- 細江克弥
- 2019年1月5日(土) 10:00
決勝にたどり着いた頃、チームは完全に“一丸”となっていた
UAE(アラブ首長国連邦)、北朝鮮、イランと同組のグループAに入った日本は、まさかの2試合連続ドローで大きく出遅れた。
「初戦のUAEはカウンターのチーム。当時はスカウティングなんてほとんどなかったようなもので、西アジアのチームの力がまったく読めなかった。だから、UAEは自分たちの力を測るモノサシのような感覚だったかな。スコアレスドローに終わったけれど、支配できたし、『イケるんじゃないの?』という手応えはあった。
問題は次の北朝鮮だよ。ダイナスティカップで完勝していたから、完全に油断してしまって。彼らの勢いはすごかった。ものすごい運動量で、前からプレスに来て、受け身になって苦戦してしまって。この試合は1−1だったんだけど、『助かった』という印象だね。だから全然、落ち込むこともなかった。俺らのいいところは、引きずらないところ。『次!』とか『イランに勝ちゃいいんだろ!』とか、そういう感じだった」
準決勝進出を懸けた大一番。後半早々に退場者を出したイランが守備を固めたことで、体調不良でラモスを欠く日本にとっては難しい状況が加速した。スコアレスで迎えた87分、グループリーグ敗退の危機から日本を救ったのは、背番号11を身にまとうエースだった。
試合後、インタビュアーの「思い切り打ちましたね」という問いかけに答えたカズは、思わずこぼれたニヤつきを隠すようにしてうつむいた。
「そうですね。思い切って、もう……魂込めました、足に」
「カズはもう、完全なエースだったよね。大エース。最終ラインでリーダーシップを取るのは俺。組み立てるのはラモスさん。決めるのはカズ。ヒーロー? そういう感覚は俺らにはないよ。読売対日産の試合でも1対1で負けたことはないし、抜かれない自信もあったし(笑)。ただ、プロフェッショナルな部分とか、エースとしてのスター性はすごかった。どんな相手でも点を取れる。相手が誰でも同じように向かっていける。カズには“萎縮”という概念がない。あんなに頼りになる選手はいないよ」
準決勝の相手は中国。やはりダイナスティカップの経験から「絶対に勝てる」と踏んで心の中では決勝を見据えていたが、ハプニングが続出した試合はシーソーゲームとなる。
「まさかの失点。しかも1分。俺のミスから。まあ、北朝鮮戦とは違って、焦りもなく、絶対に勝てると全員が思っていたんだけどね。でも、シゲさん(GK松永成立)が退場したときはさすがにちょっと。せっかく逆転したのにモロに相手選手を蹴っちゃってね(笑)。先輩だけど『何やってんだ!』と思いながらも、井原(正巳)をつかまえて『時間を稼いでくれ』と伝えた。あのとき、控えGKの前川(和也)がまったくウォームアップをしていなかったから」
松永の退場から10分後の70分、リ・シャオのシュートは前川の股間を抜けて日本ゴールに吸い込まれた。
「仕方がない。でも、さすがに焦った。ひとり少ない状況で2−2。残り20分。今度はラモスさんをつかまえて『引いたらやられる。前からプレスを掛けたいから指示してくれ』と伝えた。覚えてる? ゴンちゃんが決めた勝ち越しゴール。あれ、実は俺のインターセプトから始まってるんだよ。自分のミスから始まったゲームだったから、ああいう形で勝ててよかった」
そうして決勝にたどり着いた頃には、チームは完全に“一丸”となって前へと突き進んでいた。
「言葉なんて必要なかった。『俺たちが歴史を変えるんだ』という合言葉を、あらためて口にする必要もない雰囲気だった。すごいよね。オフトがやってきたアイコンタクトだけで十分という感覚に、本当になっちゃうんだから」
“闘将”は、「むしろ丸くなった」ことで誕生した
決勝の相手は、当時「アジア最強」と称されたサウジアラビアだった。
懸念材料はふたつ。ひとつは、不動のボランチとして守備面で貢献してきた森保一を累積警告による出場停止で欠いたこと。そしてもうひとつは、カズと並ぶ得点源として2トップを担った高木琢也の状態だ。
「ヨシさん(吉田光範)はどこでもできる器用な人だから、森保の欠場は心配なかった。ただ、高木は心配だった。限界だったんだよね。足首が。めちゃくちゃ腫れていて、ものすごく調子が悪かったけど、オフトは使い続けた。やっぱり積み上げた信頼だと思う。ダイナスティカップの高木は本当にすごかった。あれだけの高さがあって、足元もあるからポストプレーもうまい。自分でも運べる。オフトからの信頼はものすごいものがあった」
オフトは賭けに勝った。決勝ゴールを奪ったのは、その高木だ。
「当時は今とオフサイドのルールが違って、プレーに関与していなくても“出たらアウト”。だからこそ、守備はスモールフィールドを徹底してラインを形成した。井原と、右の(堀池)巧との連係はバッチリだったと思うよ。ただ、左の都並(敏史)さんがちょっとね(笑)。感覚がどうも合わないから、俺たち3人の中では『都並さんを2、3メートル前に置いておく』という共通理解があって、3バック気味に守ろうとしていた。で、ラインを押し上げるときは、都並さんのポジションまで上げる」
都並の“感覚”は攻撃面で発揮され、彼のオーバーラップを変化球とする左サイドの攻撃は日本にとって大きな武器だった。迎えた36分、勝敗を左右する決勝ゴールも、やはりこの形から生まれた。
センターサークル付近でゆったりとボールを運んだラモスが、敵陣深くまで進入した左サイドの都並にパスを送る。相手を引きつけて切り替えした都並は、ポジションを下げてサポートに入ったカズへバックパスを送った。カズは一度顔を上げて迷わず右足を振り、弧を描いたクロスはフリーで待ち構えた高木の胸にストンと落ちた。あまりにも鮮やかな左足ボレー。足首の痛みを忘れて、高木は両腕でガッツポーズを作りながらベンチへと走り出した。
「サウジに勝って、優勝して、うれしかった。あのチームでキャプテンを務めることになって、初めて『うれしい』と感じた日。苦労ばっかりだったけど、最初にカップを掲げたのは俺だし、歴史を作ることもできた。
決勝は広島のスタジアムが超満員だったんだよ。国立競技場ならまだしも、地方の大きなスタジアムで満員になることなんてなかった。試合を重ねるごとに少しずつお客さんが増えていって、決勝の雰囲気は本当に最高だった。でっかい日の丸の旗が揺れているのを見て、『何だ、これ!』と思ったよね。あれを見て燃えなきゃ、そんなのウソだよ」
史上初のアジアカップ制覇が日本サッカー界にとって大きな意味を持つことは間違いないが、柱谷自身にとっても、あの大会は“新たな自分”の誕生を意味するビッグイベントだった。
「あの頃、みんなが“プロ”を意識するようになった。それを教えてくれる人がいなかったからこそ、『俺たちがやるんだ』と本気で思えた。プロとは何か。プロは結果。だから死にものぐるいで結果を獲りにいった時代。そういう意味で、成果としてアジアカップを獲れたことの意味は大きかった。
もしキャプテンじゃなかったら? いや、もしかしたら俺も、ラモスさんみたいにわがままな選手だったかもしれないよ(笑)。俺にとってあのアジアカップは、チームメイトに対して自分の判断が間違っていなかったと証明できた大会だった。だから優勝した瞬間に『勝った』と思った。俺、もともとひねくれたヤツなんだよ。キャプテンをやったことでむしろ丸くなった」
偉大なる日本代表キャプテンの系譜、その源流で「闘将」と称された柱谷哲二は、実は「むしろ丸くなった」ことで誕生した。同時に誕生したのは、アジアのサッカー界における新王者だ。その期待感が過去最大級に膨れ上がったからこそ、1年後に待ち受ける悲劇が、悲劇としての色調を深めたことは間違いない。
次ページに日本の戦績、メンバーリストなどを掲載
柱谷哲二(はしらたに・てつじ)
1964年7月15日生まれ。京都府京都市出身。京都商業高(現京都学園高)から国士舘大を経て日産自動車サッカー部に入部。日本代表やヴェルディ川崎でセンターバック、守備的MFとして活躍した。1992年のハンス・オフト体制ではキャプテンを務め、チームを激しく鼓舞する姿から「闘将」と呼ばれた。1998年シーズン限りで現役を退くと、コンサドーレ札幌、東京ヴェルディ、水戸ホーリーホック、ガイナーレ鳥取、ヴァンラーレ八戸などの監督を歴任。2018年6月にはギラヴァンツ北九州の監督に就任。シーズン終了後に退任した。