T-34:戦車と戦車兵(2)


 ところで、戦車という兵器の本質は、大砲や機関銃を敵の砲火から防護する点にあると言っていい。戦車の防御力と対戦車兵器の攻撃力とのバランスは不安定なものであり、対戦車砲は常に進化を続けていくため、最新型の戦車といえども無敵の存在ではあり得ない。さらに、対空砲や軍団重砲が対戦車戦で使用されると、このバランスはますます戦車に不利なものとなっていく。従って、遅かれ早かれ、敵の砲弾が戦車の装甲を貫き、鋼鉄の車体の中を地獄に変えてしまう時が来ることは避けられなかった。
 優れた戦車というものは、1発かそれ以上の命中弾を受けて撃破された後もなお、乗員に生存の可能性を与えなくてはならない。この意味で、T-34の操縦手用ハッチは優れた特性を持っていた。ハッチは、他国の戦車にはあまり類を見ない場所、つまり車体前面の上部に設けられており、戦車が危機に陥った場合にも速やかな脱出を保障してくれた。実際にT-34の操縦手として戦ったセミョーン・リヴォヴィチ・アリヤは以下のように回想している。
「ハッチの開閉はスムーズで、角は丸く成形されており、楽に出入りすることができた。操縦席から立ち上がっただけで、ベルトから上はすでに車外に出ていたほどだ」
 もう1つ、T-34の操縦者用ハッチには、「開」と「閉」の中間の状態で固定できるという利点があった。ハッチの開閉機構は非常に簡単なものである。重いハッチ(厚さ60ミリ)を開きやすくするためにバネが利用されており、バネとハッチをつなぐロッドには凹凸状の歯が刻み込まれている。そして、この歯と歯の間にストッパーをかけることでハッチは固く固定され、不整地を走行する際にもハッチが閉じたり開いたりする心配はなかった。機関手兼操縦手はこうしたメカニズムを積極的に利用し、ハッチを半開きの状態にしておくことを好んでいた。V.P.ブリュホフは、「可能であればいつもハッチを開けておいた方がいい」と語っている。また、戦車部隊の中隊長を務めたアルカージー・ヴァシーリエヴィチ・マリエフスキー上級中尉も、同じような回想を残している。
「操縦手は常に、ハッチを手の平ほどの幅に開いておいた。まず第一に、この方がよく見える。第二に、開けたハッチから空気が入ってきて、戦闘室の中を換気してくれた」
 このように、ハッチを開けておくことで視界がよくなった上に、被弾の際には素早い脱出が可能であった。全体として、元戦車兵たちは、クルーの中でも操縦手は最も恵まれた位置にいたと考えている。
「生き残る可能性が一番高かったのが操縦手だ。操縦席は低い位置にあったし、傾斜装甲で守られていた」(A.V.ボドナリ)
「車体の下部は地形の起伏によって隠されていることが多く、この部分に弾を当てるのは難しい。一方、砲塔は上の方に突き出ている。大部分の砲弾はここに命中した。そして、砲塔の中にいる乗員は、車体部のクルーよりも多く戦死した」(P.I.キリチェンコ)
 ただし、ここで問題になっているのは、あくまでも戦車にとって危険な命中弾のことである。戦争初期のデータによれば、命中弾の大部分は、むしろ車体部に集中していた。すでに引用した第48研究所の調査結果によれば、命中弾全体の中でも車体部に当たったものは81%、一方で砲塔の被弾は19%にすぎない。しかし、半分以上の被弾は戦車にとって危険をもたらさなかった(つまり貫通しなかった)。車体の前面上部に命中した砲弾の89%、前面下部の66%、そして側面への命中弾のおよそ40%が戦車に穿孔を生じさせることなく跳ね返されている。しかも、側面に命中した弾の42%は機関部及びトランスミッション部に当たっており、乗員には危険を及ぼさない。これに比べると、砲塔はより貫通されやすかった。強度の低い鋳造型の砲塔であれば、37ミリ高射機関砲の砲弾に対してさえ安全ではなかったという。さらに、88ミリ高射砲などの大口径砲や長砲身の75ミリ・50ミリ戦車砲が、高い位置から「34」の砲塔を狙い撃つようになると、状況はより厳しいものとなった。もう1つ、元戦車兵たちが語っている地形効果について言えば、ヨーロッパの戦場では、地面からおよそ1メートルが遮蔽されている場合が多かった。そのうち半分はクリアランスに該当するとして、残りの半分で車体の高さのおよそ3分の1を隠す計算になる。前面装甲の大部分は、地形による恩恵を受けることはなかった。
 さて、元戦車兵たちから一様に高い評価を受けている操縦者用ハッチに対し、同じくらい異口同音に批判されているのが、T-34初期生産型の砲塔上に設置された大型ハッチである。このタイプの砲塔は、特徴的なだ円形のフォルムから「ピロシキ」と呼ばれていた。V.P.ブリュホフは、初期型のハッチについて不満の言葉を述べている。
「大きなハッチはよくない。重たいし、開けるのも大変だった。もしも何かの拍子に開かなくなったら、誰1人として脱出できるものではない」
 戦車長ニコライ・エヴドキモヴィチ・グルホフ中尉も、これと同じ感想を述べている。
「大きなハッチはとても不便だ。非常に重いものだったからだ」
 砲塔の中で隣り合って座る2人の乗員、つまり照準手と装填手の出入り口をひとつのハッチにまとめるというのは、世界の戦車設計史上に類を見ない特異な方式だと言っていい。そしてT-34の開発陣は、このような大型ハッチを採用するにあたって、決して戦術上の有利さを追い求めたわけではない。強力な砲の装備によって生じた技術的な問題こそが、大型ハッチ登場の理由であった。ハリコフ機関車工場でT-34の前に生産されていた車体はBT-7であるが、この戦車の砲塔には2つのハッチが設けられ、照準手と装填手という2人の砲塔要員に対応していた。ハッチを開けた状態での特徴的なシルエットにより、BT-7はドイツ兵から「ミッキーマウス」と呼ばれている。一方、「34」は多くの特徴をBTから引き継いでいるものの、主砲は45ミリ砲に代えて76ミリ砲を採用し、戦闘室内の燃料タンクの構造も変化した。そしてT-34の開発陣は、戦車の修理に際して燃料タンクや76ミリ砲の巨大な揺架を取り外すことができるよう、砲塔のハッチを1つにまとめたのである。T-34の主砲の砲身と駐退復座機を取り外す際には、砲塔後部の砲身交換用ハッチ(普段はボルトで止めた装甲板によって塞がれていた)が使われたが、揺架と俯仰装置は砲塔上面の大型ハッチから外に出す必要があった。また、車体内部の燃料タンク(履帯の上の部分に置かれていた)を取り出す時にも、やはりこのハッチを使わなくてはならない。問題は、T-34の砲塔を上から見た場合、側面装甲が防盾に向かってすぼまったような形状で配置されていた点にある。つまり、戦車砲の揺架が砲塔前面の開口部に比べて幅も高さも大きく、これを外す時には後方から引っ張り出すしかなかったのだ。これに対してドイツ戦車は、戦車砲を取り外す場合、防盾(砲塔とほぼ同じ幅を持っていた)ごと前方に引き出せばよかった。一方で、乗員自身による戦車の修理を可能とするため、T-34の設計者たちが気を配っていたことは間違いない。砲塔側面と後部のピストルポートでさえ、この目的のために使われていた。ピストルポートの栓を取り除けば、当然のことながら装甲板に穿たれた孔が現れるわけだが、これを利用して砲塔上に小型クレーンを設置し、エンジンやトランスミッションの交換に役立てていたのである。対するドイツ戦車では、砲塔上に簡易クレーン(「ピルツェ」と呼ばれた)を立ち上がらせるための機構は、戦争の最終段階になるまで設けられなかった。
 巨大な砲塔ハッチは確かに不便なものであったが、しかしT-34の開発陣が乗員たちの要求を全く考慮に入れていなかったと考えるべきではない。戦前のソ連では、傷ついた乗員が戦車から脱出する際、大型ハッチの方が便利だと考えられていたからだ。しかし、戦車が実戦を経験し、大きく重たいハッチが戦車兵たちには不評であることが分かると、A.A.モロゾフ技師を長とする開発陣は砲塔のモデルチェンジに踏み切り、「ナット」のニックネームで呼ばれた六角形の新砲塔を設計した。この砲塔はBT時代の「ミッキーマウスの耳」スタイルを再び採用し、2つの丸いハッチを持っていた。新砲塔の生産は、1942年の秋から、ウラル地方の工場で開始された(チェリャビンスク・トラクター工場、スヴェルドロフスクのウラル重機械工場、ニージニー・タギルのウラル鉄道車両製作工場)。一方、ゴーリキーのクラースノエ・ソルモヴォ工場では、1943年の春に至るまで「ピロシキ」型砲塔の生産が続けられている。大型ハッチを廃した「ナット」型砲塔では、戦車長用ハッチと装填手用ハッチをつなぐ装甲板が着脱可能となっており、必要な場合にはこれを外すことによって燃料タンクの搬出が可能となった。主砲の交換に際しては、砲塔の後部を起重機で持ち上げ、車体との間に生じた隙間から砲の部品を外に出すという方法が採用された。ちなみに第112工場「クラースノエ・ソルモヴォ」は、1942年の段階で、鋳造砲塔の生産行程を簡略化するためにこの交換法を提唱している(訳注:つまり、砲塔後部の主砲交換用ハッチを廃止しようとしたのだろう)
 戦車兵たちは、いざという時に「皮の剥がれた手でハッチをこじ開ける」羽目に陥らぬよう工夫を凝らし、そのためにズボンのベルトを用いる場合さえあった。A.V.ボドナリは次のように回想している。
「攻撃に出る時、私はハッチを閉めていたが、しかしロックはしないよう努めていた。その代わりに、ズボンのベルトの片端をハッチの掛け金に縛りつけ、もう片端は砲塔内部の砲弾用ラックに何度か巻き付けておいた。何かあった時には、ハッチに頭突きを喰らわすだけでベルトが外れ、脱出することができるという寸法だ」
 また、T-34の砲塔にキューポラが出現した後にも、戦車長たちは生き残るための努力を怠らなかった。
「戦車長用のキューポラには両開き式のハッチが設けられており、これはバネ仕掛けの2つのツメでロックされる仕掛けになっていた。このハッチはただでさえ開けるのに力が要る代物で、負傷してしまったら脱出などできない相談だった。それで、私たちはネジを外し、ロックされないようにしておいた。そればかりか、可能であればハッチ自体を開いたままにし、いざという時の脱出に備えていた」(A.S.ブルツェフ)
 一方で、戦前・戦後を問わず、ソ連の戦車設計局は全て、こうした前線での創意工夫を利用する意欲に欠けていたと言わざるを得ない。戦車の砲塔ハッチも車体ハッチも、従来と同じ方法でロックされ続け、戦車兵たちは相変わらずハッチを開け放したままで戦うことを好んだ。

(06.02.25)


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