285早稲田聖殿日曜礼拝12.30/「相対の為に存在する」
■2019年、あけましておめでとうございます。来る10月14日、ペンシルベニアでの歴史的な行事が行われるこの一日を念頭において、新たな年を出発致しました。日本におきましては家庭連合のメンバーのどのくらいの方々が、自分がだまされていたことに気がついて下さるのか、ポツリポツリというのではなくて、雪崩現象が起きることを願い、その為に戦って行きたいと思います。さて、もう昨年のことになってしまいましたが、12月30日は松濤本部も閉館だろうと思いまして抗議活動を休み、1年最後の日曜日、礼拝の時間を持ちました。
□お父様:日本留学を終えて祖国に帰ってきたものの、それまでと何も変わるところがありませんでした。日本の圧政は日々激しくなり、国土は血の涙に濡れていました。私はソウルの黒石洞に再び腰を落ち着けて、明水台イエス教会に通いながら、日々新たに悟るすべての内容を几帳面に日記帳に書き留めることにしました。悟りの多い日は、一日で一冊の日記帳を使い切ることもありました。そうするうちに、数年にわたる祈祷と真理探究の総決算とも言うべく、それまでどうしても解けなかった疑問についに答えを得たのです。それは一瞬の出来事でした。あたかも火の塊が私の体を通り抜けたかのようでした。
「神様と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛をご覧になって、あのように悲しんでいらっしゃるのだ」という悟りを得た瞬間、宇宙のあらゆる秘密が解かれました。人類が神様の命令に背いて、堕落の道を歩む中で起こったすべての出来事が、映写機が回るように私の目の前にはっきりと広がりました。目から熱い涙がとめどなく流れ落ちました。私はひざまずいてひれ伏したまま、容易に起き上がることができませんでした。子供の頃、父に背負われて家に帰った日のように、神様の膝に顔を伏せて涙を流したのです。イエス様に出会って九年目にして、ようやく父の真の愛に目覚めたのでした。(自叙伝「平和を愛する世界人として」)
□原理講論:神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由
神は全知全能であられるので人間始祖の堕落行為を知られなかったはずがない。また彼らが堕落行為を行わないように、それを防ぐ能力がなかったわけでもない。それでは、神はなぜ、彼らの堕落行為を知っておられながら、それを干渉し防ぎ給わなかったのであろうか。これは、今日まで人類歴史を通じて、解くことのできなかった重大な問題の中の一つである。我々は、神が人間の堕落行為を干渉なさらなかった理由として、次の三つの条件を挙げることができる。
(一)創造原理の絶対性と完全無欠性のために
(二)神のみ創造主であらせられるために
(三)人間を万物の主管位に立たせるために
□お父様:こういうような結果を見た時、主体なる神、相対的立場に立つべき理想的人間という、二つの問題に帰結するのであります。そうすると神様は、知恵の王者であり、すべてを知っていらっしゃる全能なるお方でありますから、人間世界において真なる愛と、真なる幸福、真なる平和、真なる理想を、主体と客体の相対関係において、主体を中心とした方向においてその起源を定めるか、あるいは客体を中心とした立場において、その起源を定めるかという、神はその永遠の理想世界をながめながら、それを決めざるを得ないというのであります。
もし神を中心として主体ばかりにそれを尽くせということになったとするならば、そういうような伝統的基準を人間が受け継いだとするならば、すべてが自分を中心としてすべてを仕えさせるというようなことになったとするならば、これは大変なことになるというのであります。一つとか、統一という問題、あるいは融合とか、あるいは発展という原則を満たすことはできません。
それで神様におきましては、そういう主体を中心として客体が侍るのではなくして、神自体におきまして、客体を中心として、神自体が「為に存在する」相対者の為に侍るという立場を決めざるを得なかった、ということを我々は分かるのであります。
ここにおきまして、すべてが一つになる、すべてが発展の原則を満たすから、全能なる、全知なる神は、この平和・幸福・理想・愛の本源の基準を「為に存在する」という原則の方向に定めざるを得なかったというのであります。こう考えてみた時に、理想とか、愛と平和、幸福は、自分を主体として主管する、あるいは仕えさせるのではなくして、「為に生きる」「為にすべてを捧げる」という立場におきまして、真なる愛、真なる幸福、真なる平和、真なる理想が始まるというように、宇宙創造の原則をここに置いたのであります。(「為に生きる」1974.5.7帝国ホテル)
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