僕を諭す。 「…………」 「人はどんなに進化してどんな姿になったとしても、愛されたいという気持ちは変わらないんだよ」 「……確かにそれは、普遍的な一般論ですね。 それに正論でもある。 でもそれがこの話と、一体何の関係があるというのでしょう?」 「とぼけるなよ、ニンゲン。 一番愛されたがってるのは、お前だろうが」 淀んだ泥沼の底まで見透かすような目の視線を以って僕を射抜く。 「ぁ、ぅ」 全く二の句が継げない。 「だぁったら、断る理由はないじゃねぇか。 なぁ?もっと単純に考えろよ。 扉と扉のすぐ向こう側に、お前だけを愛し、お前だけに愛されたいと願っている少女がいるんだぞ? 絶好の機会じゃねぇか! 『愛の代償は愛である』って、 ことわざでよく言うだろう? どうした? あんまり嬉しそうじゃねぇな」 オレガノは僕の背中をバンバン叩き、聞いた事も無いことわざを説きながら、絵空事みたいなことをそそのかしてくる。 「まあ、いきなりじゃ信じられないだろうが、まぁ、その、何だ、おめっとさん。 そして行ってこい‼」 オレガノは田中角栄じみた台詞をぶっ吐き、次の時に理不尽すぎる所業に出た。 『ウォ・ラハ・タラポヤット・へーレ』 突然、僕の体が白い光に包まれ、輪郭がぼやけていく。 「へえええええ!? ナニコレ!?」 「治癒効果付きの転移魔法かけておいたから、あんまり動くんじゃねぇぞ? 下手すると腕持ってかれるからな」 「ひぇぇ、あきさみよー!!」 「ほう、それがオキナワ語か! 感心ついでに、『ラハ・ノッセ』」 僕の視界は瞬く間に白く塗りつぶされてゆき、ついでに触覚さえも消え失せてしまった。 《2》 「……こ、ここは」 気がつくといつのまにかアイルの部屋の前にいた。 「……よし」 意を決して扉を叩く。 「アイル。 レイヤだけど、話がしたいんだ。 入っていいかい?」 部屋からはただすすり泣く声を聞けるのみだ。 このままではらちがあかない。 「入るよ」 彼女を刺激しないように、そっと扉を開く。 ふわっとした女性の部屋特有の甘い香りがこの空間中に立ち込めていた。 なるほど、女性の居室のことを『香室』というのはこういうことだったのか。 正面に見えるは丸みを帯びた揺り椅子だ。 白地の木材に見事なバラの浮き彫りがなされている。 この辺りに住む白エルフはアイルしかいない。 その上アイルをフルネームで様付けで呼び、神様扱い。 この『真風教』の教義が透けて見える。 すなわち白エルフ族の保護と、今回の一件の様な暴走による教会にとっての外敵の撃退。 この二つの過程こそが、いまの共生関係を生み出しているのかもしれない。 だとすればこの揺り椅子もアイルのために作られた特別のものだろう。 「……いけない、いけない。 また考え事に耽ってしまった」 大切な友達が殺人してしまったショックで泣いているのに、こんな調子では慰められないではないか。 そうだ。 本当のアイルは、差別に負けない明るく強い子ではない。 自分を守るために望まぬ犠牲を出してしまうとても弱い子だ。 (アイルはあの揺り椅子に寝ているのか) 泣き声が揺り椅子から聞こえる。 まるで重力魔法を掛けられてしまったように体がずっしりと重く、足取りも一歩ごとに鈍くなってい く。 「近づいちゃダメッ‼」 アイルの制止が空気を切り裂いた。 僕の足音が止む。 「……何で、そんな悲しい事を言うんだよ? せめて起き上がって、姿を見せてくれ。 頼む、お願いだ」 彼女は僕のささやかな願いを叶えてくれた。 「っ!」 僕は思わず息を飲んだ。 水晶に見紛うほど透明な涙が、とめどなくアイルの頬を伝っているのだ。 「この涙が理由よ」 小さく鼻をすすりながらそう言って掬った涙は、いつのまにか白くなっていた。 「私は……、人の域を外れた化け物だから、だから、きっと何時かレイヤ君まで……」 なんて思いやりのある子なんだろう。 だが、ならばその先を言わせてはなるまい。 「君の気持ちが全てわかるとまでは言えない。 でも、敢えて言うよ。 そんなことはない」 僕は、きっぱりと彼女の言葉を撃砕した。 「え?」 「君は人の姿を与えられて、この世界に生を受けた。 そして理性と感情と人格を持ち、こうして僕と話せている。 それだけで君は人足り得る条件を十分に満たしてると思うけどな」 アイルは初めて言葉を聞いたかのように、信じられないと云った面持ちで僕の顔をまじまじと見つめる。 僕は彼女の大げさな反応を愛らしく思い、口元を緩めた。 「……本当に?」 「ああ、しわさんけー!(心配するな!) 我わんや当てぃならんくとぅ、どぅーでぃん分とーんやしが、ゆんどー(俺が頼りないこと自分でもわかってるけど言うぞ)。 って、今の沖縄語……。 とにかく、君はれっきとした人間だ!」 肝心要のところで気が緩んでお国言葉が出てしまった。 それでも僕はニカッと笑った。 アイルは抑えきれない感情を押しとどめるように膝に拳を押し付け、下をじっと見つめて震えている。 「……どうしたんだ? 大丈夫?」 安心して欲しくて手に手を重ねようとした。 「私、もう、我慢できない」 静けさの後に雨音が大気を渡るように、彼女はそう言うと。 僕をきゅぅっと抱きしめた。 途端にスパイスのようなそれでいてバニラのような不思議な香りが鼻先をくすぐった。 麻薬めいた多幸感に腰が抜けそうなくらい全身の力が抜けていく。 愛おしそうに、僕の存在を確かめるように背中を慰撫する。 触れ合う肌がひしひしと熱を伝え続ける。 もう身体中がじんじんして、彼女の存在に関する情報以外脳が受け付けなくなってしまっている。 「人を殺しちゃって、本当にごめんなさい。 本当は、レイヤ君じゃなくてオレガノおじさんや、司祭の家族に謝るべきだし、 謝って済むことじゃないことも分かってる。 でも結局、誰よりもレイヤ君に一番心配かけちゃったから一番先に謝りたかったんだ」 彼女の涙に濡れた瞳を見た瞬間、僕は心を鷲掴みにされた。 殺人的な色気である。 悪用すればとんでもないことになるだろう。 彼女が純粋な子で本当に良かったと、心から安堵した。 「私が魔人になっちゃって司祭を食べ殺す前に、本気で怒ってくれて…、どこにも私を叱ってくれるがいなくて、その…」 アイルは僕の胸に顔を埋め、照れくさそうに僕の目を見つめた。 「私、嬉しかったんだ」 彼女は、僕が今まで見てきた中で世界一美しく、泣きながら笑った。 ありったけの想いを込めたのだろう。 それが表情から見て取れる。 「なのにとっても怖い思いさせちゃって、ごめんなさい」 アイルは僕の胸に顔をうずめ、嗄れた声で謝った。 「もういいよ。 君はもう十分に反省して、十分に謝った」 脳髄まで徐々に犯していくような快感に、抗ってるのか飼い馴らされてるのかわからないまま、そんな言葉を吐く。 もともと僕は彼女を慰めるためにここに来たのだから、建前の上でも本音の上でも、彼女の哀しみを癒してあげなければならない。 それは僕の責任だ。 大義名分である。 このまま触れ続ければ本当に雪みたいに溶けて消えてしまいそうにさえ思えて、躊躇いがちに抱き返した。 「私ね、レイヤ君の事が大好き。 私を守ろうとしてくれて、私に優しくしてくれて、一番言って欲しいことを言ってくれた。 そんなレイヤ君が愛しい。 だから」 言い募っている内に興奮してきたのか、アイルの頬が一段と白くなっていく。 どうやら白エルフのヘモグロビンは酸素に触れ続けると白くなる性質を持っているのだろうか、なんて関係のないことを考えてないと頭がおかしくなりそうだ。 「レイヤ君の正直な気持ちを、聴かせて」 ――――――ただ、僕は、生まれてきたその瞬間からずっとその言葉を待っていたのだ、とそう思う。 「僕も君のことが大好きだ」 彼女の言う通りに、はっきりと正直な気持ちを伝えた。 もうこれで僕の運命は決まってしまった。 アイルは麻薬のような愛で以て、僕を隷属させた。 これでキスなどしてしまえば契約は完了だろう。 「――――ああ、嬉しい……」 彼女は恍惚に満ちた表情でそっと天を仰ぐ。 「何だか、頭の中がふわふわしてきた……。 ……ねえ、レイヤ君」 彼女は僕に強く響くよく通る声で僕の名を呼んだ。 「私のことが本当に好きなら、キスして」 その声は八百萬の言霊を極限まで凝縮したかのような、強い光明が宿っていた。 僕はただ頷くしかなかった。 《3》 行為が全て終わった時、突如何者かの脚によって部屋の扉が派手に埃を立てて吹き飛んだ。 「わっ、ゲぇホっ、ゲホッ!! 誰だ、人が話してる最中に扉ぶっ壊してズカズカ押入るやつは!! ってオレガノさん!?」 彼は悪びれる様子もなく、誰かの首根っこを掴んだまま部屋に闖入して来た。 「素っ裸で何やってんだ、お前ら?」 「お、オレガノおじさん!? ていうかなにやっているのって、それ私たちのセリフなんだけどっ!?」 「僕ら二人の、こ、恋を応援してくれるんじゃなかったんですかっ⁉」 「あ、なるほど、事後か。 まあ、真昼間からお楽しみのところお気の毒だが、そういうわけにもいかなくなっちまったんでな」 オレガノが何者かの首根っこを放すと、くたびれたサンドバッグみたいにボコボコにされた彼はあっけなく倒れた。 「……このカノル団長から全部話を聞いたぜ。 姫サンよォ。 まずはけじめってもんをつけにゃならんのじゃねぇか?」 彼はアイルの心をヘラヘラ嗤いながら、ぶった切る。 こういうタイプのやつを……、どこかで見たことがある。 僕の昔の友人に居たのだ。 彼のような系統の人物を、人はこう呼ぶ。 「殺人の罪で御用だ、贖罪しやがれアイル・イン」 『嗤う正論』と。 《4》 そのままアイルは、重罪人として檻車に入れられ四色連合王国の連邦裁判所へ連行されることになった。 僕には重要参考人として出頭命令が下された。 「オレガノ、あんたは一体何者なんだ?」 馬車の中で僕はオレガノに問う。 「さあ? ……まあ強いて言えばしがない連邦憲兵隊の回し者ってところだな」 「てめえ、『赤の王国』の犬だったのかよ……。 道理で他の奴らと毛並みが違うと思ったぜ」 「俺が弁護官だって言った時点で正体バラしてるようなもんなのに、気づかないなんて間抜けなやつだな。 それにいつもの敬語はどうした?」 奴は、僕をせせら笑う。 お門違いとでも言いたいのだろうか? 笑われる理由がわからない。 「今は心の底からお前を軽蔑してるよ。 アイルを気遣うふりして本当はあの子を逮捕しようと企んでいたのか。 この卑怯者」 憎しみを込めて睨みつけてやった。 「『罪は罪、情けは情け』ってよく言うじゃねぇか。 潜伏捜査を仕掛けたのも、事を荒立てずに穏便にしょっ引くためだ。 それに、どちらか一方の証言だけを信用するわけにはいかねぇんだよ。 俺だってたとえ親しい奴が罪を犯したとしても、罪人として扱うべきでないときは普通に人として接する。 お前もいい加減割り切れ。 俺も……、あの子にしてやれる事は出来る限りするつもりだ」 この男の行動原理が分からない。 何を基準にして善悪を判断し、人と接しようとしているのかわからない。 なぜ、何故、何故だ、と疑問の塊を矢継ぎ早に投げつけるとやつは悲しげに笑った。 「公私の分別ができてると言やぁ聞こえはいいが、俺も自分の行動が理解できない時があるよ。 人並みの感情があれば到底やらないか出来ない事を、さっきみたいに平気でやっちまうんだからな」 なるほど、そういう男か。 コイツは『公私の分別』と『公私の分裂』を履き違えて苦しんでいる。 これでようやく納得できた。 「……あんたには聞きたいことが山ほどある」 白く眼をむきオレガノを睨みつけた。 「だがそれは法廷で語ってもらうぜ? 少年よ」 彼はくたびれた微笑みを浮かべたあと、人に恨まれるのはもう懲り懲りとばかりに黙り込んでしまった。四色大陸と白の大陸を繋ぐ『古の大橋』にそびえ立つ大門が見えるまでの間、馬車の中に沈黙が不機嫌そうに居座っていた。 《5》 私に下された判決は簡潔だった。 曰く、白エルフ保護区からの追放が実刑判決で言い渡され、加えて執行猶予付きの極刑が言い渡された。 後で聞いたけど、その極刑というのは―――。 「私が、拷問付きの、死刑に……?」 「そうだ。 君の彼氏のおかげで どうにか執行猶予を取りつけることができた。 もう判決が言い渡されたから、ちゃんと名前で呼ぶことにしよう。 前から姫サンって呼ばれるの、嫌がってただろう?」 護送用の馬車の中で抵抗できない様に魔力を吸い取られて、栄養失調気味だ。 体が怠くて頷く気にもなれない。 「いいかい? アイル、君は今まで幾人もの人の命を、『死にそうになってお腹がすいたから』という理由で奪っていった。 この判決が理不尽だという君の気持ちは、痛いほどよくわかる。 俺だって飢え死ぬか、誰かを食い殺すことで生き延びるか選ばなくちゃいけないのだとしたら、間違いなく後者を選ぶだろう。 ましてや体がそういう作りになってるのだとしたら尚更だ」 おじさんは私を優しく諭すように言い聞かせてくれた。 「全ての命の価値は同等だ、とか色々言われてるけど、少なくとも命の価値に差はない。 量なんて決められないんだ。 仕方ないことかもしれないけど、実際に君は人の命の尊厳を踏みにじった」 もう、私はどんな顔したらいいかわからない。 大怪我をしておなかがすいても誰も助けてくれないのに、人しか食べるものがなかったから、食べたら死刑だなんて。 世間は私に『死ね』と言っているのか。 あの時のレイヤ君の怯えた顔が目に浮かぶ。 もう、涙しか出てこない。 「だけどな? 社会は君たち白エルフの生態を理解せず、配慮すらしようとしない。 これは重大な差別だ。 どのみち当分は有給休暇を取るつもりだから、何か困った事があったらいつでも召喚してくれ。 そこの床に魔法陣書いておいたから、押せばいつでも駆けつける」 「ありがとう……、おじさん」 私はしなびた野菜みたいに保護室の柔らかい壁にもたれ掛かり、座り込んだままそう言った。 「まあ、当分は観察処分だな。 おとなしくしていれば数ヶ月で出られるだろうから頑張れよ」 そう言っておじさんは私に背を向けて保護室を出て行こうとする。 「待って」 おじさんが立ち止まった。 「今言ったことが本当なら、どうしておじさんは私を檻車に入れたの?」 私の問いかけにおじさんは答えない。 「どうして、私に本当のお仕事のことを、隠していたの? 私には――――、どうしてもわからないわ」 おじさんは振り向かずに、ただ肩を震わせていた。 「君みたいに、重い罪を背負った子供達を更生させる事が俺の仕事なんだ。 そのためには潜入調査が必要な時もある。 もし、あの場で控訴していたとしても、もし、あの時君を見逃したとしても、俺の訴えは聞き入れられないばかりか、弁護官としての俺の素質が疑われちまう。 君以外にも俺の助けを求めてる子供達はたくさんいるんだ。 だから――――――、ごめんな」 それだけを告げておじさんは部屋から出て行った。 悲しくてもう泣く気にもなくなれない。 自分がとても惨めに見えて、死んでしまいたくなる。 「……レイヤ君」 いつだったか、レイヤ君に教えてもらった歌を思い出す。 レイヤ君は、知らない異国の地の歌をわざわざ普段話している呪文語に訳して教えてくれた。 ただ愛する人の面影を思い浮かべて、名前も知らない歌を口ずさむ。 どうしよう。 また、涙が止まらなくなってきてしまう。 彼の面影に触れるように虚空に手を伸ばす。 「……かなさんどー愛しているわ、レイヤがなしレイヤ君」 《6》 「シッ‼」 『剛柔流空手・前方胴回し蹴り』 僕の強烈な前宙返りかかと落としが糸魔法によって動き回るかかしにとどめを刺した。 そして華麗に着地。 疲れが限界以上に達し、床に倒れこんでしまった。 「ハァ、ハァ……。 さ、すがに、ハァ、ゲホっゲホゲホっ、稽古が、ふぅ、キツ、過ぎたか……ハァ、ハァっ」 かれこれ2ヶ月近く、アイルを守るために強くなろうとしてオレガノにこの殺風景な四色連邦憲兵隊、赤の国支部大修練場を貸し切ってもらって稽古を積んでいる。 『どうしても貸し切りたいんだ』と頼み込むと、『だったら俺を憎むのをやめろ』とオレガノに言われ、渋々交換条件を飲んだのだった。 でも、もうそろそろこの生活を続けるのも限界かもしれない。 「でも何も考えないようにするためにはこれしか―――」 「よぉレイヤ、今日も精が出るな」 僕の顔を覗き込んでくるやつの顔が二重に見えるが、誰だかわかっている。 「オレガノ」 麻で織られた普段着姿のオレガノが立っていた。 「ホレっ、いつもの軟膏」 顔面に落とされた軟膏を反射的に受け取る。 「サンキュー」 早速疲れた箇所に軟膏を塗りたくる。 「これ、相変わらずサロンパスみたいにスースーするなぁ。 効き目もサロンパスそっくりだし」 「お前の言うそのサロンパスという薬がとても気になって調べてみたが、国立図書院の本棚片っ端から引っ張り出してもそんな薬なかったぞ」 「ありゃ、もうそこまで調べついちゃってるんだね」」 僕はおどけた態度でごまかそうとするがオレガノの訝しげな態度は変わる様子を見せない。 「そのカラテという見慣れない体術といい、ニホン語やオキナワ語といった変な言葉といい、お前の素性については前から怪しいところがあったが――――――、お前こそ何者だ?」 どうも今日は問屋が卸さないらしい。 「はぁ、そこまで尻尾掴まれちゃ観念するしかないね。 僕はね、『別の世界』の人間なんだよ」 僕は少しわざとらしく不敵に笑う。 「なんだお前、『陰界人』だったのか」 オレガノは少し意外そうな顔をする。 「へえ、他の世界の人間のことそういう風に言うんだっけ。そういえばすっかり忘れていたな。 まあいいや、それで僕をどうするつもり? 言っておくけど、元の世界に叩き出すなんて嫌だからね」 オレガノは目を瞬かせて「何言ってんだ?」と宣まった。 「俺は今日付で陰界人保護の報告書と、陰界人年金受給者証の申請書を出さなくちゃならないんだ」 「はへ?えっとそれってつまり」 今くぬやーこいつは何と言ったのか。 少々頭が混乱してきた。 「お察しの通り、お前はどこの国に行っても国賓クラスの人間として扱われ、陰界の叡智を求めて大陸中の人間が、お前のもとへ話を聞きに殺到する可能性があるのだ。 だが、申請と報告は原則秘密裏に行われることになっている。 面倒くさかったら黙ってればいいし、素性を告白するもしないもお前の自由だ。 喰うに困らないだけの生活は保障されるし、それでも金に困ればどんな年齢であったとしても仕事はあるぞ。 あと色々な特典もあって、国王に謁見する資格さえもらえるしな」 「は、はあ」 よくわからないが、お得かつ面倒なことになりそうだ。 「まあ、んなこたぁいいじゃねぇか。 とにもかくにも今日ぐらいはゆっくり呑んで休もうぜ。 今日はめでたい日だからな」 よくわからないが何かめでたいことでもあっただろうか? 僕は首を傾げた。 「まあ、お前が知らないのも当然か。 入っていいぞ」 オレガノの背後の入口から、見覚えのある真っ白い女の子が入ってきた。 「アイ、ル……?」 「レイヤ君っ!!」 僕らは駆け寄り抱き締め合った。 「私、ずっと寂しかったんだ……。 もうレイヤ君に、会えないかと思った」 「僕も、同じことを考えていたよ」 お互いの顔をじっと見詰めた。 「はいそこまで。 再会を喜ぶのもいいけど、そういうことをする時は時と場所を選ぼうな」 オレガノに注意されると僕らは慌てて離れた。 「オレガノ、これってもしかして」 「ああ、今日からアイルは仮釈放だ。 だから今日は祝杯をあげよう‼ 今日は俺のおごりだ‼」 「よっしゃー‼ 呑むぞー‼」 《6》 僕らは連れ立ってオレガノの行きつけの店へ向かっていた。 「あの店は鳥肉が美味いんだよ。 特にクルクル鳥の料理が一番美味しい。 酒と合わせるとたまんねぇな」 「へーそうなんだ、それは楽しみだね! ところでクルクル鳥って何?」 「お前の陰界で言うところのニワ鳥の仲間だな。 くるくる鳴くからクルクル鳥って言うんだ。」 思わず「へーっ」と相槌を打つ。 「クルクル鳥かぁ、聞いただけでお腹がすいてきちゃった。 でも……」 アイルの不安げな言葉に僕だけでなくオレガノまで怪訝な顔している。 「どうした? 不安なことあるんだったら、なんでも言ってくれ」 「……ありがとう。私ってさ、普通のご飯をそのままじゃ食べれないんだよね……」 確かに、何時もみたいに飯に魔法をかけている処を見咎められたら、不味いことになりそうだ。 「それに私、あまりたくさんの人と関わるのは種族的に少し苦手なんだ。 だからちょっと、遠慮しとこうかなぁって……」 彼女は伏し目がちにそう言った。 「あーそう言や、そこまで考えてなかったなぁ。 なあオレガノ、どうする?」 「二階席がワケありの人向けの席だから、どういう事情があるのか女将に簡単に説明すれば、自分と同じ悩みや事情を抱えた人が居る席に通されるから大丈夫だ。 しかも二階席はどれだけ飲み食いしても、通常の料金の半額なんだぜ!」 「じゃあそれなら……!」 「ムラの人もいるかもって事?」 オレガノは大きく頷いた。 「ああ、その通りだ!」 「ん~~~~~~っ! やったあっ‼」 彼女はよほど嬉しかったのか1メートル近く跳び上がった。 凄まじい運動神経である。 「私ね、私ね! 何年もムラに入り損ねてずっと後悔していたの。 やっと同族と会えるなんて、嬉しい‼」 彼女は喜びのあまり、舌がもつれそうなほど早口で喋り出した。 僕はこちらに来て半年以上しか経ってないので、半分以上が聞き取れなかった。 どうやらアイルから貰った指輪の翻訳効果は、装備者の熟練に応じて性能が上がるらしいが、どうも早口の口語までは聞き取れないようだ。 「待て待て、落ち着け。別に中に入ったからって他の人と喋れるわけじゃないぞ。 しかも興奮しすぎて顔が真っ白だし、口の中もネパネパしてるじゃないか。 一発で種族がわかっちまうぞ」 彼女はようやく我に返り、ますます顔を赤く、否、白く染めた。 「やだ、私ったら……」 僕はオレガノを見上げて「なあ」と尋ねる。 「アイルが興奮した時いつも口の中を見せないのってもしかして、ネバネバした唾を見られるのが恥ずかしいからなのか?」 「そういうことを本人の前で聞くお前の神経がどうかしてると思うぞ」 僕がデリカシーの欠けた質問をしたので、オレガノは僕を白い目で見た。 余計なことを聞いたからか、アイルの顔は紙よりも真っ白になっていた。 「ほら、お前が余計なこと言ったから彼女、口がネバネバしすぎて喋れなくなっちまったじゃないか」 「え、嘘ーん!?」 アイルは、舌が思うように動かなくて目を白黒させている。 やっと興奮が治まったのか、後ろを向いて固まった唾を吐き出した。 「あー、びっくりした……。 レイヤ君ったら最低! もう、絶対許さないんだから!」 アイルは腕を組んでそっぽを向いてしまった。 僕の失礼な態度に相当へそを曲げている様だ。 彼女の機嫌を直すにはどうしたら良いものか、としばし思案した後に、いいことを思いついた。 「オレガノ、ちょっと耳を貸してくれないか?」 「何だよ、込み入った話なら聞かないぞ」 「いいから、耳を貸せよ」 僕の強引な物言いに屈したのか、しぶしぶ耳を貸すオレガノ。 しばらく僕の耳打ちを聞くと、ニヤリとならず者の笑みを浮かべて「分かった、人払いすればいいんだな?」とだけ問うた。 僕も彼には「抜かるなよ」とだけ告げた。 未だにお冠のアイルから少し離れると彼女に路地裏へ手招きした。 「なによ、そんなところには何もないでしょ?」 「いいからいいから。 来てくれればきっと今もアイルが僕を好きだ、ってことがわかるよ」 アイルは怪訝そうな顔を隠さずに路地裏へノコノコついて行く。 ~イチャイチャ&ヌトヌトタイム中~ 「お帰り、どうだった?」 放心状態のアイルを連れて戻って来た僕に対して、オレガノが下品な笑みを浮かべる。 「ああ、すっっごい気持ちよかったよ?このモノ好キド変態」 引き攣った笑顔のまま、僕のこめかみのあたりに静脈がピシッと浮き出た。 秘め事から帰ってきた人様へ感想を求めるとは、このゲス野郎め。後で六連閂串破を食らわせてやろうか……。 だがいまはそんなことよりも、危なっかしい足取りでふらふらと歩き続けるアイルが物凄く心配だ。 仕方がないので、僕がよく愛用していた例の薬をふところから取り出す。 「おい、何だよそれ?」 「何って……、ああ、この精神薬の事? これは、リスパダールっていう薬でね。見ての通りこの封をピッと手で切って中の液状の薬を飲み込むと、自覚できないくらいほんの僅かだけ意識が遠のいて、気持ちが落ち着くっていう薬なんだ。 依存性などの副作用が少ない上に、三十分くらいで効くっていう利点があるだけど、果たしてアイルに効くかどうか」 オレガノは開いた口が塞がらないといったようすで呆れ返った。 「オイオイ、冗談じゃあるまいに!そんなに強力で優れた薬なんて今までどの陽界人からも聞いた事がないぞ?それ、麻薬かなんかじゃねぇの?怪しいな」 僕からすれば彼の疑いは愚問中の愚問だったので、思わず一笑に付してしまった。 「その仮定が事実だとしたらさ」 「だとしたら、なんだよ?」 「僕はもう薬物中毒患者になっていて、この前みたいに虚憑き(うろつき)を倒すなんてできなかったはずだろう?それにそんなに強力な効果を持っているなら、僕は今頃お陀仏さ」 神妙な顔で首をねじるオレガノ。 「むぅ、言われてみれば確かにそうだ。だがしかし、お前の故郷でしか手に入らない貴重な薬なんだろう?だったら一包だけサンプルとして渡してくれないか?もしかしたら国の研究機関で同じような薬が作れるようになるかもしれん」 「そうか、じゃあ僕にもそこから先の話を聴くことについて条件がある。一つ、関係者以外他言無用を守る事。二つ、アイルにこれを飲ませる事を僕に許可すること。それでいいな?」 かなりきつめの条件を突きつけたが、オレガノは渋々僕の要求を飲んだ。 「ほらアイル、落ち着く薬だよ」 「……ありがとう、レイヤ君。……うぇぇ、苦ぁい」 それもそのはず、リスパダールはグレープフルーツの皮の搾り汁みたいな味がすることで、精神医療業界では大変有名な薬なのだ。 その悪名高いリスパダールを飲んだせいで、せっかくの端正な顔立ちが台無しである。 さて、アイルの手を引きながらオレガノと薬の引き渡しについて交渉を続ける事三十分。 やっと目が覚めて気が付いたアイルが、僕らの話し合いを興味深げに見つめていた。 「おお、アイル!もう大丈夫か?心配したじゃねぇか!もうさっきまでのボケっとした顔が元に戻らないかと思ったぜ」 「「それかなり失礼なんですけど」」 「……すんまそーん」 うっかり地雷を踏んだオレガノの気分は、あえなく撃沈した。 「そういえばずっと気になってたけど、レノ司祭が私達に会議で伝えたかった事って何だったんだろう?」 「あーそれはな。 どうも、アイルのお兄さんが『破壊神の真名』に取り憑かれたことについて、調べて欲しかったみたいなんだ。まあ詳しいことは店の中で話そう。 着いたぜ」 オレガノが目的地のパブを指し示した。 大きな木製の看板の両端に木彫りのうぐいすがちょこんちょこんと乗っているのがまた愛らしい。 看板には『夫婦鶯(めおとうぐいす)亭』という店の名前が彫ってある。 店のポーチの前に店の名前の由来が書かれた看板があった。 「興味あるか?」 「ああ、ちょっと筆記体だから僕には読めないんだが、代わりに読んでくれると助かる」 「合点! えーと、何々? 〘 『カラスと鶯』 とある森に日陰者のカラスがおりました。 カラスが頭上を横切ると不幸になる、という迷信が跋扈しており、彼は人様にも、獣様にも、鳥様にも、だあれにも迷惑をかけたことなんて無いのに、気味悪がられて避けられていました。 春になり恋の季節がやってきました。 それでもカラスは一人ぼっちです。 他の小鳥たちにモテモテのうぐいすを羨ましそうに見ています。 俺もこんな可愛い彼女が欲しいなあ、でも俺なんかにはやっぱり無理だろうな。 そう思ってその場を飛び去ろうした時。 「待って、一人で行かないで!」 うぐいすの声がカラスを追いかけます。 「昨日を嘆いたりしないで。 孤独なら私と一緒に塗り替えれるから、思い出してよ。あたしにいいたかったことを」 カラスはうぐいすの方へ振り返って叫びました。 「俺は君のことが好きだ! ずっと周りから不気味がられて寂しかった、だから! 君の事を一生守りたい!」 「ありがとう・・・、私もあなたのことが好きだよ。ずっとあなたのそばにいるわ」 実の所うぐいすは、あまりにも自分が小さいので、他の悪い鳥たちに食べられてしまうのでないかといつも怯えていました。 他の小鳥達にチヤホヤされていても気が気でありませんでした。 そこにずっと気になっていた力強くて優しいカラスが現れてくれたのです。 ウグイスもカラスも幸せな気持ちでいっぱいでした。 それを世界の果てから見ていた創造神の御主様は、二羽に祝福を与えることにしました。 ある日のことです。 創造神の御主様が森へやって来られました。 結婚式を挙げたばかりで、幸せいっぱいのうぐいすとカラスを、文字通り祝福しに来たのです。 創造神の御主様は、うぐいすとカラスの元に訪れ、こう言いました。 「あなたたちの結婚のお祝いに好きな姿に変えてあげましょう。 私がどんな鳥にしたとしてもあなた達は聖なる鳥になれます。 だからもう誰かに食べられたり恐れられたりすることはなくなるのです。 さあ何になりたいですか?」 カラスは言いました。 「御主様、俺はうぐいすになりたいです。 俺の妻のような優しいうぐいすになりたいのです」 「わかりました。 あなた達の望みを叶えましょう」 こうしてうぐいすになったカラスは妻と末永く幸せに暮らしましたとさ。 めでたしめでたし。 当店ではこのカラスとうぐいすの昔話をモチーフにして、日向者も日陰者も仲良く楽しく、 飲んで食べて騒いで、そして安心して帰れるような店を目指しております。 入ってみたはいいものの、カラスのようにお困りの方は是非ともお申し付けください。 当店の女将が承ります』だとさ」 「なんだか私たちみたいだね」 アイルが暖かい目で真っ直ぐに僕を見るので小っ恥ずかしくなってきた。 「そんな照れくさいこと、言われたらそっぽを向きたくなるじゃないか」 「気持ちはわかるが、そんなこと好きな女の前で言うもんじゃないぜ?」 「な、何でそれをおじさんが知っているの……!?」 「その様子だと告白もしたみたいだし、初体験も済んだんだろう?」 オレガノがピューィっと口笛を吹いて僕らの恋仲を冷やかした。 「ていうかおじさんこそ、私みたいなうら若き乙女の前で、初体験が云々だの言うもんじゃないと思うけど?」 アイルがジト目でオレガノを諌める。 「は、はうっ!」 うら若きって自分で言うかよ、と思いつつ僕は苦笑する。 何はともあれ、見事に言論ブーメランである。 「まったく、昔っからこうなんだから。デリカシーの欠片ぐらいポケットに突っ込んでおきなさいよね」 「す、すんまそーん……」 「死語になっちゃったギャグを今更言うなよ!うぅ、寒っ!」 普段尊大な態度ばかり取っているオレガノが、咎めれば咎めるほど縮こまる姿は目に新しい。 「まあとにかく訳ありの客が入る場合はあのケープを被るんだ」 「あ、誤魔化した!」 オレガノの指さした先には、なるほどケープが掛けてあった。 「あははっ! とにかく、これは姿を見られたくない人への配慮ってことね」 アイルは嬉々としてフードを被り、僕らとともに入店した。 「らっしゃい‼」 店の扉を開けると大将の威勢の良い声が出迎える。 中は人でいっぱいでとても賑やかだ。 「今日は何名様で?」 女将さんがすっ飛んできて、僕らの人数を聞いた。 「うぐいす一人と、カラス二人で」 女将さんは僕の顔をじーっと見つめると、「オレガノの旦那さんよ、この坊ちゃんのどこが訳ありで?」警戒心剥き出しでオレガノに不信感を訴えた。 「国賓クラスの上客がお忍びで来た、とだけ言っとくぜ」 オレガノが女将さんに耳打ちすると、途端に目の色が変わった。 「ワオ‼ ということは、『外』の方?」 「ビンゴだ!」 「アイ・シー(0なるほど)。 そちらのお嬢ちゃんは……、言うまでもなく『白』の方だね。 先に言っておくけど、ここは良くも悪くも治外法権だからね。 悪いことさえしなければ何をしてもいい。 細かいマナーはいろいろあるけど、それがここのルールさ。 さあ、どうぞお入り」 なかば巻き舌な南方方言―――――要するに英語――――――で隠語混じりの会話が交わされた後、僕らは客室に通された。 部屋というよりはテントに近い体裁である。 もっと言うならばモンゴル民族のパオに近い形状だった。 「わー懐かしい! お母さんと暮らした部屋とそっくり!」 アイルが被っていたフードを外して歓声をあげた。 アイルの目が輝いてこっちまで嬉しくなってしまう。 「そうだろう? あと、ここの料理だけじゃ口に合わないだろうから、お嬢ちゃん達の伝統料理を特別に用意しておいたよ。 好きなものを頼みなさい」 女将さんは溌剌と笑顔を振り撒き、得意気にそう言った。 「それと歓迎の印に一杯好きなのをタダで注ぐから何がいいかい?」 「俺は蜜酒で」 「じゃあ僕は、炭酸水に果物の蜜を入れてくれるか? 香り付け程度でいいからさ」 「私は……、うん、決めた。 砕きアロエの牛乳割りに、わらべ酒をちょっとだけ入れてくれたらいいな」 女将さんは注文された飲み物に必要な材料を伝票に書き込むと「それじゃあ、これでも食べてお待ち」と言ってお通しが入った小鉢を三皿置いて去っていった。 メニュー表によると、なるほど、どうやら材料によって価格が変わるらしい。 定番のメニューはあるにはあるが、基本的に好きな食材と調理法を指定して、料理してもらうようだ。 なんでも、期間限定で巷で噂の料理人が来ているので、珍しい調理法を選択して特別発注できるらしい。 どうやらこのメニューは訳ありの客と訳なしの客が相席するとタダになるようだ。 それなら好都合なので、後で熟成クルクル鳥の低温丸焼きを頼むことにした。 「さてさて、小鉢の中身は、お! キャベツのサワークリーム漬けか。 うまそうだな」 「もう私、お腹ペコペコだよ……。 早く食べよう」 アイルがそう言うと、オレガノはおしぼりでよく手を拭いて、手づかみで食べだした。 アイルはというと、いただきますの代わりに『ウォ・ラハ・マテラミゼ』と詠唱すると、一瞬で普通のキャベツが半透明のキラキラしたキャベツへと変貌した。 分子構造が変質し、キャベツの成分が魔子化したのだ。 彼女は、それを両手に取って美味しそうにかじっている。 小リスみたいで可愛いなぁ、などと思いながらアイルの幸せそうな笑顔を眺める。 それにしても、何度見てもここの食文化には慣れることがない。 「どうしたの?食べないの?」と不思議そうな顔でアイルが問いかける。 「ああ、実はレイヤってな」 オレガノは周りを見渡し、僕ら以外誰もいないことを確かめると、アイルに「耳を貸してくれ」と頼んだ。 アイルは、しばらく僕の素性についてオレガノの言葉に耳を傾けていると、顔がだんだんぽかんとしてきた。 「本当にレイヤ君が?」 「そうだよ、僕は陽界人さ。 こっちの世界の食事にはなかなか慣れなくてね。 だから、箸はないかい? 二本だけあれば十分なんだけど」 オレガノは、懐から携帯辞書を引っ張り出して何かを調べ出した。 「えーと、ちょっと待ってくれ。 ハシ、ハシ、ハシ、あった! ハシ。 食器の類で二本の棒のことを指す。 だいたい、握りこぶし一個半の細長い木材として加工されることが多い。 また竹で作られることもある。 ……なぁ、お前こんな棒きれ二本だけで 飯食っていたのか?」 二人して僕を胡乱げな顔で見つめる。 「まあ、慣れれば簡単だよ。 今はいつも通り手で食べるけど。 ……、これ、旨っ!」 キャベツのサワークリームマリネとでも言うのだろうか。 ヨーグルトのような爽やかな甘みと酸味が、パリパリキャベツによく合う。 これだけで飲み物がいくらでもいけてしまいそうだ。 テントの掛布が開いて、女将さんがお盆を持ってやってきた。 「あいよ、お待ち遠様。 蜜酒と、砕きアロエの牛乳割りと、三種の果汁の炭酸水割りだよ。 それじゃあ、ごゆっくり」 運ばれた飲み物は、氷の盃に注がれて、どれもキンキンに冷えていた。 でも量が結構少ない。 不満たらたらでオレガノに尋ねると、彼はおかしそうにカラカラと笑った。 「あーこれは、乾杯用だから少ないんだよ。 乾杯した後に気に入って注文すれば、どでかい水差しに入れて運んで来るから、いやというほど飲めるぜ」 「へー、そうなんだ。 それじゃあ、そろそろ」 「「「乾杯‼」」」 三人揃って各々飲み物を一気飲みする。 「くぅーっ‼ 美味い‼ まさか酒飲める年頃の子が更生してくれて、しかも一緒に飲みに付き合ってくれるなんて思ってもみなかったぜ……。 この一杯のために生きたい‼」 「それもいいけどさ、まず話すべきは本題じゃない?」 たまんねぇーっと唸るオレガノに素早く水を向けた。 「そうだよ。 私、その話を早く聞きたい!」 僕が戻した話の流れにアイルが追随する。 「おう、そうだった。 酔いが回らないうちに話しておかないとな。 まず、何から話すか?」 僕はアイルと顔を見合わせて「まずは一番大事な話からかな」「そうだね」と掛け合い、合意した。 「アイルのお兄さんがどうなったのか知りたい」 「そうだね、ちょうど私もその話がしたかったところだよ」 「じゃあその話で決まりだな。 まず『破壊神の真名』というのは何か、って事から話さにゃならねぇんだ」 オレガノは気遣わしげにちらりとアイルの目を見た。 「アイル、君のご先祖様のことを話してくれるか?」 「むしろ、モトイくんには本当のことを知ってほしいからちゃんと話すよ」 「そうか……、なあモトイ。 これから話す事はあまり人の前でペラペラしゃべるんじゃねえぞ? 公衆の面前で話しゃぁ、下手すっとそういう組織に殺されるからな」 どこの世の中にもそういったヤバい組織というのは存在するものだとしみじみとそう思う。 何より死んでしまっては元も子もない。 「わかった。 絶対に人前では話さない」 僕は決意を込めた面持ちでこの場に誓った。 「よし、それでいい。 破壊神の真名についてよくわかる昔話があるからそれを聞いた方が良いな。 この話については、俺なんかよりも当事者の末裔が詳しいだろうからアイルに任せよう」 「分かった。 まずいくつか確認しておくけど、 レイヤ君はこの大陸が空に浮かんでることは知ってるよね?」 「ああ、もちろん」 「ならいいよ。 あのね、これはまだこの大陸と星がかけ離れてなかった頃の話なの。 幾百にも分かれた国々は隣の国同士で憎しみ合い、大陸中の国が自分の国を守ることに固執していたんだって。 要するに戦争待ったなしの時代だったんだ」 「なるほど」 彼女の語り方が上手いのですぐにその情景が浮かんできた。 「その中でも一番大きい国があった。 それは私のご先祖様が造った国。 『白の帝国』よ。 魔導機械で栄えた国だったと聞いてるわ」 「ほー、凄いな」 「この話を最後まで聞けば、褒められたことじゃないっていうのがよくわかるよ」 アイルは憂鬱な面持ちで若干俯いた。 僕の頭の中に大量の疑問符が浮かぶ。 この影のかかった顔に、どんな意味があるのだろうか。 「……いずれにせよ始まる争いに備えて、私の先祖達は、とある最終兵器を用意していたの。 それこそがの禁忌の力。 『破壊神の真名』よ」 思わず固唾を飲み込んでしまった。 「皇室は自分たちの権威を誇示するために、星と大地を繋ぎとめる大いなる力、龍脈を丸ごと根絶やしにしたの。 その代償として『破壊神の真名』を帝国の首都で儀式の焔を上げたことによって、復活させたわ。 古文書に記されし『破壊神の真名』によってもたらされた惨害を丸ごと無視して、ね。 そして、真名との適性が高い皇族から一人を引っ張り出してきて、ゼ・ノンと名付けたの。 するとどうなったって言ったっけ?」 僕は気まずい沈黙の後、何とか重い口を開いた。 「大陸はボロボロになって宙に浮いたんだよね?」 「正にその通り。 その帝国の首都を大災害の中心として、津波と溶岩が一緒くたになって、荒れ狂う天地の暴威により、何百万、何千万の命が一瞬で消えたと言われてるわ。 でも、惨劇はそれだけじゃ終わらなかった。 カーバンクル、ハルピュイア、ケットシーの三種族が完全に絶滅してしまった……。 でも、何もかもが根絶やしになってしまったわけじゃないよ。 レイヤ君が使っている磁力魔法の習得者が生き残ったの。 空に浮かんで行くバラバラになった大地の中でも一番安全な所を選んだから、皆同じとこに集まったと聞いているわ。 奇しくも十の種族のうちその生き残った七つの種族たちは、それぞれの国の王族に関わる人達だった。 そして責任のなすりつけあいと、醜い争いが始まったの。 そして誰かが言った。 『結局誰が一番悪かったんだ? いつもは諍い合いながらもなんとかやってたじゃないか。 国と国のバランスを崩したやつが、一番悪いじゃないのか』と。 そして一斉に全員の目が私の先祖に向いたわ。 『六対の目が向く』っていう、故事成語にもなっている程有名な話だよ。 そして私達は、他の人々から心底軽蔑されるようになった。 ――――――その忌まわしい力が、お兄ちゃんに宿ったかもしれないってわけ」 「しかも未だに奴の足取りは掴めていない。 分かっているのはこの子の兄上だっていうことと、白エルフの若い男性であるということ。 たったこれだけでは探しようがないんだ。 後はこの子の記憶を頼って行くしかない」 「そうか。 君はこれからお兄さんを探しに行くんだね」 「そうだよ。 ……レイヤ君もついてきて、くれるよね?」 アイルは見捨てられそうになった仔犬みたいな顔をした。 「もちろんだよ。 あの日君を助けた日から『僕は君を一生守る』って誓ったじゃないか。 放っておく訳ゃないだろう?」 僕は不敵にもニヤリと笑った。 「レイヤ君……」 アイルの潤んだ目が柔らかな視線を僕に注ぐ。 「何より僕は君のことを愛してる。 だから最後まで君のそばにいるって決めたんだ。 僕はどこまでも君に付いていくよ」 「――――ありがとう」 和やかな雰囲気の中、さっきからオレガノが難しい顔をしている。 どうしたのか、と口に飲み物を含みながら視線を送ると、彼は新聞から顔を上げ、決まり悪そうな面を僕らに向けて鉛の様に重たそうな口を開いた。 「……実はな。 あと半月をめどに『六族連合』が『魔人狩り』を行うって噂を各地のコーヒーハウスで聞いちまったんだ。 この新聞の情報から察するに、どうやらガセネタでもないらしい」 アイルが驚きのあまり思いっきり童酒を吹いた。 目を白黒させながら苦しそうにむせるので慌てて背中をさすってやる。 「あの六族連合が活動を再開したですって!?」 「そうだ。 しかも、奴らは最近このあたりに大規模な支部を作ったそうだ」 「そんな……、最悪じゃないの!!」 どうやら大規模なテロ組織のようなものらしいが、僕にしてみれば二人の話から遠ざかってしまっている感が否めない。 二人にしてみればわざとでは無いのかもしれないが、こちらとしては堪らないではないか。 「ちょ、ちょっと待ってくれ。 僕は陰界人だからよくわからないけど、その六族連合ってのは新聞の記事とかでチラチラ見かけていたけど、白エルフを弾圧している組織って事でいいんだよな?」 僕はぶっちぎれたテンポで始まった話題のスキマに、無理矢理質問をねじ込んだ。 オレガノは深刻な顔で腕を組み、重々しくうなずいた。 「その通りだ。 ……端的に言えば『魔人狩り』っていうのは、白エルフ大虐殺の事だ」 「……大、虐殺」 そこまでおぞましいことがまた違う世界でも繰り広げられるなんて、この瞬間まで夢にも思わなかった。到底信じられない。 否、僕はただ信じたくないのかもしれない。 片腕をなくした祖父から聞かされた【沖縄戦争】の光景が脳裏を駆け巡る。 余りの身震いにテーブルの食器がカタタッと振動する。 「……レイヤ、レイヤ!」 顎にアッパーカットを食らったみたいに顔を上げた。 様子が明らかにおかしい僕の顔をオレガノとアイルが怪訝そうに覗き込む。 「大丈夫?顔真っ青だよ?落ち着かないときの薬、用意しようか?」 「いや、ありがとう、でも止しておくよ。 ……それで、今後の行動計画についてなんだけど、オレガノよ」 「ん、なんだ?」 「確かお前、仮釈放のアイルを24時間体制で保護観察する仕事が残っていたよな?」 ああそうだが、とオレガノは胡乱な顔を向けて答えた。 「これは僕らの個人的な頼みなんだが……」 オレガノは話が具体的になったことでようやく得心したようだ。 「ああ、解っている。この件については職務上の義務でもあるんだが、個人的にも心配だしな。お前たちの旅についていくことにするよ」 オレガノの頼もしい宣言にアイルはパアッと顔を輝かせた。 「おじさん、それ本当!?」 「ああ、本当だとも。潜伏中に真風教会の騎士団の奴らとダチになったしな。向こうにも俺の部下がいるんだ。緊急時には前に取った杵柄で、何とか応援に来てくれると思うぜ」 「それは助かる。恩に着るよ、オレガノ」 オレガノはいつものように豪快に笑い飛ばした。 「いいってことよ!……それとな、『破壊神の真名』の事について情報収集したいならいい場所があるぜ」 この辺に大きなコーヒーハウスがあるとは聞いた事も無いし、はて、そんなにうまい話があるものだろうか? 「青の国の王立図書院に行ってみよう。そこなら何かわかるかもしれない。 何より維持神の御主(みぬし)様がまします聖域でもあるからな。そのお方は古い文献をこよなく好まれるがゆえに、なんと畏れ多い事に図書院長の職務を負っていらっしゃるという噂だ。 御主様の元を訪ねれば、慈悲深いあのお方の事だ。何か良い知恵を貸して下さることは間違いない。あと、青の国に行くにはこの呪文を覚えておけ」 「どんな呪文なの?」 よくぞ訊ねてくれた、と言わんばかりに自信満々の体でオレガノは精神を集中させた。 『ウォ・ラハ・ブリーザル・フィング』 詠唱が終わった途端、オレガノの手からぼたぼたと水が滴り落ち始めたではないか。 そしてオレガノは、魔法が掛かっていない方の手で卓上に置いてあった水瓶の中に手を突っ込んだ。 すると、驚くべきことに手の表面だけ、空気のベールに包まれたではないか、 「なんだこりゃ!魔法が掛かった手の表面の空気が水になったと思ったら、今度は周りの水が空気になっちまったぞ!?」 「すごーい!こんな魔法、見たことないよ」 「スゲェだろ?これが潜水魔法『ブリーザル』だ。よく覚えておけよ?」 だが、それでもまだ疑問は残る。 問題は、青の国に行くために何故潜水魔法が必要なのか。その一点に尽きる。 「そうだよね、だって青の国は『星の湖』の底にあるんだもの。酸素が必要な私たちがそのまま入国したら五分と経たずに溺れ死んじゃうよ」 「ああ、そういうことか」 「ん、何のこと?」 「いや、こっちの話」 反射的に不思議そうな顔を向けて素朴な疑問をぶつけるアイルをさりげなくあしらう。 僕の考え事を知ってか知らずか、アイルは僕の様子を気にする風も無く、あっさりと疑問に答えてくれた事に感謝しつつ、それ以上の無駄口を慎むことにした。 でないとオレガノの二の舞を演じることになりかねない。 「まあ、ここは一度飲み食いすれば三階に寝床があるから一泊素泊まりできるし、それから道順を決めよう」 「それもそうだね。何より六族連合が動き出す前に安全な場所を探さなくちゃ」 「まあ、その件については向こうで考えるとしよう」 一通りの行動方針が決まったので、話を締めくくることにした。 「じゃあ、辛気臭い話はこれぐらいにして、汝ゃーん踊ゆらーんが?(きみもおどらないか?)」 アイルは僕の誘いを聞いて、アーモンドの花の様に明るい笑顔を咲かせた。 「うん!」 ギターのような楽器をボストンバックから取り出した。 弦が三本しかない上、蛇革張りの胴と鮮やかな糸でハイビスカスの柄が縫いこまれた側面が印象的な逸品だ。 「わあ、すごい!」 煌びやかな装飾が為されたその弦楽器に二人とも驚きを隠せない様子だ。 「こいつは見事だな……」 「そうだろう、そうだろう?もっと感心してくれてもいいんだぞ?」 陽界人年金を受給した直後に、連邦憲兵隊修練所の近くの木工芸店でこっそり特注しておいたのだが、どうやら三日間昼食を抜きした甲斐はあったようで、僕は大いにホッとした。 「三線(さんしん)っていう僕の故郷の伝統楽器だよ。 『ガジュマル』っていう霊木で作られているんだ」 へーっ、とかほへー、とかいいつつ二人とも感心しながら物珍しそうに矯ためつ眇すがめつ観賞している。 「ちょっと貸してよ」とアイルがねだるので、「はい、どうぞ」と素直に渡してみた。 すると、アイルは弦をピックに引っ掛けては、持ち上げて放す、という独特な弾き方を披露した。 三振と言うよりも、もっと別の楽器の奏法に近いかもしれない。 「そういえばアイル達って、三線(さんしん)は初めて見るんだっけ?」 素朴な質問をぶつけると、二人は顔を見合わせてクスクスと笑った。 「私は本で見たことあるけど、実物は初めて見たの」 「俺も同じようなもんだが、……さてはお前、どうやって俺たちが練習したか気になっているな?」 いたずらっ子を諫めるようにオレガノはニヤリと笑った。 「あ、バレた?なあんだ、そこまでわかっているなら話の途中で教えてくれたっていいのに」 「種明かししちゃったら面白くないじゃないの、ねーっ?」 「なーっ?」 朗らかに笑いあうオレガノとアイルのすげない返事に、僕はテーブルに頬杖をついて不貞腐れた。 そんな僕を見て二人は一層おかしそうに笑う。 「さて、皆で気分転換するんだろ?さっさと始めようぜ」 そう言ってオレガノはいかつい顔に全く似合わない気障ったらしいウィンクを飛ばした。 全く食えないやつである、と呆れ半分、諦め半分の体で肩をすくめ、僕は鼻から息を吸って大きく息を吐き、ニッカリと笑った。 「ああそうだな、踊るぞ、アイル!」 「了解!!」 「曲は任せたぞ、オレガノ!!」 オレガノにその楽器を手渡すと彼は不敵な笑みを浮かべた。 「『唐船どーい(からふねが来たぞ)』だな?合点承知!」 音高く指笛が鳴り響いたのを合図に、蛇革の三振から陽気な音色が小川のように流れ出した。 すると、アイルが片面だけのタンバリンから、全ての金具を外した様な手持ち太鼓と、バチを荷物から取り出して、長い髪を振り乱しながら、逆巻く水のように踊りだしたではないか。 アイルはとても楽しそうだ。 「おい、オレガノ、あんな踊り見たことないぞっ! しかもあの楽器はパーランクーじゃないか! それによく僕の故郷のことを、ここまで……」 口をあんぐりと開けて呆然と固まる僕を、オレガノは得意げに見下ろした。 「実はもうすぐ釈放だからっていうことでこっそりお前の故郷のことを調べていたら、面白そうな歌と踊りを見つけたんでな。 俺は歌詞をアレンジしてみるのも面白いかと思い、 彼女は白エルフ民族に伝わる『白風』って いう民族舞踊とお前の故郷の『エイサー』っていう慰霊祭の踊りを見事に融合させたんだ。 その結果があれさ」 「スゲェ!! もうこりゃただのエイサーじゃない。 エイサーを超えた……。 『白風(しるーかじ)エイサー』だっ!」 「そりゃあいいや!そんじゃぁ、一丁行ってみるか!」 〽「唐船(とーしん)どーい!」さんってまーん 一散走ーえーならんしぃやー (「唐から船が来たぞー!」と皆が騒いでも一目散に走らないのは) 若狭ぁ、まぁちぃ村ぬ瀬名波(しなふぁ)ぬ、たぁんめぇ! (若狭町村の瀬名波のおじいさんだよ!) 「「はいや、せんするゆいやなー!」」 「「「いやぁっさっさっさっさっさぁっ‼」」」 伝統舞踊であるカチャーシーの形も忘れて跳び上がる。 最高に楽しい‼ 「楽しーいっ‼」 「そうだろう、そうだろうっ?」 「私、歌詞を覚えてるんだ! さあ、もう一番行くよ‼」 〽「歌れ歌れ‼」さんってまーん 私(わー)が歌うてぃわな置(う)ちゅみさー? (「歌え歌え‼」と言ったとしても、 私が歌わずにいられるかい?) 「「ゆいやなー!」」 さらば立ちゃいさ歌ゆーてぃ見してぃ! (それならひょいと立ち上がって歌ってみせよう!) 「「はいや、せんするゆいやなー!」」 「「「いやぁっさっさっさっさっさぁ‼」」」 「なてぃち(もういっちょ)、なてぃち(もういっちょ)!あいやいやさっさ!」 後から来た白エルフの人達が、隣のテントの掛布から様子を伺っている事に気が付いて、反射的に手招きした。 「らーらー(なぁなぁ)、いったーん踊ゆらーんが(きみたちもおどらないか)!?」 なんとなく語感は伝わったようだが、彼女らは「見てるだけでいいよ」と遠慮する。 「何にも遠慮することはないよ! 『行逢りば兄弟(であえばきょうだい)』やさ‼」 「え、良いの?」 白エルフたちはあっけにとられた顔をした。 「いい!(うん!) 『何ぬー隔ふぇだてぃ有が?』 (何の隔たりがあるかい?) りっか、めんそーれー! (さぁ、いらっしゃい!)」 「よっしゃあっ、踊るぞ‼」 「さぁ、今度はあたしの番だ‼」 他の白エルフたちも沖縄の風に巻き込まれ、辺りに凄まじい活気が渦巻く。 「なんつーグルーヴだよ!最高だな、オレガノっ!」 「ああ、そうだな!!俺も最っ高にワクワクしてきたぞ! もう好きに弾いて良いよなっ?」 「ああ、汝ゃーや清ら弾ちゃーやさ!(お前は立派な弾き手だよ!)」 オレガノが林を吹き抜ける一陣の風の様に爽やかで、且つ岩山の様にどっしりとした声で吟じ始めた。 〽青あおさ空すらぬ太陽てぃだや天てぃんぬ地にん (青い空の太陽は天の地にも) 「「ゆいやなー!」」 むにーぐとぅあかがいんやぁーっさー! (同じように明るく光るんだぜ) 「はいや、せんするゆいやなー!」 「「「「「「いやぁっさっさっさっさっさっさぁっ‼」」」」」」 朝まで飲んで歌って騒いで、そして夜明けを迎えた。 《幕間》 「敵襲、敵襲だァァ!!六族連合が来たぞォォッッ!!」 早朝から何ということだ。 あちこちでフライパンとおたまが打ち鳴らされ、人種差別主義武装集団の襲来に誰もが慌てふためいている。 「レイヤッ!!俺は店の入り口で虐殺を食い止める!! お前はアイルを連れて逃げろ!!」 連合員を至近距離から殴り飛ばしまくるオレガノは、背後の僕に決意を表明した。 自分たちだけ逃げることに躊躇する僕に、「大丈夫だ、俺の腕を信じろ!」と笑い飛ばす。 その言葉通り、六族連合員からの執拗な追跡を受けながらも、どうにか撒けた。 「あれ?おじさんがいない」 どうやら、はぐれてしまったようだった。 《 第三章・青の章》 「おおー、ここが城下町か、すげーな」 僕はアイルとともにアイルの兄であるケインの足取りを掴むべく青の国王立図書院へと向かっていた。 たくさんのイルカになりかけたような人々が、泳ぐように空中を漂っている。 いまだに信じ難い光景だが、もう慣れてしまった。 「あたりまえだ、これはあたりまえなんだ……」 『当たり前ではない』が『これは当たり前』と思っておこう。 そう、僕らは水の中で呼吸をしていて、彼らは水に生きる人類、『アクエリアス』と云う種族なのだ。 そしてここはそんなアクエリアスたちが住む湖底王国「青の国」なのだ。 「あたりまえあたりまえ、あたりまえ体操♪」 「大丈夫? 水中酔いしすぎて頭おかしくなったの?」 常識を改竄しようとして、変な行動に走った僕を、フードをかぶったアイルが辛辣に揶揄する。 「い、いや、この国のいつもの風景ってやつが信じられなくて、つい古めのギャグを……」 「…………面白くない」 「いや、はは、参ったなぁ」 挙動不審を隠せない僕をジト目で見るアイル。 相変わらず彼女は変わっていない。 全くいたたまれないが、彼女のそういうところも僕は好きだ。 「いや、そんなことよりも先を急ぎましょう」 「そうだな」 そんなたわいない話をしながら何気なく市場の曲がり角を通り過ぎたのだが、何か小さいものにつまずいて転んでしまった。 「イテテ……」 「大丈夫⁉ 怪我していない? って、うわ、何この薄汚い油みたいな軟膏? レイヤくんったら、何時の間に付けたの?」 「大丈夫だよ、僕のことは気にしないで、って、あれ? ほんとだ、なんか変なのがついてる。 しかもなんか切り傷みたいで痛いんですけど」 「変なの」 僕らの声が重なった。 着いちゃったものは仕方ないので、放っておこうということになった。 それにしても立ち上がってみたらやけに体が軽い。 なぜだろうと思いながら、ポケットを探ってみると。 「無い」 「へ?」 「身分証と金スられた」 「はあ⁉ なんですって?」 僕の顔は目の前の彼女と同じぐらい真っ白に血の気が引いて、彼女は言外に信じられないと言い、今度はそのことに対してショックを受けて蹲った。 「嘘だろ? あの旋風つむじかぜの言い伝えは、本当に……。 いや、でもあれは江戸時代まで信じられてきた迷信であって、でもここは日本じゃないし、異世界だし……」 「何をぶつくさ言っているのかさっぱり分からないわ。 だから……、落ち着いて、ゆっくり考えてることを話してよ、ね?」 「ぁ」 気づくとアイルがそっと僕の手を包む。 僕らは額と鼻がくっつくくらい顔を近付けて見つめ合った。 「私の目を見て」 「………」 手を取られて彼女の目を見つめていると、なんだか興奮してきた。 それになぜだろう。 これだけ優しくされてるのにだんだん気が立ってくる。 「お母様が教えてくれた大切なおまじない。 モトイ君だから特別だよ?」 多分これは、彼女が今しがた行った『あの行為』が原因だろう。 「…………。 ありがとう。 君の好意は嬉しいよ。 でも僕の記憶が確かだとしたら、今のおまじないは最後にしてほしいな」 この言葉を紡ぐことに、僕は複雑な感情を覚えた。 「…………。 どう、して、そんなこと言うの」 アイルは哀切に満ち満ちた瞳を潤ませ、これ以上無いくらいに悲しそうな顔をした。 「そんなに悲しい顔をしないでくれ。 いいかい? アイル、君がやったおまじないというのは、僕の故郷では『ハンドリング』と呼ばれる技術なんだ。 これは長年修行を積んだ心のお医者さんじゃないと行う事はとても危険で、君のような素人が行うとヘタをすれば人の心を壊しかねないんだ、だから」 「大丈夫だよ」 思わずホッとしてしまうような救いの声が僕の訴えをぶった切った。 「私はレイヤ君の言う今のハンドリングを失敗してなかったんだから」 気のせいだろう、きっと気のせいなのだろう。 気のせいだと思おう。 世界が悲鳴をあげた気がした。 そして僕は彼女の言葉に安堵した。 そう、不自然なくらいに。 潮の流れが変わった。 「……どうして、僕はほっとしてるんだろう」 素朴な疑問に。 「これもお母様の『おまじない』だよ」 オマジナイ。 彼女は涙をふいて暗号じみた答えを返した。 次の瞬間、僕は得体の知れぬおぞましさに分子レベルで振動した。 魔人化して辺り構わず喰らい殺そうとした、あの時の彼女ならともかく平時の彼女に恐れを抱くなどあってはならないことだ。 努めて冷静に振る舞おうとする。 「ねぇ、モトイ君」 十四歳の齢ながら、放射能じみた色香を漂わせ、彼女は艶やかに僕の名前を呼ぶ。 いつもの天衣無縫さ、無邪気さはどこへいったのだろうか。 もはや僕が恐れている事に対して彼女が何の気遣いもない事自体が『――』なのだ。 『――』ってなんだ? いや、それよりも。 「ぬ、何ぬーがよー? アイリ愛がなし……」 沖縄口うちなーぐちが出てしまったり、体が震えているにもかまわず最大限の愛情を込めて愛しき人の名を呼ぶ。 「私、レイヤ君のこと」 究極の緊張状態を僕に強いるこの空気は一体何なのだ。 「全然無関心なんかじゃないからね?」 愛の反対は憎しみではなく無関心であると、どこかで聞いたことある。 だとしたら彼女の愛情表現は、かなり遠回しだし、それに………。 「もう、怖がらないのっ。 レイヤ君は変に難しく考えちゃう癖があるからね」 「そう、だね」 今の今まで漂っていた薄ら寒い空気を吹き飛ばすように、アイルは茶目っ気たっぷりに笑った。 「ところで、モトイ君は、『シャンカ・スピラ』が作った『マクベス』って知ってる?」 何となく違和感を覚えたけれど、彼女が話題を変えた途端に恐怖なんてどこかへ飛んでいってしまった。 「それ、南部方言でシェイクスピアのマクベスだろう? 『綺麗は汚い汚いは綺麗』で有名な劇だっけ」 「そうそうっ!」 何だか妙にご機嫌な様子だが、藪を突いてヤマタノオロチでも出たら堪ったものではない。 過度な上機嫌のためか、まるでプリズムのように希望の光が彼女の瞳の中で複雑に乱反射していた。 「う~ん、名前だけだったら知ってるけど、内容は知らないや」 「そっか……陽界に住んでいたモトイ君だったらわかると思ったんだけどな……」 だがその瞳は昏い夜のとばりに包まれたかのように、徐々に色を失っていった。 明らかに落胆している様子が空気の読めない僕でもわかるほど伝わって来たので、やや無造作に彼女を励ますことにした。 「まあいいじゃん、そんなことより早く下手人を捕まえないと」 「レイヤ君って実は結構がさつだったりして」 「放っておいてくれ」 湿った手を掴んだまま駆け足で向かう。 「下手人はだいたい想像がついている、が、確信には程遠い」 「それで、その泥棒さんの正体って何なのかな? そこからだよね」 「ザッツライト! その通りだ。 奴らの正体はその昔、僕の故郷ではこう呼ばれた」 大通りにさしかかった僕等は案の定の結果を目撃した。 その光景は実に滑稽だった。 「風の怪異『旋風つむじかぜ』と」 無辜の人々を突き飛ばし、 ザラザラした彼らの肌にざっくりと刻んだ傷に、ご丁寧にもまあ、 薄汚い塗り薬をこれでもかと塗りたくってお代を頂戴いたします、とばかりに金品を巻き上げ売り物をかっさらっていくだなんて。 商店街の商人たちが嘆いている。 「なんて厚かましいマッチポンプ押し売り商法なんだよ‼」 「あぁんのアクォボルトどもめ‼ 毎回毎回店の売り上げをぶんどりやがって‼ ああ、ヨメさんになんて申し訳立てたらいいか……」 これでは伝承が本当になった上に、旋風の話に四人目が加わってしまった様ではないか。 こんな間抜けな状況を作り出したアクォボルトとやらに賛辞と喝采、そして拳槌と蹴撃の両方を贈りたい。 「これ、どう見ても私たちの出る幕じゃないわね」 アイルは、十四歳らしからぬ超然とした言葉とは裏腹に、呆れ半分脱力半分といった様子で気怠げに唸った。 「それは同感だよ。 こういう事件は『衛公』の役割だろ」 僕の物言いがさも驚くべきことかのようにわざとらしく僕の顔を覗き込む。 「あら、随分と迂遠な言い回しね? いったいどこでそんな隠語を覚えてきたのかしら」 いきなりつっけんどんな態度とっておいて目だけいたずらっぽく笑ってるあたり、実のところこの子はちょっとツンデレなのかもしれない。 僕にしか見せない彼女なりの愛情表現なのだろう。 彼女の今のような態度を見ればきっと誰しも怒るだろうが、このやりとりも愛情ゆえである。 「ははは、嫌味なぐらい遠回しに愛さんどーとぅあいしているよって言ゃんいう、汝ゃーんかいやきみには言われたくないね」 沖縄口うちなーぐち混じりに皮肉を嘯く僕の言葉に、親愛の情が見え隠れしてるのは自覚している。 僕の―― 正確に言えばどこぞの弁護官殿と僕の――持論だが、僕は『愛の代償は愛である』という主義を貫くことにしている。 だから僕らはわざとらしく大げさに乾いた笑い声を上げ、皮肉を宣うフリをしてふりをしてじゃれ合うのだ。 「「ぷっ!」」 でも、それもいつしか耐え切れなくなり、本気で笑い出す。 笑って、呵って、咥って。 「あははっ!あ~あ、何かお金の事なんかどうでもよくなっちゃった」 「僕もだよ。 それに陽界人手帳だって、ここは四色連合国の一国なんだからまた再発行できるしね」 持ち物のことはすっぱり諦めることにした。 そして本来の目的のため歩きだそうとする。 「おーい。 そこ行く未成年リア充カップルやーい」 天下の大通りで人聞きの悪いことを叫びながら、ハンカチのようなものを両手に持って凄まじい勢いで猛進してくる人物に、僕は勿論のこと、特にアイルが顔を顰めた。 美少女が台無しである。 彼は人間離れした跳躍力でかるがるとシライグエンをやってのけ、なぜかウサインボルトポーズを決めてかっこつけ始めた。 世界最高峰と謳われるあれだけの技をしかも町中で決めたのだ。 かっこつけたい中二心はわかるし、 実際町の人から拍手喝采を浴びてるし、観客も演者も勝手に喜べばいいのだが。 「なんなのよあなた」 「汝いゃー、誰たーに?(お前、誰?)」 僕らは、着流しの腰に脇差と刀を佩き、肩を上下させて全力で息切れしている黒髪の優男にこれ以上ないほどわかりやすく胡乱げな目で「お前、誰?」と言った。 なぜならば、『オナカマ』の臭いがプンプンするからだ。 そう、 同じ発達障害者としての雰囲気が、本人の自覚しないうちに周りに強烈な印象を与えてることに、此奴くぬやーは気づいていない。 「まあそう不機嫌な顔をなさるな。 せっかく恥を忍んで仲睦まじい幸せなカップルのもとへ、恥ずかしい落し物を届けに来たのですから。 ぐぶっ。 いたたたっ! は、鼻血が」 剣士は懐から布巾を取り出し、 鼻血を拭いてるが、止まるどころかどんどん垂れ流している。 それ見たことかありひゃーと心中で呟いた。 人は、自分の限界を超えた身体的能力を発揮すると、負荷に耐え切れず、体のいずれかの箇所に内出血を起こすことがあるという。 彼が、その恥ずかしい何かにに興奮して鼻血を垂らしたのではないと、そうであることを信じたい。 医学的にありえないと実証されてるのでそんなことはないはずだ。 それにしても無茶をしすぎであるし、普通は一日安静にしていなければならない。 それにしても彼の言うことは、何のことかさっぱり分からないが、自分もこの手の人物なので対処法は知っている。 一つ、 最後まで彼の者の話を聞くこと。 二つ、 彼の者の前で主語を省略したり、代名詞を使うべからず。 三つ、 彼の者は基本的には人を疑うことを知らない善人であると同時に、この世で一番空気の読めない部類の人間也。 四つ、許し、理解せよ。 五つ、避けるな危険、逃れば地獄。 対ASD当事者との接し方は以上である。 この心得は隣で怯えているアイルにも、事前に伝えてあるので心配は無用だ。 ゆえに、僕は彼の話を聞き、彼は僕らに何かを伝えようとする。 たぶん、おそらく、いや間違いなく、ここから先は『オナカマ』同士にしか理解不能なコミュニケーションが行われることだろう。 この珍妙なサムライモドキが吹き出る鼻血に悪戦苦闘中のせいか、なかなか喋ろうとしない。 「おや、それは失敬した。 して、貴兄は僕に如何な親切とともにどの様な恥ずかしいものを届けに来られた次第かな?」 なので、僕が先に相手に合わせてわざとエセ紳士っぽい勿体ぶった日本語で問いかけると、わざとらしい仕草で彼は大げさに驚いた。 「いやはやこれは驚いた。 まさか日本語話者がここにいるとは思わなんだ。 なに、……行うは易いが恥が邪魔する。 ゆえに、 路地裏にて渡ささせてはくれまいか?」 彼の口振りから察するに相当恥ずかしいものらしい。 「な、何言ってるの、二人とも……、 どこの言葉で何を喋ってるのかさっぱり分からないわ」 「お嬢さん、すまないが会話する際は我々は一対一というふうに決めているのだ。 どうやら彼は私が長年探し求めてきた同類らしい」 困惑するアイルへ両の爪先を向けたサムライモドキは日本語から呪文語へ切り替え、 彼女に引き下がるよう勧告した。 「どうして……、その、初対面なのにそんなことがわかるの?」 剣士はアイルの質問を噛みしめるように「どうして、どうしてか」と繰り言のように呟く。 「良ーい、質問だね!君は僕に興味深く問い告げて、対話の相手を恋人から自分に変更した。 本来ならなしえないことを君をやってのけた。ゆえに賞賛しよう、素晴らしい!」 剣士はアイルを理不尽にも褒め称えた。 可哀想な事に、アイルの視線がせわしなく泳ぎ続けている。とても狼狽しているようだ。 そんな彼女の様子を、剣士は解っているのか解ってないのか、 無視して勝手に話を続け出した。 「ふむ、それでは素晴らしい行いを見せてくれたお礼に、今のお嬢さんの質問に特別に答えてあげよう。 これはとても非論理的な答えなのだが、何せ我輩も特殊な部類の人間でね」 僕と剣士は目を合わせお互いの意思を確かめ合い、頷き合った。 「「直感だっ‼ この一言に尽きるっ‼」」 初対面とは思えないほど息を合わせてそう告げた。 「も、 もう私の理解を超えちゃっているよ」 アイルはドン引いてしまった。 嗚呼、可哀想に。生まれたての小鹿みたいにぷるぷる震えて、後退りしているじゃないか。 「だから言ったじゃないか、アイリちゃん」 だが、此奴くぬやーを前にして、ここで引くわけにはいかないのだ。 だって、なんか用があるみたいだし。 「お嬢さんは見ているだけでいいから、黙って居給え」 「「我らはこの会話に対して【オナカマコミュニケーション】という呼称を採用すると、ここに宣言する‼」」 僕とオナカマは、戦隊ヒーローのようにピシッピシッピシッと我ながら顔を覆いたくなるほど恥ずかしいポーズを決め、このままでは彼女がめまいを起こして卒倒しかねないので、ごめんねのウィンクも添える事も忘れずに彼女に宣告した。 「あ、あはは……、へー、そっかぁ……。 二人とも、初対面とは思えないほど仲良くしてるところ邪魔しちゃ悪いから、私、ちょっと向こうで休んで来るね……」 そういって、アイルがその場を辞去しようとした次の瞬間。 「危ない、止まれ!」 アイルの腕を無理やり掴んで引き留めると、目にも止まらぬ速度で彼女の目の前を紙一重で何か達が通り過ぎていった。 「嫌ァッ‼ 何なのこれっ!?」 奴らは僕らの周りを一般人に絡む暴走族のように周回している。 その速度は姿を視認できないほどだ。 「ちっ、さっきのアクォボルト共か」 「卑劣な輩どもめ……、して」 彼は強く剣を弾しながら、 流し目で僕を見つめた。 「如何にするか?」 「情けないけれど、正直に言って見切れない」 「そうか。 それは……」 剣士がそう呟いた後、彼の刀の鞘が熱く煌めき。 『柳生陰陽流抜刀術』 大焱に包まれた刀身が渾天儀のようにいくつもの円を描いて。 『陰剣・撫車【獄焱】』 剣花と血飛沫が雨後の彼岸花畑のように咲き誇り、地獄の業火とともにアクォボルトどもを葬った。 「遺憾也」 その剣を収めた姿は見事の一言に尽きる。 「次は強くなってることを願っているぞ、少年」 そう言って去っていく後ろ姿に「おい、ちょっと何か忘れてないか」と僕の声が追いかける。 「あ〜ああ、そうだった。 そもそも我等の出会いは落し物がきっかけだったね、………まあ、その、なんであろう」 剣士はゴソゴソと懐の中から取り出した例のブツを、僕らに渡そうとする。 「諸君のパンツがさっきのアクォボルトに盗まれていたから取り戻したのだ!」 彼は、汗にまみれてほっかほかの僕らの下着を握り締めていた。 「「ありがとう、こんの」」 僕らは各々羞恥に顔を紅白に染め、感謝と共に彼を睨め付けた。 『風人の拳』 『剛柔流空手・拳槌』 剣士の頭めがけてゲンコツが同時に振り下ろされ。 「「ド変態ッ‼」」 「申し訳ありませんでしたあぁぁ‼」 彼の叫び声が町中にどこまでもどこまでも木霊したのだった。 《2》 「それで? 結局のところ、あなたは一体誰なのよ」 先ほどの下着の替えがあったからいいものの、とにかくこの剣士の素性が知れない。 なので、アイルは本人に問いただした。 「これは申し遅れてすまなんだ。 我輩の名はヤギュウ・シンイチ。 青の王国近衛兵士団副団長である」 彼は身分証を提示して自己紹介した。 「諸君の噂は聞いたよ。 何でも人を探しているそうではないか」 「それが……」と歯切れの悪い返事をする。 「実のところ、僕は彼女のお兄さんを探しているところなんです。 彼女のお兄さんが破壊神と関係あるみたいで……」 彼はしばらく無言で、何かを考えていたようだった。 とても険しい顔をしていた。 「……そうか、ならば諸君は真実を知らなくてはなるまいな。 ……よし、青の国王名代として我輩が王立図書院の入院を許可する」 頭の上にまたまた疑問符が浮き上がった。 「え、あ、え? 本当にいいんですか?」 「ああ、もちろんだとも これは図書院正門の鍵だ」 彼自身の性格が親切なのか、すんなりと鍵を渡してくれた。 「御主様に失礼のないようにせよ。 あのお方は世界の歴史を司っていらっしゃる。 くれぐれも粗相のないようにな」 「は、はあ。 …ありがとうございます」 「でも何であなたみたいな武官の重鎮が、こんなところほっつき歩いてるの? この国の城壁の外には今みたいな魔物が跋扈しているって聞くじゃない。 本当に大丈夫なの?」 ヤギュウはそんなアイルの問いを愚問とばかりに笑い飛ばした。 「何、些末なことよ。 私は街の治安を護る事が役目だからな。 今日も今日とてパトロールを」 「いつも可愛子ちゃんを引っ掛けて鼻の下伸ばしながら護衛していたくせに、何を嘘八百を並べ立てているのさ! この助平団長! 『今日も今日とて軟派三昧』の間違いだろう? 一体何人妾を作れば気が済むんだい! ……全く」 近くの魚屋の女将さんが、聞くだに堪えない恥ずかしい野次を飛ばした。 「お、お、女将さん! その節はどうも」 「どうももこうももないよ、全く。 まーたあんたは、ウチのツケを踏み倒すつもりかい!? 聞いたよ、あそこの饅頭屋の旦那さんに、『おたくの娘さんを毎日護衛しているから、護衛賃でツケをチャラにしてくれまいか?』って言ったそうだね? そんなことをそこら中でしてくれちゃあ、ウチも商売上がったりだよ」 「ああ、ハイハイ、承知いたしたととも。 そんなに護衛賃が気に入らないのなら、我輩の給料から天引きしておくから…。そうだ、小切手でよいか?」 僕は目玉が飛び出るほど驚いた。 彼が小切手に書き付けた金額が恐るべき額だったからだ。 その額、なんと五十万ゼル。 小さな家が一軒まるごと買える程の金だ。 「また最初から出せるものならさっさと出せばいいものを……」 ヘラヘラと笑う彼に反省の色は無く、女将さんが物凄く恐ろしい目つきで睥睨している。 「まぁまぁ、そう怒らずに、ね? これだけ滞納したのだから、慰謝料も支払いますから。 そうそう、今度おたくの娘さんは文官の登用試験を受けるのだろう?」 「そうだけど……?」 「娘さんへの少し早い誕生日祝いである。 私が直接掛け合って、推薦しておいたので娘さんはきっといい仕事につけると思われるぞ」 「こりゃ、一本取られた! あんたも憎めない人だねえ。 全くまいっちまうよ」 僕らは高笑いするおかみさんと剣士の歓談を尻目に、どこかで聞いたかのような名前だ、と思っていた。 「ヤギュウ・シンイチ……。 有名人だったはずだけど……、えーっと誰だったかな?」 「『陰陽剣士シンイチ』と言えば思い出すかな?」 「わ! いつの前に後ろに」 背後に立たれた上に思い当たるところがあったのか、アイルの顔が真っ赤になった。 白エルフ族は、驚いたり恐怖を感じると顔が真っ青になる代わりに、顔が真っ赤になるらしい。 「お、『陰陽剣士シンイチ』って云ったら『英傑』として『世界書』に載るはずだった人じゃないの‼ 確か資格があったのに、経歴や素行に問題があって資格を取り消されたとか……」 「世界書って何?」 思わず耳慣れない単語に首をかしげて、アイルに率直な疑問をぶつける。 「維持神の御主様だけが持つことを許される、この世界そのものの象徴だよ。 本の形をしていて、書かれている歴史を書き換えるとほんとうにそのとおりになっちゃうらしいんだけど……」 「まあ、無駄話はこれぐらいにして。 いずれにせよこの先図書院に行くのなら、維持神の御主様に遭うことになるであろう。 さすれば、世界書を見る機会もあるはずである。 さあ、後ろを振り返らず行くのだ、少年たちよ! ここからずっとまっすぐ行くと、商店通りと図書院通りが十字路になっている。 名前の通り図書院通りは図書院へと続く道だ! いずれまた会おう!」 陰陽剣士は僕らを送り出す。 「ありがとう、ヤギュウさん! 行こう、レイヤ君」 「ああー、ちょっと待ってくれよおっ!」 唐突に大きな声でお礼を告げて泳ぎ出して行ったアイルを、この後十分間もの間追いかける羽目になったことはまた別の話だ。 《3》 能天気な子供達を送り出した後、指を鳴らす。 「結」 その合図一つだけで御庭番衆、我輩の直属の部下たちが集結する。 「御用命承り奉る」 「教会殺人事件の犯人が向こうからやって来やがった、念の為、泳がせながら素性を洗い出せ」 「御意」 「散」 柿色の影が闇に溶けて去っていく。 「何事もなければいいのだが……」 我輩は水面を忌々しい気持ちで見上げた。 《4》 図書院の前には大きな庭が広がっていて、その周りを格子が囲っているという形になっている。 『正門』と呼ばれるその柵の扉は上質なミスリルで出来ており、 本やカラスなどの知識の象徴などが象られている。 ここまでの圧倒的な存在感があればどんな見る者の目を止めずにはいられないだろう。 故に意識しないでも視線が吸い込まれてしまいそうだ。 「さて、どうしたもんかねぇ」 僕らは正門を前にして、困り果てていた。 なぜならば正門の守護者であるゴーレムたちが一向に僕らを通してくれようとしないのだ。 ここに来る前にコーヒーハウスで聞き込みをしたのだが どうも様子がおかしいという。 「あのさー、僕ら鍵持ってるんだからいい加減通してくれないかな。 近衛兵士団副団長さんから許可もらってるんだよ」 だが、石の体に甲冑を着込んだゴーレム達は、瞳に敵対的な赤い光を灯し、 威嚇してくるばかりでやはり通そうとしてくれない。 陽界人手帳を提示しても、鍵についた紋章を見せても駄目だった。 「おかしいわね…? レイヤ君も潜伏状態の虚憑きが侵入するといけないから、警備をいつもよりも厳重にするって話を聞いたでしょう?」 「ああ、そうだったな。 あれだけコーヒーハウスやビアハウスで騒がれたんだから、当たり前っちゃ当たり前だが……。 どうもこの状況は不自然だぜ」 僕としてもアイルの意見に賛成だ。 そもそもあの事件を御主みぬしがいち早く察知したこと自体がおかしいのだ。 あの事件が起きたのは四色連合王国の治外法権地区内である白の大陸だ。 よっぽど大きな騒ぎでない限り、不干渉とする協定が民族間で結ばれている。 もしよっぽど耳の早いコーヒーハウスへ出入りしていたとしても、そんな特ダネは普通はなかなか手に入らないものだ。 ましてや図書館の仕事についている人間が街の隅々まで駆けずり回ってそこまでの情報を手に入れられるとは思えない。 そんなことをしようものならば、とっくに噂になっているはずだ。 「だとしたら当然こんなに強力な魔力を持ったゴーレムで警備するのはありえない。 そうでしょう?」 「だよなぁ……」 そんな会話をしてる間に、ゴーレムが強くやわらかく禍々しい光をゆっくりと放ち始め、 突如崩れ去ったではないか。 慌てて駆けつけた衛兵によると、魔子回路の故障によるものらしい。 元々が故障していたので鍵があったにもかかわらず通行拒否したのでないかと思われる、という。 なんというかご都合主義と言うか、何もかもがうまくいきすぎてるような気がするのは気のせいだろうか。 まるで誰かの策略に乗せられてるような気がしてならない。 僕に隣る愛すべき人の言うように、気のせいだといいのだが……。 この世界に転移した際、あまりにも矛盾の多すぎる元の世界を厭い、捨てたように、不完全なものに対して疑問を持ち、理不尽なものや僕の知る限りの道理に適わないものであれば、どんなものであろうが容赦なく切り捨てる。 冷酷なようだが、それは僕の本性なのだ。 だから僕は最近のパラドクスじみた出来事に疑問を持ち始めていた。 間違いなくこれだけは断言できる。 真相はこの図書院にあるのだ、と。 衛兵に鍵を持っていることを伝えるとすんなりと通してくれた。 「まあ、とにかく真相まであと少しだ! 絶対にあの野郎にケリつけてやる……! 行くぞ、アイル!」 「うん!」 《4》 僕らは海藻のような植物が生えた大きな庭を駆け抜け、図書院の正面玄関にたどり着いた。 「おー! 近くで見ると立派な建物だな」 磨き上げられた大理石でできた階段の上に、三棟の白亜の塔が束になって樹齢1万年の大木のごとき存在感を放っている。 その威容は圧巻の一言に尽きる。 早速扉の鍵穴に鍵を差し込み、扉を開いた。 図書館に酷似した施設だと聞いた時から決めていたことがある。 扉を開けたら目を閉じて深呼吸しようと、そう決めていたのだ。 「思った通りだ」 古書特有の落ち着く香りがする。 この香りがとても好きなのだ。 古書の香りは僕に対して八百萬の精神安定剤を凌駕する程の効能を発揮する、と言っても過言ではない。 それに加えてアイルの香りも加わってとても心地よい。 彼女の香りは香辛料にとても似てると思う。 なぜなら彼女の近くにいるとバニラに似た香りが線香花火のように弾け、甘い余韻を残して去っていくからだ。 そしてそこに百合の花のような香りが――。 百合の花? 「えっとさ、すごく言い方悪いと思うんだけど、何時まで玄関の前でクンクンしてるのかなーって思っちゃったりするのよね」 誰もいないはずの場所から聞き覚えのない人の声がしたので目を見開くと、真っ赤なアカデミックドレスを着たエルフの女性がいた。 その女性は僕の鼻と自分の鼻がくっつきそうなので、とても困った顔していた。 「うわあっ! ごめんなさい、失敬しました! まさかいきなり人が現れるとは思わなかったもので」 慌てて女性から弾かれたように離れた。 女性はそんな大げさな反応にクスクスと苦笑して、何だか頭がよく見えそうな眼鏡をかけ直した。 「いいのよ。 それより、自己紹介しなくちゃね。 わたくしの名前はセレナ。 苗字が『セ』で名前が『レナ』よ。 この図書院の院長兼司書長をやっているわ」 「あ、院長さんでしたか、お勤めご苦労様です。 あ、そうそう、 粗品ですがお納めください……」 いそいそとパンの詰め合わせを差し出す。 「これはまたご丁寧にありがとうございます……。 って、あなた今は何歳よ?」 「十六歳ですが何か……?」 「若っ! その年で成人のマナーを身につけてるとか、あなたどれだけ大人びてるのよ!?」 「だからレイヤ君って歳をサバ読んでも、全然発覚しないんだよねえ」 アイルは どうでもよさそうな顔で適当に宣った。 「それより、立ち入ったことを聞くようだけども、あなたたちは複雑な事情を抱えていて、普通では調べられないことを調べに来たのでしょう?」 「え、こちらこそ失礼ですが、何故そこまでわかるんですか?」 僕はやや警戒した顔で訝しんだが、セレナは全く気にも留めずにむふふーっと笑う。 「そんな怖い顔しないの! せっかくのイケメンが台無しよ?」 「な……」 何をおっしゃいますかというつもりが、絶句してしまった。 初対面の異性に対して『イケメンが台無し』などというセリフを吐けるとはこの女性は一体どういう神経をしているのだろうか。 やきもちを妬いてるのか、アイルがふてくされながらこちらを睨んでるが、見なかったことにしよう。 「単純なことよ。 この世界の森羅万象のほとんどの情報がこの図書院に集約されてるんだから、誰しも他に調べる方法がなければ最終的にはここに行き着くことになるでしょう?。 それにあなたたちのその困った顔を見れば、火を見るより明らかってわけ!」 何故そう言い切れるのかというよりも、僕の思考を読めたこと自体が驚きだ。 「なんでそう言い切れるかわからないと云った顔してるわね」 また読まれてしまった。 「図星、なの?」 アイルが愕然とした表情で尋ねる。 「全く同じことを考えていた……」 「うっそぉ!」 アイルは茫然自失の体の僕にありえないと云った様子でふるふると首を振る。 「ふふっ、面白い人! ますます協力したくなっちゃった。 さあ、まずは中に入って! きっとびっくりするわよ!」 「わわわわ、ちょっと、ちょっとっ」 望んではいたものの、背中を無理やり押されて強制入場である。 《5》 「何この本棚! もうこれは、本棚っていうよりもう塔だね!」 僕らの目の前に広がる光景を一言で言うと、内壁に本がびっしりと納まった摩天楼といったところだろう。 足場の中央には十二人は寝転べそうな革張りの丸いソファーがでんっと居座っており、僕はそれにとても強い既視感を覚えた。 確か、この椅子の四方形版を羽田空港かなんかで見たことあるような……。 「ふふん! ほらね、びっくりするって言ったでしょう? でも驚くのはまだ早いわよ! さあ、椅子にかけてちょうだい」 セレナが舵のような装置に手を掛け、ガラガラと勢い良く転がすと、上へ上へと足場が昇り始めたではないか。 「これ完全に昇降機じゃん!」 図書室とエレベーターが組み合わさったような、とんでもない代物である。 あまりの出来事にアイルに至っては呆然としている。 どうやら驚くとぼーっとしやすくなる性癖の子らしい。 まるで魂マブイが抜けてしまったかのようだ。 「大閲覧室へ参りまーす!」 慣性の法則に逆らった結果、ご丁寧に鐘の音、衝撃音と素っ頓狂な叫び声は、珍妙な到着音となって書物の塔に反響した。 「もう当分の間、これ以上何があっても驚きそうにないわ……。 特にあなたの事に関してはね」 何だそれは。 理不尽なとばっちりを受けたので少し腹立たしい。 「それは僕のこと言っているのか? それとも僕のこと言っているのか? でなかったとしたら僕のこと言ってるのか?」 「全部その通りだけど、自意識過剰すぎて怖いよ!」 「理不尽な冗談に理不尽な合いの手を入れただけだよ」 すました顔でそんなことを言ってみせた。 セレナさんが出会った時と同じように苦笑いをしている。 少し意地悪しすぎただろうか。 「とーちゃーっく!さあ中に入ってね」 「はーい!」 アイルは凄まじい光景を目の当たりにしたショックから立ち直ったのか、満面の笑みを浮かべて元気よく手を挙げる。 よほど大閲覧室の中が気になるのだろう。 それにしても、とても幼けに見える。 思わず変な気を起こしてしまいそうだ。 そういえば、アイルの精神年齢っていくつなんだろう? 少女のようであり、成熟した女性のようでもあり……、区別がつかない。 人生最大の謎である。 「今度、心理テストでもかけてみるか……」 《6》 「相変わらず馬鹿でかいなあ」 来るまで予想はしていたが何しろとても広い。 こんな感想を持つのも無理もないことである。 何しろ東京ドーム一個分はあるかと思われるほどだだっ広い部屋なのだ。 向こう側の壁が遠すぎて霞んで見えるほどだ。 およそ八段程度の本棚が閲覧しやすいように整然と並んでいるが、だからといってとてもではないが一生かけても全ての本を見れる気がしない。 「ここは大閲覧室、そしてわたしの家でも有るわ。 さあ掛けて」 席を勧められたので、お言葉に甘えることにした。 「住み込みで働いてるんですか?」 そんな人は見たことも聞いたこともなかったので、テーブルを挟んで向かい合う恰好でいきなり尋ねてしまった。 「そんなところね。 ここ五十年は外に出たことがないわ。 長い年月よねぇ」 「ごじゅ……」 驚愕だ。 それ以外何も思うことはない。 「うふふっ。 そんなびっくりしちゃって可愛いわねっ。 実をいうと私わたくしは五世紀ぐらい前に生まれたから、五百路過ぎなの」 「『ごひゃくさい』じゃなくて『いおじ』って読むんだ……。 規格外過ぎるよ……」 「いやいやいやいや、お待ち下さい。 そもそも人は、そんなに長く生きられる生物じゃないですよね?」 セレナさんは僕ら二人の反応を目の当たりにすると、「参ったわね」と独り言ちた。 彼女はとても面食らった顔をしている。 「道理で二人とも砕けた態度だと思ったわ。 ちゃんと説明しておけばよかったわね」 何のことだかよくわからない。 「実を言うと私は『維持神の御主』なのよ。 嗚呼もう、肝心な事を言うのをすっかり忘れてたわ」 「貴女様が、み、み、御主様ですって!?」 「え、何のこと? 全然何も知らないけど」 「何をぼけっと突っ立っているの? 頭が高いよ! この御方は、あらゆる過去と現在、そして森羅万象を維持する力を持つ神様だよ⁉ ほら、分かったらさっさと最敬礼最敬礼!」 「え、でも、最敬礼なんて知らないし、どうしよう!」 二人してまごまごしてしまう。 「二人共、落ち着いて! 私は堅苦しい態度は嫌いだから、そんなにかしこまらなくていいのよ」 「で、でも」 「もう! あんまり言うこと聞かないと、メテオストライクしちゃうんだからね!」 「「え……」」 冗談なのか本気なのかの区別がつかず、各々紅白に血の気が引いてしまった。 「あ、冗談だから怖がらなくていいのよ?」 「何だ冗談ですか!」 「本当にお仕置きされちゃうかと思ったよ」 まったく本当にホッとした。 「やっと、普通に話してくれたわね?」 「「あ」」 「良いのよ。 それより、あなた達が調べたい事って一体何なのかしら?」 僕は大閲覧室の隅々までを見渡してからアイルと顔を見合わせた。 さすがは僕の彼女である。 言葉が無くても、話していいかどうか以心伝心したようで、ちゃんと頷いてくれた。 「この子のお兄さんが、破壊神の真名に取り憑かれてしまったみたいなんです。 そのお兄さんが行く先々で災いを撒き散らしてるので、世界中が大変な事になってしまっています。 それを食い止め、この子がお兄さんに再会できるようにする為に僕たちは旅をしています」 「でも肝心なお兄ちゃんが行方不明だからどうしようもないんだ。 そのためにはどうしても破壊神の真名に関する情報が必要なの。 何か知ってることがあったら、教えて欲しいな」 「うーん、そうねえ。 私が答えられる範囲内だったら答えてあげたいんだけど」 セレナは頤(おとがい)に手を当てて考えている。 神様が答えられる範囲内とはどれほどの広さなのか。 それは僕にも想像できない。 そういえばこの方は、五百路過ぎだと言ってなかっただろうか。 破壊神による大崩壊も、もしかすると。 「セレナさん。 もしかして貴女は、大昔の最終地上戦争の当事者ですか?」 彼女は大嫌いなピーマンを前にした子供のような顔をした。 苦悩に満ちた喟を吐き、やがて観念したのか僕の質問というピーマンを口にした。 「まさかこの歳になって、こんな嫌な話をするとは思わなかったわ……。 ええ、そうよ、 私がまだ単なる人の子だった頃に、あなたの言う『ソレ』は起きた。 それは、何をどう誤魔化そうとも紛れもない事実よ」 「では、それなら!」 「でも、私の実体験を聞いても多分無駄よ。 あなた達は『ソレ』が起きる『前』にするべきことを知ろうとしている。 でも私の実体験は起きてしまった『後』の話だから聞いても全く参考にならないと思うわよ? そんなことを聞いて時間を潰すより、この図書院のどこかにあると云われる禁書を見ることを勧めるわ」 「その禁書はどこにあるんですか?」 「残念だけど、それは私にもわからないの。 ただ一つだけ言えることは、『禁書庫は無いけど禁書なら隠されている』って言い伝えがあるぐらいかしら」 「そうですか……。 この大量の本棚の中から禁書を探さなくちゃいけないんですよね。 分かりました。 何とか探してみます」 「待って。 ここまで腹を割って話してくれたんだもの。 私も一緒に探すわ」 神様の申し出を遠慮して断るべきか大いに悩んだ末に、その厚意に甘えることにした。 「……そうですね。わかりました、お願いします」 「ようし、じゃあ早速探すわよ!」 「はいっ」 こうして禁書探しが始まったのだがどうしても見つからない。 「どうですか、見つかりましたか?」 「いいえ、こっちは全っ然駄目」 「そうですか……。 おかしいな、この辺の歴史に関する書棚だけなくなっている……」 僕の目が棚板に止まった。 一列だけ棚板が太いのだ。 試しにその辺の本と比べてみると、同じぐらいの厚みを持っていた。 おまけにその棚板に鍵の紋章と同じ模様が施されているではないか。 「もしかして」 試しに鍵の紋章をあてがってみると見事にはまった。 棚を押しても引いても開く気配がない。 鍵の要領で試しに回して引いてみると……。 引き出しみたいに棚板が飛び出し、ホコリにまみれた古びた本が現れた。 『否定と破壊を司りたる真名』という題名だった。 「破壊、真名……、これだ!」 「待って。 念のため隠れて読みましょう。 こっちよ」 一番目立たない小閲覧室で読むことにした。 内容は以下の通りだった。 『神の真名は三つある。 これを輪廻を経ても変わらない自身の魂の名前に上書きする事で扱えるようになる。 維持神の真名、創造神の真名、破壊神の真名である。 どれも強力な権能を持つがその中でも破壊神の真名は「あらゆる事象の否定と破壊」という力を持つ。 有り体に書くと、存在するものを無かったことにできるのである。 真名において特筆すべきは降名が成功したとしてもうまく適応できない場合が有り、 その場合は権能が暴走することがある。 破壊神の真名の場合は能力者の真名に適応できないと記憶が意図せず改竄されることがある。 これは破壊神の否定の権能が暴走した結果である。それだけでなく―――――――――――――』 「何だよ、これ……。 こんな力なんて無茶苦茶だよ! ……あれ」 残りのページは大量にあるのに真っ白で何も書いていなかった。 「これって、もしかして」 ページを進めていくと1ページだけ文字が書いてあった。 読み進めて行くと、3ページ分の文字が不自然に消えている。 「これは文字、なのか?」 空白の部分を『読んでみた』。 「う」 まだ字がある。 「い」 足音がする。 「ろ、に」 後ろに誰か立ってる気がするが気のせいだろう。 「し」 さしずめ、どこぞの館員さんだろう。 「る、よ。 る白いう? 何よ、これ」 「あの、これって『後ろにいるよ』では……」 辺りの空気がを徐々に戦慄によって支配されていく。 「ねえねえっ」 「「ぎいあああっっーーー‼」」 後ろから飛んできた何者かの声がサワリッと首筋を撫でた。 「うわ、びっくりした! ちょっとちびっちゃったじゃない」 「……なんだよ、アイルか。 魂が落っこちるかと思ったよ……」 「私も、びっくりした……。 質の悪い悪霊かなにかかと思ったわ」 「それより、あの、お手洗いどこかな? 私、もう、漏れちゃいそうでっ」 「あらそれは大変! お手洗いは外にあるから勝手口から出ると早いわよ」 「ありがとう、御主様! あー漏れちゃう、漏れちゃうっ!」 果たしてあのような台詞を、年頃の女の子が大っぴらに公言していいのだろうか、と気になってしまうがそれはさておき。 「この本とか鍵はどうしますか?」 「一応同じように隠されている本があるかもしれないから、その鍵は預かっておくわ」 「僕も禁書の回収を手伝います」 「ありがとう。 でもまだまだ人手不足だから、他の司書たちを呼んでおくわね。 そうすればまた手がかりも見つかるでしょうし」 棚板の鍵を開けて作業を繰り返していると叫び声が聞こえてきた。 「今の声はアイルだ!」 「あっちから聞こえたわ! 行きましょう!」 そして中庭に着くとアイルが腰を抜かして震えていた。 アイルが指差す先には柿色の服を着た男達が大怪我して、倒れ伏していた。 事情を聞いてみると、用を足した帰りに人が倒れていたと言う。 急いで救護室に救急搬送することになった。 「あの人達は誰なんでしょう? 司書ではありませんよね?」 「私が見るにあれは青の国の特派員だと思う。 どうやら、近衛兵士団直属の諜報員みたいね」 「特派員だって!? 何だってそんなおっかない人たちが、こんなところまで来ているのですか?」 「ただひとつ言えることは彼らの行く先々で事件が起きるということ。 事件に引き寄せられると言った方が正しいかもしれないわね」 でもこれはどう考えてもただことではない。 「となると、これはかなりきな臭いですね」 「レイヤ君」 「本当なら何事もなければいいんだけど」 「ねぇ、レイヤ君」 「何だい? 今ちょうど話が終わったところだから、聞くよ」 「お兄ちゃんがこの近くにいる。 だから、行かなくちゃ」 「え、それってどういう、あっ、待ってくれ!」 僕の問いかけに応えもせずに、アイルは裏門の方へ駆け出して行ってしまった。 「待って」 追いかけようとする僕の袖をセレナが掴んで引き止めた。 「嫌な予感がするの。 今から何の用意もなしにすぐに追いかけるのは良くないわ」 「……でも!」 「もしかしたら……、彼女が向かった先は裏山の廃鉱かも。 おかしいと思わないの? 少なくともあんな場所に人は寄り付かないわ」 「それは……、そうですけど」 「それに彼女の周りでは色々とおかしなことが起きていたのよね? 彼女の側に一番長く居たあなたなら心当たりがあるはずよ」 「一つ聞きたかったんですが、この国に僕らが来る前は、あんなアクォボルトみたいな化け物がうようよしてましたか?」 「いいえ、至って平和そのものだったわよ。 それに破壊神が災いを撒き散らして回ってるなんて話は、今日初めて聞いたわ」 「……おかしい。 彼女が嘘をついてる様には思えない。 なのに……、全てが嘘くさく見える」 「もしも、もしもの話だけど、 今まで起きてきた出来事自体が全て偽物だとしたら?」 「まさか!?」 「……これは直接本人に問い質す必要があるわね……。 今すぐに伝承鷹を君の知り合いへ飛ばすわ! あなたはこれを持って早く彼女を追いかけて!」 セレナはなにがしかの魔術回路が組み込まれた紙を僕に手渡した。 「これは?」 「私の維持の力を込めた護符よ。 対抗できる力の種類が少ないからなかなか使わないんだけど、一応持っていて。 これを持っていれば最悪の事態は免れるはず」 「ありがとうございます! それでは、行ってきます!」 僕は全ての真相を突き止めるべく、全速力で裏山の湖底廃鉱へと泳いでいった。 第四章・『黒の章』 「そうですか、では特派員達の暗殺行為は独断ということですね? わかりました」 まさか護符が、セレナさんとの通信手段になるとは思わなかった。 セレナさんによると、特派員達から証言が取れたらしい。 その内容は、現時点での状況と全く食い違うものだった。 僕は地底まで届きそうなほど深い坑道を潜っていた。 辺りはひやりとした空気に覆われ、苔むした岩肌に触れる度に寒気がする。 少なくとも生き物の類は存在しないようだ。 しばらく進んで行くとドーム状のだだっ広い岩場に着いた。 どうやら行き止まりのようだ。 その中心に見覚えのある白い人影がいた。 彼女の側に素早く駆け寄る。 「アイル、こんな所にいたのか! 心配したんだぞ! それに、君に聞きたいことが山ほどあるんだ。 どうか答えてほしい」 彼女は白い髪をたなびかせ、僕に背を向けたまま何も答えない。 「まず一つ目に、さっき図書院に侵入してきた特派員の事だ。 彼等の怪我の様子は明らかにおかしかったよ。 僕はその腕を、直視してしまったんだ」 固唾を飲み、肝心の一言。 「彼らの腕と足は、まるで【最初から存在しなかった】みたいに傷跡すら見当たらなかった。 生まれつきではないと主張する彼らの証言通り、戦闘の跡が現場には残っていた。 だったら、切り飛ばされた腕や足もどこかに残っていなきゃ辻褄が合わないはずなんだ。 でも、それも僕が知る限り見当たらなかった。 事件当時に現場にいたのは、君と特派員達だけだったはずだ。 そもそもあの事件の発生原因は、彼らが君を青の国にとっての危険人物であると断定し、暗殺という手段をもって排除しようとした事によるものだ。 だとしたら、普通はよっぽどの事がない限り、味方同士が殺し合うはずがない。 そんなことをすれば、ターゲットに漁夫の利を取られて殲滅されるからだ。 このように消去法を取っていくと、仲間割れの線は消える。 すると、犯人かどうかの可能性において、最も黒い人物はアリバイのない君の他にいないんだよ」 後ろから足音が近づいてくる。 草履が地面を踏みしめる音。 鎧のような金属音が地面を打つ音。 そして軍靴が木霊する。 セレナさんが呼んだ援軍が近づきつつある。 アイルは無言を貫き、尚も問いに答えようとしない。 「それだけじゃない。 君の言動や行動、君の周りで起こる出来事の全てが【不自然】だった。 門番のゴーレムが故障した時も、 君のハンドリングが失敗してイラついたときに、僕が急におとなしくなった時も、世界が悲鳴をあげたみたいな感覚に襲われた事があった。 そのいずれの場合も、『君はその場の出来事を否定していた』」 今にも緊張の糸が切れてしまいそうなほどに、空気がピンと張り詰めている。 「教えてくれ、アイル。 僕らの旅の目的は、君のお兄さんを探すことだった。 でも、【本当は、君のお兄さんなんて最初から実在しないんじゃないのか?】」 「…………。 ふふっ、ふふふっ、はははっ! レイヤ君ったら、何を言ってるの? お兄ちゃんなら」 アイルが、後の天井を指し示す。 「こーんなに沢山居るじゃなぁいッ!」 岩肌が姿を変え、シロアリの如く無数の『虚ウロ』に変化へんげした。 「そんな、嘘だ……! みんな嘘だったなんて……。 う、ひ、ああ、わあああ‼」 「レイヤ、大丈夫か⁉ クソ、間に合わなかったか‼」 オレガノとヤギュウがようやく援軍を引き連れて参上したようだ。 「うっわ、このおびただしい虚の数は何事であるか⁉ レイヤ殿! 拙者、 柳生一門の剣にかけて彼奴等を征伐致す!」 ヤギュウは女子供を斬ることに躊躇ためらいがあるのか、居合術を使わずに抜刀した。 「ひどいなあ。 みんな寄ってたかってお兄ちゃんのこと差別するんだ?」 「差別するも何も【ソレラ】は人間じゃないだろう! 目を覚ませ、アイル!」 「お初にお目にかかるところすまないが、多分無駄だろう」 ヤギュウは冷たい糸目でオレガノを流し見た。 「何故だ!? あの子は話せばちゃんと素直に聞いてくれる子なんだよ! だから、ちゃんと声は心に届くはずだ‼」 尚もオレガノは食い下がる。 「無理なものは無理と申して居ろうッ!? そなたこそ目を覚まし賜え‼」 オレガノはヤギュウに喝破されると、気圧されて押し黙ってしまった。 アイルがその様子を、濁った眼で見つめていた。 「なんで、みんな私のこと信じてくれないの……? 私は何も嘘なんかついてないのに! 酷い、酷いよッ! 【タスケテェ、オニイチャァァァァァン‼】」 岩肌に擬態していた白影が、輝くペンダントと共にアイルを空中に竜巻じみた突風を撒き散らし、包み込み、強烈な閃光を放った。 その凄まじい白光(びゃっこう)を誰も直視できなかった。 土煙と凄風が晴れた後に、そこに立っていた者は――――――――――――。 「【私は、破壊神ゼ・ノ=アイル・イン。 この世全てを否定する者】」 少女は天際の星々と一切の月白をその身に宿し、プロミネンスを身に纏った神の化身と化していた。 「うあ、ぁ、眩しい! 目が潰れそうである!」 「あ、あれはアイルなのか……? 夢を見てるとしか思えん」 オレガノをはじめとする武者たちが、眼球が消し飛ばされそうなほどの後光を前に恐れ慄く。 そうか。 これが彼女の正体であり、質問の答えなのか。 これでようやく裏付けが取れた。 【彼女は『否定の権能』によって己の記憶を改竄していた】のだ。 特派員の大怪我も、アイルが返り討ちを犯した結果だったのだ。 とにかくここは冷静に対処しなければならない。 相手は神の名に取り憑かれた愛する人だ。 返答を間違えれば、確実に消される。 何より一番大好きな人に殺されるなんて嫌だ。 もしかしたら存在自体否定されて形も残らないかもしれない。 それだけは、それだけは嫌だ。 その逡巡を彼女は静かに、だが、理不尽に破った。 後光を僅かに抑えた破壊神は、僕に御手を差し出した。 「あなたへ祝福を与えましょう。 私の祝福を受け入れれば、この破滅の光をまとった私とでさえ、触れ合い、愛し合うことができるのです。 さあ、あなたは、どちらを選びますか?」 破壊神アイルは、僕にあくまでも優美に、そして傲慢にも眷属になるつもりはあるか、と究極の選択を迫った。 ああ、ダメだ。 このままでは、アイルが完全に別の何かになってしまう。 激情が僕の全身の血管を、出口が無いウォータースライダーのように駆け巡る。 過呼吸発作と診られてもおかしくないほど呼吸が荒い。 半身が引きちぎられるかと思うほど、心が苦しい。 「ご、めん。 まず、君のことは、何があっても好きだ。 けれど、君の様な、大ホラ吹きは、僕はどうしても許せないよ。 何より、君は、二度と人を傷つけない、という僕との約束を破った。 だからその祝福は、受け取れない。 【信じていたのに何で裏切ったんだよ。 この嘘つき】」 唇をかみしめて搾り出すような声色で告げる。 精一杯、僕は愛しいものを見るような目で優しく睨みつけた。 それは、神となった彼女の愛を拒むことに等しかった。 「そう……。 レイヤ君まで、私のことをそんな風に思っていたんだ。 ……なら、私は、私から幸せを奪ったこの世全てを否定するまで!」 その台詞に横槍を入れるように、不意に握り絞めていた護符から不協和音が発生した。 「いけない! 『ウォ・ラハ・レバンティノ・へーレ』」 維持の護符を触媒とし、空間転移魔法を用いセレナが空間を超えて僕らの元へやってきたのだ。 「【わたくしは維持神ラ・ガルデ=セレナ! この世全てを保護するもの】!」 維持神セレナはあらゆる事象からの干渉を防ぐ銅色に輝く鎧を身に纏い、右手に世界書を携え、幾百の神代の栞を盾として従えていた。 「【ゼ・ノ=アイル・イン以外の人間は一切存在しない】」 破壊神の御言葉が、この世全ての人の子の存在を象った巨大な人形(ひとがた)と、矛を模った渦巻く紅炎として具現化した。 「【森羅万象は存在し続ける】」 維持神の森羅万象を守護する御言葉によって、無数の神代の栞が寄り集まって、巨大な人形を守るために大盾という形で具現化した。 僕は二つの意味での矛盾を目撃してしまった。 第一に、栞の大盾と紅の矛が空中にてぶつかり合ったために、文字通り矛盾した。 第二に、矛盾はそれだけにとどまらず、権能同士が干渉し合ったためにさらに矛盾した。 人域をはるかに超えたすさまじい事象のパラドクスが、二柱の姿を万華鏡のように変えていく。 それぞれの身が矛盾に耐え切れず、存在の輪郭線を失っていた。 「「アアアアアァァアアアッァァ‼」」 その二柱の天を引き裂かんばかりの絶叫は、世界の断末魔に等しかった。 「オレガノォォ‼ あれはきっと【事象のパラドクスのせいで存在が消えかけている】んだァッ‼ このまま、こんな無茶苦茶な戦いを続けさせたらァッ‼ 世界そのものが、この矛盾の歪みに耐え切れずに、吹き飛んで滅びるぞッ‼」 僕はあらんばかりの声を振り絞り、遥か背後に立っているオレガノに向かって叫んだ。 「訳分かんねぇよッ‼じゃあ俺にどうしろってんだ‼」 「僕に考えがある‼ あの矛と盾へ僕を投げ飛ばしてくれ‼」 オレガノは瞬時に何かを察したのか、大きく頷いた。 「解った! 絶対に死ぬなよ‼」 オレガノが、両腕に機盾を嵌めて上方に構え、もう片方は後方に構えた。 「この盾まで走れェェェッ‼」 オレガノの叫びに応え、僕は紫電の如くオレガノの元まで駆け抜ける。 「『ウォ・ラハ・ボルカノン・バスタ』ァッ‼」 オレガノの最高位炎魔法『ボルカノン』により、盾に飛び乗った瞬間、後方に構えた機盾砲が活火山のように噴火。 オレガノと僕は、作用反作用の法則に支配され、爆風の威力に上空に吹き飛ばされた。 「行っ、けェェェェェェッッ‼」 空中に浮きあがったまま、さらに盾を踏み台にして大跳躍した。 僕は爆風の勢いに乗って、矛と盾の衝突点に力の限り護符を叩きつけた。 その瞬間、光の矛が鼓膜が吹き飛びそうな大音を立てて、粉々に砕け散った。 『ウォ・ラハ・ドルデ・フォル・デン』 オレガノと僕はS磁場を纏い、着地点に強力なN磁場を形成した。 結局、S極とN極が反発し合って、滑り落ちるような恰好で難なく着地した。 そして振り返ると、元の姿へ戻り始めたアイルがその場に力なく頽くずおれた。 「はあっ、はあっ。 アイル愛(がな)しぃッ‼」 やはりそうだったのだ。 この護符は、破壊神の真名を封印するためのものだったのだ。 しかも能力者ごと封印するように作られた無慈悲な道具だった。 僕は、青い封印の光に包まれた彼女の元へ迅雷の如く駆け寄る。 「……レイヤ君、ごめんね」 その罪人のような瞳には、もう許されることは無いだろうという、諦めと絶望が澱のように渦巻いていた。 「そんな、そんなの、謝るのは僕の方だッ! 君は悪くない!」 叶わないと知りつつも、また何時もみたいにアイルの言葉を打ち砕こうとする。 「世界や色んな人を、無かったことにしちゃおうとしたのに、レイヤ君は優しいなぁ……」 虚構に満ちた僕の否定を拒むように、アイルは穏やかに微笑んだ。 嗚呼、やはり君はこのまま、全てを抱え込んで逝ってしまうのか。 腹の内側に淀んだ昏い感情が逆巻く。 耐えられない、耐え難い、耐え切れない。 「……私はね、レイヤ君が嘘吐きを許せないように、私はどうしても私から全てを奪った……、差別主義者の住むこの世界が許せなかったの。 だから私は、私と、私を取り巻く世界の全てを都合よく変え続けた。 でもね、……ふと気づいたら、私の心はぐちゃぐちゃに壊れていたんだ」 アイルは紗のかかった虚ろな目で虚空を見つめる。 「そうか……ッ、一人で辛い思いをさせてごめん……っ‼」 アイルは僕の瞳を満ち足りた表情で真っ直ぐに見据え、そっとかぶりを振った。 「そんなことないよ。 私の元にレイヤ君が現れてくれた。 それだけで、私は十分幸せだよ。 あと少しだけ、贅沢を言うとすれば……。 もっと早くレイヤ君と出会えていたらいいのに、なんて思うんだ」 アイルは彫像になりかけた指で、ふわりと僕の頬をなぞり、止めどなく溢れる泪なみだを掬い取る。 彼女の全てを、ただ喪いたくない一心で、かすかに残る体温に縋りつくように、包み込むようにアイルの手を取った。 「僕も、もっと君と一緒に居たかった……! 君に何度裏切られて信じられなくなったとしても、僕は君を愛している! 本当なんだよ、信じてくれ、アイリ!」 「……ありがとう。 私も永遠に愛してるわ」 アイルの指先が、四肢が、身体が、急激に熱を失っていく。 石に、変わってしまう。 「待て、待ってくれよ、逝かないで!」 「さようなら、レイヤ君」 彼女は別れを告げると、物言わぬ岩の塊へと姿を変えた。 「……ぁぁアイルゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ‼」 胸の内側から、心臓を突き破るような絶望に、僕は慟哭した。 「アイルの嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つきィ‼ 嗚呼ぁぁぁ‼ ずっと一緒にいるって言ったのに、何でまた約束破るんだよぉ……‼ じゃあ僕は一体なんのために生まれてきたァッ!? この拳で、この脚で、明日から何を守ればいいんだァァッッ!? ワアアアアアアッッ‼‼」 周囲は一切見えていない。 ただ目の前に見えるのは、僕のことを本当の意味で愛してくれた人の、変わり果てた姿だけだった。 「アァッアッアッアッアァッ……‼ アァッアッアッアッアァッ……‼ 糞ッ、糞ッ、糞ォッ‼」 ただ、ただ、泣き叫んで、無様に喚き散らして、のたうち回った。 「ううぁ、ぁ、あっ、っ……、ッ……‼」 泣いて、哭いて、涙を流し切ると、僕は立ち上がった。 堅く心に決めたのだ。 そう、アイルを取り戻すと。 「……『白きエルフに花束を』」 起句を省略した呪文を唱え、地面に転がっていた破片から石の花束を作った。 「君のいない世界なんて、僕にとって生きる価値はどこにもない。 だから僕は、絶対に君を取り戻すと、この拳にかけて誓うよ」 大切な人を失うと、真っ先に忘れる思い出はその人の声だと言う。 僕は、彼女との思い出も、交わした言葉も、その笑顔と声でさえ、きっと忘れないだろう。 必ず取り戻してみせる。 「――――待っててくれ。 アイリ」 僕はそっと告げ、アイルの墓標にその花束を捧げた。 前編『白きエルフに花束を』完 |
壱番合戦 仁 2018年12月27日(木)18時36分 公開 ■この作品の著作権は壱番合戦 仁さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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2019年01月04日(金)22時04分 | 壱番合戦 仁 | 作者レス | ||||
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御陵 拝様。 コメントありがとうございます。 そうですね、話をコンパクトにまとめることに集中すぎたかもしれません。 本題である「障害を持った主人公の成長物語」という側面を描く事よりも、完成自体を急いだ感を否めないのも事実です。 ご指摘くださり、ありがとうございます! 主人公が成長していく過程において、プロットを極限まで工夫することはとても重要なことだったのだと気づきました。 これもひとえに、御陵さんのおかげです。 もうちょっと、「レイヤとは何者になるべきか?」を煮詰めていくことにします。 願わくばこれからも、「壱番合戦 仁」の応援を宜しくお願いします。 |
2019年01月04日(金)12時33分 | 御陵 | |||||
壱番合戦仁様 こんにちは。 御陵です。 先日は拙作に感想を残して頂きまして、ありがとございます。 今回は前編を拝読しましたので、感想を残しに伺いました。 恐らく、御作は以前に拝読したものに『白の章』を追加したものだと お見受けします。 以前に残した感想と被るものもあるかと思いますが、ご容赦下さい。 良くも悪くも、御作は非常に評価しにくいので、 申し訳ありませんが、御陵の雑感を以下、箇条書きに 羅列させて頂きます。 ・文章に勢いがあって、読み進めることは難しくない。 ・恐らく、作者様が書きたいものを書きたいように、 楽しんで書いているので、リズムと勢いはある。 ・反面、すべての登場人物が作者の都合に向かって 動かされている印象があり、リアリティが薄い。 ・主人公が障害者であるストーリー上の必然性が薄い。 主人公が障害を抱えている場合、その障害を克服するなどの ストーリー上のテーマがないと、惹きが弱くなる。 →「大きな音が苦手」という弱点が示唆されているが、 バトル上、生かされているとは言い難い(もったいない)。 アスペルガーのような理解されにくい障害(個性/特性ととられ易い)を 主人に抱えさせて、その障害をストーリーの中心に据えるなら、 かなり緻密にプロットを組む必要が出てくると思います。 そのうえで、読者にその主人公をどのように見せたいのか、 主人公のどんなところに共感あるいは反感を持ってほしいのか、 あらかじめ考える必要があるかな、と。 逆にそこを緻密に考えてストーリーを詰めていけば、 従来にはない作者様だけの良い話を創ることができるとも思います。 自分のことはさておいて、方言放題、 気に障ったらごめんなさい。 作者様には、違うと思われたところはバッサリと捨象して頂ければ 幸いです。 後半も、引き続き拝読に伺いますので、 感想と言いますか雑感は、その時に。 今回も、御作にはいろいろと勉強させて頂きました。 よい時間を頂き、ありがとうございます。 まだまだお互いに精進して参りましょう。 御陵 拝 |
2018年12月30日(日)11時14分 | 壱番合戦 仁 | 作者レス | ||||
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ちょっとタイトル自体、過激でしたかね……? ご指摘を受けて、アスペルガー症候群の名前の代わりに架空の名前を使うなどの技法に近いことをしてぼかす必要がある気がしました。 一般文芸ならまだしも、ラノベとして書いている以上はご指摘の通りネックだと思います。 設定描写や心理描写などの甘さについては以前から様々な方に指摘していただいている点であり、どうしていいのかハッキリとはまだ分かっておりません。 それでも精進して参ります所存でございます。 厳しい感想ありがとうございます。 是非とも今後の参考にさせて頂きます。 |
合計 | 2人 | -20点 |
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