時計


 その封筒の宛名は、私には見覚えのない、明らかに女性のものと分かる筆跡で書かれていた。それで、私はすぐに開封することができなかった。何かよくないことが起こったのだ。
「長い間お知らせする決心がつかないでおりました。夫フョードルは5月の初めにこの世を去りました。ずっと床に就いておりましたが、意識は最後まではっきりしていまして、昔の戦友であるあなたとオルロフさん、クムィシさんには連絡するよう言いおいて亡くなりました。賢明で、そして善良な人でした。どうか、フョードルのことを記憶にとどめてやって下さい」
 それは未亡人からの手紙だった。
 …私が初めてフョードル・ツァリョーフに出会った時、彼はゼムリャンカ(訳注:半地下式の土小屋)の入り口で白樺の切り株に腰掛け、一心にマンドリンを奏でていた。肩に引っ掛けた外套の裾は、湿った床に触れないよう、丁寧に端折ってベルトに挟み込まれている。季節は春の初め頃で、まだ野原のあちこちに雪が残っていたが、しかしあらわになった地面からはもう若い青草が伸び始めており、ゼムリャンカを覆った芝土も緑が濃くなりつつあった。
 私は今でも、不安を呼び起こさせるような夕映えの中に浮かび上がったツァリョーフの顔と、緑の草と、そして底冷えのする前線の空気とをありありと思い出すことができる。ただ、彼が何を弾いていたのかは記憶に残っていない。単調な調べではなく、手の込んだクラシックの曲であったことだけは確かだ。私は彼に近寄って、マンドリンの音色に耳を傾け、それから曲の名前を尋ねた。私たちは言葉を交わし、お互いに自己紹介をした。当時の私は退院して前線に復帰し、名高いカチューシャを装備したこの迫撃砲連隊に配属されたばかりだった。
「これまでどんな部隊にいたんだね?」
 ツァリョーフは尋ねた。
「前は歩兵でした。戦車部隊にいたこともあります」
「ほう、それじゃ、ここは悪くないだろうよ」
「僕もそう思いますね」
 私は、このツァリョーフという人物に好意を持った。彼の骨ばった顔にはごつごつしたこぶがあり、真ん中には見事なかぎ鼻が突き出している(ある時ツァリョーフ自身から聞いたところによれば、彼の先祖はテレク・コサックで、山岳民族の血も混じっている可能性があるのだという)。また、もじゃもじゃの濃い眉毛の下から、人を射すくめるような厳しい眼差しを向けるのが彼の癖だった。しかしながら、見た目は厳格で近寄り難いが、実際にはすこぶる善良でユーモアを解する人間である。戦前には農村の教師として働いていた由で、厳めしい顔つきは職業柄身についたものに違いなかった。当時のツァリョーフは40に届かないくらいであったはずだが、その額に垂れた前髪には白いものが混じり、20歳の若造だった私の目にはかなりの年輩だと感じられた。
 私は連隊本部でオートバイの運転手に任じられ、本部付きの伝令兵として勤務していた。一方、同じ連隊本部で書記を務めていたのがツァリョーフだった。年の差が大きかったにもかかわらず、私たちが親しくなるのに時間はかからなかった。時は43年の春で、戦線は停滞し、戦力を集中させる時期に入っている。私は、伝令として各大隊に派遣されていない時には、毎晩ツァリョーフと一緒にマホルカ(訳注:ロシアの安タバコ)を吸い、いろいろな話をした。その後でツァリョーフは、ゼムリャンカからマンドリンを持ち出すと、その響きを我々に聞かせてくれるのが常だった。彼の腕前は確かで、その演奏には心が込められており、いつでもたくさんの聴衆を集めていた。皆、物思いにふけりながら楽器の音色に耳を傾けた。陣地では夜間の焚き火が禁じられていたが、ツァリョーフのマンドリンは充分にその代役を果たしていたと言うことができる。寄る辺なき兵士たちは音楽に惹きつけられ、昔を思い出し、厳しい現実を忘れて過ぎ去りし平和な日々に心を遊ばせた。
 ある晩、ツァリョーフが演奏を終えて楽器を置き、手巻タバコをふかし始めると、周りに集まった兵士たちは議論を始めた。この戦争はいつ終わるか、というのだ。開戦からもうすぐ2年が経とうというのに、全く終わりが見えてこない…すでにスターリングラード戦は過去のものとなっており、勝利への信念は強まりつつあったが、しかし実際にいつ勝利を収められるのか、その時まで生き延びられるのか、これが皆の関心事だった…戦友たちの多くは、もうじき同盟国が第2戦線を開くだろうし、そうすれば今年の秋か、遅くとも冬までには敵を片付けられるだろうと考えていた。
 私たちの話を聞きながら、ツァリョーフは一言も発さず、ただタバコの煙を吹き上げてばかりいた。仲間の1人が言った。
「ダニールィチ(訳注:父称「ダニーロヴィチ」の愛称形。このような呼びかけ方は、非常に親しい者に対してのみ用いられる)、あんたはどう思うね?」
 ツァリョーフは、いつも通り眉をひそめたような顔つきで、注意深く私たちの顔を眺めた。彼の様子は、この連中に重大な秘密を明かしていいものかどうか熟考しているという風に見えた。それからおもむろに口を開いた。
「戦争は45年の5月に終わるよ」
 はっきりした、自信ありげな口調だった。単なる予想ではなく、明白な事実を伝えるかのような調子でこう言ったのである。
 私は驚いて彼の顔を見た。
「まだあと2年も戦うなんて、そんな馬鹿な」
 だれかがつぶやいた。別の1人は笑いながらつけ加えた。
「5月って、ずいぶんはっきり言うじゃねえかよ!それより前でも後でもないとはね…ダニールィチ、あんた、予言者にでもなったのか?45年に、しかも5月に終わるだなんてこと、どうして分かるんだい?」
「知ってんのさ」
 ツァリョーフは落ち着いたものだった。それで、私はむかっ腹をたてた。
「知ってるなんてことがあるものか!それなら賭けてみるか?もしも45年の5月に戦争が終わって、その時まで2人が生きてたら、俺は戦勝の時に持っている時計をあんたにやるよ。外れた時にはタバコ入れをもらう。時計はいらない。もともと不公平な賭けだからな。不公平どころか、あんたが勝つチャンスはゼロだと言ってもいいと思うよ」
「乗った!」
 彼はこの提案を受け入れた。それで、私たちは賭けが成立した証拠に手を打ち合わせたのである。
 戦争はなおも続いた。この記憶すべき日からほどなくして、私は乗っていたオートバイを破壊されてしまい、偵察要員として大隊に送られた。ツァリョーフと顔を合わせる機会も少なくなり、連隊が戦線の中を移動する際、本部と大隊が行軍のために合流するわずかな期間くらいしか彼と会うことができなかった。
 ウクライナでの戦いは激しいものだった。私たちの部隊の損害は、例えば歩兵や戦車隊よりは少なかったが、それでも人員は次々に減っていき、明日を確実に迎えられるという自信など誰1人として持てる状況ではない。しかしながら、運命はまだ私とツァリョーフを見逃してくれていたようだ。
 こうして43年は戦いのうちに過ぎ、44年が始まったが、相変わらず戦争が終わる気配はなかった。
「ダニールィチ、本当に、いつ終わるんだろうねえ?」
 私は彼と顔を合わせる度に愚痴を言ったものだ。
「慌てることはないよ、セーニャ!」ツァリョーフは答えた。「どっちにしたって、45年より前に終わることはないのだから」
「やっぱり5月なのかい?」私は皮肉に笑った。
「そう、5月にね」
 そして44年の初夏、同盟軍はようやくノルマンディーへの上陸作戦を実施した。待ちに待った第2戦線、私たちが巨大な期待をかけ続けた第2戦線がついに開かれたのだ!
「どうだい、ダニールィチ?」
 ドニエストルのベンデルィ近くでツァリョーフに会った時、私は勝ち誇って言った。
「終わりはもう目と鼻の先だぞ!何と言っても第2戦線だからな!こうなりゃフリッツ(訳注:ドイツ兵)も総崩れだろう。両方から攻めていって、それですぐにケリをつけられるさ!」
 だが、ベッサラビアの埃で全身灰色になったツァリョーフは、服を払い、また唾を吐きながら、私たちのそばを通り過ぎていく戦車部隊の轟音に負けじと大声で叫んだ。
「もしかしたら総崩れかもしれん。そうあってほしいものだ!ただ、どっちにしても45年の5月までは苦労することになるよ!」
 彼らは崩れなかった。彼らは、すでに敗北が避けがたいものとなっていたこの戦争を止めようとせず、猛り狂い、かつ頑強に戦った。44年の全期間を通じて、私たちは兵士としての困難な務めを果たし、ルーマニア人やユーゴスラヴィア人、ハンガリー人の街と村を解放(彼らにとっては占領に他ならなかっただろうが)し続け、不運な仲間たちの骸を次から次へ異国の地に葬りながら前進した。そして45年の1月、雪に覆われたハンガリーの平野で激戦を繰り返していた戦線の兵士たちは、厳しい試練に見舞われたのである…
 この年の1月、私とツァリョーフは2週間を共に過ごす巡り合わせになった。2人とも連隊の衛生部に収容されていたからだ。私は足を負傷したのだが、幸い傷はそれほど重くなく、連隊から離れたくなかったために入院を断っていた。連隊付きの軍医のおかげで、私は程なく松葉杖で歩けるほどまでに回復した。そして、ツァリョーフもまた同じ衛生部に来ていた。彼はマラリアのせいですっかり黄ばんでいたが、例のマンドリンだけは肌身離さず持っていた。衛生部が設置されていたのは、忘れもしないシェレゲリエシュという村で、前線からは40キロほど離れていたと思う。村には私のいた連隊ばかりでなく、様々な部隊が野戦病院を開いている。私たちはここで、病院の居心地のよさと、破られることのない後方の静けさを心ゆくまで楽しんだ。
 しかしこの静かな生活は、あまりにも思いがけない形で終わりを告げることになった。1月19日の夜も明けようとしている頃、連隊の副官が衛生部にやって来た。顔面蒼白、髪の毛も乱れきった姿で現れた副官は、すぐに警報を発して皆を起こし、車に乗り込ませるよう命令を出した。ドイツ軍がバラトン湖付近で味方の戦線を突破し、その強力な戦車部隊が今こちらに向かっているというのだ。後に「バラトンの悲劇」として知られるようになった戦いの始まりである。グデーリアンが差し向けた11の装甲師団は、包囲されたブダペシュトを救援するために進撃を開始し、その矢面に立ったソ連軍第3ウクライナ戦線の後方部隊はなすすべもなく、次々に蹂躙されていった。
 私とツァリョーフは手早く服を着て外に出た。夜明け前の暗闇の中では、抑えた口調の号令と引きずるような足音が四方から聞こえ、動き回る人影が不穏な空気を発していた。衛生部に所属するトラックは、うなり声を上げながらあちらこちらに動き回り、負傷者の収容にあたっている。同時に、機関銃の射撃音と戦車のエンジン音が多数、西の方からかすかに聞こえてきた。これらの戦闘騒音は、周囲で聞こえる物音よりはるかに小さなものであったにもかかわらず、私たちの心を重く圧していた。
 私とツァリョーフが何とか乗り込むと、衛生部のトラックはすぐに発進し、灯火を消したまま街道を目指した。ようやく辺りが白みはじめる頃、私たちは街道へ出ることができたが、朝霧を通して目にしたのは後退する軍隊の姿だった。泥と雪に覆われた道の上は、軍の資材を載せた自動車と荷車で大渋滞となっており、外套や綿入れの上着を着た兵士の群れが、その両脇をひしめき合いながら移動していた。戦線の後方部隊と、散り散りになった司令部が退却していくのである。彼らは全て同じ方向、つまり前線から見て後方を目指していた。41年の悪夢が、突如として墓場から蘇ったかのような光景だった。
 押し潰されそうな沈黙の中、数十キロは進んだだろうか。それまでは鳴り止んでいた機関銃の連射音と戦車のエンジン音とが、思いがけず近くで、稜線の向こう側から聞こえてきた。今や、後退は潰走へと変わった。外套や長靴を投げ捨てながら逃げ、すでに人で一杯のトラックに潜り込もうとする青ざめた兵士たち。黒いつなぎの制服姿で、包帯を巻いたどこかの部隊の戦車兵。飛び立つことができなかったのか、飛行帽をかぶったまま駆けていくパイロット。壊れた馬具や馬車の曵き綱さえ外さないまま、馬に乗って逃げていく兵士もいた。
 恐怖にとらわれて逃げ惑う群集を見るのは恐ろしい。しかし、これ以上に恐ろしいのは、逃げる軍隊であった。そもそも軍隊とは、進退いずれの時であっても戦うために存在しているもので、逃げてはならないのだ。逃走は軍隊の存在意義に、本質に反している。今、目の前をパニック状態で逃げていく兵士たちは、その反自然性の故に私の心を震わせた。
 戦争が終わってから長い年月が過ぎ去った今でもなお、私はあの時の光景を思い出すのが辛い。しかし、これは事実である。私たちは自分の目でこれを見たのだ。
 …そうしているうちにも、戦車の大群のエンジンが発する轟音や、大砲の鈍い発射音、それに断続的な機関銃の音が、丘の向こうから少しずつ近づいてきた。その時、ツァリョーフが言った。
「ここで降りよう。道から離れなきゃだめだ」
 私たちは、のろのろ這っていくトラックから何とかして飛び下り、後ろから放り投げてもらった背負い袋と松葉杖を拾った。そして、よろめきながら街道を離れると、畑を抜けてドナウ川と思しき方向を目指した。私は、周りで起きている全ての出来事が現実のものではないような、そんな感覚にとらわれ続けていたが、しかしツァリョーフに向かって叫ばずにはいられなかった。
「マンドリンを忘れたぞ!…」
 彼は何も答えず、手を振っただけだった。
 2人が道から遠ざかり、白樺の若木の林に身を隠した時、ティーガーの怪物じみたシルエットが稜線の上に現れた。続いてもう1台、さらに1台。そして戦車の群れは斜面を滑り降り、無防備な人と車で埋めつくされた街道に向かって進んでいく…
(太陽の光と人間の死だけは直視できるものではない)
 それから、長く苦しい逃避行が始まった。私は傷ついた足を引きずり、またツァリョーフは病気によってひどく衰弱していた。しかし、疲労の極に達しながらも、日が暮れないうちに何とかドナウ川の岸へ出ることができた。雪の積もった川岸をさらに3キロほど歩いたところで、私たちはドナウにかかる浮き橋にたどり着いた。だが、対岸へ逃れようと殺到する人と車の群れにより、橋は完全に塞がれてしまっていた。橋板は無気味にきしみ、それを支える船は冷たい水の中で傾いている。目を血走らせた人間の群れをかき分け、橋に向かって進むことなどできようはずもなかった。
 その時突然、短機関銃を手にした一団の兵士が後方から現れた。兵士たちは空に向かって威嚇射撃を行ない、橋の前から人の群れを追い払うと、道を封鎖してしまった。続いて、よく肥えた赤ら顔の将軍が彼らを指揮し、周囲を圧する大声で命令を下しながら秩序の回復に取りかかったのである。資材や負傷者を後送する車の他、橋を渡ることは許されない。武器を持つ者は全て、将軍の命令により臨時の部隊に編成されて橋の守りを固める。そして、敗兵の中から引っ張り出された将校がこれを指揮することになった。将軍のしわがれ声は、ひび割れたラッパの音の如く辺りの空気を震わせ、さしもの大混乱もわずか数分間で魔法のように消え失せた。
 私たちの傍らでは、2人の年とった輜重兵が荷車に乗り、口をぽかんと開けたまま将軍の指揮ぶりを見守っていた。それから、1人の輜重兵は相棒に向かい、感心したような口調で話しかけた。
「人は見かけによらんものじゃなあ!…」
 橋を渡ったところでようやく、私もツァリョーフも、今日という日が人生最後の一日にはならぬであろうことを実感した。
「勝利はどこへ行っちまったんだい、ダニールィチ?」私は尋ねた。「あんたの言ってた45年5月はどうなったんだ?」
「5月が来たら、それで勝利だ」震える手でポルチャンキ(訳注:ソ連兵が靴下代わりに足へ巻きつける布)を巻き直しながらツァリョーフが答えた。それからつけ加えた。
「時計、なくしてないだろうね?」
 数千人の命を奪い去った「バラトンの悲劇」は、しかしながら戦争全体の流れを変えるには至らなかった。ドイツの戦車軍団の進撃も長くは続かず、ブダペシュトの前面において最終的に撃破された。それからソ連軍の戦線は攻勢を再開し、オーストリアの野に兵士の亡骸をまき散らしながら西へと進んでいく。そのオーストリア、アルプスの支脈まで進軍したところで、私たちは心の底から待ち望んでいた勝利の知らせを受け取った。時に1945年5月。ツァリョーフの予言が現実のものとなったのだ。
 しかしながら、私は時計を渡さなかった。戦争が終わる少し前、私は立派な時計を手に入れていた。流行りの黒い文字盤に、当時はまだ珍しかった金属製のバンドがついた、エレガントで正確なやつだ。交換に交換を重ね、苦心の末に入れたもので、自慢の逸品だった。当時の私はまだ若く、この素晴らしい時計に対する未練を捨て切れなかったのである。長い長い葛藤の末、私は決心した。渡さないでおこう、と。
 自分自身への軽蔑心に責め苛まれながら、私はツァリョーフの前で言い訳を重ね、時計も持たずに凱旋するのはきまりが悪いのだとかそんなことを言い募った。戦後に予想される苦労さえ利用している。つまり、これからまだまだ勉強を続けなければならず、時計を手に入れるお金がない云々…それから、何かと引き換えにしようとも提案した。この時のことを思い出すだけで、私は穴にでも入りたい気持ちにかられる。
 ツァリョーフの方はというと、驚くほど穏やかにこの事態を受け入れた。私の言い訳を一通り聞き、彼は苦笑いを浮かべてからこう言った。
「分かったよ、セーニャ、気にするな。時計は諦めよう。私から君に贈った、ということにしておけばいい。勝利の記念にね。君はまだ、財産なんてものにそれほど大きな価値はないってことを知らないんだ。大切なのは物じゃないんだよ」
 彼は私を許したばかりか、慰めてくれさえしたのだ!
 その後しばらくして、私たちが別れる時がやって来た。彼の年代の兵士たちは、夏の終わりまでに除隊が決まり、オーストリアからそのまま故郷へ帰されたからだ。私とツァリョーフは抱き合って別れを惜しみ、家の住所を交換した。そして半年後には、私もまた平和な生活へと戻ることになったのである。私たち兵士は、この平和な生活というやつから久しく遠ざかっており、それ故に厳しい試練を経なければならなかった。軍隊生活は、ある意味では実に気楽なものだ。食事も衣服も支給してもらえるし、行動は全て上からの指示に従えばよく、その結果について責任を取る必要がない。自由な意志の発揮は、どうすれば最良の形で任務を遂行できるか、その方法を模索する場合に限られた。そして、命令の実行にあたって自己を犠牲にするのがベストであるのなら、軍は兵士にその方法を選ぶ権利を与える。軍が目指している目標の達成こそが、全ての兵士にとって至上の課題であったからだ。
 しかし、今や私たちにとって全てが変わった。自分だけの目標を自分で設定し、それを実現する手段を考え、自分の住む場所を見つけ、そして日々の糧を手に入れなければならない。私たちは放り出されたも同然で、自由という名の枷をはめられ、不安と苦労に満ちた人生を歩むことになった。平和と、そして人間をひどく消耗させる「自立した生活」によって、私は精神的にも肉体的にも疲れ果ててしまい、長い間ツァリョーフと時計にまつわるエピソードを忘れていた。
 それでも数年が過ぎ、近い過去に起きた出来事を思い返すだけの精神的な余裕が生じると、私は自分自身の恥ずべき振る舞いに苛まれるようになった。ツァリョーフに手紙を出してみたが返事は来ない。私はその後も何度となく手紙を書き、彼が別れ際にくれた住所へ宛てて送った。しかし、全ては徒労に終わった。そして少しずつ時が流れ、もはや自らの醜悪な行為を償うことはできないのだという諦めの感情により、あの出来事の印象は薄れていった。忌わしい記憶はもやもやした不透明な層に覆われ、その後で風化してしまい、心の奥底にはかすかなしこりが残ったものの、完全に私の意識の中から消え去ったのである。
 それからどうなったか?それから人生が過ぎていった。いや、人生は「アゾレス諸島のように」通り過ぎる(訳注:ロシア語の慣用表現。出典はマヤコフスキーの詩の一節)のではなく、全速力で駆けていくのだと言った方がいいだろう。獲得と喪失、上昇と下降を繰り返しながら、全ては電車の窓から見える風景の如くあっという間に過ぎ去っていく。平和な生活というやつは、確かに甘美ではあるものの、しかしあまりにも速く流れていってしまう。一方、戦争時代の思い出は全く異質なもので、陰鬱だが長くはっきりした夢のような形で心の中に残っている。私たちは、戦争のほとんど全ての日々を憶えており、最後の最後まで兵士であることから逃れられないのだ。
 それ故に、ある時かつての上官の1人から電話をもらった時、私は大きな興奮を感じた。彼の話によれば、私がいた連隊の戦友会が結成され、すでに30人ほどの元兵士たちの居所が分かっており、再会の場を設ける準備が進んでいるのだという。
 およそ2か月が過ぎた後、彼は再び私に電話をかけてきた。
「君はツァリョーフの消息を知りたがってたな。見つかったよ。そればかりじゃない、彼は今ここに来ているんだ。君のところで泊めてやるわけにはいかんかね?」
「彼をそのままつかまえておいて下さいよ!」
 私は受話器にそう叫んで電話を切ると、部屋から飛び出して元上官の家に向かった。
 ツァリョーフの顔はすぐに分かった。ひそめたような眉毛はすっかり白くなっていたが、その下から私を見つめる鋭い眼差しは昔のままである。彼は相変わらず筋骨たくましく、年はとっても頑健そうだった。私はツァリョーフに飛びつき、堅く抱き合った。
 それから、私は彼を連れ帰った。私たちは一晩中ずっと飲み明かし、飽くことなく語り合って、ベッドに入った時にはすでに明け方が近づいていた。起き出した後、私はツァリョーフを家に寝かせたまま仕事へ出かけた。
 その日の夕方、私は家に帰る途中で時計屋に寄った。店の支配人は私の知り合いで、とっておきの時計を売ってくれた。自動巻の最新型、カレンダーとクロノメータが付き、おまけにバンドはとびきり上等な一級品だ。首尾よく買い物をすませ、私は時計を手に家路を急いだ。
 戻ってみると、家の中はタバコの煙で霧がかかったようになっていた。ツァリョーフは戦争初期の友人をモスクワで探し当て、私のところへお客に呼んでいたのだ。
「さあ、ダニールィチ」私は部屋に入りながらこう言った。「今からあんたを驚かすぞ。昔、2人で賭けをして、私が負けたのに時計を渡さなかった時のことを憶えているかね?」
「そういや、そんなこともあったかな」ツァリョーフは自信なさげに答えた。
「ほら、これだよ」
 私は机の上に買ってきた時計を置いた。ツァリョーフはそれを見て、怒ったような声を出した。
「お前さん、おかしくなったんじゃないのか?こんな贈り物をもらうことはできんよ!」
「贈り物じゃないんだ、ダニールィチ」私は反論した。「私は賭けに負けたから、これは当然の義務なんだ。30年も遅れてしまったんで、ちょっとした利子をつけたけどね。受け取ってくれなきゃ、あんたは私の顔に唾をひっかけることになるんだぞ!」
 ツァリョーフは立ち上がった。彼の顔はさっと青ざめ、そして泣き出した。
「ダニールィチ、あんた、酔っ払ってんだよ」私は彼に言った。
 それから、私たちは3人で時計を肴に乾杯した。私は言葉で言い表せないほどの喜びに包まれ、心が軽くなるのを感じた。
 次の日、一緒に連隊の戦友会に出席した後で、私はツァリョーフを見送り、そして彼は田舎へと帰っていった。
 ツァリョーフからは手紙が届くようになった。その中の一通にはこう書かれていた。
「こちらに帰ってきてから、周りの人々に時計を見せて回った。みんな驚いている。何十年も前の話だものねえ…君のおかげで、ますます人間ってのはおかしな生き物だと思うようになったよ」
 ところで、私はあの晩ツァリョーフと話をした時、どうやって戦勝の時期を正確に言い当てられたのか尋ねてみた。彼は注意深く私の顔を見つめると、しばらく黙り込んだ後で言った。
「たまたま当たったんだよ。全くの偶然さ…」
 そして視線を逸らした。
 しかし、私には分かっている。彼は秘密を打ち明けることを望まなかったのだ。

 このようにして、フョードルは私の記憶の中に生き続けている…

(06.02.17)


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