T-34:戦車と戦車兵(3)


 「34」のクルーにとって、日常の勤務のほとんどは単純作業の繰り返しであった。例えば塹壕掘りや燃料・砲弾の補給など、簡単で変化に乏しい仕事は、全ての乗員が分け隔てなくこなすべきものだった。しかし、戦闘や行軍となると話は違ってくる。同じつなぎの戦車服を身につけ、戦車の前に整列したクルーの中でも、「乗車!」の号令がかかったその瞬間から、2人の乗員にほとんど全ての責任が負わされるのだ。そのうちの1人は戦車長で、戦車自体の指揮の他、初期のT-34では照準手の仕事をもこなさなくてはならなかった。
「T-34-76の戦車長は、自分で射撃を行ない、あるいは無線を通じて指示を出した。つまり、何でも1人でやっていたわけだ」(V.P.ブリュホフ)
 戦車が任務を遂行し、またクルーが生き延びるため、2番目に大きな責任を負っていたのは機関手兼操縦手だった。戦車長や戦車部隊の指揮官たちは、戦闘の中で操縦手が果たす役割りを高く評価していた。
「…経験豊かな機関手兼操縦手がいれば、クルーの成功は半分までが保障されたようなものだ」(N.E.グルホフ)
 こうした「成功の方程式」は例外を知らなかった。戦車長として戦ったゲオルギー・ニコラエヴィチ・クリヴォフ中尉は次のように回想している。
「機関手兼操縦手のグリゴーリー・イヴァノヴィチ・クリュコフは、私より10歳年長だった。戦前には運転手として働いており、私と組む前からすでにレニングラード地区で戦い、負傷した経験を持っている。彼は、戦車のことなら隅から隅まで頭に叩き込んでいた。私が最初の戦いを無事にくぐり抜けられたのも、全てクリュコフのおかげだと思っている」
 「34」のクルーの中でも、機関手兼操縦手が特別な存在であった理由は、戦車の操縦自体が難しい上に、肉体的な力をも必要としたからである。とりわけ、戦争初期にT-34で戦った操縦手たちの負担は大きかった。当時のT-34で使用されていたギアボックスは4段変速であり、入力側と出力側の間で必要なペアの歯車を噛み合わせるという方式のものであった(訳注:いわゆる選択摺動式)。このタイプの変速装置では、ギアの切り換えは非常に困難な作業であり、また操縦者の体力を消耗させた。元操縦手のA.V.マリエフスキーはこう語っている。
「変速レバーの操作は、片手ではとても無理だ。そのため、手だけではなく膝をも使う羽目になった」
 一方、ギアの切り替えをより容易にするため、常時噛み合い式と呼ばれる新しいタイプのギアが開発された。この方式では、入力側と出力側の間で常に歯車が噛み合っており、変速はシャフト上に位置するドッグクラッチによって行なわれる。ドッグクラッチはシャフト上を移動し、必要な歯車のペアを出力軸に接続する役割りを果たす。このタイプのギアボックスは、例えば戦前にソ連で生産されていたオートバイL-300やAM-600、あるいはドイツのBMW R71のライセンス生産型として1941年から登場したM-72などで利用されている。その後、トランスミッション改良の次なる一歩として、シンクロメッシュ機構が考案された。この機構は、シフトチェンジを行なう際、ドッグクラッチとそれぞれの歯車との回転数を同調させるものである。シフトダウンもしくはシフトアップの直前に、ドッグクラッチは必要なペアの歯車と摩擦状態に入る。そして、少しずつ歯車と同じ速度で回転し始めるので、ギアの切り換えも騒音や振動を発することなく可能となるわけだ。シンクロメッシュ機構の例としては、ドイツのマイバッハ社が開発した3号戦車及び4号戦車のギアボックスを挙げることができる。そして、これよりさらに進化したのがいわゆる遊星ギアボックスで、チェコの戦車やイギリスのマティルダ歩兵戦車で実用化されていた。こうした時代背景を考慮に入れるなら、ソ連の国防人民委員であったS.K.チモシェンコ元帥が、1940年11月6日、以下のような意見を上申したのも不思議なことではない。チモシェンコ元帥は、T-34の最初の実用試験の結果を受け、人民委員会議(訳注:ソ連の内閣にあたる機関。1946年から閣僚会議に改称)付属の国防委員会に宛てた報告書の中でこう述べている。
「1941年の前半、各工場はT-34及びKVのために遊星ギアボックスを利用したトランスミッションを開発し、生産ラインに乗せるべきである。その結果、戦車の平均速度は向上し、操縦も容易になるであろう」
 だが、この措置は開戦までに間に合わず、戦争の最初の数年間、T-34は同時代に存在していたものの中でも最も完成度の低いギアボックスで戦う羽目になった。初期の4段変速ギアを積んだ「34」を操るためには、非常によく訓練された操縦手が必要だったのである。
「もしも機関手兼操縦手が不慣れであった場合、彼は1速の代わりに間違えて4速に入れてしまうかもしれない。どちらもレバーは手前に引くからだ。または、2速ではなく3速に入れてしまうこともあり得る。これはギアボックスの破損の原因となった。目を閉じていてもギアチェンジができるよう、体に憶え込ませる段階まで訓練する必要があったのだ」(A.V.ボドナリ)
 さらにこの4段変速ギアは、操作の難しさに加え、脆弱で信頼性が低く、すぐに動かなくなるという欠点を持っていた。ギアが入る際に歯車が破損し、あるいはボックス自体に亀裂が入るケースさえあったという。クビンカ装甲兵器研究所の技術者たちは、1942年にまとめた長大な報告書の中で、ソ連の戦車と鹵獲したドイツ戦車、それにレンドリース車両を比較調査して結果をまとめたが、T-34のギアボックスに関しては屈辱的と言っていいような評価を与えている。
「ソヴィエト製の戦車、とりわけT-34とKVのギアボックスは、現代の戦闘車両に必要な条件を全く満たしていない。同盟国や敵国の戦車のギアボックスよりも劣っており、現在の戦車の技術的水準からは少なくとも数年分の遅れをとっている」
 この文書を初め、「34」の欠点についての様々な報告書が検討された結果、国家防衛委員会(訳注:独ソ開戦直後に設置された最高決定機関で、スターリンを中心に政治・軍事の指導者たちがメンバーとなっていた)は1942年6月5日付けで「T-34の性能の向上に関する指令」を公布した。そして指令は実行に移され、第183工場(ハリコフからウラルに疎開してきた工場である)の設計局の努力により、1943年初頭までに5段変速の常時噛み合い式ギアボックスが開発された。T-34で戦った戦車兵たちは、このタイプのギアボックスに対して大いなる敬意を払っている。常時噛み合い式の導入とシフト数の増加により、戦車を操縦するための労力は格段に軽減された。この結果、ギアの切り換えに際して、操縦手は隣に座る無線手の助けを借りる必要もなくなったという。
 T-34のトランスミッションにおいて、機関手兼操縦手に過大な負担をかける原因となったもう1つの要素が、ギアボックスとエンジンとをつなぐメインクラッチである。負傷した後で第一線から退き、T-34の操縦手の養成にあたった経験を持つA.V.ボドナリも、この問題に触れている。
「メインクラッチの働きがどの程度まで調整されているか、機関手兼操縦手が発進の際にどれだけ上手くクラッチを使いこなすことができたか。これは非常に大きな問題だった。クラッチを滑らかにつなぐため、ペダルの最後の3分の1はゆっくりと緩めなくてはならない。もしも乱暴につなげてしまうと、クラッチ板がスリップし、歪みが生じる原因になる」
 T-34で使われていた乾式摩擦クラッチの主要部は、駆動側が8枚、従動側が10枚の円板から構成されており(後に、トランスミッションの改良に伴って駆動・従動の双方とも11枚に増やされた)、それぞれの円板はバネによってつなぎ合わされていた。操縦手がクラッチの操作を誤ると、クラッチ板の過熱や歪みを引き起こし、戦車を行動不能に陥らせる危険性があった。このような状態は、クラッチには可燃性の部品が何一つ使われていなかったにも拘わらず、「クラッチを焼きつぶす」と呼び慣わされていたという。長砲身の76ミリ砲と傾斜装甲の採用によって他国の戦車を凌駕していたT-34は、同時に、トランスミッションや操向装置といった要素において、ドイツや他の国々より著しく劣っていたのである。T-34と同時代のドイツ戦車では、クラッチの円板をオイルによって潤滑する方式をとっていた。これによって円板の摩擦熱を冷却することができたし、クラッチの操作自体もはるかに容易であった。一方のT-34は、戦争の初期段階で得られた経験から、クラッチペダルに自動制御機構と呼ばれるメカニズムを導入し、いくらか状況を改善することができた。「自動制御」と名前こそ大仰ではあるが、機構自体は極めて単純だった。具体的には、クラッチペダルを踏み込んだ際、ペダルに取り付けられたバネが死点を越えると力の向きを変ずるというものである。操縦手がペダルを踏むと、バネはその力に抵抗しようとする。しかし一定のポイントをすぎると、今度は逆にペダルを引きつける方向に作用し始め、クラッチをつなぐ操作に必要なだけの速度が保たれるというわけだ。この単純な、しかし重要な機構が取り入れられるまで、クルーの序列の中でも2番目に位置する機関手兼操縦手の負担は極めて大きなものであった。
「長時間の行軍になると、操縦手は2キロか3キロは痩せるのが常だった。消耗し切ってしまうからだ。大変な重労働であったことは言うまでもない」(P.I.キリチェンコ)
 操縦手が行軍中にミスを犯したのであれば、その場にとどまって修理を行なうか、最悪の場合でも乗員は戦車を放棄すればよい。しかし、もしも操縦手が戦闘中に操作を誤ってトランスミッションを壊した場合、それは致命的な結果につながりかねなかった。逆に、操縦手が高い技量の持ち主であり、戦車にエネルギッシュな機動を与えることができるのなら、そのクルーが猛烈な砲火をくぐり抜けて生き延びる可能性も高まったのである。
 戦争の全期間を通じ、T-34の改良の試みは、何よりもまずトランスミッションの完成度を高めるという方向に向けられた。先に引用した1942年の報告書の中で、クビンカ装甲兵器研究所の技術者たちは、以下のように指摘している。
「対戦車砲の威力が増しつつある現在、戦車の生存性を高める上で、機動性という要素は、少なくとも強力な装甲と同程度までに重要なものとなっている。強力な装甲と良好な機動力との組み合わせは、現在の戦車を対戦車火力から守るための基本的な要素である」
 戦争の最終段階になると、T-34の装甲が持つ優越性は失われていたが、機動力の改善がこれを補っていた。戦車は行軍・戦闘の双方においてより速く走るようになり、小刻みな方向転換が可能となった。戦車兵たちの自信を支えていた2つの要素(傾斜装甲とディーゼルエンジン)に、第3の長所として速力が加わったのである。この点について、戦争末期にT-34-85で戦ったA.K.ロチキンは興味深い証言を行なっている。
「戦車兵たちはこう言っていたものだ。装甲は薄っぺらいが、俺らの戦車は足が速い、と(訳注:おそらくは戦前のソ連の流行歌「装甲は厚く、我らの戦車は快速だ」のもじり)。我々の戦車は速度において勝っていた。ドイツの戦車はガソリンエンジンを積んでいたが、スピードはそれほどでもなかった」

(06.07.30)


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