作戦参加者の回想に見るソ連軍大攻勢


 大戦後期の1944年から45年にかけ、ソ連軍が一連の大規模な攻勢を実施したことは周知の事実であるが、これらの戦いに対する日本人の関心のあり方には、多くの場合において偏りが甚だしいように感じられる(無論、戦争の歴史がそれほど広範な興味を惹いているとは思わないので、ここでは「日本人」を「日本の軍事マニア」と読み替えてもらっても構わない)。その理由は、専らドイツ軍側からの視点でソヴィエトの大攻勢が描写されている、という一点に尽きる。圧倒的な戦力で押し寄せるソ連軍に対し、技量と技術と勇気で立ち向かう少数精鋭のドイツ軍。大戦末期を舞台とした戦記で繰り返し現れるイメージである。
 こうした悲壮感を伴うシチュエーションは古くから日本で好まれてきたものであるし、今でも多くの人々の琴線に触れるのであろう。しかしその「副作用」として、勝者の側が無個性かつぞんざいに描写されがちという問題がある。この場合はまさにソ連軍が当てはまるのであって、「物量に物を言わせ」「損害を顧みずに押し寄せてくる」不気味な顔のない集団としか描かれない。戦闘の結果は誰でも知っている通りだが、そこに至るまでのプロセスにおいて、戦いの一方の参加者であるソ連側の視点がまるきり欠落しており、しかもそれを怪しもうとすらしていないのだ。

 以下にご紹介するのは、ヴァシーリー・ブリュホフ氏の回想記『徹甲弾、発射!』(2009年、ヤウザ・エクスモ出版)より、「攻勢」と題する1章である。1924年生まれのブリュホフ氏は、若手の戦車将校として大戦を戦い抜き、最終的には大隊長にまで累進している。「攻勢」の主題はヤッスィ・キシニョウ作戦であるから、ソ連軍大攻勢をソ連側から見るには恰好の舞台ではないかと思う。
 そして実際、本章を読むとソ連軍が勝利を収めた理由が非常によく分かる。徹底的な作戦意図の秘匿と兵員・兵器・物資の集中。入念な準備攻撃により、ほとんど抵抗らしい抵抗も受けぬまま敵の第一線を突破。そこへ戦車隊が奔流の如くなだれ込み、混乱して退却に移る敵の車列、あるいは逆に前線へ駆けつけようとする増援部隊を捕捉して各個に撃破してしまう。砲兵や空軍との良好な協力体制。後方からの補給は万全で、破損車両も迅速な修理が期待できる。そして旅団長から小隊長に至る各級指揮官は個々にイニシアティヴを発揮し、臨機応変に部隊を動かす実力を持っていたため、敵に立ち直る暇を与えないスピーディな攻勢を実現することができたのだ。
 勿論、戦争は戦争であるから損害なしというはいかず、ドイツ・ルーマニア軍の果敢な反撃により多大な出血を被りながらの前進であったことは本章で語られている通り。他戦線との合体に際して同士討ちを演じるなどの不祥事からも、完全に無縁ではいられなかった。しかし全体としては鮮やかすぎるくらい鮮やかな成功で、当時の赤軍が到達していたレベルの一端が垣間見える。ソ連側から、しかも参加者の視点で戦いの推移を再構成したテキストにはなかなかお目にかかれないと思うので、ここでご紹介する次第である。

 それにしても、この大攻勢に直面したドイツ軍の将兵はどれほどの絶望的に襲われたことだろうか。事前に構築した防御陣地は猛烈な砲爆撃で一気に崩壊し、退却・増援部隊は移動中にインターセプトされる。渋滞する街道上で、無防備なトラックの列が首尾両端からT-34の挟撃を受ける(どうやらソ連の戦車隊はこの戦術を多用したらしい)場面などは悪夢としか言いようがない。戦争初年度はソ連軍が同じ立場に立たされていたのであるが、今や攻守ところを変え、ドイツ側が敗北の悲惨を味わうことになったのだ。
 もしも本当に「ドイツ軍の視点」で当時の戦いを振り返るのであれば、一握りの精鋭による痛快な反撃のエピソードだけをつまみ食いするのではなく、ソ連の戦車に蹂躙された名もなき人々にも思いを致さなければ嘘である。敗軍の物語にあっても「英雄」だけが選択的に回想されるのだとしたら、恐怖と絶望の中で死んでいった兵士たちがあまりに浮かばれない。彼らの死に直接的な形で関わったブリュホフ氏の回想は、これまで看過されがちだったソ連側のみならず、ドイツ軍の実情を理解する上でも貴重なものではないかと思う。

※なお、本文中に描写される地名はロシア語表記をそのまま音訳したが、戦闘の舞台となった土地はモルドヴァからルーマニアにまたがっており、現地発音はこれとは異なっている可能性があることをお断りしておく。

攻勢

(12.09.15)


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