ブルツェフ、アレクサンドル・セルゲーエヴィチ
私は、1925年9月15日にヴォルゴグラード州のウリュピンスク市に生まれた。1941年6月22日の開戦の日、私は友人たちと一緒に釣りに行こうとしていた。その時、友人の1人が「おい、12時にモロトフが演説するんだってさ」と言った。
「何があったんだ?」
「宣戦布告だよ」
1941年から42年にかけて、私は9年生として学校に通っていた。42年の夏、ドイツ軍がスターリングラード近くまで攻めてきた時、私よりも年上の同級生たちは志願して前線に行き、そして1人も帰ってくることはなかった。一方、私を含む年少の生徒たちは、ウリュピンスク市の掃討大隊に編入された。掃討大隊の任務は、スパイや破壊分子を捕らえ、軍の施設を警備し、灯火管制が行なわれているかどうか見張ることだとされていた。当時は男の数が足りず、それで町の当局はコムソモールに助けを求めたのである。私たちは銃と弾薬をもらい、町中をパトロールし、党の地区委員会や市ソヴィエトで守衛の役割りを果たした他、バター工場や、戦時中には迫撃砲を生産していたレーニン記念工場の警備を手伝った。もっとも破壊分子なんてものには一度もお目にかからず、実際には盗賊やこそ泥を捕まえることが仕事だったのだが。
同じ年の秋、私は農業技術学校に入学した。11月に入り、スターリングラードの周りで反攻作戦が準備されていた時、たくさんの部隊が町にやってきた。私たちのお隣さんの家には戦車兵たちが泊まっていた。私は彼らのところに通い、「34」に惚れ込んでしまった。兵士たちは私に戦車を見せ、その特徴などいろんなことを話してくれた。言ってみれば、軍機を漏らしていたわけだ。彼らの指揮官はセルゲイ・アントノヴィチ・オトロシシェンコ中尉(訳注:後にブルツェフの指揮官となったブリュホフの回想によれば「オトロシシェンコフ」である。どちらが正しいのかは分からない)だった。これは44年になってからの話だが、第3ウクライナ戦線で戦っていた時、スボトニツァという町で、私は偶然にもオトロシシェンコ(すでに少佐になっていた)の指揮する大隊に配属されている。私は技術学校で1年半をすごし、そして1943年の夏、17歳で軍に召集された。実際のところ、最初私たちは兵士に採ってもらえなかったのだが、徴兵司令官に頼み込んで、何とかサラトフ第1戦車学校へ入ることに成功した。
すでに農業技術学校にいた頃、私は射撃と銃の取扱いを教えられていたし、トラクターの構造をもよく知っていた。だから、戦車学校での勉強は軽くこなすことができた。それで2ヵ月後、宣誓を行なって正式に軍人となると、私はすぐ伍長に任じられ、まずは分隊長、その後は小隊長代理を務めた。学校の生徒たちは軍靴にゲートルという格好だったが、私たち「幹部」には、使い古しもいいところの厚布製ブーツが配給された。しかし、長靴を磨くクリームなどがあるわけではない。そこで私たちは砂糖を水で溶き、どろどろにした液体でもって長靴を磨いたものだ。そんなやり方でも、長靴はまるでクロム皮のようにピカピカになった。
食堂では、1つのテーブルに8人が座った。朝食と昼食、それに夕食の毎回、食事が入った器と白パンまたは黒パンが配られ、朝食の時には別にバター20グラムがついた。また、昼食では必ずスープとメイン、それにコンポートまでが出されている。例えば煮た肉が入った麺など、家ではお目にかかったことがないようなごちそうだ。私たちに与えられた食事はこのようなもので、配給の量は申し分なかった。おかげでみんなよく太ったが、それでも常に腹をすかせていた。日課が厳しかったからだ。起床は毎朝6時、どんな天候であろうとも、まずはシャツと乗馬ズボンに長靴といういでたちで駆け足、体操をしなくてはならない。その後8時間の訓練があり、それから自主訓練、いくらかは自由時間ももらい、23時が消灯だった。食事の時間になると、中隊長は隅の方にいて、隊員の動きに目を光らせている。私たちが食堂に入ってくるや否や「中隊、回れ右!」の号令だ。
「行進がなっとらん、歌もダメだ」
そして、私たちは食堂までの行進をもう一度やり直す羽目になる。それでも何とか食事にありつき、食堂を出る頃にはみんなリラックスしてしまっている。すると、玄関のところに隊長が立っている。
「罰直、15分間の整列準備!」
こんな具合に、私たちは規律を叩き込まれた。
戦車学校で、私たちは18ヵ月という長い期間をすごしている。最初のおよそ1年はマティルダとヴァレンタインで、その後はT-34で訓練を受けた。
私たちが受けた教育のレベルは高かった。教室では理論を教わり、また演習場では実地の訓練が数週間も続いた。操縦、射撃、それに単独もしくは部隊での戦術教習などである。さらに、戦場では跨乗歩兵との連繋も求められることから、戦車だけでなく歩兵のことも学ぶ必要があった。私たちの教育大隊を指導したブルラチェンコ隊長は騎兵出身の古つわもので、革命後の内戦や対フィンランド戦、そしてドイツとの戦いをも経験している。一方、中隊長のドラヴェンレツキーは実戦経験を持っていなかった。卒業が近くなる頃には、私は操縦も射撃も上手くこなせるようになっていた。
操縦の訓練と戦術教習にはT-26とBT-7が使われたが、射撃訓練の方は実戦用の戦車から行なった。私たちの場合、まずはマティルダとヴァレンタイン、その後はT-34で射撃の訓練を続けた。正直なところ、私たちはみんな外国の戦車に回されることを恐れていた。マティルダもヴァレンタインもシャーマンも、あれはみんな棺桶だ。実際のところ、これらの戦車の装甲は柔軟で、砲弾が命中した時に装甲の破片が飛び散らないというような利点もあったのだが(訳注:T-34の場合、命中弾が貫通しなくても衝撃で装甲が剥がれ、その破片で乗員が死傷するケースがあった)、一方で操縦手の席が孤立していたのは問題だった。もしも砲塔が旋回している時に戦車がやられてしまうと、操縦手はもう脱出できなかった。やはり我が国の戦車が一番だ。T-34は本当にいい戦車だった。
私たちは1944年の8月に卒業し、少尉としてニージニー・タギルの工場に送られると、行軍中隊を編成することになった。そこでは戦術教練や射撃・操縦の訓練におよそ1ヵ月を費やした。クルーの割り当てが決まり、引率されて工場に出かけ、戦車の車体を見せてもらった。
「これが君たちの戦車だよ」
私たちは工員と一緒に物を運んだり、できる限りの手伝いをした。戦車の組み立ての工程では腕のいい技術者が働いていた。また、戦車を移動させる役目を果たしていたのは、わずか13歳か14歳の少年たちだった。巨大な作業場の中で、右でも左でも戦車の組み立てが進んでいく様は、めったに見られるような光景ではない。そして中央の通路を、少年たちに操られた戦車が、時速30キロくらいのスピードで走っていく。外からは操縦手の姿が見えないくらいだ。戦車の横幅はおよそ3メートル、これに対して工場の出口の幅は3メートル20センチ。しかし戦車はスピードを落さずに出口を通過し、プラットホームまで移動すると、所定の位置にピタリと停まってみせた。全くもって見事なものだった!こうして私たちは自分の戦車を組み立て、装備を整えると、50キロの行軍と射撃の訓練を行なうために演習場へ向かった。ここで、私と同じ戦車に乗り組むクルーのことを書いておく必要があるだろう。まず機関手兼操縦手だが、これは10年の刑を宣告されたことのある前科持ちで、短期間の訓練しか受けておらず、戦車の操縦技術はほとんど身につけていなかった。照準手は、もともとはサラトフの水上レストラン経営者で、年をとっており、砲塔にもぐり込むのもやっとというくらい体がでかかった。装填手は1917年生まれ、軽い知的障害があった。5人目は欠員。これが全てのクルーで、1人として実戦の経験がなかった。
私たちは行軍の訓練を行ない、今度は射撃のため演習場に入った。「前進!」の命令で、戦車は射撃地点へ向かっていく。
「榴弾、装填!」
私の指示を受け、装填手は砲弾を手に取り、装填する。躍進射。照準手は弾を撃つ…あさっての方角へ。私は照準手に叫ぶ。
「的はそんなにでかくないんだぞ!」
そして装填手には
「装填!」
見ると、装填手がいない。発射時の反動に驚いて、操縦手の方に逃げてしまったのだ。私は彼の襟首をつかみ、引っ張り上げる。
「さあ、弾を込めるんだ」
こんなわけで、私たちの射撃はひどいものだった。
演習から戻ると、私たちは輸送用の列車に乗り込み、モスクワからウクライナ、モルドヴァを経由してルーマニアへ向かった。プラットホームで汽車待ち中、10メートル四方くらいの巨大な防水カバーが配給された。私は見張り番として装填手を戦車に残した。
「いいか、防水カバーがかっぱらわれないように見てるんだぞ」
朝、起きだしてみると防水カバーはなくなっていた。それで、みんなに聞いて回る。
「防水カバーはどこだ?他のものはともかく、前線に行くのにあれだけは必要なんだよ」
結局、どこで見つかったのかは分からないが、私たちは防水カバーを返してもらうことができた。
この道中で装填手は赤痢にかかり、病院に送られた。ルーマニアに着いてからは照準手が指を腫らし、やはり入院している。おかげで、1944年秋に第170戦車旅団の一員となった時、私は操縦手と2人っきりになっていた。おまけに、彼はブレーキのゆるみを修理しなかったので、危うくそれを焼き切ってしまうところだった。
部隊に到着した時、中隊長ヴァシーリー・パヴロヴィチ・ブリュホフは全ての戦車長と小隊長を集めてこう言った。
「隊の予備員として、前線に行くことを希望している腕のいい戦車兵が3人いる。もしも今のクルーに不満があれば、交代も可能である」
そこで私は操縦手を代えてもらい、新たに照準手と装填手も配属された。
このヴァシーリー・パヴロヴィチだが、彼は「親父さん」と呼ばれるタイプの指揮官の1人で、才能ある勇敢な人物だった。いつも部隊の先頭に立ち、斥候を出す時も、必ずその中にブリュホフの姿が見られたものだ。巧みな機動によって目的を達成し、出会いがしらの戦闘に巻き込まれるようなミスはしなかった。彼が20歳にして大隊長に任じられたのも不思議ではない。さらに、ブリュホフはいつでも若手を大切にしており、すでに戦闘の経験がある者を先に立て、未熟な者は2列目もしくは3列目を進ませた。彼ら、経験豊かな戦車兵は、実戦への準備を整える上で私たちを本当によく助けてくれた。ベテランたちからは、戦車の戦いにおける知恵、そしてずる賢さを学んだ。例えば、命中弾を喰らわないようにするための機動などである。両開き式の車長用ハッチからバネを外しておくよう忠告してくれたのも彼らだった。ただでさえハッチを開けるのには力が要るのに、負傷してしまったら脱出などできない相談だからだ。また、脱出時に備えて普段からハッチを開けておく方が賢明であることを教わった。砲は新たに試射を行ない、照準をつけ直した。こうして、戦場に向かう準備は全て整った。いよいよ、私にとって最初の攻撃作戦が始まった。戦車長たちは集まって指示を受ける。
「茂みが見えるか?敵はあそこに潜んでいる。あの茂みの後方に出て、十分な機動を行ない得る空間を確保せよ」
私たちは戦車に乗り込む。命令一下、前進だ!進む、撃つ、右でも左でも戦車が燃えている。乗組員が脱出できたかどうかは分からない。照準手は射撃を行ない、私は彼に指示を出す。
「右30、大砲。左20、機関銃。榴弾用意!」
脳裏を占めているのはただ1つ、できるだけ敵に接近して、射撃のチャンスを与えずに撃破しなければならないという思いだけである。敵から撃たれると、そこに向かって次から次へと弾をぶち込んでいった。そのままドイツ軍の陣地に突入。見ると、大砲はひっくり返り、死体が散乱し、装甲車両が燃え上がっている。私たちは敵陣を占領し、その後方に進み、広い空間へと躍り出た。前方1キロの地点、ドイツ兵が砲を引っ張って逃げていくのが見える。そのうちいくつかの砲はすでに破壊されていた。私たちは停止してこれに砲火を浴びせると、ドイツ兵は砲を棄てて逃げ出した。更に前進だ!ところが、私が戦場の光景に気をとられている間に、戦車は溝に突っ込み、砲身に砂が入ってしまった。そこで、ブラシを取り出して砲身を掃除し、行軍を再開して1キロほど先行していた中隊に追いついた。私にとって初めての戦闘はこのようなものだった。それからも戦いは続いた…
とりわけ厳しかったのは、セーケシュ・フェヘールヴァール地区での戦闘であった。この時、私は初めて戦車をしとめている。それは午後の戦いのことで、私たちは攻撃を続けていたのだが、右およそ600から700メートルの距離にある小さな森から、こちらに右の側面をさらしたまま敵の戦車が現われた。後に明らかになったところによると、ドイツ軍はすでに防御用の陣地を構築しており、この戦車は陣地の1つに移って防御戦闘を行なおうとするところだった。私は装填手に「徹甲弾」、そして照準手には「茂みの右、戦車」と指示を出した。彼が放った砲弾は、まるで吸い込まれるように敵戦車の側面に命中し、炎上させた。
それから12月のある日、ドイツ軍の一部隊を包囲している時のこと、私たちは夜間行軍の後で休息をとった。戦車にわずかなカムフラージュを施すと、そのまま睡眠に入った。そして朝、目を覚ましてみると、干し草の山で偽装したティーガー部隊が300メートルほど離れた高地上に陣取っている!私たちは急いでその場から退散し、エンジンを始動させると茂みの中に潜り込んだ。そして、茂みづたいにティーガーの側面へ出、射撃を開始した。何両かの戦車は炎上した。一方、友軍の戦車3両は茂みの左斜面に出たところで、私たちの位置からは見えない右方のどこかにいた戦車から攻撃を受け、たちどころに撃破されている。その後、我々の近くにいた部隊が前進したらしく、ドイツ軍は撤退し、私たちもようやく行軍を再開することができた。私たちは、夜を日に継いで進撃した。1944年12月25日から26日にかけての夜には、ドナウ河畔のエステルゴムを占拠している。その時、西の方から接近してくる20両あまりの車両の列が見えた。そこで私たちは分散し、道を遮断する形で戦車を配置した。先頭の車が戦車に突き当たった時、運転手に向かって「ヘンデ・ホーフ!」(訳注:ドイツ語「手をあげろ!」のロシア的発音。ソ連兵には広く知られた言葉であるらしく、他の戦車兵の回想にもよく現れる)と叫んだ。彼は車から飛び出して一斉射撃を浴び、他の者も撃たれるか、あるいは捕虜となった。車の中からはソーセージやチーズなどが見つかり、私たちはそれらの食糧品を積み込んでいる。そして、街の西の外れで夜を明かし、朝になると隊列を組み直して前進を続けた。3両の戦車からなる偵察部隊が小隊の先頭を進み、私はその後方に位置していた。しかし、街を出るやいなや、先頭の偵察部隊は道の近くにある茂みから砲火を浴び、3両ともやられてしまった。私たちは、これ以上の戦いに巻き込まれないよう街へ取って返し、野原づたいに茂みを迂回しながら進むと、鉄道の駅に行き当たった。ここでは軽戦車を積み込んだ貨物列車を鹵獲したものの、後から進んできた戦利品専門の部隊のために残して、さらに先へ進んだ。そして私たちは山を越えてカマル市へと向かったが、44年の12月30日、私はカマル前面の戦いで負傷した。待ち伏せていたドイツの戦車にやられたのである。砲塔に命中弾を喰らい、私はその衝撃で脳震とうを起こし、左腕を骨折した上、飛び散った装甲の破片によって傷つけられた。2発目はトランスミッションの部分に命中した。戦車は炎上したが、クルーは全員脱出に成功している。
私は1945年2月半ば頃まで病院で寝てすごし、退院すると、今度は別の大隊で小隊長を務めることになった。この部隊は、ケレツ湖とバラトンの間に敷かれた2番目の防衛ラインに含まれていた。戦車を壕の中に隠し、さらに車体の下にも穴を掘って乗員が休息できる場所を作り、戦車全体を防水カバーで覆った。戦車の中にクルーの1人を当直に残し、その他の者は穴の中で休みをとるというわけだ。前線までの距離は3キロ程度だった。朝食は夜中の12時に、また夕食と昼食、それに規定の100グラム(訳注:前線で配給されるウォッカのことであろう)は朝4時に、それぞれ運ばれてきた。ある時、穴の中で夕食をとっていると、友軍の「ヴァニューシャ」に誤射されたことがある。戦車には命中しなかったが、それはもう恐ろしかったものだ。
友軍の右翼で、SU-100自走砲の部隊が行軍していった時のことを憶えている。自走砲部隊は1キロほど先に進み、村の外れの辺りで停止した。しかし日が昇るや否やその1両がたいまつのように燃え上がり、続いて2両目、3両目、4、5、6と、全ての自走砲がドイツ軍によって破壊されてしまったのである。
その後しばらくして、私たちは再び攻勢に移った。味方の空軍は最前線で活動し、敵をきれいさっぱり片付けてくれた。私たちは、イリューシンが空中で炎上し、爆発する光景も目にした。しかし攻勢に入ると、彼らが残してくれた素晴らしい戦果を目にすることができた。破壊され、砲塔の傾いたティーガーを眺めるのは心地よかった。
私たちは、シェフロン市を目指して攻撃を続けた。3月の14日か15日、私は自走砲を撃破している。この自走砲は、防御陣地に籠ったまま私の左右を射撃していたが、私の戦車が後方に回ったのに気づかなかった。そして私は、獲物の自走砲が体勢を変えるために陣地から出ようとした時、至近距離から硬芯徹甲弾を撃ち込んだ。自走砲は一瞬にして燃え上がった!
その後すぐに、私の戦車は37ミリ砲を蹂躙した。うまい具合に敵の後方から近づき、踏みつぶすことができたのである。この戦果により、私は赤旗勲章の候補者となったが、実際に受け取ったのは祖国戦争1等勲章だった。その後には赤星勲章を与えられた。私はすでに戦い慣れてきたのだった…戦争中、私は戦車と自走砲を1両ずつ破壊しており、また豆戦車や装甲輸送車をどれだけしとめたかは憶えていない。歩兵はおそらく200人から300人は倒していると思う。帰郷した時、戦功により1万ルーブリの賞金をもらえることになっていた。それで、父親に言った。
「金を受け取りに行こうぜ」
私はこの金を父に渡して先に帰ったが、父の方は夜中になるまで戻ってこなかった。ようやく帰ってきた父は、金は無事に持っていたものの、正体がないほど酔っ払っていた。1945年3月30日。この日、私たちは村を占領し、それと同時に1つの輸送部隊を丸ごと捕虜にした。捕虜の他に自動車や装甲輸送車、大砲などが手に入ったが、戦車だけはなかった。私たちはここで停止し、弾薬と燃料を補給した。敵は3キロほど後退しており、進撃を続ける用意は全て整っていた。大隊長から「前哨に立て」との命令を受けたので、先頭に1両の戦車を進ませ、私の戦車はそのすぐ後に続いた。戦車がまだ村の中を走っている間、私は操縦手の右側、つまり機関銃が据え付けられている円筒形の部分に腰掛けていた。照準手と無線手は砲塔上に座って、開いたハッチの中に足を垂らしており、車体の後方には10人ほどの跨乗歩兵が乗っていた。私の戦車は先頭車両に続いて進んだが、道路がぬかるんでいたため、先を行く戦車は深いわだちを残していた。私の戦車の操縦手は、先頭車両のわだちにはまり込むまいと、キャタピラ半分の幅だけ左に寄せた。そのまま戦車は数メートル進み、そしていきなり爆発した!対戦車地雷にやられたのだ。砲塔は照準手と無線手ごと20メートルも吹き飛ばされた(後から自分の目で確認した)。2人とも生きてはいたが、脚は使い物にならなくなっていた。私は爆発の衝撃波で屋根の上へ飛ばされ、そこから中庭に転げ落ちた。ただ、落ち方がよかったおかげで骨折はせずにすんだ。扉を開き、外へ飛び出して通りを見ると、戦車は燃え盛り、弾薬が誘爆を繰り返していた。そして、戦車の前方4メートルほどのところに、大隊付きの党組織指導者が倒れている。彼は燃料を浴び、体中に火がついていた。私は彼の体に覆いかぶさって火を消すと、扉の陰に引きずり込んだ(訳注:T-34の弾薬は誘爆を起こしやすく、戦車が炎上した場合にはすぐに遠ざからないと危険であった。破壊された戦車からうまく脱出しても、敵の機銃掃射などによりその場から動けず、結果的に戦車の爆発に巻き込まれて死傷する兵士も多かったという)。クルーのうち、戦車の中にいた操縦手と装填手は死亡。跨乗歩兵もほとんど全員が命を失った。私はといえば鼓膜が破れただけですみ、軽いケガでこの災厄を乗り越えた唯一の人間となった。
その後1週間は大隊の予備に回されたが、少し回復してくると、大隊長は私に大隊本部長の役を果たすよう命じた。すでに、本部長もその副官も負傷していたからである。ある時、私たちは村を占領するための戦闘を行なったことがある。この村は、2つの丘に挟まれた窪地という、非常に攻め辛い場所にあった。ドイツ軍が両側の斜面に立て籠っていたからだ。まずは5両の戦車を送り出し、道路沿いに村の東側へと接近させた。しかし家のある場所まで近づいただけで、バン、バン、バンと5両が立続けに燃え上がってしまった。続いてもう3両を送り出したが、結果は同じことである。だが、私たちは何としてもこの村を突破し、先に進まなくてはならなかった。そこで、戦車はそれ以上は送らず、丘を迂回して何とか道を見つけ、敵の後方からこの村に突入した。片方の丘からドイツ軍を叩き出し、ここに陣地を設けたが、敵はもう片方の斜面から射撃を続けていた。大隊長の戦車は家の陰で停止しており、私はその隣の家にいて、大隊付きの無線手と何か話をしていた。その時、いきなり窓から砲弾が飛び込んできて、無線手の頭蓋骨を叩き割ってしまったのだ。彼は脳みそを露出させたまま、何が起きたか分からないというように目をぱちくりさせていた。もちろん、私はそれまでにも死と直面してきたのだが、この時ばかりは恐怖にとらわれた。そして無線機を放り捨てると、玄関から飛び出し、大隊長のもとへ走った。向こうの家までは、多分30メートルくらいはあったと思うが、ドイツ軍はこの空間を機関銃で掃射していた。10メートルほど走ると、敵は私の前に一連射を見舞った。私は立ち止まり、敵が射撃を止めるとまた走り出した。次の一連射は、すでに私が通り過ぎた後に浴びせられている。そうやって大隊長のところへ駆け込むと、一部始終を話した。その後、私たちは何とかして脱出に成功した。
戦争中もっとも恐ろしかった体験と言えば、こんな話がある…私の戦車が中隊長車を務めていた時、ドイツの戦車との間にダラダラと撃ち合いが続いたことがあった。私たちの前方では、塹壕の中に歩兵が陣取っていた。中隊長は戦車長の席に座り、私には戦車の外で少し横になることを許してくれた。そのとき突然、泥酔した歩兵大尉がピストルを手に持ったまま塹壕から這い出し、壕に沿って歩き出した。そして彼は、機関銃の射撃音を聞きつけると、「貴様らみんな撃ち殺してやる!」とわめき、戦車の方に近づいてきた。私は戦車の隣で眠っていたのだが、突然誰かに足蹴にされて目が覚めた。
「こん畜生、今から貴様を撃ち殺してやるぞ!」
「あんた、いったい何なんです?!」
「貴様、何でこんなところで寝てやがる。戦いに行くんだ!」
私は凍り付いたようになってしまった。彼が引き金を引いたら、それでもう一巻の終わりだ!しかし幸運にも、私の戦車の照準手、非常に頑健な男だったが、この照準手が大尉のわめき声を聞きつけ、砲塔からそのまま飛びかかってくれた。ピストルを取り上げ、その横っ面を張りのめしたところは気持ちがいいくらいだった!それで大尉は少し正気に戻ったのか、立ち上がって向きを変え、静かに自分の塹壕へと去っていった。この体験は、本当の意味で恐ろしいものだった。もしも照準手がいなかったら、全くの無駄死にをしていたかもしれないのだ。
1945年5月、私たちは残っていた戦車を他の大隊に引き渡した。旅団は8日まで戦っていたのだが、私たちは予備に回されたのである。7日には大隊長が隊を離れた。私は少尉にすぎなかったが、しかし大隊の本部長を仰せつかっていたので、次のような指示を受けた。
「祝賀会の準備を進めておけ。戦争は終わりだそうだ」
私たちは、地主の屋敷に陣取っていた。家畜からワインまで、何でもそろっていたからだ。そして8日の夜12時、大隊長が戻ってきた。
「みんな、戦争は終わりだ」
そこで始まったことといったら筆舌に尽くし難い。機関銃から拳銃から照明弾発射ピストルから、とにかくあらゆる祝砲を撃ちまくった。その後は全員で祝宴だ。みんな、喜びのあまり飲みに飲んだ。1日、2日、3日と飲み続けた。さすがに指揮官たちは、そろそろ引き締めなければと感じるようになった。それで、武器の手入れを始めさせたのである。(05.11.17)
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