ジェレズノフ、ニコライ・ヤコヴレヴィチ(2)
次に私が参加した作戦は、リヴィウ・サンドミエシ方面の攻勢だった。この戦いではT-34-85に乗車することになった。当時、T-34-85の数はまだまだ少なく、我が小隊にも1両しか割り当てられなかったのだが、私は小隊長としてこれに乗り込んだわけである。
敵の防衛線に突破口が開かれ、軍団がそこに投入されたので、私たちは梯団を組んでリヴィウ方面へ前進した。敵の抵抗には遭わなかった。ゾロチョフ市が解放されると、軍団の司令官は、それまで第一線で戦っていた第61旅団を私の所属していた第63旅団に交代させた。旅団長は私たちを集めて指示を下した。
「クリュコフ中尉の小隊は前衛として先頭を進め。ポリゲニキー中尉の小隊は本隊の右側面を、またジェレズノフ小隊は左側面を警戒しながら前進することを命じる」
私は歩兵1個小隊とZIS-3対戦車砲2門を与えられ、側面警戒の任務を果たすべく出発した。砲は戦車で牽引し、歩兵と砲兵は戦車の上に跨乗させた。また先頭にオートバイ部隊を送り、小隊と弾薬を積んだ自動車はその後方を進んだ。私たちは旅団主力から3キロの間隔を保ち、これと平行しながら野道を行軍した。この間、大隊長とは常に無線で連絡を取り合っている。ゾロチョフを発って12キロほど、小さな村にさしかかった時、私は前方1キロ半ほどの地点に土ぼこりが立ちのぼるのを見た。そしてすぐに行軍を中止し、村から約400メートルのところにある森の入り口で防御態勢をとるよう指示した。オートバイで先行していた偵察部隊も戻ってきて、敵の梯団が進んで来るとの報告を行なった。私は、敵の戦車はおそらく2、3両で、残りは歩兵ではないかと考えた。それならば敵は我々の手中にあるも同然、ジャガイモを料理するより簡単に始末できる…敵の先頭に進んできたのは、オートバイ部隊と3両のパンターだった。私は無線で部下に指示を出した。
「先頭は俺がもらう。コズロフは2番目、チーホノフは3番目をやれ」
敵をおよそ600メートルの地点までひきつけたところで、小隊は無線を通じた私の命令により砲撃を加え、3両の敵戦車が燃え上がった。歩兵と砲兵は敵のオートバイ部隊を殲滅した。そこで残りの敵は向きを変えたのだが、これが何と20両を超える戦車の大群だ!彼らは村の方まで退き、そこから私たちに向けて砲撃を開始した。私は後退を命じ、自分の車両の機関手兼操縦手ペトゥホフには「コーリャ、右に回せ」と言った。彼はその通りに戦車の向きを変えたのだが、そこでトランスミッションに命中弾を受けた。ギアボックスと燃料タンクがやられ、戦車は燃え上がった。私は叫んだ。
「みんな、飛び出せ!」
幸いにも、全員無事に飛び出すことができた。あの場合、まず最初に向きを変えるべきではなかったのだろう。後進をかけて森に逃げ込み、その後で方向転換すればよかったのだ。開けた場所でターンしたのは私の失敗で、そのために砲弾を喰らうことになってしまった。一方、小隊の残り2両の戦車は後退に成功した。砲兵と歩兵も対戦車砲を引いて森の中へ退却している。それから私たちは森を抜けて街道に出、旅団主力を追いかけた。私の記憶が正しければ、敵はそれ以上先に進もうとせず、もと来た道を引き返していったはずである。
小隊長を務める以上、私は自分の戦車が破壊された場合にも、別の車両に乗り換えて戦った。部隊が存在する限り、常にその中で戦うというのが隊長の義務なのだ。これは誰かから命令されたわけではなく、良心の問題だった。旅団がリヴィウに突入した時にも、小隊は2両の戦車を数えるだけとなっていたが、私はその1両に乗っていた。そしてリヴィウ市内で、私の戦車は再びエンジンに命中弾を受けて破壊された。戦車は燃え上がったが、乗員は脱出に成功した。しかし走って逃げる途中、私は近くで炸裂した迫撃砲弾の破片によって軽い傷を負った。仲間たちから仮包帯をしてもらった後で、全員徒歩のまま、友軍の戦車部隊に続いて街の中を進んだ。
私たちは、ゲシュタポの本部が置かれていた建物に近づいた。扉を蹴破ると、目の前には2階へと続く幅の広い階段があった。階段は大理石製の豪華なもので、絨毯で覆われていた。私は2階に上がり、オーク材の扉の前で立ち止まった。荘重なブロンズ製のドアノブは念入りに磨き上げられ、鈍い光を放っている。扉を開けて中に入ると、そこはゲシュタポのボスの応接室と思われるような造りの部屋になっていた。中には巨大なテーブルと重々しい脇棚が2つ置いてある。そのうち、左の脇棚からは引き出しが抜いてあるように思われたのだが、それほど深くは考えず、次の部屋へ続く扉に進もうとした。しかしその瞬間、私は、脇棚の中に人が隠れている気配を感じた。振り向くと、机の向こうからパラベルム拳銃を握った手が現れ、こっちに狙いを定めようとしている!私は咄嗟に扉を引き、次の部屋に転がり込んだ。ドイツ人は発砲したが、命中しなかった。私は床の上を転がった。この激しい動きにより、傷口が破れて再び血が流れ出している。それから部屋の入り口に忍び寄り、扉の陰から覗き込むと、ドイツ軍の中尉が先ほどの脇棚から出てくるところだった。私は自分のパラベルム拳銃を取り出し、扉の陰から狙いを定めて引き金を引いた。弾は右肩に命中し、彼はピストルを取り落とした。この物音を聞きつけて、下の階を捜索していた歩兵と私の戦車のクルーが2階に上がってきた。ドイツの中尉は手を上げたまま立っていたが、彼の左腕には時計が光っていた。それを見つけた機関手兼操縦手が言った。
「同志中尉、こいつ、いい腕時計してますよ」そして、時計を外すと私に手渡した。
「取っといて下さい。危ないところで命拾いした記念になりますよ」
実際それは素晴らしい時計で、磁気にも水にも耐えるような加工がしてあった(訳注:ジェレズノフ氏はこの時計を戦後もずっと保持しており、本書には現物の写真が掲載されている)。一方、中尉の方は向こうに連れていって射殺させた。もしも彼が私を撃たなければ、私も彼を助けていたはずだ。しかしこちらを殺そうとした人間を容赦することはない。犬には犬の死を、というやつだ!全体として、私たちはドイツ人を心から憎んでいたと言っていい。しかしながら、ソ連軍がドイツ領内に入った時、私たちは一般市民に敬意を払うよう命じられ、彼らに手出しすることはなかった。子供には食べるものを与えたほどである。どの戦車も、戦利品のチョコレートが入った箱を1つか2つくくりつけ、ドイツの子供たちを喜ばせていた。
ところで、この戦利品という存在については、特別に話しておく必要があるだろう。攻勢が続いている間、補給部隊は前線の移動に追いつくことができず、大隊の輜重部のお世話になるのは後方で休息を与えられた者だけであった。しかしながら、戦闘が終わった後には必ず何かしら見つかるものだ。何と言っても、ドイツ人は我々のように貧しくはない。彼らのところには何でもある。実際には我が国にだってあったのだが、それらはどこか遠いところ、後方に留まっていて、前線まではほとんど届かないままだった。そこで、私たちは全て戦利品でまかなっていた。ソーセージにチーズ、肉の缶詰め等々である。ただ、彼らのパンだけはいただけない。味がないばかりでなく、本当にパンなのかどうかすら分かりかねる代物で、まるでおが屑の塊を食っているような感触だった。それからまた、レンドリースで供与されていた半キロの缶詰めも記憶に残っている。中身は豚の脂身の塩漬けを燻製にしたもので、長さ10センチ・幅1センチほどに刻まれ、油紙に包まれて入っていた。これを2、3切れパンに載せ、コップに半分ほど注いだ酒を一気にあおってからかじりつくのは最高だった。酒だけを飲む場合は、アルミ製のコップに100グラムを注ぎ、別に水の入った飯盒を用意する。そして酒を一気に飲み干し(今でも思い出すだけでよだれが出そうだ)、すぐに飯盒の水を飲む。他には何もいらなかった。ただ、これだけは強調しておきたいのだが、前線の兵士に支給されるはずだった100グラムずつのウォッカは後方の連中が飲んでしまっており、私たちは専ら戦利品を口にしていた。しかし、戦闘の前に飲んだことは一度もない。飲んだら最後、必ずやられてしまう!絶対に駄目だ。戦いが終わった後、無事に生き残ったのであれば、その時には遠慮することなく飲めばいい。ヴィスワ川に到達し、さらに川を渡ってサンドミエシ橋頭堡にたどり着いた時、大隊に残る戦車は5両だけになっていた。第1中隊に3両、第2中隊には2両しかいない。そして、私たち大隊の士官は全員この5両の戦車に乗り込んでいた。他にどうしようもない。予備戦力は全く存在していなかったのだ。嫌でも臨時の乗員の役割りを果たす必要があった。
そして私たちの部隊は、やはり損害を受けている第6機械化軍団と協力しつつ、10キロにわたる戦線を担当した。歩兵は前方で薄っぺらい防御線を構築し、戦車部隊はその200メートルから250メートル後方に展開する。実際、唾をひっかけただけで崩れてしまうような頼りない防衛ラインだ。しかし、ドイツ軍はこちらに向かっては来なかった。彼らも消耗していたのか、あるいは他に理由があったのだろうか。
ある時、大隊長は部隊の戦車長を引き連れて偵察に出かけた。歩兵の陣地に到着すると、彼らの中隊長は私たちを出迎え、自分の掩蔽壕を貸してくれた。そこから敵味方の中間地帯まで匍匐で進み、敵の火点を観測すると、また味方の塹壕まで戻ってきた。そろそろ戦車のところまで帰らなくてはならない。すると、歩兵の中隊長は私たちに警告した。
「あの場所、あそこに見える森の外れは通らない方がいいですよ。敵の砲兵にマークされているから」
しかし私たちの大隊長はこれを聞き入れなかった。「なに、大したことはないよ。いけるだろう」
実際、ドイツ軍が発射したのはたったの3発だった。そしてその3発で、小隊長4人・戦車長3人の合計7人が戦死したのだ…私も衝撃で意識を失った。この時に命が助かったのは、ひとえにパラベルム拳銃のおかげである。これは本当に素晴らしいピストルで、ソ連製のトカレフTT拳銃をあらゆる面で上回っていた。そして、3メートルから4メートルという至近距離で砲弾が炸裂した時、このパラベルム拳銃が破片から私を守ってくれたのだ。破片は拳銃に命中し、これをひどくねじ曲げるだけで、体を傷つけることはなかった。しかし爆風からは逃れられず、私は吹き飛ばされて昏倒し、口や耳、鼻から血が流れ出た。後から聞いたところによると、みんな私が死んだものと思い、埋葬のため兵隊用の外套に包もうとしたのだが、その瞬間に私は身動きしたのだそうだ。ついていた。さもなければ生きたまま葬られてしまったことだろう。爆発の衝撃による震盪の症状は重かったが、衛生小隊で受けた手当てのおかげで、15日も経つと聴力が回復し、また普通に喋ることができるようになった。
これもサンドミエシ橋頭堡での話だが、私は4号戦車を撃破している。その時のことについて少し書いておこう。もともと私は戦車砲の射撃が上手く、第4戦車軍のリャリュシェンコ司令官が戦闘の合間に催した射撃大会に出場したことがあるほどだ。私はこの大会でよい成績を収め、賞品としてシガレットケース「プリボイ175」を勝ち取っている。これは真鍮製の薬莢からできており、表面には「優等戦車砲手」という文字が刻みつけられていた。それで、サンドミエシに話を戻すと、ある時大隊長が私を呼び出した。
「見ろ、あそこにドイツの戦車がいる」
私は答えた。「見えます」
敵の戦車は、何かの任務があったのだろう、前方1200メートルから1300メートルほどの距離を、私たちの陣地に平行する形で移動していた。
「君は射撃が上手かったな。あいつを吹き飛ばしてやれ」
そこで私は自分の戦車に乗り込み、照準器を覗き込んで狙いを定めると発射した。しかし砲弾は敵の砲塔の左上にそれた。2発目を発射したが、結果は全く変わらない。敵の戦車はすでに方向転換し、こちらに正面を向けていた。撃たれたことに気づき、私たちがどこにいるか探しているのだ。このままではやられてしまうかもしれない!私は戦車から降り、大隊長に報告した。
「だめです。照準器が故障しているか、あるいは意図的に調整が狂わされているのかもしれません」
「うむ、まずいな。今度は別の戦車から撃ってみろ」
私は、納屋の裏側に位置していた僚車のところに行き、戦車長に言った。
「車を出せ。今からドイツの戦車をやっつけてやるんだ」
「戦車って、一体どこにいるんです?私には見えませんが」
「見せてやるから外に出ろよ」
私たちは納屋の前に出た。
「見えるか?」
「あっ、ほんとだ!よし、私がやりましょう」
「待てよ、こりゃ俺の獲物だぜ」
そこで彼が戦車を移動させると、私は照準手の席に座り、1発で敵の真正面に命中弾を与えて炎上させた。砲の真下にぶち当てたのだ!敵の戦車兵のうち2人は脱出したが、もう2人は逃げられなかったはずだ。この戦功により、私は赤星勲章と賞金500ルーブリを与えられた。一般的に、敵戦車の撃破に際しては戦車長が受勲することになっていた。他のクルーは戦車長の指示を受けて動いていたからである。もっとも、1つの作戦が終わると、生き残った全ての兵士は賞を受けるのが普通ではあった。
1944年の晩秋、私たちは前線から離れ、20キロほど後方にあるジムノヴォディ村への集結を命じられた。ここで部隊は補充を受け、乗員の訓練と再編成が始まった。ジムノヴォディには演習場が用意され、また特別な訓練小隊が組織されている。訓練用の戦車は3両で、いずれも砲の中に小口径のライフル銃を据え付けていた。照準は実戦通りに行なうが、砲弾の代わりに小銃の弾を発射するというわけだ。私たちは移動目標や停止目標を撃ち、移動中の戦車から移動目標を射撃するという訓練さえ行なわれた。この時の距離はだいたい500から1000メートルだった。しかし私は、実戦では停止した戦車からしか射撃をしたことがない。戦車が動いている時の視界は極めて悪く、空と地面がちらついて見えるような有り様なので、移動中の戦車から目標に命中させるのはほとんど不可能だった。1945年1月にヴィスワ・オーデル作戦が始まった時、私たちはまず第二線でおよそ50キロ前進した。その後で私のいた大隊が先頭を受け持つことになった。1月12日の夕暮れ時、部隊はキエルツェ前面のペシフニツァ村に接近した。村の規模は大きく、家屋が2列か3列に並んでいた。旅団長は私たちの大隊を展開させ、攻撃命令を出した。ところでこの戦いを前に、私は第3大隊へ移っていたのだが、その理由について書いておく必要があるだろう。まだジムノヴォディ村にいた時、私たちはポーランド人の家で寝泊まりし、ポーランド娘たちのところに通っていた。皆まだ若く、私もやっと20歳になったところで、頭は空っぽだったのだ。女の子たちを訪ねる時には、中隊長のリョーシカ・クジノフも一緒だった。私は彼の戦車、つまり中隊長車に乗っており、第1小隊長として自分の戦車を含む4両を指揮していた。そしてある日、私と中隊長が娘たちに会いに行くと、そこには子供を連れたジプシー女が来ていた。彼女は私たちに言った。
「あんたたちの運勢を占ってあげよう」
2人が断ると、娘たちははやし立てた。
「なに怖がってんのよ。観てもらいなさいよ」
私たちはポーランド語など知らなかったが、やはりロシア語と近い言葉だけのことはあり、多少は言っていることが分かったのだ。それで、まずリョーシカが占ってもらった。ジプシー女は彼の左手をとってそれを眺めると、その後でリョーシカを見つめ、ブロークンなロシア語でこう言った。
「こんなことは言いたくないけど、あんたは死んじまうね!この線をご覧。ここで終わってるから」
「そうかい」
リョーシカは答えると、私を小突いた。
「今度はこいつを観てやってくれ」
彼女は私の手をとった。
「あんたは長生きするだろうよ。でも苦しい目に遭う。ひどいケガをするね」
「たぶん、手か足をなくしたりするんだろうな」私はそんなことを思った。それで、すぐに気分が壊れてしまった。おしゃべりをする気にはならないし、ダンスをしても楽しくない。気を取り直したところで、リョーシカが言った。
「なあニコライ、ひとつ運勢を変えてみようじゃないか。俺は中隊長なんだし、簡単によその大隊へ移るわけにはいかん。だがお前は小隊長だから問題ないだろう。それに、第3戦車大隊では小隊長が足りないという話だ」
「分かったよ」
それで私は第3大隊に移籍し、そのままペシフニツァ攻撃作戦に参加することになったのである…
私たちは村に突入し、ドイツ軍の集中砲火を浴びた。1両、2両、3両と次々に仲間たちの戦車が炎上していく…至近距離からの射撃だった。私は戦車を十字路に寄せ、そこで敵の戦車を発見した。角の家が燃えており、その炎を背景に、ティーガーのシルエットがくっきりと浮き上がって見えたのだ。敵戦車までの距離は120メートルもない。私は照準手の頭を押して床の方にどいてもらい、彼の席に座った。そして照準器を覗き込んだのだが、敵の姿が見えず、狙いを定められない。やむを得ず砲の閉鎖器を開き、砲身越しに直接照準をつけて発射した。砲弾はティーガーの側面に命中し、これを炎上させた。私は自分の席に戻って手袋を脱ぎ、無線を車内通話装置に切り替えようとして、その瞬間に意識がなくなった。後から分かったのだが、前方50メートルほどのところにいた敵戦車がこちらの発射炎に気づき、私の戦車の真正面に弾を撃ち込んだのである。意識を取り戻した時、私は砲弾ケースを収納した床の上に倒れていた。戦車は燃えており、息をすることができない。見ると、機関手兼操縦手の頭が砕かれている。敵の砲弾は彼の頭を打ち抜き、私の両足の間を通過したのだが、どうやら防寒長靴に触れたらしく、左足を膝の間接からねじ曲げてしまっていた。隣には腕をもぎ取られた装填手が倒れている。照準手も息絶えていた。彼は体中に破片を受けており、身をもって私を守ってくれたと言っていい。私は腕の力で車長用のハッチまで這い上がったが、そこから外に出ることができない。傷ついた左の膝が曲がらないのだ。私はハッチにひっかかった状態となった。炎が無気味な音を立てて砲塔の中から外に噴き出し、私の足と尻は戦車の中で火に包まれていた。目にも火傷を負い、視界は血のような色で覆われていた。しかし、私は2人の人影を見つけて叫んだ。
「みんな、ここから出してくれ!」
「ジェレズノフか?!」
「俺だ!」
彼らは私のところに駆け寄り、腕をつかんで引っ張ってくれた。防寒長靴を戦車の中に残し、私の体は外に引きずり出された。そして炎に包まれた戦車は、私たちが50メートルほど離れたところで爆発している。私の服も燃えていたが、何とか雪をかけて消し止めてもらった。
そして…私は衛生小隊に運び込まれた。衛生隊の上級中尉アーニャ・セリツォヴァは、私の姿を見て泣き出したほどだった。
「まあコーリャ、あんた、こんなにひどく火傷しちゃって!」
人間、指先を火傷しただけでも痛みを感じるものだ。そしてこの時、私は体の35パーセントを火傷していた。痛くないわけがない。顔の皮がはがれてぶら下がってさえいたのである!私はアーニャに頼んだ。
「水をくれよ。飲みたいんだ」
彼女は、水ではなくアルコールを注いで差し出した。
「飲みなさい!」
私は彼女を罵った。
「てめえ、何で水の代わりに酒なんか持ってきやがるんだ?」
「この方がいいのよ。痛みを感じなくなるから」
それから私は軍の病院に移された。足にはギプスがはめられた。一番大変だったのは何も見えないことで、顔中が腫れてむくんでいた。まぶたも癒着してしまい、後から切開してもらった…これ以上は思い出さないでおこう。ひょっとすると涙が出てくるかもしれないから…先日、イヴァン・セルゲーエヴィチ・リュビヴェツから、戦勝記念日に合わせたお祝いの電報が届いた。伝令兵と2人で私の命を救ってくれた、あの戦友である。私は泣いた。どれほど泣くまいとしても堪えきれなかった。
結局、部隊はあの村を占領することができず、森へと退却している。その次の日、予定されていた攻撃を前に、リョーシャ・クジノフは戦車の外へ出て路肩に立ち、タバコを吸っていた。そして急に倒れた。大腿部に命中した砲弾に足をもぎ取られ、リョーシャはそのまま出血多量で亡くなった。あのジプシー女は本当のことを言ったのだ…だが、知らない方がよかった。私はおよそ2か月の入院生活を送った。退院した時、軍はベルリンで戦っていた。私の顔は赤くなり、しみだらけで、足も上手く曲げることができない。ただ、足は部分的にであれ使えるようになると言われたし、実際使えるようになっている。半月板のところには破片が残ったが、最初のうちは問題にならなかった。およそ50年の間、私はこの破片と共に生きてきた。そして最近になって、左の膝に手術をしてもらった。半月板が消耗し、破片が歩行の妨げになり始めたからだ。医者は私の足を診てくれた。
「どんな感じで歩いていますか?」
「普通にですよ」
「普通に?関節に破片が入っているのに、普通に歩けるんですか?」
「そりゃまあ、足は引きずりますがね」
実際、私はこのために後方勤務へと回されたのである。本当は参謀部で働きたかったのだが、上手くいかなかった。こうして戦争は終わった。私は、ドイツ人とは貸し借りなしだと言うことができる。自分の乗った戦車は3両が破壊され、私もまた敵の戦車3両と装甲輸送車をしとめた。打ち倒した兵士の数は数えていない。
(05.12.12)
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