攻勢


 攻勢を前に、旅団では党の集会が開かれ、その中でチュニヒン大佐[第170戦車旅団長]が報告の演説を行った。
「第2ウクライナ戦線の諸隊は、およそ4か月にわたって局地戦を繰り返し、地歩を固め、人員、戦車、兵器、予備資材の補充を受けながら、新たな攻勢に向けての準備に全力で取り組んできた。今こそ我々の出番なのだ!現在の戦局においては、我々の積極的な、かつ決然たる行動が求められている。第18戦車軍団は、8月18日までにヤッスィ・キシニョウ攻勢作戦の準備を完了させるべし、との命令を受け取った」
 私たちが初めて耳にする作戦名であった。旅団を待ち受けているのはフシ、ヴァスルイ、ブカレスト方面の戦場である。旅団長は将校らを集め、敵の後方の深く斬り込み、しかも速いテンポで攻勢を続けるよう指示を下した。このためには、旅団の戦士たち一人一人が人員と武器、兵器の戦闘準備を、また整備班と後方要員は物資・技術面でのバックアップを担当し、それぞれに大きな責任を負わなければならない。
「特に強調しておきたいのだが、我々は初めて他国の領土内で戦うわけだ。ソヴィエト連邦政府の4月2日付声明、また4月10日付の国家防衛委員会決議において、ルーマニア領内でのソヴィエト軍の行動が規定されたことを、ここでもう一度思い出してもらいたい。我々は征服者ではなく解放者としてルーマニア入りするのであるから、村や街を解放する際にも、各員がそれにふさわしいふるまいを心がけねばならん。無論、諸君らの気持ちは理解しておる。スターリングラードでの戦い以来、諸君らは占領者どもの蛮行を目にしてきただろうし、その中にはルーマニア兵によるものも含まれていたのだからな。だが、我々は感情に流されることなく、明白な理性を保ち、ソヴィエト国民としての尊厳を守る必要がある。ルーマニア国民に憎しみを持って接してはならんし、まして復讐や暴行などは論外だ」
 攻勢を実施する直前の段階では、作戦レベルでの偽装が徹底された。作戦開始までの2週間にわたり、完全な無線封止が続いた。この間、旅団長と司令部の無線機は受信だけに専念している。攻勢開始の1週間前になると、全ての幹線道路や軍用道路、あるいは見晴らしのよい区画に、偽装用ネットと束柴からなる高さ3メートルの遮蔽物が設けられ、移動する部隊や後方から前線へ向かう物資輸送用の荷車の列などを巧みに覆い隠した。また、ヤッスィからソロクとティラスポリへ軍を後退させているように見せかけるため、欺瞞行動が毎晩続けられた。これらの措置が敵軍を欺き、惑わせたのである。
 作戦開始の前夜は暖かく、静かなものだった。夜闇は急速に、また忍びやかに私たちを覆い、雲ひとつない空の上では星々が明るく輝く。戦線の第一梯団に所属する諸隊は、攻勢発起の準備を整えていた。指揮所と観測所が最前線まで進められ、砲兵隊も陣地に機材を運び込んでいる。通信兵は新たな地区まで電話線を伸ばし、工兵隊は進撃路を確保するため地雷原を啓開した。私たちも眠るどころの話ではない。そこかしこで冗談を言ったり、笑い合ったり、とっておきのアネクドートを披露したりする声が聞こえ、アコーディオンの音が鳴り響く。何しろ攻勢突破作戦をやらかそうというのだから、皆がある種の高揚感に支配されていた。兵士たちは長く続いた無為の状態に飽き、ひたすら戦いを求めたのだ。
 8月19日の朝6時、カチューシャ隊の力強い斉射を皮切りに、準備砲撃が開始された。淡い青色の空を背景に現れる巨大な炎の塊。まばゆい光の尾を曳き、軋むような音を立てながらロケット弾が飛んでいったかと思うと、敵陣は一瞬にして炎と煙と土埃の中に沈められた。カチューシャに続き、軍と戦線に所属する全ての砲兵隊が撃ち始める。対戦車砲と戦車砲も、直接照準で射撃を行った。砲撃と砲撃の合間には航空隊が飛来し、所在が明らかになった、あるいは撃ちもらされた敵の火点を征圧した。最前線、そして敵防御陣地の後背一帯では阿鼻叫喚の地獄絵が展開されていた。それは恐ろしくも偉大な光景であった。
 航空隊と砲兵隊による準備攻撃が終わった後で、第52軍の各兵団と部隊は攻勢に移り、抵抗を受けることなく前進を開始した。第一梯団として第52軍の攻勢を先導したのは、第170と第110の両戦車旅団であった。ずたずたに引き裂かれた敵防御陣地の脇を通過しながら、私たちはただただ呆然とするしかなかった。炸裂孔が口を開いていない場所は1平方メートルも残っていないように思われたほどである!
 戦車隊は大隊ごとに縦列を組み、母鳥に続く小鴨の群れのように、方向や間隔をそろえながら行儀よく進んだ。各大隊がバクルユルイ川へ近づいたところで、旅団長は大隊長たちを相手に任務の再確認を行った。短時間の強力な砲撃を加えた後、第1大隊と第2大隊は歩兵の支援を受けつつ払暁のうちにコジェスク・ノウ地区で渡河を敢行、そのまま攻撃に移った。コルトゥノフ中隊と我がグリャエフ中隊が前に飛び出した。敵軍もここで猛烈な抵抗を開始。部隊は最初の損害を被った。敵弾によりリャザンツェフ中尉車が転輪を砕かれ、履帯も引きちぎられた。小隊長は軽い傷を受けたが、包帯で手当てを受けただけで戦列にとどまった。第2大隊でも1両が炎上し、重傷を負った戦車長クリヴェンコは病院へと後送された。
 一方、我が中隊の中でも隣の小隊に属する戦車長ゾリャーの戦いぶりには、彼の気後れと決断力のなさが表れていた。チェバシヴィリ小隊長は無線でもってゾリャーの尻を叩き続け、進撃ルートから脱落しないよう手助けをし、また目標を指示した。ゾリャーは若手将校の一人であったが、その初陣は惨憺たるものになってしまった。彼はあがってしまい、右往左往するしかない。戦車長の動揺は他の乗員にも伝染した。その時、パンターの徹甲弾が戦車の前面に命中し、側面から抜けていった。火花が車内に飛び散り、硝煙の臭いが鼻をつく。中尉は茫然自失し、ものも言わず、思考も停止させたまま次の弾を待っている。真っ先に我に返ったのは、機関手兼操縦手のシーモノフ軍曹だった。彼は視察孔から戦場を見回し、敵を発見しては攻撃を指示すると、続いて正気に戻った照準手ブロヴィンが目標を見つけ出し、これを射撃した。クルーは戦車長を無視する形で戦い続けたのである。2発目の敵弾が走行装置に命中、履帯が千切れ、転輪も破壊された。乗員たちは戦車の外へ飛び出し、その場に伏せた。中隊は戦闘を繰り返しつつ、ゆっくりと前進していく。気後れした戦車長に容赦のない罵詈雑言を浴びせながら、シーモノフはクルーを呼び集め、履帯を伸ばして戦車の態勢を立て直し、破壊された転輪を取り外す作業にかかった。そこへ修理班も到着した。瞬く間に転輪を取り換え、履帯も張り直すと、戦車は中隊に追いつくべく疾走した。
 激戦は数時間にわたって続いた。とうとう敵軍はこらえ切れなくなり、態勢を崩して退却を始めた。後退する敵を追いかけながら、私たちはヴォルヴェシチへなだれ込み、続いてウリケニー方面に向かって進んだ。私の小隊は偵察隊を追い抜き、真っ先にウリケニーへ突入した。そのまま抵抗を受けることなく村を通過して南へ抜け、ボグデネシチ~188高地~ベルチウルの線へ進出したところで、敵から砲火を浴びせられた。各車を分散させて砲撃戦を行いながら、大隊主力の到着を待って突破を試みたが、敵の砲撃は濃密かつ正確であり、攻撃は失敗に終わった。
 旅団偵察隊の報告によれば、この防御線で守りを固めていたのはドイツ第1装甲師団及び第18山岳歩兵師団の第二梯団で、2個砲兵中隊と11両の戦車、7両の突撃砲が射撃陣地に籠り、旅団の行く手を阻んでいた。状況を把握したチュニヒン大佐は、以下のような指示を下した。
「第21歩兵軍団の諸隊と合流した後、2個戦車中隊を戦線内の限定された範囲に集中し、打撃を加えることによって敵防御陣地を分散させる。同時に2個戦車中隊で両翼を確保、敵を殲滅した上で攻勢を続行する」
 旅団配属の第315砲兵連隊が追及してきて、その場に展開すると、発見した目標を直接照準で撃ち始めた。空軍が敵に打撃を加え、歩兵部隊も前線に到着し、攻勢は再開された。私の小隊は側面からの攻撃に回った。この戦いで私は敵戦車と突撃砲を仕留め、マクシモフは対戦車砲2門を破壊している。
 旅団長の計画は図に当たった。敵は持ちこたえることができずに退却を開始、各大隊は追撃に移った。私たちは一挙にコルネシチー、ダンカシチー、チオブレシチーを突破し、ニコレンカ川の左岸へ出た後で、クレトゥリレ南東部の森の中に集結した。しかしながら、敵空軍はすぐさま爆撃を開始し、私たちに退避とカムフラージュの暇を与えなかった。旅団集結地点は数波にわたる爆撃を被ったのである。敵機は次から次へと攻撃を繰り返した。降り注ぐ爆弾を避けようとして、兵士たちはルーマニア人捕虜の中になだれ込んだ。爆撃機が飛び去った後、我が軍の軍医と2人のルーマニア人医師は負傷者を手当てし、彼らを集めて3台の荷馬車に乗せると、後方の病院へ搬送した…
 同じ日の午後、南へ撤退しつつある車列と随伴の戦車が偵察隊により発見された。旅団長は立ち止まることなく追撃を続ける一方、跨乗歩兵を配属した戦車1個小隊を差し向けて敵の車列を待ち伏せ、これを殲滅するという任務を第2大隊長に課した。パンフィーロフ少尉率いる小隊は、スコロビトクリ村付近で有利な場所を発見し、身を隠した。車列を充分に引き寄せた後、戦車隊は停車状態のまま、ほぼ真正面から射撃を開始。不意打ちを喰らった敵はパニックを起こし、どの車も左右に走り回った。我が砲火から逃れようと強行突破を図る者もいれば、引き返そうとする者もいる。砲撃により車列を分散させ、大きな損害を与えた後で、戦車小隊はとどめを刺すべく突撃を敢行した。この戦いで、ドミトリー・イヴァノヴィチ・パンフィーロフは自ら3両の軽戦車を破壊しており、混乱した敵軍は街道上に数百人の屍を残して敗走した。間もなく、パンフィーロフはソヴィエト連邦英雄として推薦されることとなった(原註1)。
 かくして1日目の戦いが終わった時、私たちは20キロの前進を達成していた。夜の間に燃料と弾薬が補充された。炊事班も追いついてきたので、兵員に食事をさせ、多少は休ませることができた。夜明けと共に、各大隊は前日と同じ戦闘隊形のまま、グリャ、ドブロヴェツル、フシ方面への攻勢を続けた。少数の敵後置部隊を排除しつつ、私たちは早くもクリポヴァリに到達したが、ここでヤッスィから後退してきた車列が捕捉された。我が大隊は高速で敵と並走、これを追い抜いた後に真正面から攻撃を加え、さらにマトヴェーエフ大隊が後尾を叩く。敵の車列は「プレス機」で締め上げられ、ごく短時間のうちに消滅した。路上に残ったのは、歪んだ金属の塊と人馬の屍だけである。その場に長居することなく、旅団長はさらに部隊を前進させた。私たちはルシーを奪取し、その南に出たところで敵の組織的な抵抗が始まった。マエフスキー上級中尉の中隊が行軍隊形のまま攻撃を行ったが、これは上手くいかず、中隊は戦車1両を失って後退した。偵察隊が前に出た。間もなく、ベレゾフスキー偵察隊長が息せき切ってオトロシシェンコフ[大隊長]車に駆け寄り、報告を行った。これによれば、前方には幅およそ5キロ規模の防御陣地が構築され、歩兵1個大隊と対戦車砲2個中隊が守りを固めている他、壕に隠れた戦車もある模様だという。
 配属の砲兵連隊がその場に展開し、撃ち始めた。15分の砲撃の後、チェバシヴィリとアムブラズモフの両小隊が正面から攻撃を開始し、砲兵隊は直接射撃でこれを支援する。一方の旅団主力は、長く伸びた深い窪地とトウモロコシ畑に身を隠しながら、敵の防御陣地を迂回した。我が中隊は土煙をたなびかせ、旅団の先頭に立って進んだ。敵はこの一撃に意表を衝かれ、退却を開始した。私の小隊は後退する敵の車列を突っ切ると、街道上に這い上がり、停車したまま猛烈な砲と機関銃の射撃を浴びせかけた。車列は停止し、砲火から逃れようと後退を始めた。2両の戦車と1両の突撃砲がゆっくり前進してくるのが見える。私は真っ先にこれを発見し、クルーに指示を出した。
「ブリノフ!正面に戦車。距離500、徹甲弾、撃て!」
 照準手はすぐに目標を見つけ、砲をそちらへ指向する。装填手のアクリシン上級軍曹が砲の中に徹甲弾を送り込み、大声で報告した。
「徹甲弾、準備よし!」
 ブリノフは1発で仕留めた。敵戦車はたちまち炎に包まれる。2両目の戦車はコーリャ・マクシモフが片づけた。一方、突撃砲は車の群れの中を這い回り、狙いも定めぬまま撃ち続けた。ブリノフは2発を発射したが、目標を捉えられない。私は思わず悪態をついた。
「この間抜け野郎!…」
 しかし、我が照準手の3発目は正確だった。後続の車列は足を止め、渋滞が始まった。その両翼からは各大隊が攻撃をかける。踏み荒らされていない畑の中に飛び込んで逃げおおせた敵の数はほんの少数、ごくわずかなものでしかない!
 旅団は一直線にフシへと向かった。日の光は情け容赦なく降り注ぎ、戦車を過熱させた。冷却水が沸騰してしまい、落伍する戦車も出始めた。敵の空軍が頻繁に姿を見せ始めたが、今のところは味方の戦闘機隊が守ってくれている。午後になってから、私たちはドブロヴェツルを占拠し、続いてベルチウルを落とした。あまりにも順調な攻勢は、行軍時の基本原則を軽視する原因となってしまったようである。ベルチウルを通りすぎたところで、私たちは「自動車道と鉄路の分岐点~218高地」の線から、思いがけず激しい砲撃を受けることになった。パニックが始まった。敵の砲弾が降り注ぐ中、私たちは応射しつつ後退しようとした。各大隊長は態勢の立て直しを試みたが、なかなか上手くいかない。その場に到着した旅団長と司令部が状況を把握し、各大隊と砲兵隊の任務を再確認した事で、ようやく諸隊の協同体制と指揮系統を回復することができたのである。
 短時間の砲撃を加えた後、第1大隊と第2大隊は敵陣へと突入した。ルーマニア軍は頑強な抵抗を示し、私たちは文字通り彼らの防御陣地を噛み破らなければならなかった。チュニヒン大佐は第3大隊の投入を決めた。大隊は敵を撃破しつつ前進したが、ゴレフスキー中隊だけはコデシチ街道上で地雷原に突っ込んでしまった。5両の戦車が次々に地雷を踏み、爆破された。敵の砲火と抵抗はいっそう強まり、第3大隊の指揮に混乱が生じた結果、各車は停止し、その場で砲撃を繰り返すしかなかった。旅団長はグリシシェンコ大尉の[第3]大隊を砲兵で援護すると同時に、第1・第2の両大隊長に対しては攻撃の強化を命じた。この一撃が敵の抵抗を打ち砕いた。各大隊は敵の防衛拠点を完全に破壊し、追撃を続けながらコデシチを占拠すると、その日の終わりまでにはコデシチの南でヴァスルイ川に到達した。旅団は1日の間に戦闘を繰り返しつつ25キロ進撃したが、自らが被った損害も大きなものであった。戦車2両が炎上し、5両が地雷原で撃破されたのである。
 軍団偵察隊の報告によれば、戦車に護衛された敵歩兵と砲兵の大規模な車列が、ヤッスィからベルチウルを目指して進んでいることが分かった。軍団司令官は、短機関銃手を付属した2個戦車大隊を第170及び第181の両旅団から抽出し、軍団の側方をカバーしつつ、ベルチウル南方でヴァスルイに至る道路を確保、接近してくる敵車列を殲滅させることで旅団主力の前進を可能ならしめるという方針を決めた。この任務を遂行するため、チュニヒン大佐が派遣したのは第2大隊であった。[大隊長]マトヴェーエフ上級中尉は、コルトゥノフ中隊とフェセンコ中隊をプリベシチーと218高地を結ぶ線に配置した。218高地~シェルベチーより右側には第181旅団の戦車大隊が布陣している。戦車兵たちはここで車列を待ち受け、一方の旅団主力は払暁と共にヴァスルイ川を渡り、敵の後衛を撃破しながらフシ方面への攻勢を続けた。
 その間にも、敵の車列はベルチウルヘ接近していた。慎重に町を通り抜けた後で、敵軍は組織的な砲火を浴びた。暫時の混乱から立ち直ると、敵の戦車は散開し、砲兵隊の援護を受けながら、阻止部隊を突破すべく歩兵と共に突撃してきた。激しい戦いが始まったのである。敵は損害を顧みることなく、我が方の戦車を殲滅してシレト川へ進出しようと躍起になっていた。戦闘は2時間以上にわたって続き、双方共に多くの兵力を失った。しかし敵は突破が不可能であることを悟ると方針を転換し、複数の縦隊に分かれてベルチウルを抜け、ニグレシチへの脱出を図った。我が2個大隊は敵軍の意図を察知して攻勢に移り、ベルチウルに至らずして敵の前衛を撃破した。一方、ベルチウル北西方面からは激しい射撃戦の音が響いてきた。この戦闘騒音を聞いた第2大隊長は、友軍のいずれかの部隊が戦っているものと判断し、自分たちのところへ来たのは討ち漏らされた敵にすぎない、殲滅も可能だと考えてほくそ笑んだ。しかしここで敵の車列を相手にしていたのは、同じ旅団に属するリャザンツェフ中尉の戦車ただ1両だったのである。リャザンツェフ車は前日の戦いで撃破され、大隊の主力から落伍してしまった。砕かれた転輪を取り換え、戦車の修理をすませてから、小隊長[リャザンツェフ]は大隊に追いつこうと道を急いだのだが、ベルチウルに近づいたところで思いがけなく退却してくる敵歩兵の縦列に遭遇した。すぐに状況を把握したリャザンツェフは、この敵に戦いを挑んだ。丘陵部を利用し、巧みな機動を行いながら、計算され尽くした射撃を繰り返す。まずは丘の上に突進し、稜線上から先頭の車両に砲と機関銃を撃ちかけると、すぐまた丘の陰へ身を隠した。敵は分散して後退を始めたが、リャザンツェフは丘を迂回して進み、左から車列の側面に砲弾を浴びせた。混乱して逃げ惑う敵に対し、リャザンツェフは素早く丘の右側へ移動、再び車両や荷車を狙って射撃を開始した。戦場には破壊された対戦車砲7門と数十台の車、そして数多くの死体が残された。まさにこの時、旅団の副参謀長ノヴィコフ大尉が付近を通りかかった。彼は戦前に党地区委員会の3等書記を務めていたくらいで、すでに若いとは言えない年齢であったが、将校としては非常にしっかりした人物だった。戦闘の結果を観察したノヴィコフは、クルーと小隊長の見事な働きに対して感謝の言葉を述べた。この戦いで挙げた戦果により、リャザンツェフ中尉はソヴィエト連邦英雄に推薦された(原註2)。
 マトヴェーエフ大隊がベルチウル地区で激戦を展開している間にも、旅団主力は攻勢を続け、勢いに乗ってミクレシチーを奪取した。日付が変わるまでに、旅団はマンツルを占拠し、クラスナ川まで進出していた。川岸で行く手を阻もうとした敵の後衛を蹴散らすと、私たちはそのまま渡河を敢行した上、ストロエシチーを手中に収めた。我が大隊の集結地点は、この村から南東に2キロ離れた森の中であった。
 その翌日、旅団はフシの攻撃を命じられていた。交通の要衝として、戦略的に大きな価値を持つ街である。フシ攻略後もそこにとどまることなく、レオヴォ地区でプルート川へ進出、渡河点を確保して第3ウクライナ戦線の先鋒と合体し、包囲環を完成させなければならない。これが成功すれば、敵はシレト川を渡っての脱出ルートを失うわけだ。旅団長の計画によれば、フシ攻撃は旅団の全力で行うものの、市内での敵守備隊の掃討は短機関銃手主体の自動車化歩兵大隊と第2・第3戦車大隊が担当する。同時に第1戦車大隊は、跨乗歩兵中隊及び砲兵大隊と協力し、フシでの戦いに拘束されることなくプルート方面への攻勢を続け、第3ウクライナ戦線の先遣隊との合流を目指すよう指示されていた。
 大隊長は各中隊・小隊の指揮官を呼び集めた。クラウスチン大尉は、第2戦車中隊長を除く全ての将校が集合したと報告した。第2中隊長車は故障のためクラスナ川の対岸にとどまり、修理を必要としているという。
「よろしい」と大隊長は言った。「修理が終われば大隊に追いついてくるだろう。彼の中隊はブリュホフに任せる」
 それから隊長は各中隊に任務を割り振り、組織上の様々な問題について確認した上で皆を解散させた。全ての車両が明日の行軍と戦闘に参加できるよう、お定まりの準備作業が始まった。私はといえば、中隊長として信任されたことが嬉しくてたまらず、全力で仕事に取りかかった。コーリャ・マクシモフは私があまりにも舞い上がっていると思ったのか、我慢できずに毒づいたほどだ。
「気をつけろよ、中さん、張り切りすぎて潰れちまわんようにな!」
 私たちは夜明けと共に前進し、フシへと接近したのだが、敵は包囲されることを恐れ、算を乱して退却し始めた。各大隊は散開してから足並みをそろえて攻撃を開始、市内へ突入し、短いが激烈な戦闘の末に敵を殲滅すると、フシの南西地区へ進んだ。一方、街の南東部は第181戦車旅団により占拠された。私の中隊は大隊の先頭に立ち、プルートを目指して進んだが、ノヴェネシチ付近で軽自動車や司令部の公用車、トラックなどからなる敵の車列に遭遇した。中隊はこの車列の先頭を襲い、後続の第1戦車中隊はしんがりの方に回り込んで攻撃を始めた。首尾両端から挟み撃ちを受けた敵軍は、短時間の戦闘の後に壊滅した。生き残った敵兵は捕虜となった。これは、ルーマニア第41軍団第79歩兵師団の司令部であった。脱出に成功したのはわずかに1両の軽自動車、しかし何とも残念なことに、師団を指揮していた将軍がこの車で逃げおおせたのである。司令部の機密書類や地図は全て私たちの手に落ちたものの、最早それらが大きな価値を持つこともなくなっていた。破壊を免れた軽自動車とバスは、旅団司令部が戦利品として接収した。
 その日の午後、私たちの大隊は127高地と80高地を結ぶ線まで進出したところで、181高地~ベルチャヌル間の敵部隊から射撃を受けた。レオヴォ地区に存在する渡河点の守備隊であった。フシからプルートに至る地形は起伏に富み、丘陵部が多く、さらに背の高いトウモロコシの茂る広大な畑が際限もなく続いていたため、敵の歩兵や砲兵、さらには戦車までもが簡単に身を隠すことができた。このような環境での戦闘は困難であり、また危険でもある。かてて加えてうんざりするような暑さと、信じられない量の土埃だ。オトロシシェンコフは大隊を展開させ、攻撃に移った。後退する敵を掃討しつつ、私たちは緑一色のトウモロコシ畑の中を、手さぐりに近い状態でゆっくりと前進した。私の戦車は、トウモロコシをへし折りながら部隊の先頭を進んだ。畑から1本の野道へ出ると突然、左400メートルほどのところにパンターが現れた。ドイツの戦車兵も私たちに気がついたらしく、砲塔がこちらに向かって旋回し始めた。心臓をつかまれたような感覚に襲われ、「これでおしまいなのか?」という声が頭の中に響きわたる。私はすぐさま命令を下した。
「左20度、パンター400メートル、徹甲弾、発射!」
 装填手からは「準備よし!」という怒鳴るような報告が返ってきたが、照準手ブリノフ軍曹は操作に手間取ってしまい、茫然としながら目標を探し回るばかりで、自分の手も思うように動かせない。私は、照準手が床に収納してある砲弾の上へ転げ落ちるほど荒々しく、彼を脇へ突き飛ばした。それから急いで砲を左に回し、パンターを照準に捉えると、電気点火式の射撃ペダルを踏み込んだ。発射!飛沫の如き炎の塊がドイツ戦車の装甲の上に立ち昇ったかと思うと、パンターは瞬時にして猛火に包まれていた。数秒の差が生と死を分けたのだ!石化したような一瞬の後、クルーの歓喜の声が聞こえた。ただブリノフだけは打ちのめされたように砲弾の上へ座り込み、戦友たちとは目も合わせられないという風だった。彼を咎めたりなじったりする者は誰一人いなかったのだが。私はといえば、座席の背にもたれたまま、放心状態で照準器を覗き続けていた。動悸はいまだ収まらず、頭の中では自分の声が鳴り響いていた。
「間に合った…何とか間に合った…今回も助かったんだ…」
 少し間をおいてから、私は命令を下した。
「ロイ、前進だ!」
 機関手兼操縦手がギアを2速に入れると、戦車は弾かれたように走り出し、燃え盛るパンターを置き去りにして突進する。攻勢はさらに続いた。
 レオヴォの南方で、我が中隊は地層の露出した険しい川岸にたどり着いた。茂みや木立に身を隠しながら、私たちはその場に停止した。双眼鏡で対岸を眺めまわすと、戦車隊がこちらへ接近してくる。彼らも我が中隊を発見し、短い撃ち合いが始まった。しかし、私はこれがT-34であることに気づき、大隊長に報告した。「我レ友軍ナリ」を示す2発の赤い信号ロケットが上空に打ち上げられたが、対岸の戦車隊は遮蔽物に身を隠したまま射撃を止めようとしない。無線手兼機関銃手のパリニコフ軍曹は様々なチャンネルを回し、すぐにロシア語で呼びかける声を受信した。
「ラストチカ[ツバメ]、ラストチカ!こちらロマーシカ[カミツレ]…」続いて暗号化された本文が聞こえてくる。ロマーシカが受信に切り替えた瞬間を狙い、パリニコフは通信に割って入った。
「ロマーシカ、射撃を中止せよ。対岸の戦車隊は友軍、第2ウクライナ戦線の所属である。送れ」
 しかし残念ながら、通信手の耳に飛び込んできたのは次のような言葉だった。
「ラストチカ、こちらロマーシカ、これより予備周波数に切り替える。敵が我々の通信にまぎれ込んだ」
「馬鹿野郎が!」パリニコフが罵った。「こっちにいるのは味方だってことが見て分からんのか?」
 その夜はずっと、第3ウクライナ戦線の先鋒との間で話をつけねばならず、敵はその隙にレオヴォの橋を爆破してしまった。第3ウクライナ戦線との間に通信が確立されたのはようやく翌日、8月25日の朝も近くなってからのことであった。フシには第52軍の諸兵団が到着した。ヤッスィ・キシニョウ方面の敵を包囲するという任務は達成されたのである。
 軍団司令官は旅団長に対し、レオヴォ地区でプルート川沿いに敵を掃討すべしとの命令を下した。夜が明けると同時に、旅団は川の流域で敵兵を殲滅し、あるいは捕虜とする作戦に取りかかった。この段階になると、戦いは通常の戦術隊形の枠には収まらず、はっきりとした前線も構成されていない。戦闘行動は機動性に富んだダイナミックなものとなり、スピードと強襲のみが勝利を保証していた。
 各戦車大隊は短機関銃中隊と協力し、指定された地区で掃討作戦を行った。我が大隊も横一列に展開すると、組織的に、また整然と、線から線への跳躍を繰り返しながらプルートへ向かった。フェリチヌルへ近づいたところで、中隊は敵の対戦車砲陣地に遭遇し、ドイツ軍は至近距離から精密な射撃を加えてきた。思いがけない反撃を受け、各車はその場に停止する。一瞬の混乱の後、私は真っ先に正気を取り戻した。こうした場合、心理的な障壁を取り除き、部下を再び戦いに向かわせようと思うなら、確実な方法はたった一つ。先頭に立って突進し、敵の砲火を一身に浴びつつ中隊を引っ張るしかない。誤解を避けるため言っておきたいのだが、かくも絶望的な手段に踏み切るのは、言葉で言い表せないほど難しいことなのだ!しかしそうしなければ、損害は何倍も大きなものとなるだろう。私は叫んだ。
「ロイ、進め!」
 停止していた戦車は、機関手兼操縦手に一鞭入れられて勢いよく動き出し、スピードを増しながらまっしぐらに砲兵陣地へ突進した。我が車の照準手も、砲と機関銃を乱れ撃ちに撃ちまくる。私はそこで、敵陣の右手から這い出してくる2両の突撃砲を発見した。砲塔を回してこの敵に射撃を加え、同時に無線で我に続けと叫んだ。動揺はこれで収まった。中隊の各車は敵の砲兵陣地へ躍り込み、6両の砲を蹂躙した。自走砲の1両は私たちの攻撃を受けて炎上し、もう1両は丈の高いトウモロコシに身を隠して脱出を図ったが、パルフョーノフ中隊にぶつかってしまい、彼らの手で始末されている。
 第181戦車旅団の到着と共に、我が旅団は退却する敵の追撃戦に移った。この日1日だけで、旅団は戦車2両と砲6門、最大50両の車両と荷車300台を殲滅し、970人の捕虜を得た。敵は算を乱して退却を始め、それはいつか潰走へと変わっていった。誰もができる限りの手段で脱出を試みた。指揮は乱れ、相互の協力もなく、街道や野道の上を固まって逃げていく人の群れ。乗り切れないほどの兵士が車に詰めかけ、側壁にしがみついている者も多かったが、彼らは力を失い、走行中の車から落ちては死んでいった。川に架かる橋が落とされたために渋滞が生じ、逃げ場を失った部隊は理性を失って、我が空軍や戦車隊がこれを殲滅するのに何の苦労もない。破壊され、あるいは炎上する車が道を覆い、野を埋め尽くす死体は折柄の暑さで急速に腐敗した。耐え難い臭気が大気に充満し、私たちを悩ませた。それは恐ろしい光景ではあったが、しかし敵に対する憐れみは生じなかった。逆に、私たちはある種の安らぎを感じていた。ようやく戦いというものを学ぶことができたのだ!
 8月26日にかけての夜、旅団は燃料の補充を受け、砲弾も積み込み、人員には温かい食事を支給して、短い休息の時間も与えた。夜明けと共に、私たちは追撃戦を続行した。先頭を進むのは我が大隊、旅団司令部と自動車化歩兵大隊がこれに続き、さらに第2、第3と戦車大隊が後を追う。ただし補給部隊は切り離され、フシに残留することとなった。ベレシチへ向かう途中で、私たちは戦車と砲兵を伴って後退中の敵歩兵隊に追いついた。私の中隊の各車は射撃を繰り返しながら敵を追い越し、前に出て退却路をさえぎった。後方からはマエフスキー中尉の中隊が攻撃してくる…破壊されたドイツ戦車4両と7門の砲が路上に残骸をさらし、自動車と荷車については数える気にもならないほどだ。大隊は敵の後置部隊を一掃してベレシチを突破、264高地とヴァレイク森の線で初めて組織的な抵抗を受けた時には、早くも1日の半分がすぎていた。ベレゾフスキーの偵察隊が捕まえてきた捕虜によれば、敵の第325突撃砲旅団は苦戦の末にようやく包囲環から脱出し、防御戦の準備を行いつつあるという。また、同旅団は突撃砲と対戦車砲で武装しているとのことである。オトロシシェンコフは、敵に守備固めの余裕を与えず、このまま突撃して殲滅するという決定を下した。隊長の命令で大隊は分散し、攻撃が始まった。コーリャ・マクシモフの戦車が味方を置き去りにして疾走する。私はヤコヴレフとチェバシヴィリの両小隊長に後れを取るなと指示し、自身は無線でマクシモフを罵りながら、彼を追いかけて進んだ。どうしてドイツ軍がマクシモフ車に弾を当てられなかったのか、全くわけが分からないくらいなのだが、いずれにせよ私たちの突貫が攻撃に勢いをつけたことは確かである。中隊は敵の陣地に躍り込み、これを蹂躙した。同時にマエフスキー中隊がヴァレイク森の敵に攻撃をかけ、私たちの左翼を確保する。264高地東南斜面に孤立して立つ納屋の陰から敵の自走砲が這い出し、マクシモフの戦車を狙って旋回し始めた。戦場に立ち込める土埃のため、マクシモフのクルーはこれに気づいていない。私は通話装置に向かって叫んだ。
「右10度、自走砲、徹甲弾、発射!」
 閉鎖機がガチャリと音を立て、砲弾を薬室の中へ確実に送り込む。
「準備よし!」
装填手の報告が聞こえた。
「目標、見えてます」
 砲の俯仰装置と旋回装置を操作しながら、ブリノフが落ち着いた声で言った。
「一旦停車!」
 ロイ軍曹は平坦な場所を選び、滑るように戦車を停止させた。弾は瞬時に撃ち出され、自走砲の装甲板に炎のしぶきが飛び散ったかと思うと、車体が火と煙に包まれる。攻撃はなおも続けられたが、マエフスキー中隊は森の中に突っ込んでしまい、そこからドイツ軍をいぶり出しにかかっていた。攻勢のテンポが落ち始めた。敵に対する圧力を強めようとして、大隊長はあらゆる手を尽くしたが、戦力の不足は如何ともし難い。だが幸いにも、旅団主力がいいところで駆けつけてくれた。チュニヒン大佐はすぐさま戦況を把握すると、第2・第3大隊に行軍隊形からそのまま展開、抵抗を続ける敵戦力の両翼を攻撃した後、我が第1大隊と協力して完全にこれを殲滅するよう命令を下した。激闘はおよそ2時間に及んだ。4両の自走砲と5門の対戦車砲、そして数十人の将兵を失った敵は、私たちの攻撃を持ちこたえられず、ジョレシチを指して退却を開始した。残念ながら、極端に起伏の激しい地形のため、彼らを完全に包囲・殲滅することはできなかったのである。

原註1:D.I.パンフィーロフ中尉は1945年3月24日にソヴィエト連邦英雄の称号を与えられた。
原註2:N.D.リャザンツェフ親衛中尉は、1945年3月24日にソヴィエト連邦英雄の称号を与えられた(没後の追贈)。

(12.09.15)


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