ジェレズノフ、ニコライ・ヤコヴレヴィチ(1)

 戦争が始まった時、私は17歳と半分で、学校を終えたばかりだった。私たちは、戦争が2、3か月で終わり、敵軍が粉砕されて我が国が勝利を収めるものと思っていた。しかしながら、敵は私たちが考えていたよりもはるかに強大で、また狡猾であった。そして7月の初め、ドイツ軍がミンスクを占領した時、父は私にこう言った。
「お前もそろそろ働きに出る時が来たようだ」
 それで私は、対空砲を操作するための部品を生産している軍需工場に行き、見習工として勤め始めた。3か月後には試験に合格し、4級組み立て工の資格を取得している(原注:組み立て工の資格は各人の技量により1級から6級までが存在しており、6級が最も技術のある労働者ということになっていた)
 8月の初め頃、私たちの家族は、兄のミハイルがスモレンスク近郊で戦死したという公報を受け取った。これが一家にとってどれほど大きな打撃だったか、他の人々には分かってもらえないだろうと思う。
 10月、ドイツ軍がモスクワに接近すると、私たちの工場はサラトフへの疎開が決定し、私も出発の準備をすることになった。それで、防水布から背負い袋を作ってもらった。当時、リュックサックなどというものは数が少ない上に高かったし、私の給料は安かったからだ。疎開のための汽車は10月22日に出発の予定だった。しかし、15日に政府が疎開の作業を開始すると、モスクワはパニックに見舞われた。私は、「鎌とハンマー」工場の労働者たちがイリイチ広場に集まった時のことを憶えている。イリイチ広場は、有名なウラジーミル街道、現在のエントゥジアスト街道の起点にあたっているのだが、まさにこの道を通って、全ての役人たちが、受け持ちの部署や労働者を見捨ててモスクワから東へと逃げ出したのである。彼らは自分の家族を連れ、公用のトラックに家財道具を積んで脱出しようとした。
 これを知った人々は、抑えられないほどの憤激にかられた。こんなことが許されるのか?指導部が逃げ出し、我々を見捨てようとしている!労働者は車を止め、官僚たちや泣きわめく家族を引きずり出し、その財産を略奪した。
 そして、こうした騒擾はあっという間に街全体へ広まっていった。商店の略奪が始まった。私は、イリイチ広場にある3階建ての百貨店が、暴徒と化した群集に襲われるところを自分の目で見ている。全ての商品が奪い去られ、家へと持ち去られた。
 ちょうどこの頃、同級生のジョルカ・プロロコフが召集令状を受け取った。彼は私より少しだけ先に生まれ、もう18歳になっていたのである。私たちジョルカの友人は、「人間らしく」彼を送り出してやりたいと思っていたのだが、ウォッカを手に入れることができなかった。すると、ジョルカの父親が助言をくれた。
「ポリトゥーラを使うといいだろう」
 ポリトゥーラというのは家具の表面に塗る透明なラッカーのことで、アルコールが主な成分であり、半リットルのビンに詰められていた。そのビン1本ごとに大さじ2杯ほどの塩を入れ、口に綿を詰めて、塩が溶けるまでよく振るのである。塩によって分解したラッカーは綿にこびりつき、後にはアルコールが残るというわけだ。そして、私たちはジョルカの送別会でこのアルコール飲料を飲み、どうやら度を越してしまったらしい。私はこれにあたり、体中に赤い湿疹が現れた。
 しかし、この湿疹こそが私を救ってくれたのである!当時、モスクワでは一斉検挙が続いていたからだ。たくさんの職場仲間が、イリイチ広場の百貨店での略奪事件に参加した容疑で捕まった。私も危ないところだったが、病気のおかげで逮捕されずにすんだ。両親は、私が級友の送別会で飲んだ酒にあたり、略奪があった日には病気のため家で寝ていたと証言してくれた。これこそまさに「人間万事塞翁が馬」というやつだ!
 湿疹はすぐに消え去り、私は10月22日の16時に工場へ向かった。そして20時には疎開のための汽車がサラトフへ出発した。その後、41年の12月になってから、私はモスクワの新聞を読み、略奪事件をめぐる裁判の経過を知ることになる。逮捕された職場仲間たちは、裁判の結果それぞれ10年間の収容所送りとなったが、その後で1年間の懲罰大隊編入に変えられた。私の友人だったサーシャ・プルィトキンもこの判決によって前線に送られ、障害者となりながら奇跡的に生還した。しかし戦後、彼は長くは生きられず、10年かそれくらいで亡くなった。腕がほとんどもぎ取られ、骨がくっつかずに筋肉だけでつながっているという、本当に重い傷を負っていたのだ。

 サラトフに到着すると、私たちの第205工場は地元の農業学校の建物を借り、すぐに生産ラインを再稼動させた。サラトフ駅に着いてから5日目には、もう製品の組み立てに取りかかっていたほどである。そして、私たちは1日に14時間から16時間、休日なしで働いた。1942年2月からは、作業場の中にハンモックが持ち込まれた。5時間寝ただけで起こされ、また仕事を再開したこともある。私たちは、前線に必要なものを全て、できる限り早く送り届けたいという思いで一杯だった。これはスローガンやプロパガンダなんかじゃない。私たちは本当にそうやって働いていたし、現在ではとても信じられないだろうが、人間はいろんな条件に慣れ、堪えることができる生き物なのだ。
 食事は共通の食堂で支給されていた。食べるものは全て、配給券と引き換えでしか手に入らなかった。もしも券をなくしたりしたらそれこそ一大事である!もちろん、食堂ではこうした人々にも無料で食べ物を与えたが、あくまで何か余っていればの話だ。時には何も残っていない日もある。いずれにせよ、これだけでは体はもたず、工場で働くための力など出るわけはなかった。また、石鹸も配給券と引き換えで与えられた。もしも券を失い、手許に石鹸もなかったら、どうにかしてその場をしのぐしかない。例えば、1か月風呂に入らないとか。
 5月になった時、私は一緒に働いていた仲間たちにこう言った。
「おいみんな、前線に行こうぜ。こんなところでシラミの餌になってるのはもう沢山だ!」
 それで、皆そろって徴兵司令部へ出かけた。徴兵司令官のスミルノフ大佐は、私たちの話を聞いてから、「君たちは国防産業の労働者であるから召集するわけにはいかない。もしも君たちの工場の指導部が許可を出せば、その時はもう一度ここに来るといい」と言った。私たちは工場長に頼み込み、前線に行くための許可を出してもらったので、その後しばらくしてから召集されることになった。

 最初に私が受けたのは、歩兵の軍曹を養成するための速成教育だった。1か月半に及んだ教育の後、私たちは軍曹に任じられ、襟章には2つの三角形がつくことになった(訳注:敢えて訳さないが、当時この三角形の徽章は卑猥な俗語で呼ばれていた由である)。教育の最終日、主任教官は生徒たち全員を練兵場に整列させ、まずは演壇上で軍曹への任命式を行なった後、そこから下りて号令をかけた。
「気をーつけい!ただ今より命令を与える。高等教育を修了、もしくは受けた経験を持つ者は10歩前へ!中等技術教育を修了、もしくは受けた経験を持つ者は5歩前へ!10年の普通教育を修了した者は3歩前へ!こうしーん、始め!」
 これでみんなバラバラになり、ある者は3歩、別の者は5歩、さらに10歩前進した者もいた。だが、前に出た者はそれほど多くはなかった。当時は10年制の学校を出るだけで充分に高学歴と見なされていたのであり、大多数の子供は4年から7年の教育しか受けていない。ほとんどの者は7年で学校を終え、技術学校に行くか、工場で勤め始めるか、あるいは職業学校に通うのが常であり、6か月もすれば立派な労働者に育っていたのである。
 それから私たちは列ごとに分かれ、徴兵司令部へと連れてこられた。そこには、戦車部隊や軍政治学校、空軍などの将校が、私たちを「買い付ける」ために集まっていた。彼らはみんな大佐で、襟章には4本ずつの「枕木」がついている。そして、まずは私たちの希望を聞いて人材を選んでいた。私の友達の1人はこう言った。
「やっぱり戦車兵だよな。みんなから尊敬されるぜ!国中を見下ろして進むんだ。鋼鉄の馬に乗ったようなもんだよ」
 実際、それは魅力的な話であるように感じられた。そして私たちが戦車部隊の将校の方に向かおうとした時、軍政治学校の将校が私に声をかけた。私はこの将校のところに行き、軍曹ジェレズノフ、命令に従い出頭しました云々と申告した。政治将校は言った。
「同志軍曹、君は軍の政治学校に入ることを希望しないかね?」
「希望しません。自分は戦車部隊に入ると決めたのであります」
「よく考えたまえ。後悔するかもしれんぞ。後が大変だ。戦車部隊の勤務は厳しいからね。それよりは政治将校を目指した方がいい。学校を終えればすぐ中隊政治委員になれるし、能力次第では大隊付きのコミッサールだって夢ではないよ!」
 しかし私はこの説得を受け入れず、1942年6月25日、サラトフ第1戦車学校に入学することになった。
 およそ1か月の間、私たちはイギリスのマティルダとカナダのヴァレンタインを使って訓練を受けた。このヴァレンタインだが、非常によくできた戦車だったと思う。砲は強力でエンジン音も静か、車高は低くて人間の身長くらいしかなかった。後で書くつもりだが、ある戦いでは2両のヴァレンタインが3両のティーガーを撃破したことがあった。これに比べると、マティルダの方は巨大な標的に等しいものだ。装甲こそ厚かったものの、武装は42ミリ砲という貧弱なもので、照準器もいつから使われているか知れぬほど古臭い。さらにマティルダは動きが鈍くて機動力に欠け、出力の低いレイランド型ディーゼルエンジン2基をフル回転させても整備された道路で時速25キロがやっと、道が悪ければこれ以下のスピードしか出なかった。
 しかし、7月の末になると私たちの学校はT-34を受領し、これに伴って教育プログラムも変更され、私たちは「34」で訓練を続けることになった。
 戦車学校では、戦車長及び小隊長としての教育を受けた。何よりもまず、砲と機関銃、無線機、変速機、走行装置、エンジンといった、戦車のそれぞれの部分について教えられた。砲塔や車体、走行装置などについては、それまでにもわずかながら知識を持っていたのだが、例えばディーゼルエンジンのことを習うのはこれが初めてだった。それから、様々な規則を憶えさせられた。例えば歩哨規則や野戦時の服務規則などである。さらに演習場では、小隊や中隊規模で戦い、各車両間の連繋を密にするための訓練を行なった。もちろん、私たちは自分で戦車を操縦し、砲や機関銃を操作できるような技術も身につけている。一方で、ドイツの戦車に関する教育は行なわれなかったが、しかし戦車学校では廊下の壁という壁に巨大なドイツ戦車の絵が貼り出され、その戦術的・技術的特徴や弱点が示されていた。例えば3号戦車、4号戦車、5号パンター、6号ティーガー、自走砲フェルディナント(訳注:この時期のソ連軍がパンターやフェルディナントなどの情報を入手できていたかは疑問であり、ジェレズノフ氏の記憶違いであるようにも思われる)、突撃砲(訳注:ロシア語では「アルトシュトゥルム」Артштурм。他の戦車兵の回想にも現れる言葉だが、具体的にどの車両を指すのかは不明)などである。そんなわけで、敵の戦車についての情報は否応無しに頭の中に叩き込まれた。学校での日課について言えば、まず朝9時から14時までは教習、その後16時まで昼食と自由時間、そして16時から21時までは再び教習があった。学校ではみな制服を着用し、少しでもだらしない格好をしているとすぐに見咎められ、罰として労役を課された。例えばカラーはいつも白くなくてはならず、ボタンも全部ついていなければ駄目だ。戦時だからといって大目に見てもらえたわけではない。規律は非常に厳しく、分隊長に対しては、たとえ階級が同じであっても馴れ馴れしい態度をとることは許されなかった。
 私を含め、戦車学校を優の成績で修了した生徒は全て、もう3か月学校に残って政治教育を受けることを勧められた。そうすれば、前線では大隊の政治部長代理になるチャンスがあった。私はこれを受けることにした。というのも、ちょうどこの時期に軍の政治委員のシステムが廃止になったからだ(これに関する指令は1942年10月9日に公布された)。それまでは、全ての政治将校は「下級政治委員」「政治委員」「大隊コミッサール」といった称号を帯びていた。しかし今や、軍の政治部の者は全て再編成の対象となり、一般の将校と同じ階級を与えられることになった。そして私は、第2戦車大隊・第7生徒中隊所属の小隊長に任じられた。私が19になる年のことで、言ってみればまだまだ子供にすぎない。そのひよっこが、階級章に2つか3つの「積み木」、あるいは「枕木」さえもつけているような古つわものたちと席を同じくすることになったわけだ(原注:「積み木」と「枕木」は、赤軍が1943年まで使っていた階級章の俗称。「積み木」(正方形)3つで上級中尉、「枕木」(長方形)1つであれば大尉、2つなら少佐という具合である)。彼らは私の父親と同じ世代だった。この当時、私が大隊の当直員を務めた時のことを憶えている。兵舎に帰ってきてみると、42人の小隊員のうち寝ているのは3人しかいない。私は不寝番に尋ねた。
「他の連中はどこにいる?」
 他の39人は無断で外泊していた。女のところに通っていたのだ!女性たちの夫は前線に行き、その留守宅に我が小隊員がもぐり込んでいたというわけだ。

 教育期間が修了すると、私たちはゴーリキー(訳注:現ニージニー・ノヴゴロド)に派遣され、クラースノエ・ソロモヴォ工場で生産された戦車を受領した。宿営地となったボロフナ地区には、第3予備教育戦車連隊が集結していた。私たちはここでそれぞれのクルーを与えられて訓練を開始し、小隊及び中隊レベルでの戦闘力の強化に取り組んだ。
 部隊の訓練は演習場で行なわれ、各クルーは小隊規模での攻撃や防御、あるいは行軍などの技術を磨いた。そして、同じ訓練を中隊規模でも繰り返した。さらに、部隊の組織化が完了した後、戦車からの射撃の実習も行なわれている。

 クルーを編成していく過程で、小隊長である私は、戦車の乗員が相互に役割りを交換できるよう気を配らなくてはならなかった。その必要が生じた時には誰でも戦車を操縦し、あるいは砲や機関銃で戦えるだけの技術を求めたのである。
 こうした訓練を通じて、乗員は各自が果たすべき役割りをきちんと把握し、また戦車長や小隊長は、戦場における自らの位置や指揮のとり方を理解するようになっていった。戦いに臨む者は誰でも、指揮能力は身につけておかなければならない。小隊長は常に戦場を見渡し、部下の戦車長に対して目標への射撃や機動を指示する。しかしながら、指揮のための余裕がないこともしばしばあった。部下への指示に気をとられすぎてしまうと、自分の危険を見逃してしまうことになるからだ。だから、小隊の各車両が自立的な行動を求められる場合もあり、そうした時に頼るべきは乗員それぞれの能力だった。
 ところで、部隊編成のための演習時に使われていたのは訓練専用の戦車であった。一方、前線におもむくにあたっては、部隊には全く新しい戦車が与えられた。この事実には注意しておく必要がある。一見どれも同じ戦車で、「34」であることには変わりがないと思うかもしれない。しかしそれは表面的にそう見えるだけで、いわゆる素人目というやつだ。どの車両も、それぞれの戦車、それぞれの大砲、それぞれのエンジンごとに個性があり、他とは違っていた。そうした特徴は事前には分からず、毎日動かしていく中でようやく知ることができる。だから私たちは、戦場では全く勝手の分からない戦車で戦う羽目になった。戦車長は砲の特性を把握していない。機関手兼操縦手は、自分の車両のディーゼルがどのような能力を持っているか理解していない、というわけだ。もちろん、工場では砲の試射を行ない、50キロメートルの試験運転も実施していたのだが、それだけでは不十分だった。だから私たちも、戦いの前に自分が乗る戦車をできるだけよく知ろうとし、そのためにあらゆる機会を利用したことは言うまでもない。

 1943年春、私たちは鉄道輸送でモスクワ郊外へ移動した。ここで編成された第4戦車軍の中に、第30ウラル志願戦車軍団が含まれており、私は戦争の全期間を通じてこの部隊で戦うことになった。
 1943年の夏、軍はスヒニチ市(訳注:カルーガ州内にある都市)の南東部に集結した。ここで私は最初の戦いを経験した。最初の戦い、それは最も恐ろしい戦いでもあった。今でも時々聞かれることがある。
「恐くはありませんでしたか?」
 隠そうとは思わない。恐かった。通信装置のスイッチを入れ、「前進!」の命令を待っている時、私は恐怖を感じていた。5分後、10分後に何が起きるのか、それは神様にしか分からない。命中するか、それともしないか。どれほど若く、健康で、生きることを望んでいようとも、攻撃には参加しなくてはならず、そして数分後にはこの世から消え去っているかもしれないのだ!もちろん、これは臆病さとは違うものだし、我々の中に憶病者はいなかった。それでもやはり、みんなが恐怖を感じていたことは事実である。そして実際に攻撃が始まると、何とも説明できないような力がわき起こり、私を支配した。この瞬間、私はすでに人間ではなく、人間的に考えることなどできなくなっていた。もしかすると、これこそが私を死から免れさせてくれたのかもしれない…
 7月25日の夕方頃、私たちは攻撃準備を命ぜられた。旅団長が与えた任務は、オルス川の渡河である。ちなみに私が所属していた第63旅団は、攻撃の第二線を受け持っていた。第一線で攻撃にあたっていたのは、第62戦車旅団と第30自動車化歩兵旅団だった。これらの部隊はオルス川を渡ったが、高地(おそらく212メートルだったと思う)に依るドイツ軍の陣地に阻まれ、これを抜くことができないでいた。そこで軍団の司令官は第63旅団を呼び出し、この防御陣地を突破して南方に展開、続いてボリソヴォとマサリスコエを占拠すべしという任務を与えた。しかしながら、工兵隊の地形偵察が拙劣だったため、ヌグリ川の渡河に際して戦車部隊は立ち往生してしまった。川べりの草原は沼地と化していたし、対岸は切り立った崖であったからだ。そんなわけで、私たちの初陣は幸運に恵まれず、攻勢は失敗に終わっている。その後、部隊は別の地区に投入され、今度は上手くいった。ドイツ軍は村の外れに防御陣地を築き、対戦車砲と壕に入れた戦車で私たちを待ち受けていた。この戦いで、私は2門の大砲と3号戦車を撃破している。戦車は壕の中に隠れており、私は2発の砲弾を撃ち込んでこれを沈黙させた。一方、砲をしとめたのは私の手柄ではなく、機関手兼操縦手がキャタピラによって蹂躙したのである。私はインカムに怒鳴っただけだった。
「ミーシャ、左だ!砲がいる!」
 そして村の中を通過している途中、横10メートルほどの距離に別の砲を発見した。
「あいつもやるんだ!じゃないと、向きを変えて、こっちの尻の方から食らわされるぞ」
 どの戦車も沢山の歩兵を打ち倒した。村の外れまで突破したところで、私たちは野原の向こうへ逃げていくドイツ兵の集団を発見した。その数およそ150人はいたと思う。私は彼らの方へ向かって突進し、機関銃で射撃を始めた。1人が倒れ、2人、3人、4人、5人、10人と次々に倒れていった。もちろん、私だけが撃ったわけではない。中隊全体が村を突破してきていたし、友軍の歩兵も射撃を行っていた。誰が誰を撃ったのかはまったく分からなかったが、しかし私はここで25人は倒しているはずだ。この戦いにより、私は赤星勲章を与えられた。当然のことながら、我が軍も損害を出している。大隊が保有していた戦車21両のうち、5両から7両が失われた。
 ここで、攻撃に際してはどのように任務を果たすのかを説明しておこう。中隊長はそれぞれの小隊長に対し、中隊が進むべき大まかな方向について指示を出す。一方、与えられた目標までの距離を突破してなおかつ生き延びること、それは小隊長である私の領分だった。戦闘が始まると、中隊長は無線を通じて指揮をとる。
「21、21、方向を変えろ!左200度に敵の砲がいる」
 そこで私は戦車の向きを変え、脇腹からの一撃を防ぐというわけだ。
 私たちは戦いながら前進し、リゴフの駅にまで到達した。実のところ、部隊は息切れしていたと言っていい。これ以上攻勢を続けるための戦車がなかったからだ。戦車も歩兵も次々に脱落し、損害は非常に大きかった。各中隊には1両から2両の戦車しか残っていない。戦車の定数60両の旅団も、作戦が終わる頃には12両かそれ以下を数えるのみとなっていた。そして、これらの戦車と乗員は、第197戦車旅団へと移されることになった。軍団に残された戦車を1つの旅団にまとめて戦場に送り、残り2つの旅団を再編成に回すというのは、戦争の全期間を通じて広く行われたやり方だった。

 オリョール地区での攻勢が終わると、私たちは再編成に回された。新たに戦車と乗員の補充を受けた後、軍は1944年の2月か3月頃にプロスクロフ・チェルノフツィ地区(訳注:ウクライナ西部、ルーマニアとの国境に近い)での攻勢に参加した。
 この中で行われた戦いの1つは記憶に残っている。私自身は第二線に配置されていたため、直接これに参加してはいないのだが、しかし戦闘の様子を詳しく観察することができた。戦いは1944年3月の23日か24日、スカラト市の付近で行われた。部隊はカメネツ・ポドリスキーへと向かう道路上を進んでいたが、先頭を進んでいた3両のT-34が、3両のティーガーからの攻撃を受けて破壊されてしまった。敵の戦車は、小さな丘の上にある村の外れに陣取っていた。私たちの戦車は76ミリ砲しか装備しておらず、500メートル以下に接近しないとティーガーの前面装甲を貫通できなかったため、敵は大胆にも開けた場所に姿を現していた。それなら近づけばいい、と思われるかもしれない。だが、こちらは1200メートルから1500メートルの距離でやられてしまうのだ!それは無謀というものだった。実際のところ、85ミリ砲が登場するまでの間、私たちは兎のようにティーガーから逃げ回り、何とか上手く立ち回っては相手の横腹に一発お見舞いするチャンスを見つけようとしていた。本当に大変だった。もしも800メートルから1000メートルの距離にティーガーが現れ、こちらを向いて「十字を切り始める」(訳注:「照準をつける」の俗語か。辞書には見当たらない表現)のを見たら、そいつの砲身が水平に動いている間はまだ戦車の中にいても大丈夫だ。しかし垂直に動き始めたら最後、すぐに戦車から飛び出した方がいい。さもないと戦車ごと丸焼けだ!私自身がそのような目にあったことはないが、戦友たちはそうしていた。T-34-85が現れて初めて、私たちは1対1の勝負を挑めるようになったのだ。しかしそれは後からの話で、スカラト近郊の戦いに話を戻すと、道路の右側に茂みが広がっているのがポイントだった。ただ、この茂みはT-34を隠してくれるほど背の高いものではなかった。そこで旅団長フォミチョフ大佐は正しい決定を下している。彼は本当に優れた指揮官で、部下から「親父さん」と敬われていたのも偶然ではない。この局面で、旅団長は第7オートバイ大隊所属のヴァレンタイン戦車2両を戦場に送り込んだ。ヴァレンタインは茂みに隠れながら進み、ティーガーから300もしくは400メートルの距離まで忍び寄った。そして、側面に射撃を加えてまず2両のティーガーを炎上させ、その後で3両目をも始末している。斜面の反対側にいた4両目の敵は、左側で起きている状況を視認しておらず、そのままどこかへ退却していった。こうしてドイツ軍の防御線の左側面には大きな穴が開き、私たちは茂みをつたってこのポイントに突入した。一方、敵は対戦車砲で私たちを迎え撃った。茂みから対戦車砲の陣地までは100メートルから200メートル、戦車であれば25秒もしくは30秒で到達できる距離だ。攻撃を行なう場合、戦車は小刻みなターンで絶えず方向を変えながら、高速で敵陣に突入した。ここでまっすぐ走ってしまえば、そのままあの世行きということになる。敵の対戦車砲部隊は、この距離の間に数度の射撃を行ない、その後で戦車に踏み潰された。これを見て歩兵は逃げ去った。陣地に籠った歩兵が頭上を走る戦車をやり過ごすなどというのは、あれは映画の世界の出来事にすぎない。現実には、戦車が出現して陣地を突破にかかるや否や、歩兵は塹壕づたいに退却するのが常だった。
 村の攻略におよそ3時間を割いた後、部隊は再び前進を開始した。
 私たちがカメネツ・ポドリスキーに入ったのは1944年3月25日のことだった。街の外れでは2両の戦車が敵の対空砲によって破壊され、乗員も焼け死んだ。私は彼らが葬られるところを見たのだが、大の大人が12歳の子供ほどの大きさになり、まるでミイラのような姿に変わっていた。肌の色は赤と青味がかった焦茶色だった…それは恐ろしい光景であり、今でも思い出すのが辛い…
 カメネツ・ポドリスキーでは、街外れにドイツ軍が遺棄した大量の車両が残っている、との偵察情報がもたらされた。私も見に行ったのだが、そこにあった車の数といったら凄まじいものだった!おそらく3000を下ることはなかっただろう。どうやら、プロスクロフ方面の敵軍がこの街に兵站部を置いていたらしい。車はソーセージやハム、缶詰め、チョコレート、チーズで一杯だった。フランスのコニャックやイタリアのワインなど、酒も大量に入手している。とりわけアマレットは素晴らしいものだった。あの酒の味わいは、戦争の全期間を通じ最も楽しい記憶の1つとして残っている。
 食糧以外に、私たちはドイツ軍が置き捨てていった稼動状態の戦車を何両か手に入れたが、それを使用することはなかった。危険だったからだ。ロシア人というのは、これは半ばアジア人も同様の民族である。のみならず、ロシア人の中にはカザフ人やタジク人、ウズベク人、タタール人、モルドヴィア人も混ざっていた。もしもドイツの戦車に乗り込んだりしたら、たちどころに味方の砲という砲から撃ちまくられて、全くの犬死にをする羽目になる。少なくとも私は、ドイツの車両からはできるだけ距離をとることにしていた。
 カメネツ・ポドリスキーの街は、ドイツ軍の前線から見るとはるか後方、およそ100キロから150キロの地点に位置していた。プロスクロフ地区に展開していたドイツ軍の集団は、ドニエストル方面への突破口を開こうとしており、私たちの旅団に占領されたカメネツ・ポドリスキーはまさにそのルート上に位置していたのである。そして、3月29日か30日のことだが、ドイツ軍は予想を超える激しい攻撃を加えてきた。この日、私たちはカメネツ・ポドリスキー郊外にあるドルジョク村への進出を命じられていた。村外れの家に近づいたところで、私は40両ほどの戦車と自走砲からなる敵の部隊がこちらに進んでくるのを見た。そして射撃を行なうことなく後退を命じた。この局面ではチャンスはない。一発撃ったところでそれっきりだ。各車両は後進をかけてスモトリチ川の岸辺近くまで退き、私は茂みの陰に戦車を隠した。向こう側からは戦車の砲塔しか見えなかったはずだ。歩兵隊は戦車の周りで防御態勢に入り、私の左側には僚車のうちの1両が位置していた。そこにドイツの自走砲が接近し、左隣にいた戦車めがけて発砲した。しかし砲弾は装甲に弾かれて町の方へと飛んでいった。私はその自走砲を視認できなかったが、発射炎めがけて砲弾を放った。自走砲は炎上した。助かった!戦車はこの他1両も現れなかったが、敵の歩兵は攻撃を止めようとしない。それぞれ50人か60人からなる部隊が2つ、短機関銃を腰だめに撃ちながら突撃してくる。これに対して、私は戦車から機関銃の射撃を開始した。敵はその場に伏せた。そこで今度は、10発か12発ほど砲弾をお見舞いした。伏せていた兵士のうち、15人から20人は飛び起きて逃げていったが、残りはその場にとどまっていた。動かないでいる分には連中の勝手だ。それで辺りは静かになった。私は、自分の戦車の上にいた歩兵7人からなる分隊に指図し、戦車の周りに壕を掘らせた。夜の間にドイツ兵が接近し、対戦車手榴弾を投げつけてくるのを恐れたからである。しかし、幸い何事もなく夜をすごすことができた。それ以上ドイツ軍からの攻撃はなく、彼らは私たちを迂回して行ってしまったらしい。その後しばらくして、私たちは再び休息を与えられ、補充を受けることになった。

 戦車と歩兵が戦場でどのような関係にあるか、ということについても説明しておく必要があるだろう。歩兵は戦車の上に乗って移動する。彼らとは小隊長を通じて連絡を取り合っていた。向こうも小隊長、私も小隊長。しかしリーダーは私だ!あくまでも戦車が歩兵を運ぶのであって、その逆ではないからだ。私は歩兵の小隊長に指示を出す。
「あそことあそこに見張りを出しといてくれ。敵さんがこっそり近づいてパンツァーファウストをぶち込まんようにな。さもなきゃ戦車は燃えてそれっきり、俺もあんたもおしまいだ」
 歩兵たちは戦車を守ってくれた。戦車がいなければ大変な目にあう、ということを知っていたからだ。一方、戦車が射撃を行なったり敵陣を突破する際には、歩兵は地面に飛び下りた。もっとも、何人かが戦車の上に残り、砲塔の陰に隠れて生き残るということもあった。すでに述べている通り、戦車は攻撃の時にはスピードを上げる。敵に狙いを定めさせないよう、野ウサギのごとく戦場を駆け巡るわけだ。そんな中で、味方の歩兵をキャタピラにかけてしまうようなことがあったら一大事、目も当てられないことになる!もちろん、戦車部隊は歩兵とは離れて戦っていた。歩兵が戦車の後に続いて進撃するなどというのは、あれは映画の中だけの世界で、現実にはあり得ないことだった。さもなければ戦場で生き残れるものではない。

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(05.12.06)


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