史料試訳

第5親衛戦車軍司令官P.A.ロトミストロフのジューコフ元帥宛て書簡


ソヴィエト社会主義共和国連邦国防人民委員部第一次官
ソヴィエト連邦元帥
同志ジューコフ宛


 1943年7月12日から8月20日までの戦車戦において、第5親衛戦車軍は敵軍の保有する極めて新しい型の戦車と遭遇しました。戦場に最も多く現れたのは5号戦車(パンター)と、充分な数の6号戦車(ティーガー)、さらに改良強化された3号及び4号戦車でした。
 私は大祖国戦争の最初の日から戦車部隊を指揮しておりますが、今や我が軍の戦車は、装甲においても武装においても敵軍のそれに対する優位を失っていると報告せざるを得ません。
 ドイツ戦車の武装、装甲、照準は非常に強化されており、我が戦車兵の並はずれた勇敢さと、戦車部隊に配属された砲火力の充実がなければ、敵戦車はその長所を完全に発揮していることでしょう。強大な火力と頑丈な装甲、優れた照準能力により、ドイツ戦車は我が戦車を極めて不利な状況に追い込んでおります。我が軍が戦車を戦いに投入した際の効果は大幅に弱まり、被害を受けて戦列を離れる車両の数が増えつつあるのです。
 1943年夏に指揮した戦いの経験により、私は今でも、我がT-34の素晴らしい機動性を利用するのであれば、我々は機動力を活かした戦車部隊単独の戦いで優位に立つことができると信じています。
 しかしながら、ドイツ戦車部隊が一時的にではあれ防御態勢に入る時、彼らはそのことによって我々から機動力という武器を奪い去ってしまいます。それどころか彼らは、その戦車砲の長射程をフルに活かすようになり、我が戦車の有効射程にはほとんど入らない状態で戦いを進めています。
 このように、防御戦術をとるドイツ戦車部隊に遭遇した場合、我々の戦車は一般に大きな損害を受けるのみで勝利を収めることができません。
 ドイツ軍は、我々のT-34やKVに5号戦車(パンター)と6号戦車(ティーガー)をぶつけ、以前のように戦車戦を恐れることはなくなっています。
 またT-70はドイツ戦車の火砲により簡単に撃破されるため、戦車戦には全く適さないのが実状です。
 極めて遺憾なことではありますが、私は以下の諸点を認めざるを得ません。すなわち我が国の戦車設計技術は、自走砲SU-122とSU-152の実戦投入を除けば、戦争が始まってから現在までの間に何ら新しいものを生み出さなかったこと。また、トランスミッション系統(メインクラッチ、ギアボックス、サイドクラッチ)の完成度の低さ、非常に遅く不均質な砲塔旋回、極めて弱体な視察装置と乗員用スペースの狭さといった様々な欠点が、今日でもなお完全には除去されていないこと、であります。
 我が国の空軍は、大祖国戦争が始まって以来戦術的・技術的に不断の進歩を成し遂げ、新しく完成度の高い機体を次々に生み出しておりますが、戦車部隊もそうであると言うことは残念ながらできません。
 今やT-34とKVは、交戦国中最優秀という開戦当初に受けていた正当な評価を失うに至りました。
 1941年12月、私はドイツ軍司令部で機密扱いとされていた指示書を入手しました。この文書は、ドイツ軍が鹵獲したT-34とKVを戦車試験場でテストし、その結果に基づいて作成されたものです。
 当該文書では、これらのテスト結果を基に、おおよそ以下のような指示を下しています。「ドイツ軍戦車はロシアのT-34及びKVとの戦車戦を行うべきではなく、戦車戦を避けなければならない。ロシア軍戦車と遭遇した場合は砲兵の支援を要請することが求められ、戦車部隊は他地区へ転出させるのが適当である」
 実際、1941年と1942年における我が戦車部隊の戦いを振り返ってみると、ドイツ戦車は通常は他兵科の支援なしで我が戦車に戦いを挑んでくることはなく、もしも挑んでくるとしても、それは彼らの戦車部隊が圧倒的な数的優勢を確保している場合のみでした。1941年と1942年においては、彼らが数の面で優位に立つことは難しくなかったのです。
 しかしドイツ軍は、戦争開始の段階では世界最優秀戦車であった我がT-34をベースとして、1943年により完成度の高い5号戦車(パンター)を開発するに至りました。これは、事実上T-34のコピーと呼べるものですが、その質の高さ、とりわけ武装のレベルによってT-34を大きく凌駕しています。
 彼我戦車の評価と比較のため、以下の表をご参照下さい。

戦車及び自走砲

車体前面装甲(mm)
砲塔前面及び後部

側面

尾部

上面、底面

主砲口径(mm)

砲弾定数

最高速度(km/時)

T-34

45

95-75

45

40

20-15

76

100

55.0

5号

90-75

90-45

40

40

15

75※

KV-1S

75-69

82

60

60

30-30

76

102

43.0

6号

100

82-100

82

82

28-28

88

86

44.0

SU-152

70

70-60

60

60

30-30

152

20

43.0

フェルディナント

200

160

85

88

20.0

※75ミリ砲の砲身は我が76ミリ砲のそれより1.5倍長く、砲弾の初速も大きく上回っている。

 同志ソヴィエト連邦元帥、私は戦車部隊を心より愛する者として、我が国の戦車設計者及び生産者にその保守性と自惚れとを捨てさせ、その戦闘力と設計において現存のドイツ戦車を凌駕する新型戦車の量産を1943年冬までに開始するという問題が真剣に討議されるよう、ご助力を乞い願うものであります。
 さらにまた、私は戦車部隊における車両回収機材の大幅な充足を希望しております。
 敵軍は通常、破壊された戦車を全て回収しているのに対し、我が軍の戦車兵たちはしばしばそのための手段を持たず、結果として我々は戦車の再生に多くの時間を奪われています。同時に、戦場が一時的にでも敵軍の支配下に陥った場合、我が軍の修理部隊は原形をとどめていない鉄屑しか見つけることができません。というのも今年、敵は戦場を明け渡す前に、遺棄された我が軍の戦車を全て爆破しているのです。

第5親衛戦車軍司令官
戦車軍親衛中将
ロトミストロフ(署名)

1943年8月20日
野戦軍より


【解説】

 この書簡は、2008年にロシアで出版された戦史研究書『プロホロフカ』(第4版、レフ・ロプホフスキー著)に付録として収められたものである。『プロホロフカ』はクルスクの戦いの過程で起きた有名なプロホロフカ戦車戦(1943年7月12日)に焦点を当てたもので、旧来の通説やイメージにとらわれず、膨大な資料を丹念に調査して事実関係の再構成を試みた労作である。

 書簡の作成者パーヴェル・アレクセーエヴィチ・ロトミストロフは、第2次世界大戦期における主要なソ連戦車指揮官の1人であり、特にプロホロフカ戦のソ連側指揮官として知られる。この戦いで第5親衛戦車軍を率いたロトミストロフは、プロホロフカ地区においてドイツ第2SS装甲軍団への反撃を敢行、史上最大とも称される戦車戦の一方の立役者となった。また戦後に発表した回想録の中で、ロトミストロフはソヴィエト戦車隊がプロホロフカでドイツの強大な装甲軍団を相手に果敢な接近戦を挑み、輝かしい勝利を収めたと主張しており、ソ連時代における一般的なプロホロフカ・イメージを確定させた。その意味でもこの戦いのキーパーソンと言うことができる。
 しかしながら、戦いの余燼冷めやらぬ1943年8月20日に書かれたこの手紙では、状況は全く異なって見える。ロプホフスキー氏も指摘している通り、ロトミストロフは明け透けなほど率直に麾下戦車隊が劣位に立たされていると認め、ドイツ戦車が有利に戦いを進めていることを隠そうともしない。おそらくはプロホロフカで被った恐るべき損害を正当化するため、敵軍の優勢を誇大に書いている部分もあろうかと思う。それにしても、1943年夏時点でのソ連部隊戦車指揮官が何を問題視し、何が自軍に足りないと感じていたかを知る上で貴重な資料であるには違いない。それは要するに装甲と(特に遠距離での)砲火力の弱体化と、トランスミッションや視察装置など従来のウィークポイントの放置であり、ソ連軍の戦車指揮官たちを悩ませ続けた深刻な問題であった。
 ロトミストロフは同時に、少なくともT-34の機動力にだけは自信を持っていたようだ。プロホロフカにおいて彼が試みたのは、まさに「機動力を活かした」戦車戦であった(後にはこの企画が成功したと人にも信じ込ませようとしている)。しかしこの書簡で告白されている通り、現実にはドイツ軍戦車が防御に徹した場合にはソ連戦車の機動性も無効であり、結果として火力の差により大きな損害を出すしかなかった。この点を掘り下げたのがロプホフスキー氏で、プロホロフカ戦は通説で語られるような独ソ戦車軍団の真正面からの激突ではなく、一時的に防御の構えをとった第2SS装甲軍団に対する第5親衛戦車軍の無謀な突撃であったと述べている。興味深い論考と言えよう。

 勿論、ロトミストロフはただ単に現状の困難さを愚痴るのではなく、打開策を講じるためにこの手紙を書いたのである。新機材の開発を求める中で自国の空軍を引き合いに出しているのは、隣の芝生はなんとやらと言いたくなるような話だが、それだけ必死でもあったのだろう。
 そして手紙の宛先が、戦車開発の技術者でも装甲兵器監督の責任者でもなく、ジューコフ元帥その人であったことはまことに興味深い。この様な願い事はなるたけ「高いレベル」に上げなければ埒が明かないというソヴィエトの現実に応じた措置なのか、それとも元々ジューコフが用兵側と技術陣の間を調整する役割を担っていたからなのか、それは分からない。しかしいずれにせよ、当時のソ連軍の中でジューコフが示していた存在感の大きさを物語るエピソードではある。

 この他にも本書簡には、緒戦期のソ連戦車隊に対するノスタルジックな思い入れ、「T-34のコピー」パンターに対する評価、破損車両回収が立ち後れているとの認識と強い改善要望等々、1943年夏段階のソ連戦車軍について考察する上で重要なテーマがいくつか含まれている。一般に我々がソ連軍関係の情報に触れる機会は少ないが、それは必ずしも資料がないのではなく単に紹介されていないだけという場合が多い。機会があれば、このような歴史的文書の訳も続けてみたいと考えている。

(09.10.23)


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