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合言葉は「俺たちが歴史を変える」
柱谷哲二が語るアジア制覇の記憶 1992年

日本代表が、初めて“プロ”として扱われた日

翌年にJリーグと米国W杯予選の開幕を控え、1992年5月に発足したオフト体制でキャプテンに指名されたのが、柱谷だった
翌年にJリーグと米国W杯予選の開幕を控え、1992年5月に発足したオフト体制でキャプテンに指名されたのが、柱谷だった【千葉格】

 日本代表にとって初めてのアジア制覇、1992年のアジアカップ日本大会での優勝を、柱谷哲二は「ほとんど必然だった」と回顧する。


 1980年代後半まで、日本代表は「ホントに弱かった」。お隣の韓国とは確かな力の差と歴然とした経験の差があり、ワールドカップ(W杯)は文字どおり「夢の世界」だった。アジアの舞台でさえ、楽に勝てる相手はほとんどいない。

 ところが、1990年代に入ると状況が一変する。


 分かりやすいきっかけを作ったのは、このふたりだ。1989年に日本国籍を取得したラモス瑠偉と、翌1990年にブラジルから帰国した三浦知良(カズ)。千両役者の特別な存在感は日本代表を華やかに彩り、新時代到来の期待感は国立競技場を超満員に膨れ上がらせた。迎えた1991年6月、日本代表はあのガリー・リネカーを擁するイングランドの強豪クラブ、トッテナムと対戦し、なんと4−0と圧勝した。

1989年に日本国籍を取得したラモス瑠偉(左)と1990年にブラジルから帰国した三浦知良は、日本代表に新しい風を呼び込んだ
1989年に日本国籍を取得したラモス瑠偉(左)と1990年にブラジルから帰国した三浦知良は、日本代表に新しい風を呼び込んだ【写真:築田 純/アフロスポーツ】

 実はこの大会、選手たちにとっては結果以上に大きな意味があった。柱谷が言う。


「トッテナム戦の4日前、京都でバスコ・ダ・ガマ(ブラジル)と対戦したでしょ。試合前、知らないおっさんから『テツ!』と呼び止められて、いきなり『絶対に勝てよ』と言われた。誰か分からなかったけれど、協会のバッジをつけていたからきっと偉い人なんだろうと思ったんだよね。『ラモスさんとカズが、勝利ボーナスがないのはおかしいと言っている』と伝えたら、その人、『分かった。優勝したらやるから絶対に勝て』と言ってくれて。そんなこと初めてだったから、モチベーションが上がったよ。日本代表が“プロ”として扱われたのは、あの時が初めてだった」


「知らないおっさん」は、川淵三郎だった。2年後に幕を開けるJリーグでその顔が全国区となる初代チェアマンである。


 1か月後の1991年7月、プロリーグ(Jリーグ)設立が正式に発表され、その前身である「日本サッカーリーグ」は翌1992年3月をもって27年の歴史に幕を下ろした。


 このタイミングで、日本代表も生まれ変わる。メンバーリストの顔ぶれに大差はなかったが、ひとりのオランダ人が彼らの顔つきをガラリと変えた。1992年5月、新監督に就任したハンス・オフトである。

1992年5月に日本代表の監督に就任したハンス・オフト。「トライアングル」や「アイコンタクト」といった基本を徹底し、日本代表に規律を植え付けた
1992年5月に日本代表の監督に就任したハンス・オフト。「トライアングル」や「アイコンタクト」といった基本を徹底し、日本代表に規律を植え付けた【写真:岡沢克郎/アフロ】

「オフトはヤマハやマツダで指導していたけど、そういう印象は全然なくて。『外国人監督が来るんだ』くらいの感覚でしかなかった。抵抗感? 俺はまったく。先入観なく、フラットな状態で受け入れられたと思う。だけど、ラモスさんを中心とする読売クラブの選手たちはちょっと違うよね。もちろん、ラモスさんは日本代表においても絶対的な存在。だから、ラモスさんとオフトの間で主導権争いが始まってしまって」


 当時の日本サッカー界をめぐる勢力図は、3つのグループで構成されていた。ひとつは、ラモスやカズ、都並敏史、武田修宏、北澤豪らが所属した読売クラブ派。もうひとつは、柱谷や井原正巳、松永成立や勝矢寿延らが所属した日産FC派。そして、3つ目は“その他”である。就任早々にしてその勢力図を見抜いたオフトは、新チームのキャプテンに指名した柱谷にこう伝えた。


「小さな3つのグループを、大きなひとつのグループにしてくれ」


 思い当たるところがあって、柱谷はうなずいた。


 オフトのサッカーには明確なキーワードがあった。


「『トライアングル』『スモールフィールド』『アイコンタクト』。攻撃は常に三角形を作れ。守備は小さなエリアに追い込め。それから、常に眼を合わせてコミュニケーションを取れと。例えば“三角形”なんて、当時の俺たちでも知っていた言葉なのよ。だけど、実際に細かい指示を受けながらトレーニングをすると、全然うまくできなかった。


 だからほとんどの選手は『なるほど』と納得したけれど、単純な練習をずっと繰り返すものだから、ラモスさんは『そんなこと分かってる!』とイライラしてしまう。俺? まずは黙って見ていた。ぶつかり合うほうが健全だと思っていたから」


 前体制の“横山ジャパン”において、年齢的な中間層に属していた柱谷には後悔があった。


 もともとはっきりとした主張を秘めるタイプの改革派で、保守的なことを嫌う前向きな性格の持ち主だ。しかし、今よりずっと上下関係が厳しかった当時、監督や先輩に自分の意見をぶつけるのは簡単ではなかった。当然ながら、チームの弱さの根源に遠慮や我慢があることも分かっていた。“チーム”になりきれないバラバラな個性を目の当たりにして、ずっとジレンマを抱えていた。


「俺たちは、時代の狭間(はざま)にいた。ものすごいパワーが必要だったけれど、一方で『歴史を変えるんだ』という強い使命感があった。もうすぐJリーグが開幕する。W杯の予選も始まる。変わるなら今しかないというタイミングにあって、そのトップにいる俺たちがやるしかない。合言葉は『俺たちが歴史を変える』。必要だと思ったものは全部要求したよ。トレーナーの増員も勝利ボーナスもそう。細かいことも全部。協会の人たちは『うるせえな』と思っていたかもしれないけれど、俺たちも本気だったから」


 日本サッカーは変わらなければならない。日本代表は変わらなければいけない。だから、その先頭にいる自分が動かなければならない。柱谷は、そのタイミングを見計らっていた。

細江克弥
1979年生まれ、神奈川県藤沢市出身。『ワールドサッカーキング』『Jリーグサッカーキング』『ワールドサッカーグラフィック』編集部を経て2009年に独立。サッカーを中心にスポーツ全般にまつわる執筆、アスリートへのインタビュー、編集&企画構成などを手がける。

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12月22日(土)

鹿島

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