マリエフスキー、アルカージー・ヴァシーリエヴィチ


 戦争が始まる前、私は学校を10年まで終え、警察の旅券課へ働きに出ていた。字が上手かったので、文書を作るという仕事をもらえたのである。1941年の8月、私は召集令状の作成要員として徴兵司令部に回された。私自身はまだ17歳になったところで、戦争に行くには早かった。そしてこの年の秋が深まり、雪が降り始めた頃、50人分の姓名を記した召集リストが回ってきた。見ると、みんな自分と同じ学校で学び、一緒に外で遊び回った友達ばかりだ。何てことだ!仲間たちはそろって前線に行こうとしているのに、私1人が後方に残るのか?そんなのは嫌だ!そこで私は、自分に宛てた令状も作ることにした。徴兵司令官のデグチャリョフ少佐のところにそれを持っていき、サインをもらおうと思ったのだが、少佐は令状の1枚に私の名があるのを見てとった。
「お前さん、何のつもりだね?ここにいれば将校にもなれるだろうし、わしの下でずっと勤務できるのだよ」
「同志少佐、私は仲間たちと一緒に出征したいのであります」
「志願するつもりか?」
「兄弟たちはみんな前線にいるんです。私も行かせて下さい」
「うん、まあ、仕方ないだろう。行くがいい」
 こうして私は召集を受ける身となった。わずかな身の回り品を集めて布に包み、布の角にはジャガイモを縫い付けて、持ち運ぶ時に便利なよう工夫した。リュックサックも袋もなかったからだ。そして駅から汽車に乗り、ゴーリキー(訳注:現ニージニー・ノヴゴロド)にある徴兵中継所へと送られた。私はこの時まで、父の前ではタバコを吸ったことがなかったし、酒を飲むなど想像すらできなかった。しかし父は、出発の前に汽車まで見送りに来て、道中のためにとウォッカの4分の1リットルビンが詰まった箱を餞別にくれた。そして私は、父に別れを告げる時、生まれて初めてタバコを吸う許可をもらったのである。
 徴兵中継所は応召者で一杯だった。そして私は、乾パンやその他の持ち物を入れた袋を枕にして寝ていたのだが、到着第1日目の夜にそれを盗まれてしまった。腹が減っても食べるものは何一つない。幸いなことに、同郷の連中が自分たちの食べ物を分けてくれた。
 この中継所では身体検査が行なわれた。と言っても、手足と目玉さえついていれば誰でも合格になるような代物だ。それから私たちはカザンの郊外に移動し、大カバンと小カバンという2つの湖の間にある地区で、歩兵としての訓練が始まった。すでに、新兵のために長大な半地下式の兵舎が用意されていた。教官は私たちを暖かく迎え入れてくれた。みんな現役の将校で、素晴らしい人々だった。中隊長はイラリオノフ中尉で、背が高かったことを憶えている。小隊長の名前は忘れてしまったが、年輩で善良な人物だった。訓練が始まってからおよそ20日後、私たちは宣誓を行ない、正式に軍の一員となっている。
 ある時、私は倉庫の近くで歩哨に立つよう命じられた。倉庫は木造の格納庫を改造した横長の建物で、1階には食糧が、また2階には日用品がしまわれている。そして私は、銃剣をつけた小銃を持ち、歩哨としての勤務についていた。季節はすでに冬で、周りには雪が積もっていた。すると、誰かの足音が聞こえる。私は誰何した。
「止まれ!誰か?」
「衛兵司令のナウムキン曹長だ」
「合い言葉を」
 向こうは合い言葉を述べ、私もそれに答えた。ナウムキンはこちらに近寄ってきたが、見ると2頭の馬に曵かせたソリが一緒だ。彼は私に言った。
「どうだ、凍えてんじゃないのか?」
「はあ、寒くあります。」
 歩哨に立つ時、私は外套とフェルトの長靴を与えられており、交替の際には次の当番へ渡すことになっていた。曹長は私の手から小銃を取り、銃剣を外すと、倉庫の扉に近寄って南京錠をこじ開けた。もちろん、これは重大な軍律違反であるのだが、何と言っても私はまだ17歳の若造であり、その上相手は衛兵司令だ。そうしているうちに、曹長は食糧や兵隊用の毛皮外套をソリへ積み込み、そのまま立ち去った。私は1人その場に取り残され、規定に従って4時間の歩哨勤務を終えると交代した。その翌日、私たちは衛兵任務を他の部隊に引き渡して兵舎に戻った。すると、ナウムキンに倉庫まで来るよう言われたので、私は出かけていった。
「ほら、乾パン食えよ。豚の脂身の塩漬けもあるぞ」
 言うまでもなく倉庫から盗み出したものである。一方、倉庫係はすぐ盗難に気づき、それでひと騒ぎが持ち上がった。特務課の手によってたちどころに犯人は明らかになってしまい、私も否認しようとはせず、裁判抜きで銃殺刑が言い渡された。そしてこの一件は、連隊長ブブノフ中佐の耳にまで達することになった。連隊長はいつも馬に乗っていて、その馬は赤毛に近い褐色だったと記憶している。盗難事件が起きたのは部隊が前線に向かう数日前の話であり、おそらく連隊長がNKVD(内務人民委員)と話をつけてくれたのだろう、銃殺刑は取り止め、代わりに懲罰中隊へと送られることが決まった。こうして、私とナウムキンは懲罰隊員になったわけだ。前線に向かう列車はみんなと同じだったが、懲罰隊員は一般の兵士からは隔離され、特別な貨車で運ばれた。
 この戦場でどうやって生き残ったのか、自分でもよく分からない…記憶しているのは、攻撃の前に小銃と10発の弾を渡されたことだけである。そして、私は立ったまま銃の操作と射撃を繰り返し、気がつくと弾はもう残っていなかった。突然、見知らぬ兵士が私の肩を叩いた。
「充分だ。敵は逃げちまった」
 辺りには懲罰兵の死体が折り重なっており、その中で私は生き残っている。
「何がどうなったんだろう?」
 考えてもさっぱり分からない。まるで頭がおかしくなってしまったようだ。この戦いの後で私は証明書を書いてもらい、前科は取り消しになったばかりか「勇敢」メダルまで授与され、原隊に復帰した。その後ナウムキンがどうなったのか、私は知らない。
 それからしばらくの間、私は第332師団で戦った。戦ったといっても、基本的には攻勢の準備期間が長かったのだが。夜間に60キロの行軍を行なった時のことを憶えている。指揮官たちは馬に乗って、私たちは徒歩で進み、雪の中に倒れては引き起こされた。攻勢は準備砲撃の後で実施されることになっていたが、雪のために砲兵隊の前進が阻まれており、1週間かそれ以上待つ羽目になった。自分たちで組み立てた仮小屋の他、寝る場所はどこにもない。私は、戦争の全期間を通じ、きちんとした建物で睡眠をとったことは一度もなかった。信じられないかもしれないが、本当にそうだったのだ。私たちはマツの枝を折り取って集め、雪の上に掘建て小屋を建てた。みんな鉄製の小さな携帯用ストーブを持っていて、それを小屋の中に置き、煙突まで据え付けた。そして、外套にくるまって睡眠をとっていた。とは言っても、ここで休息が与えられたわけではない。常に訓練が続き、戦いに備えて射撃や戦術の教習が行なわれていたのである。そしてある時、私たちはみんな整列させられた。見ると、戦車部隊の制服を身につけ、戦車帽をかぶった将校が小隊の前に立っている。
「トラクター運転手、もしくはその他の運転手を経験した者は一歩前へ!」
 戦争が始まる前、私のおじは運転手をしており、また自動車学校でも働いていて、私に少しだけトラックの動かし方を教えてくれたことがある。そこで、運転手ではないが、おじに運転を教わったと申告した。
「実際に車を運転したのか?」
「5キロくらいは動かしたと思います」
「よろしい」
 こういうわけで、私は機関手兼操縦手として戦車部隊の一員に迎えられた。森の中を2キロほど行くと、そこには第1戦車軍団が駐屯していた。まだ「34」は配属されておらず、あるのはT-60やT-70、BT-7ばかりだった。古参の機関手兼操縦手たちは、私たちに操縦の方法や機械の取り扱い方を教えてくれた。また、実戦に際してはなるたけ身軽な服装で、つまり軍服一枚で出撃するべきだと教わった。撃破された時には急いで脱出する必要があるからだ。これらの戦車は鉄の棺桶も同様で、銃弾で簡単に穴が開き、ガソリンエンジンだったからマッチのようによく燃えた。従って、戦車からの脱出は最も重要な技術の1つだった。
 それからいよいよ実戦だ。私は4度にわたって戦車を破壊されたが、自分自身は負傷さえせずにすんだ。初めてやられた時も、私は野ウサギのように素早く戦車から飛び出し、燃料タンクへ火が回らないうちに遠くまで離れることができた。戦死するのは、主に戦車長など砲塔の中にいる乗員だった。後にT-34で戦うようになってから、私は中隊長を務めたばかりか、大隊長の代理となったことさえあるのだが、戦闘に際しては一貫して自ら操縦レバーを握り続けた。砲塔の中で戦ったことは一度もない。すでに教訓を得ていたからだ。砲塔は狙われやすく、生き残る確率は低い。おそらく、このために私は生き残ることができたのだろう…
 その後、部隊は修理を終えたT-34を受領した。私は軍曹にすぎなかったが、10年制の学校を終えていたので教育は高いものと見なされ、戦車長に任じられた。こうなれば、戦車の中では王様も同然だ。ただし操縦席からの視界は依然として悪く、空と地面がちらついて見えるだけだったが、主砲は強力だった。砲手に背中を軽く蹴られると、私はすぐに戦車を止め、彼に射撃を行なわせる(訳注:とりわけ戦争の初期、T-34の車内通話装置は貧弱なものであったため、砲手と操縦手はしばしばこのような方法で意志の疎通を行なっていた)。成績は悪くなかった。
 42年の夏になると、私は少尉に任官し、オムスクへ出張した。ここにはカムィシンの戦車学校が疎開してきており、私のように前線で昇進した少尉たちが集まっていた。みんな階級こそ少尉だったが、部下を指揮した経験は誰1人として持っていない。そして、この新米少尉たちはおよそ3か月にわたって戦術や射撃の訓練を受け、また第174工場で戦車の組み立てに参加した。ちなみに、この工場にはベルトコンベヤの設備がなく、全ての作業が人力で行なわれていた。
 42年の末、私たちは戦車を受領し、スターリングラード近郊の前線に送られた。私のクルーはというと、まず機関手兼操縦手のミーシャ・ミローノフは1922年生まれ、戦争が始まる前はトラクターの運転手として働いている。しかしすでに述べたように、私は常に自分で戦車を操縦しており、ミローノフは隣の無線手席に座らせておいた。装填手はコーリャ・ジブレーエフ、1924年生まれ。照準手はヴァニューシャ・ペチョルスキーで、もともとはシベリアで猟師をしており、射撃の腕前といったら大したものだった。私にはとてもあんな真似はできない。たとえ1発目を外しても、2発目は必ず命中させた。私はいつも「ヴァーニャ、砲塔はお前のもんだよ」(訳注:原語では「ヴァーニャ、バーシニャ・トヴァヤーВаня, башня твоя」と韻を踏んだ形になる。ロシア人が好んで使う簡単な言葉遊び的表現)と言っていたものだ。また、乗員は相互に役割りを交代することができた。誰でも戦車を操縦し、射撃を行なう能力を持っていたのである。
 当時の軍団司令官はミハイル・フョードロヴィチ・パンコフ少将で、私のいた第17親衛戦車旅団を指揮していたのはシュリギン中佐だった。このシュリギン中佐だが、彼は一度も戦車に乗ったことがない。常に棒を手に持ち、ウィリスのジープに乗って戦場を走り回っていた。戦闘中に戦車が動かなくなったらそれこそ一大事だ。すぐにシュリギンが飛んできて、操縦手のハッチをノックする。
「ハッチを開けろ!」
 そして操縦手が頭を出すやいなや、手にした棒でこっぴどく罰を喰らわせるというわけだ。私も一度、彼に棒をお見舞いされたことがある。砲弾によって地面に開いた大穴に戦車が突っ込み、ギアチェンジが間に合わずにエンストしてしまった時の話だ。例によって、戦車の装甲を棒でノックする音が聞こえる。私はとっさに戦車帽を脱ぐと膝にかぶせ、ハッチの外に突き出し、何度か棒を頂戴した。それから膝を引っ込めると、急いでエンジンを始動させ、ギアを切り替えて前進した。ずっと後になってから、私自身はすでにこの出来事を忘れかけていたのだが、シュリギン(昇進して大佐になっていた)に呼び出されたことがある。
「貴様、誰から上官を騙していいなどと学んだのだ?どうしてこのわしを騙しおった?」
「同志大佐、それはいつのことでありますか?」
「貴様は膝に戦車帽をかぶせてわしの前に突き出したと聞いたぞ。なぜ正直に頭を出さなかったのだ?」
「同志大佐、自分の頭を危険にさらすのは一人前の指揮官がすることではない、と思ったからであります」
「この糞ったれめ、大したもんだ!行ってよし」
 オリョール地区における攻勢の際、私はすでに中隊長となっていた。ある戦いで大隊長ポチノク大尉が負傷した後は、その代理に任じられている。大隊本部長はペトロフ大尉で、彼は私と同じく懲罰部隊を経験していた。前は空軍にいたのだが、懲罰大隊をくぐり抜けた後で戦車部隊に入ったというわけだ。
「俺は空軍には戻らん。空の上よりも地べたで死ぬのが性にあってるよ」
 というのが彼の口癖だった。攻勢の開始前に地図を受領した時、私とペトロフは語り合ったことだった。
「コーリャ、ここが俺らの墓場になるのかなあ」
「俺もそう思うよ」
 ところで、我が大隊にはスピルカという装填手がいた。元々はモスクワの泥棒で、札付きの悪党だった。本名はスピリドノフといったのだが、皆にはスピルカと呼ばれていた。ちょっとでもチャンスがあれば、同じような命知らずを1人か2人連れてドイツ軍の後方に忍び込み、食い物だの飲み物だのを掠め取ってくる名人として、大隊の中でも有名人である。私は彼のことを思い出し、ペトロフに言った。
「おい、スピルカの野郎はドイツ軍の後方に行ったことがあるんじゃねえのか。奴に聞いてみよう」
 そこで、私たちはスピルカを呼び出した。
「スピーリャ」
「何でしゅか?」
 彼は失った歯の代わりに金歯を入れていて、しゃべる時に息がもれる癖があった。
「お前、ドイツ軍の陣地に忍び込んだのか?」
「何の話で?」
「どこを通って行ったのか言えよ」
「沼地ですよ。ドイツ人は見当たらなかったんで」
「深さは?」
「金玉くらいまではありやしたかね」
「底はどんな感じだ?」
「はまり込むようなもんじゃなかったですよ、中隊長。何なら行ってみやしょうか」
 そこで、ペトロフ大尉と一緒に短機関銃を持ち、彼の示した道を歩いてみた。沼地を通り、底も確かめた。確かにドイツ兵はいないようだ。それから友軍の陣地に戻り、きれいな服に着替えると、旅団司令部へ出頭した。司令部には旅団長シュリギン大佐の他に、軍団司令官のパンコフ少将もいた。大きな明るい部屋の中には机があり、その上には地図や重要地点を示す指し棒などが置いてあった。部屋に入ると、シュリギン大佐は私に声をかけた。
「何だ、ジプシーっ子じゃないか」
 私は今でこそ白髪頭だが、当時は髪も顔も黒かったのでこう呼ばれていたのだ。
「どうした、ペトロフとつるんで何をたくらんどる?」
 この時、部屋にはロコソフスキー司令官が入ってきたのだが、私たちはドアに背を向けていたのでこれに気がつかなかった。司令官に気づいたのはパンコフ少将だけだった。私はシュリギン大佐に言った。
「同志大佐、軍団司令官への意見具申を許可して下さい。我々は、指示された攻撃ルートは使いません」
 すると、背後から誰かの声がする。
「それはどうしてかね?」
 ロコソフスキー司令官だった。私たちは飛び上がってしまった。
「同志司令官、我々人員も、そして兵器も確実に失われるからであります」
「行かんのなら銃殺だぞ」
 落ち着いた静かな声でこんなことを言うのである。
「同志司令官、我々は偵察に出たのであります。この沼地から戦車を進ませるのが適当だと考えます」
「沼地ではどの戦車も沈んでしまうだろう」パンコフ少将は反対した。
「沈む心配はありません。底はしっかりしていますし、その上に丸太を敷いて、戦車は1両ずつ進ませるつもりです。敵に気づかれないうちに向こう岸へ渡ってしまいます」
 私の言葉を聞いて、ロコソフスキー司令官は言った。
「やってみるがいい」
 こうして私たちは沼地を進撃ルートに選び、大隊の全車両が無事に対岸へ渡った。おかげで損害を出さずに敵の第一線を突破できたが、その後でドイツ軍も態勢を立て直した。大隊が保有していた戦車33両のうち、オリョールまで到達できたのは4両にすぎない。そして私は、この作戦でアレクサンドル・ネフスキー勲章を授与されることになった。

(05.12.30)


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