キリチェンコ、ピョートル・イリイチ


 私は、タガンローグで知識人の家庭に生まれた。父は鉱山技師だったが、ペテルブルクの鉱山大学を卒業した。母はドイツ語の教師だった。私たちは36年にモスクワへ移り住んだ。戦争が始まるまでに、私はモスクワのドイツ語学校を卒業した。学校では全ての教科がドイツ語で教えられていて、私のドイツ語力は悪くなかったし、後に前線でもこの知識が役立ったものである。
 私は軍人を目指していたわけではなく、ましてや戦車兵になるつもりなどなかったのだが、戦争が始まって、他の多くの人々と同じく軍に召集されることになった。まず私が送られたのは、爆撃機の機銃手や爆撃手を養成するチェリャビンスク航空学校で、ここではSB爆撃機の乗員を育てていた。しかし、この機種はすでに生産ラインから外れており、学校自体も数カ月後に廃止となったので、生徒たちは他の様々な教育機関へ送られた。そして私には、ニージニー・タギルの戦車教育連隊があたったわけだ。
 私が配属された大隊は、T-34の機関銃手兼無線手を養成していた。正直なところ、私はそれまでいた航空学校で複雑な無線機の取り扱いを教えられ、訓練用の機器を使い、混乱したテキストから1分間に120文字を読み取るという試験にも合格していたから、戦車用の単純な無線機はたやすく習得できた。またDT型機関銃の構造も、航空機搭載用の機関銃とは比べ物にならないほど簡単だった。そういうわけで、私たちは1か月後すでに上級軍曹となり、ニージニー・タギルの戦車工場で編成された行軍編成の中隊へ配属された。ここで軍学校の卒業生たちは、それぞれの戦車に割り振られていった。
 戦車のクルーは4人からなっていた。機関手兼操縦手のクッズス・ヌルジノフは25歳ほどのタタール人で、私たちの中では唯一、戦前から軍人としての勤務を始めていた。砲塔手(訳注:装填手のこと)のアナトーリー・フョードロヴィチ・チュトリノフも、私と同じように18歳の若者だった。戦車長はウクライナ人のガヴリルコで、22歳か23歳だったが、その頃の私には大ベテランのように思われたものだ。そして42年の春、私たちは前線へと送られることになった。
 クルーの中での私の役割りはというと、無線機を取り扱うことだった。戦車が動いている時、通信が可能な距離は6キロほどである。従って、戦車同士の交信の質はいいものではなく、さらに起伏のある地形や森のせいで電波の状態はますます悪くなった。その代わり、戦車の無線機はモスクワや外国のニュースを拾うことができた。これがまた厄介ごとのもとで、ちょっとでも休息の時間があると、いつでも政治部員や「特務」の連中を含む指揮官たちが、ソヴィエト情報局のニュースを聞くため戦車に集まってきた。戦車の無線機は、エンジンに付属した発電機か、もしくはエンジンが停止している時に使う蓄電池から電気をもらって動いている。もちろん、エンジンが動いていては音がよく聞こえないので、指揮官たちは蓄電池を使ってニュースを聞く方を好み、放送が終わるまで電池を返してくれなかった。それで、無線機の責任者である私は、仲間たちに対していつも肩身が狭かったものだ。お偉いさんたちが電池を空にしてしまうので、私は自分で電池をかつぎ、充電しに行かなくてはならなかった。
 正直なところ私は、T-34に無線手は必要なかったと思っている。無線機の構造は単純きわまりないもので、普通は1つか2つの波長しか使っていなかったから、クルーの誰でも取り扱うことができた。従って無線手は、専門の通信手としては無用の長物だった。さらに無線手は、機関銃手としても役に立ってはいなかった。銃身の上にある穴からの視界は限られているし、射撃可能な範囲も大して広くはない。時には、走っていく者を見て銃をそちらに向けても撃てないことがあった。そもそも戦車が動いている時には、地面と空とがちらちらする以外には何一つ見えたものじゃない。そして、私は通信と機関銃の他は何も知らなかったので、クルーの中では補助的な仕事に使われるのが常だった。みんなと一緒に砲身を掃除し、キャタピラを引っ張り、砲弾を補充し、戦車に給油する、といった具合である。つまり、肉体労働者として必要とされていたわけだ。ふつう、私たちのところに到着した砲弾は、箱に入ったまま地面に投げ出された。砲弾を戦車に積み込むためにはグリースで拭く必要があったが、これが私の役目だった。その後で、弾は徹甲弾と榴弾とに分けて砲塔内に収容された。
 冬には、温めた水を運ぶという仕事があった。不凍剤がなかったので、夜には冷却装置から水を抜き、朝になってから焚き火で氷を溶かし、再び注入しなくてはならなかった。また、戦車はいつでもきれいにする必要があり、とりわけ冬は大変だった。車体もフェンダーも全てが泥まみれで、そのままにしておくと凍り付き、戦車が故障する恐れがあったからだ。それから、車内でもしょっちゅう油や燃料などが漏れていた。おかげで床の上が池のようになってしまい、常にこの掃除に追われていた。
 ただ、強調しておきたいのだが、クルーの中で上級者によるいじめのようなものはなかった。それどころか、操縦手は私たちより年上で、戦車長よりも古かったくらいだから、私たちにとっては「親父さん」も同様であり、クルーの中では絶対的な権威を持っていた。彼はすでに勤務が長く、軍隊生活の裏も表も知り抜いていたのである。そして、私たちの面倒をよく見てくれた。新入り扱いして追い回したり、仕事を押しつけるようなことはなく、逆にいつも私たちを助けようとしていた。戦車長も、彼の助言には耳を傾けた。もちろん、軍隊内の序列は序列として存在している。あくまでもトップは戦車長であり、彼は情報を手に入れ、命令を受領し、そして状況を把握していた。機関手兼操縦手は、戦車の中ではナンバーツーの存在であって、私と装填手は彼の言うことを聞き、助手を務めた。例えば行軍の時、私は操縦手の横に座っていた関係から、ギアチェンジを手伝うことになっていた。T-34-76には4段のギアボックスがあったのだが、この切り換えには馬鹿力が必要だった。操縦手がギアを必要な場所に動かそうとする時、私は彼の手をつかみ、一緒にギアを引っ張った。そうすると、しばらく振動を感じた後にギアが切り換わる、という具合である。戦車部隊の行軍の間は、ずっとこんな作業を続けなくてはならない。それで、長時間の行軍になると操縦手は疲れてへとへとになり、2キロか3キロは痩せるのが常だった。それからまた、操縦手の両手はふさがっているので、私は彼の代わりに紙を取り出し、自家製タバコやマホルカ(訳注:ロシアの安タバコ)を包んで火をつけ、操縦手の口にくわえさせた。これもまた私の任務だった。
 緊急の事態が生じると、私は操縦手の代役を務めることができた。T-34の構造は単純で、操縦や射撃を学ぶのは簡単だった。学校ではそんなことは教えられなかったが、クルーが編成された時、操縦手が私を訓練したのである。つまり、私たちはお互いに役割りを交代することができた。ただし、これは現場での必要性から身につけたものであって、規則で定められていたわけではなかった。
 私たちはニージニー・タギルからモスクワへ移動し、そこで第116戦車旅団が正式に編成された。1942年夏、旅団はヴォロネジ付近へ進出した。私たちは空襲下のオトロシカ駅で貨車から降り、その後、カストルナヤ地区に移動して、敵軍の戦車と歩兵を食い止めるための防御戦闘に入るよう命じられた。しかしながら、まず最初に現れたのは敵の航空部隊で、数日にわたる空襲により旅団をほぼ壊滅させてしまった。損害の大きさは目を覆わんばかりである。敵の飛行機は全く我が物顔に振る舞い、編隊は正確な輪の形を描いて、まず1番機が急降下すると、2番機、3番機がこれに続くという具合だった。爆弾を投下し終えると、彼らは落ち着いて飛び去っていった。こうして、敵の歩兵と戦車が襲撃してきた時には、旅団に残された戦車はごくわずかとなっていた。もちろん部隊は防御を試みたが、私の戦車は最初の戦いで撃破されてしまった。
 戦闘が始まる前、戦車長は自らの死を予感していたのだろう。彼は操縦手と抱擁し合い、私たち若いクルーにも口づけし、頭を撫でてくれた。戦車長の顔はすぐに蒼白となり、そして張り詰めたような表情が浮かんだ。まるで自分を見失っているかのように感じられた…
 戦車は砲塔側面に命中弾を受けた。何かが焼けこげる臭いと煙が車内に充満した。戦車長は片手をもぎ取られ、脇腹をえぐられた。彼は致命傷を受けながら、「ああ!ああ!」と大声で叫んだ。本当に恐ろしかった…包帯で傷口に手当てをしようとしたが、それも無駄だった。戦車長はすでに瀕死の状態で、大量の血を失っており、体全体が黒ずみ始め、水を飲ませてくれるよう頼んだ。そして、彼はそのまま戦車の中で息を引き取った。私たちは戦車長を失い、近くにも士官はいなかった。戦車は、砲は壊れていたが動くことはできた。一方、私たちの隣にいた戦車は、擱座したものの砲は生き残っており、中の乗員は射撃を続けている。私も機関銃を構え、接近してきたドイツ兵を撃とうと頑張っていた。しかしながら、戦車は麦畑の真ん中に取り残されており、よく実った小麦の穂が視界を塞いでいたので何一つ見えなかった。時おり動くものが見えると、それを狙って撃った。
 辺りは暗くなってきた。付近には誰もおらず、物音から判断する限り、私たちは迂回されたようだ。戦いは後方で続いており、ドイツ軍は右の方へと進んでいた。どうやら、敵はこの地区に直進するのではなく、側面からの包囲にかかっているものらしい。そこで私たちは脱出を決意した。隣にいた戦車を曵綱で引っ張り、味方の陣地を目指した。どこもかしこもドイツ兵で一杯だった。しかし何とかして窪地伝いにカストルナヤまで脱出し、偶然にも旅団の将校の1人と出会うと、彼からヴォロネジ方面へ向かうべしという命令を受けた。この脱出行の時の空腹といったらなかった。カストルナヤに入った時のことを憶えているのだが、すでに住民はおらず、商店も全て置き捨てられていた。私たちはその1軒に駆け込み、箱一杯の卵を手に入れた。ここでみんなが食べた生卵の数は、ちょっと信じられないくらいである。それでも、後で具合が悪くなるようなことはなかった。こうした難行軍の末、7月の11日か12日頃にはヴォロネジに到着した。実際のところ、私たちは戦場から逃れてきたわけで、びくびくしていた。どういう扱いを受けるのだろうか?もしかしたら銃殺か、あるいは他の罰があるかもしれない…などとあれこれ思い惑ったのである。しかし、ともかくも戦車は放棄しなかったのだし、できる限りのことはしたと思う。もちろん、私たちは退却に罪の意識を感じており、勲章をもらえるなどと期待していたわけではない。幸い、この件についてはお咎めなしですみ、生き残ったクルーは壊れた戦車と共にモスクワの修理工場へと送られた。私が次に戦闘を経験したのはルジェフ・スィチョフカ方面の攻勢時、ルジェフ郊外の戦いで、この時には第30軍麾下の第240旅団に所属していた。
 攻勢の準備期間中、冬用の軍服に衣替えということになり、綿入れの上着やフェルトの長靴も支給された。しかし戦車に乗っていると、衣服はすぐに傷んだり汚れたりしてしまうもので、着替えなどは手に入らない。私はいつも、自分がボムジ(訳注:現代ロシアの浮浪者のこと)になってしまったかのように感じていたものだ。もっとも、当時ボムジなどという言葉は存在しなかったのだが。また虱はたくさんおり、とりわけ夏にはひどいものだった。前線に配置されると、わずか数日でいっぺんに虱だらけになってしまう。虱駆除の消毒室や風呂がない時には、ただ我慢するしかなかった。私たちはモスクワにまで虱を持ち帰り、部隊の再編成の時になってようやく奴らとおさらばできた。
 前線での私たちの寝場所について言えば、攻勢準備中にはゼムリャンカ(訳注:半地下式の土小屋)で寝起きし、また作戦が始まると戦車の中で睡眠をとった。私は背が高く痩せぎすだったが、それでも戦車の中で座席についたまま眠ることができた。慣れれば快適とさえ感じたものだ。座席の背もたれを倒し、装甲板からの冷気で足を凍えさせないためにフェルトの長靴をちょっとずり降ろせば、それで充分に眠れてしまう。行軍の後であれば、温まったトランスミッションの上(訳注:T-34の変速装置は車体の最後部に位置し、上面はメッシュ製のカバーで覆われていた。この上であれば、エンジンから発せられる熱で暖かかったのだろう)で防水カバーにくるまり、気持ちよく休むことができた。ちなみに防水カバーというのは、戦車の備品の中でも一番大事なものである。特に冬の間は、これなしではどうにもならない。暖機運転を行なう手段もなく、すきま風が吹き込み、車内はひどく冷え込むのだが、防水カバーで車体を覆いさえすれば、家の中にいるのも同様だった。また、この時期の食糧事情は悪くなかった。いつでも鍋一杯のボルシチや肉入りの粥で腹を満たすことができたし、攻勢の前には酒がついた。

 こうして攻勢が始まった。私たちの旅団は、氷結したヴォルガ川を渡って右岸に取りつき、橋頭堡を築いた。そして、およそ2週間、これを拡大するための戦いを続けた。ある晩のこと、私たちの戦車は、凍りつかないまま雪の下に隠れていた小川にはまり込んでしまった。小川の右の岸は傾斜がきつく、また氷で覆われていたため、どうやっても抜け出せなかったのだ。戦車は後部を水に突っ込んだまま身動きがとれなくなり、そのうち少しずつ車内にも水が入ってくる。幸い戦闘室は水面より高い位置にあり、浸水は免れたのだが、エンジンもトランスミッションも水に浸かってしまった。ドイツ兵たちは何度となく私たちの戦車に対して砲火を開き、乗員を殺して戦車を手に入れるため接近を試みた。私の機関銃からは空中に向かって射撃するしかなかったが、砲と同軸機銃の射撃は有効で、戦車長はドイツ兵を追い払うために撃ち続けていた。こうして私たちの戦車は、敵味方の中間に取り残されてしまった。辺りが暗くなると、戦車長は私を友軍の陣地まで脱出させ、旅団に状況を報告するという任務を与えた。脱出の途中、ドイツ軍の塹壕のすぐそばを通過しなければならなかったのだが、ドイツ語の知識に助けられたのはこの時である。私はドイツ兵の話し声を聞き、彼らが何をしているか、また何をしようとしているか理解できたからだ。このようにして何とか友軍のところまで辿り着くと、私は大隊長に状況を報告した。次の朝、歩兵が攻撃を再開した時、動けなくなっている私たちの戦車を救助するために戦車1個小隊と機械化歩兵部隊が差し向けられた。ドイツ兵は付近から追い払われ、小川にはまり込んでいた戦車は無事に引き上げられた。この戦いで私は「勇敢」メダルを授与され、間もなくチェリャビンスクの戦車技術学校へと派遣されることになった。

 この学校では、KV重戦車の装備や、前線での稼動及び修理について学ぶことになった。また、戦車からの射撃のやり方も教わった。演習場で実際に戦車を動かすのに15時間を与えられた。私たちはここで、発動機やトランスミッション、走行装置について詳しく学んだし、戦車工場でも実習の機会を得ている。学校の教師陣は非常に充実していたと思う。私はこの学校でほぼ1年間をすごし、卒業に際して技術少尉に任じられた。
 44年の春、私は第1戦車軍団の第159旅団に派遣され、技術中隊の一員となった。私の指揮下には、運転手と4人の技術兵からなる移動修理班が配属されている。最初のうち、私たちは緊急に配備されたGAZ-AAトラックのAタイプを使っていた。この車は、クランプつきの作業台や、様々な道具が入った箱、それに起重機などを備えていた。修理作業に必要な予備の部品はというと、後方から送られてくるか、あるいは破壊された戦車から手に入れることもあった。その後、私たちはドイツ軍からの戦利品であるクレクナー・ドイツ型のトラックを入手したが、これはディーゼルエンジンで動き、巨大な木製の車体が特徴だった。しかしこの車の電気系統は非常に複雑なもので、冬には動かなくなってしまった。私はドイツ兵の捕虜の中から技術者を見つけ出し、トラックを修理させようとしたが、彼は両手を左右に広げて「エレクトリク・カプト」と言ったきりだった。つまり、この車については何も知らなかったのである。
 私たちは、破壊されるか故障した戦車を修理し、武器以外の全てを直した。ここでもまたドイツ語の知識が役に立つことがあった。戦闘で損傷した車両を修理するにあたっては、死んだ戦車兵の遺体を回収するというきつい作業があったからだ。この当時になるとドイツ兵捕虜の数も増えていたので、私は何度も彼らを集め、ぼろ切れのようになっている戦車兵の遺体を外に出したり、車内をきれいにしたりする仕事を手伝わせた。
 私たちの旅団は、ケーニヒスベルク攻撃に参加した。この作戦に先立ち、エストニアの人々から贈られた戦車集団「レムビトゥ」が前線に到着した。レムビトゥというのはエストニアの国民的英雄で、12世紀にドイツ騎士団と戦って勇名を馳せ、その後ノヴゴロドと同盟を結んだ人物のことである。だからレムビトゥは、エストニア人とドイツ人との闘争ばかりでなく、エストニア・ロシア間の友好をも象徴しているわけだ。
 ケーニヒスベルク攻略戦において、旅団は独立した部隊として行動することはなく、所属する戦車はいずれも特別な突撃部隊へ編入され、歩兵や砲兵、自走砲とチームを組んで戦った。1944年4月6日、これらの突撃部隊によって街への攻撃が開始された。戦闘は激しいもので、少なからぬ損害が出た。多くの戦車が撃破され、兵士が命を失っていった。ドイツ兵はファナティックなまでの戦いぶりを見せ、文字通り寸土を譲らず、あらゆる家や地下室に籠って抗戦し続けた。しかしながら、最終的に我が軍は4日間で敵の抵抗を排除することに成功し、街の守備隊は9日に降伏している。一方、私たち修理部隊の者は、街とその周辺で壊れた戦車を捜し回り、見つけ次第修理した。ドイツ兵はすぐ近くに潜んでいて、緊張した状態での作業が続いた。それでも私たちは、作戦が終了するまでに、炎上した少数の車両を除く全ての戦車を修理することができた。この功績により、私は赤星勲章を授与されている。

 私は、戦車を故意に故障させるサボタージュ行為に出会ったことはない。ただ一度だけ、ある機関手兼操縦手が、冷却水を不凍剤に交換するという作業を忘れたためエンジンを故障させたケースがある。それで、攻撃を行なうべき時に戦車は動かなくなってしまったのだ。エンジンはすぐに交換できたが、機関手の失態は臆病さの表れと評価され、彼は危うく懲罰部隊に送られるところだった。ただ、彼は機関手兼操縦手としては非常に優秀だったので、何とか許してもらえたようだ。それでも戦いの後、彼は他の兵士たちのように叙勲されてはいない。
 戦争の末期になると、私たちの旅団にはほとんど戦車がいなくなり、残りは全て他の旅団へと引き渡された。そこで持ち上がったのは、戦車長のうち誰をこれらの車両と共に派遣し、誰を旅団で予備に残すか、という問題である。すでに戦争も終わりに近く、誰だってこれ以上戦いたくはなかったからだ。この当時、私は自由時間の娯楽活動を組織するという役についていた。旅団ではアマチュアの小楽団や歌手などのグループが組織され、戦車長たちもこれに参加していた。そのうちの1人は私のところにやってきて、「ここに残りたいから、楽団のメンバーとして必要だと政治部長代理に言ってくれないだろうか」と頼み込んだ。私はその通りにし、彼は旅団に残ることができたのである。そのような状態のまま、私たちは5月9日の勝利の日を迎えた。みんな、至る所で空中に銃を乱射し、大騒ぎをして浮かれ騒いだ。ようやく戦争が終わったのだ。

 私がドイツ人に抱いていた感情というのは、これは難しい問題だ。私の仲間たちは、戦場で初めてドイツ人に出会ったのであり、その時ドイツ兵たちは銃や飛行機、爆弾などで私たちを攻撃していた。ドイツ人をどう思うかなんてのは分かり切った話で、敵は見かけ次第やっつけろ、というものでしかあり得なかった。シモノフの詩にあるように、「見つけた敵は全て殺せ」と思っていたわけである。しかし私の場合、事情は少し複雑だった。というのも、私はドイツ語の学校で学んでおり、教師たちや生徒の多くはファシズムから逃れてドイツを離れた政治亡命者ばかりだったからだ。彼らはみんな、身をもってファシズムを経験した人ばかりで、私たち以上に断固たる反ファシズムの立場をとっていた。私にとって、彼らは本当にいい仲間であり、暖かい友人たちだった。
 ただ、前線で出会ったドイツ兵については、あれこれ考える余地はない。彼らは私たちを殺戮していたのであって、人間的な関係などはお話にならなかった。一方、戦局がだんだんと変化するに連れ、彼らとの関係が変わっていったことも確かである。戦争初期のドイツ兵は大胆不敵で、若く、頑健な連中ばかりだったし、捕虜になってさえ傲慢な態度を崩さなかった。「今日は捕まっちまったけどな、明日になったらお前たちが俺の長靴を舐める番だ!この劣等人種が!」と言っていた奴さえ見たことがある。しかし私たちが優勢になると、彼らの傲慢さも消え失せてしまった。戦争の終わり頃には、捕虜にとられるドイツ兵は年寄りか髭も生えてないひよっこばかりで、世界征服どころの話ではない。彼らの態度にはどこか当惑したような部分があり、最後の最後まで熱狂的に戦いはしたものの、それはもちろん、東方への生存圏拡大のためというようなものではなくなっていた。もしも野蛮人どもがドイツにやってきたら、みんながシベリアに送られ、女性は全て強姦され、どこもかしこもコルホーズだらけの共産主義体制にされてしまう、という恐怖心が彼らを支えていたのである。戦争末期のドイツ兵は文字通り命をかけて戦ったのだが、しかし彼らが捕虜になった時、その顔にホッとしたような表情が浮かんだことも確かだ。「やれやれ、俺にとっての戦争はこれで終わりだ!」という具合に。
 ソ連軍の兵士たちとドイツの一般市民との関係も様々なものだった。ドイツ兵によってひどい目にあわされた者、あるいは親族がドイツ軍に殺されたり追放されたり家を壊されたりした者たちは、最初のうちは自分にも同じことをする権利があると見なしていた。「俺の家は壊され、家族も殺されたんだ!あいつら、皆殺しにしてやる!」と思い込んでいたのである。ただ、大体にして私たちは熱しやすく冷めやすいところのある民族だから、すぐに憐れみの感情が憎悪に取って代わった。
 プロイセンのある小さな町での出来事はよく憶えている。私は水を補給するため、ある家までトラックで出かけた。そこでは、地下室への入り口の前に歩哨が立っており、地下室からは人の声が聞こえてきた。私は歩哨に「誰かいるのかい?」と尋ねた。
「なに、フリッツ(訳注:ドイツ兵のこと)だよ。逃げ遅れたのさ。家族もいる。女と男と、子供たちと。みんな、ここに閉じ込めてあるんだ」
「何でここに入れられてるんだ?」
「どんな人間だか分からないし、バラバラになっちまったら後で探さなきゃならんからね。見てみるかい?」
 そこで私は地下室に下りていった。最初のうちは真っ暗で、何も見えなかった。しばらくすると目が慣れ、広々とした部屋の中に何人かのドイツ人がかたまって座り、うめき声を上げ、子供たちが泣いているのが分かった。私が入っていくとみんな黙り、恐怖の目でこちらを見つめた。ボリシェヴィキのけだものがやってきて、暴力を振るわれたり撃たれたりすると思ったのだろう。私は彼らの緊張を感じ取り、ドイツ語で話しかけてみた。彼らが喜んだことといったら!私に手を差し伸べ、時計を差し出したり、いろんなものをくれようとした。これを見て私は、憐れみと嫌悪の混ざった複雑な感情にとらわれた。
「何てかわいそうな人たちだろう。自分たちが優秀だと信じていたはずのドイツ民族が、こんなにまで卑屈になるなんて」
 そういうわけで、ドイツ人に対する私の感情は、戦前の仲間意識から戦争初期の激しい憎しみ、そしてここで感じたような憐れみに至るまで、大きく変化したことになる。

(05.11.17)


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