風の谷のナウシカの生命論



遠大な物語「風の谷のナウシカ」の最後は、ナウシカと墓の主による、「生命とは何か?」という議論でした。(漫画版)


ここでは、非常にわかりづらい議論が展開されました。

その理由の一つは、宮崎駿監督自身が、書いているうちに、議論が整理できなくなったためです。


宮崎監督「どうしたって全部嘘くさくなるから、僕はナウシカに言わせるのはやめよう、と思ったんです。

僕自身は、もう少し物事を整理して掴まえているつもりだったんだけど、「ナウシカ」を書き進めているうちに、逆に何にも整理がつかなくなって、要するに、言葉がなくなってしまった感じでした。

ちょうどナウシカ自身が言葉をなくしているような感じで・・」(宮崎監督インタビューより)


その結果、この作品で最も重要なシーンであるにも関わらず、議論がとてもわかりにくくなってしまいました。


ここでは、この議論が本当は何を意味していたのかを解明します。

ナウシカと墓の主とでは、生命についての考え方において、基本的な認識の違いがあります。

会話の中でも、まず、二人が最も端的に立場の違いを表している次の言葉から見てみましょう。

墓の主
「お前は危険な闇だ。生命は光だ!!」

ナウシカ
「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」

ここでの2人の表現の違いは何を意味しているのでしょうか?

主の言っていることは、比較的わかりやすいと思います。

生命は光であるという言葉で表現しているのは、生命をとても良いものという趣旨で捉えているわけです。
そして、人類の存続を図るために、環境汚染された世界でも生きられるよう、人類再生のプログラムを動かしたわけです。

墓の主
「清浄な世界が回復した人間を元に戻す技術もここに記されている」
「交代はゆるやかに行われるはずだ」
「永い浄化の時は過ぎ去り、人類はおだやかな種族として新たな世界の一部となるだろう」

「私は、暗黒の中の唯一残された光だ」
「娘よ。お前は再生への努力を放棄して人類を滅びるに任せるというのか?」

それに対して、ナウシカは、汚濁や闇を肯定することで反撃します。
「その人たちはなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそ生命だということに」
「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」

その結果、ナウシカは虚無とか悪魔とか、闇の子とか呼ばれるようになります。

2人の言葉を見ていくと、以下のようなつながりがわかります。

生命=清浄(浄化)=光

死=汚濁=闇・暗黒

そして、自らを光と呼び、汚染された環境の中でも生きられるよう人類浄化のためのプログラムをうちたてているのが墓の主。

それに対して、ナウシカは、清浄と汚濁こそ生命、いのちは闇の中のまたたく光、というように、両者をあわせたものとして考えています。

ナウシカが、生命を考える時、常に汚濁や闇と一緒に考えるべきだとういうのはどういうことでしょうか?

ナウシカはいいます。
「母は11人の子を産み、育ったのはわたしだけです」
「他の子は母の身体にたまった毒を身代わりにひきうけて死んでいきました」

ここで言っているのは、生というものは、多くの死に支えられているということです。
ナウシカの場合は、自分自身がその例証になるわけですが、一般に、生き物が他の生き物を食べるということも含めて、広い意味で考えることもできると思います

また、粘菌の研究から、別の角度でも同じことはわかります。

ナウシカ「粘菌は不安でうろたえて悲鳴をあげた。他の菌の鉢に放してやったら、自分より強い菌におそいかかって、喰いあいをはじめた。でも、相手が強すぎて食べられてしまった。数日後にびっくりすることがわかった。あの粘菌が他の菌の中で元気にエサをあさっていたのだ。食べられながら、自分も食べて、まじりあっていくつかの細胞は生き残っていたにちがいない・・」

さらに王蟲の生態からも同じことがわかります。
ナウシカ「王蟲は大地の傷口をいやそうとしているだけ。生きたまま腐海の苗床になって・・」

王蟲は、人為的に操作された面もありますが、そのせいで全ての行動が決まっているわけではないとナウシカは考えています。

これらのように、ナウシカは、自分の出生、粘菌の研究や王蟲の行動を見ることによって、生(光)というものは死(闇)によって支えられているものだと考えるようになるのです。



つまり、時間的にいえば、ある生と死が協力することで、次の世代の生を生み出していくのであり、空間的に言えば、他の種と食ったり食われたりしながら、お互いが共存していくのが、生命というものの本質なのです。


だから、墓の主のように、自分は光だ、死は虚無だ、などということは、間違っていると考えられるのです。

さて、ここで視点を変えて、参考までに、粘菌について、南方熊楠の説明で、大変興味深いものがありますので、あげておきます。

南方熊楠は、90年代にブームになってましたし、もともと宮崎監督は生態学にも興味が深いので、おそらく、宮崎監督もどこかで読んだのではないでしょうか。

「生命というのは、ひとつのきわめて微小な光のまたたきのようなものなのだ。
生命が小さな灯火としてまたたきでると、そのあかりで暗が消滅する。
こんなぐあいに、死の領域というものと、生きているものの世界とを、分けてしまうことなどはできない。

生と死は背中合わせになった、ひとつの現象のしめすふたつの相なのである。
そのような生命現象の奥に潜んでいるその「なにものか」をわれわれの顕微鏡の下に、美しくもみごとにさらしてくれている生き物がいる。それが粘菌だ。

粘菌の不思議は、生命のもっとも活発な活動が「顕在化」しているときには、見た目にはみじめな半流動体として、汚いアメーバ状になり、その逆に、生命活動が低下して死に近づくと、それは美しい子実体を形成するようになるところにある。」

(南方熊楠の書簡の中沢新一による要約をベースに更に要約)

ナウシカ
「その人たちはなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそ生命だということに」
「いのちは闇の中のまたたく光だ!!」

ナウシカが、粘菌の研究から得た考えは、南方熊楠が粘菌を見て考えたことと、近いものがあるのではないでしょうか?


生命を光、死を闇ととらえ、闇を敵視するべきではなく、一つながりの流れであり、その中で光は闇の協力により、生み出されていくということだと思います。

つまり、ナウシカは、自らの生命哲学を、自分の生存のために犠牲になった11人の兄弟、粘菌と共存しようとする王蟲、死んだように見えている時に元気で、生きているときに死に近い粘菌の3つの事象から、生と死の考え方を固めたのでしょう。

その結果が、次の言葉に集約されています。
ナウシカ「巨大な墓や下僕などなくとも、私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる」


さて、では、生命に対する哲学の違いは明らかになったとして、人間はどのように生きるべきでしょうか?

墓の主の考え方は単純です。
「有毒の大気、凶暴な太陽光、枯渇した大地、次々と生まれる新しい病気、おびただしい死」
「ありとあらゆる宗教、ありとあらゆる正義、ありとあらゆる利害、調停のために神まで造ってしまった」
「とるべき道はいくつもなかったのだよ」
「時間がなかった。私達はすべてを未来にたくすことにした」
「清浄な世界が回復した人間を元に戻す技術もここに記されている」
「交代はゆるやかに行われるはずだ」
「永い浄化の時は過ぎ去り、人類はおだやかな種族として新たな世界の一部となるだろう」

つまり、人間が生存できない環境になってしまったことを踏まえ、清浄な世界に作り変えようとしたわけです。

しかし、ナウシカはそれを拒否します。

「私達は血を吐きつつ、繰り返し繰り返しその朝を越えてとぶ鳥だ!!」
「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」
「私達は腐海と共に生きてきたのだ。亡びはすでに私達のくらしのすでに一部になっている」

どのような考えがあって、ナウシカはこのように言ったのでしょうか?
一つには、先ほど見ましたように、生命哲学があります。

生き物はお互い、共存していくものです。

また、何かが死ぬということも、別な何かを生み出すことにつながるものなのです。
そして、一見死に瀕しているように見えようとも、場合によってはそういう時こそ生命力があふれる場合もあるのです。

もちろん、環境が非常に悪化すれば、全ての生命が絶滅する可能性もあります。
しかし、それは、「この星が決めること」とナウシカは言い放ちます。

ナウシカがこういいきれるのは、腐海近くの風の谷に住むことで、亡びとともに生きてきたという自負心もあります。



さて、これまで、ナウシカの考えについて、漫画版ナウシカのセリフを使って説明してきましたが、実は、ここのシーンは、冒頭にも書きましたように、宮崎監督が本当に持っているイメージが十分には説明されていない面があると思います。

ここでちょっと、ナウシカからはまた外れますが、宮崎監督が様々なインタビューで語っていることを聞いてみましょう。


「この星がきめること」ということ
「恐竜はいわゆる恐竜的進化の果てに滅びたと言われていたのが、このごろは違ってきました。ネメシスが因果応報の罰を与えたのじゃなくて、巨大隕石が地球に衝突して、それで滅びたとかね。地球が大地殻変動期を迎えて、大噴火を繰り返して、それで7割ぐらいの種が絶滅して、更新が行われたとか。地球はやさしくないんですよ。滅びたのは恐竜自身のせいじゃなかった。地球のせいだった。
「カンブリア紀の爆発が偶然だったんだ。今の形も、自分たちが残っているのも偶然だったのだ


(参考:ユパの言葉)「古い生物群が新しい生物群にとってかわられた例は、この星の歴史になんどもあったことだ。しかし、その場合でも、新旧の交代はゆるやかな生態系の変化として行われた」


世界の浄化を拒否し、汚染された環境の中であっても生きるべきだということ
大気に酸素が含まれはじめた時、それまでの生命にとって猛毒であった

「近所にドブ川があって、40年前は清流だったのですが、一番ひどい時は白濁していて生き物がいるとは思えませんでした」

「それがほんの少しきれいになて、ユスリカが住むようになったんですよ。ユスリカの大群が発生するのが10年くらい続いたんですが、川が少しきれいになったら、それも発生しなくなった。」

「藻が生えるようになったのも、10年前ぐらいからじゃないかな。不毛の地に藻が生えたと僕らは感動するんですが、よその川からすると、その藻は川が汚れている証拠なわけです。汚い川に生える藻だから。ただ、川をきれいにするという時に、屋久島に流れている川のようにきれいにといか、見たことないですけど四万十川のようにきれいにならなきゃだめだという考え方は違うんじゃないですかね。あんまり、きれい・汚いをわけたり、清潔感を振り回したりすると、なんか病的になっちゃいますよね。」

「環境指標からいえば、ひどいものですよ、きっと。魚が現れたといっても、きっとその魚はアトピーやゼンソクで苦しんでいるに違いない。それでも、とりあえず今回はよしとしよう。」

「実は、ナウシカをつくる大きなきっかけになったと今にして思うことがひとつあるんです。水俣湾が水銀で汚染されて死の海になった。

つまり人間にとって、死の海になって、漁をやめてしまった。その結果、数年たったら、水俣湾には日本のほかの海では見られないほど魚の群れがやってきて、岩にはカキがいっぱいついた。これは僕にとっては、背筋の寒くなるような感動だったんです。彼らは、人間がバラまいた罪悪を一身に引き受けて生きている。」

(参考)
ユパ「森の毒はもうそんなにジルの身体を」
ナウシカ「ハイ。それが腐海のほとりに生きる者の定めとか・・」

ナウシカ(庭の主との対話)

「母は11人の子を産み、育ったのはわたしだけです」
「他の子は母の身体にたまった毒を身代わりにひきうけて死んでいきました」

ナウシカ(人々への呼びかけ)
「腐海のほとりに移り、そこで生きましょう。腐海は私達の業苦です。でも敵ではありません。苦しみを分かち合って生きる方法を私の一族は知っています。みなさんに教えられます」




これらの、宮崎監督自身が、学んだり、経験したりしたことを通じて考えたこと全てが、ナウシカの言葉に反響していることがわかるでしょう。

つまり、生態について、人間がコントロールできると考えることは傲慢だということです。
人間が誕生したのも、地球の様々な偶然の積み重なりであるように、人類が滅ぶのも、人間の問題以前に、地球の問題があれば、あっさりほろびるでしょう。

逆に、人間がもたらした環境汚染などの罪悪により、生命が死滅するのかとうと、そうでもない。水俣湾のようにどこよりも魚が戻ったような例もあります。

また、大気に酸素が生じたときは、それ以前の生命にとっては猛毒でしたが、しかし、それ以降、新たなる生態系を生み出す原動力となったわけです。

生命というものは、目的を持って変化しているわけではなく、人間が考えているより、はるかに状況に適応したり、状況を活用したりしながら、生きていくものなのです。

まさに、清浄と汚濁にわけ、汚濁を否定し、生態系の目的を設定しては、生命というものは全く理解できずに終わってしまうのです。


ここまで来ると、ナウシカの生命哲学ともいうべきものの体系がそろったと考えられます。


・生き物は環境も含めたお互いの変化の中で、共存していくものです。長い年月のうちに、お互いを必要とするようになる場合もありますし、毒や環境破壊でさえ、新たなる生態系を生み出すきっかけになることもあるのです。何か目的を持って変化するのとは違います。

・何かが死ぬということも、次の世代の種や他の種の発展につながるものなのです。
そして、一見死に瀕しているように見えようとも、場合によってはそういう時こそ生命力があふれる場合もあるのです。

・生命の発展は地球規模の変動でおきたように、生命の終焉も地球規模で考えた方が自然です。




(参考)

ナウシカの生命哲学を考える上で、何かしら興味深いと思われる例を少し集めてみました。そのうち、もっと追加するかもしれません。
正解がある問題でもないので、皆さんが生命を考える上で、ご活用ください。


①生をサポートする死
・・生まれる前に死ぬダニの例
アダクチリディウムと類縁の近いダニの例。
「この雄は母ダニの殻のなかで孵化した後、すべての姉妹と交尾し、母体外へ生まれる前に死ぬ。これでは、たいして面白い生涯とは思えないかもしれないが、自分の進化的継続のために果たしていることになる。
自然界の奇妙さには、よくできた物語以上のものがある。それらは生命の歴史と意味に関する興味深い理論の限界を吟味するための素材なのである。」
(S・J・グールド「パンダの親指」)


・・他人を助けるために死ぬ場合の遺伝子レベルで見た損得
5人のいとこを救うために自分の命を捨てる遺伝子が固体群内に増えてくることはないが、5人の兄弟か10人のいとこのために命をすてる遺伝子は数が増えるに違いない。このような遺伝子は、利他主義者によって救われた十分な数の個体の体内で生き続け、利他主義者自身の死による損失をつぐなうことになる。サルの群やクジラの群で利他的行動があれほどしばしば報告されている理由であろう」
(リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」)



・・予定された細胞死と不死によるガン化
「多細胞生物の細胞は、生物個体のもつ制御機構の支配に従って、細胞が自ら命を絶つプログラム、すなわち、<自殺機構>をもっている。この機構が働いて起こる細胞死が、アポトーシスである。
健康な成人の体内でも、毎日膨大な数の細胞が死んでいる。
指が発生過程で形成されるときには、指の間の細胞が細胞死を起し、一本ずつ離れてふつうの指になる。もし、この細胞死が起きなかったら、アヒルのような水掻きがついた手になってしまうことになる。
ところが、もし、アポトーシス機構に異常が生じてしまったら、この細胞はもはや排除されずにいき続けることになるであろう。これが、まさに細胞の不死化であり、ガン化なのではないだろうか。」
山田武・大山ハルミ(アポトーシスの科学(プログラム化された細胞死)」)



②生き物の共存
・・人間の文化を利用する生き物の例1
「人間という種の覇権の確立は、昆虫の型のいかなる後退をも引き起こさなかった。
人間種は、それまでの自然の均衡を破り、たくさんの種類の虫たちに絶好の条件を作り出したのである。
たとえばコロラドハムシは、そもそも、その生息地で経済的価値のない土着の野生植物を食物としていたのだが、もしも人間がジャガイモの栽培を合衆国の西部へと広め、それがハムシの生息地にまで達しなければ、今日この虫は希少種となっていたことだろう。実際のところ、現代を人間の時代というよりもむしろ虫の時代と呼ぶのがよかろうと思っている。虫たちは、望みのままに食べられる膨大な食料を得る手段を人間から与えられ、さもなければ決してありえなかったほどに繁殖した。
あらゆる収穫物は、ひとえに害虫を繁殖させるべく準備されたと言う事はできないとしても、しばしばそうなっていることも確かである。
人間の病気を媒介する虫にも、同様のことがいえるだろう。人口が増加すると、病気がふたたび現れる。それは、人間が蚊の発育に適した新しい場所を作るからであり、その場所が、かつての沼地よりもさらに適していたりするからだ。
水車用の堰や石切場がつくられたり、鉄道用の盛り土で小さな水の流れがさえぎられたり・・すると、それらはすべて素晴らしい蚊のねぐらになるのである。横熱病の蚊が、時と共に、ほとんど馴致された動物のようになったことも忘れてはならない。この蚊はもはや自然の中では繁殖せず、人間が生活する諸条件にすっかり依存するようになってしまったらしい。」
(L.O.ハワード「昆虫の脅威」)


・・人間の文化を利用する生き物の例2
「ある時点でわれわれに知られるものは、常にその虫の技量の全幅であるとは限らない。
彼のうちには、特別の場合のために取っておかれた潜在的な能力がある。
この能力は、長い世代にわたって使われぬままに継承されることもあるが、しかるべき状況となれば、
予備的な試みをも必要とせぬままに、突然それらの能力が姿をあらわし、それ以前の徴候とは何の関係もなく、
ほとばしり出るのである。
屋根瓦の下にあるスズメの巣しか知らぬ者が、梢にかかる丸い巣を予測できるだろうか。ツツハナバチの螺旋状の館しか
知らぬ者が、このハチが、葦の先や、紙筒や、ガラス管を住まいにすることなどできるだろうか。
ふとしたはずみで、屋根を離れてプラタナスに行くことを思いつくわが隣人のスズメ、生まれついての螺旋状の住まいを捨てて私のつくった円筒にやってくるツツハナバチ。
(ファーブル「昆虫記」)


・・動物にとっての環境の意味
「(カナリアの巣作りにおける)長期間の試行錯誤も、この鳥が普通の巣で生まれたか、あるいは、すでに自分の役目を心得ている雌鳥が巣作りするのを見たかしておれば、著しく短縮されることになる。本能と名づけられたる衝動は、常に、生化学現象と、遺伝構造と、日常生活の条件と、個体的経験との結果なのである。」
(L.ヴェルレーヌ「鳥類における本能と知性」)

・・進化の過程における動物の共生
「ダーウィンのランの本にはこれに似た実例がいくつも挙げられている。たとえば、湿地に生きるカキランというランは唇弁を罠として使っている。その唇弁は2つの部分に分かれている。一つは花の基部に近い部分であり、蜜のたまった大きなカップになっている。もうひとつは花の先端寄りの部分であり、一種の着陸場になっている。昆虫がこの滑走路上に降りるとそれを押し下げるため、その奥にある蜜のカップに至る入り口が開くことになる。そこでは、虫はカップに入るが、滑走路は弾力によって、瞬時に跳ね上がり、虫を蜜のカップの中に閉じこめる。外へ出るためには、虫は利用できる唯一の出口を通らなければならない。その通路は花粉の塊に必ず触れさせるようできている。
まさに目を見張るような機構だが、すべては普通の花弁、つまりラン類の祖先でいつでも利用することができた一部分が発達したものである。」
(S・J・グールド 「パンダの親指」)





*なお、この文章のナウシカ以外の引用文は、宮崎駿「出発点」、S・J・グールド「パンダの指」、リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」、ジル・ドゥルーズ「ドゥルーズ初期」、中沢新一「森のバロック」、山田武・大山ハルミ(アポトーシスの科学(プログラム化された細胞死)」)からとっています。


 

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