平成の30年間に亡くなった著名人のなかで、強い印象を残したのは誰か?本誌読者に取材したうえで、編集部で会議を重ね、5つのテーマで厳選した。誰にとっても思い出深い人が登場する。
彼が生きていれば……。亡くなって6年経っても、惜別の想いがまったく薄まっていないのが、18代目・中村勘三郎さんである。役者として脂の乗り切った57歳での死はあまりに早すぎた。
野田秀樹や串田和美などの現代劇の演出家と組んで、コクーン歌舞伎や平成中村座を立ち上げた。これは歌舞伎をもっと若者に観てもらいたいという思いから。その存在感は、歌舞伎はもちろん、テレビドラマや映画でも圧倒的だった。
「まさに男が惚れる男でした。現代劇のドラマや映画に出演しても、セリフの一言だけで格好いい。歌舞伎で培った芸が、多くを語らずとも滲み出てくる。そんな印象を受けましたね」(同志社女子大学メディア創造学科教授・影山貴彦氏)
多くの女性と浮き名を流したモテ男でもあった。桑田佳祐や明石家さんまと同学年。もし生きていれば、歌舞伎界はもっと面白くなっていた。
その勘三郎が20代のときに大恋愛した相手、女優の太地喜和子さんも魅力的な女性だった。
「心中を考えるぐらいでなければ恋とは言えないんじゃないか」
そんな名言を残した太地さんは、お酒と恋愛を楽しみ、舞台に自分の人生を賭けた。
「私はね、男でも女でもない、役者なんだぜ」
そこまで言い切る女優はなかなかいない。
俳優・藤田まことさんは職人だった。夫人が事業に失敗し、約30億円の借金を抱えた。だが、妻を責めることはなかった。それをおくびにも出さず、年中無休で仕事に明け暮れて、借金を返済した。
スポーツ界で、ダンディかつ粋な男と言えば、ラグビー元日本代表監督の平尾誠二さん。ラグビーW杯の日本開催が来年に迫っているが、大会が近付くほどに彼の不在を思い知らされる機会が増えていくだろう。
スポーツジャーナリストの二宮清純氏が言う。
「平尾さんは、バランス感覚に長けた合理的な方だったと思います。日本のスポーツ界には理不尽なこと、無意味なこともたくさんありますが、彼はそういう風潮を好まず、ラグビーを科学としてとらえていた。しかもラグビーだけでなく日本のスポーツ界全体を見渡していた。
教育の現場からスポーツを切り離し、幼少期から欧米のようにいろんなスポーツを体験する中で、子どもたちの個性を伸ばしていく環境を整えたいと語っていました。本人は望まなかったでしょうが、スポーツ庁長官に適任の方でした」
音楽の世界にも、素敵な生き方をした男たちがいた。音楽評論家の馬飼野元宏氏が語る。
「作詞家の阿久悠さんには独特のダンディズムがありました。作品は無骨なところがあって男っぽい。
言葉は言い切りで、時代にハマると一気に流行する。だから、時代に置いていかれると古臭くもなってしまうのですが、それすらひっくり返して、新しいヒット曲を生み出してしまう。
一方で、時代の寵児である美空ひばりや山口百恵とはほとんど仕事をしていない。時代は自分で作るという気持ちがあったのでしょうね」
'70年代のスーパーアイドルだった西城秀樹さんも新しい時代を見ることなく亡くなった。
球場でのコンサートやゴンドラも西城さんがパイオニア。ライブでのコールアンドレスポンスは西城さんが始めた。
「『情熱の嵐』では、『君が望むなら』のあと、ファンから『ヒデキ!』と合いの手が入る。あれは、ファンの声援が大きすぎて、曲を楽しんでもらえないと悩んだ西城さんが作曲家に相談して出来たもの。
そうすることで、お客さんとより一体化できるようになった。ファンを第一に考える西城さんの思いがあったからこそです」(馬飼野氏)
西城さんは2度、脳梗塞に倒れたが、ファンの前で歌うために過酷なリハビリに耐えた。亡くなる1ヵ月前にもコンサートに出演していた。そのひたむきな姿を私たちは忘れない。
野際陽子さんは伝説のドラマ『キイハンター』に出演して以来、クールビューティの代名詞だった。60代になっても、個性的な母親役を難なくこなす。彼女は本誌の取材にはこう語っている。
「私は自分に期待していないから、無駄なストレスや絶望がないんです。自分が持っているものが、すべて。足りなかったら、しゃーない」
その自然体の生き方に男女問わず魅了された。
松田優作さんは役者として唯一無二の存在だった。
彼のタバコを燻らす様や酒を飲む姿はただただ格好良かった。
彼の頭の中にあるのは、演技のことばかり。身長の低い役を演じたいから「足を5㎝切りたい」と考えたこともあった。
がんを知りながら、映画のために延命治療を拒み、最期まで役者としての矜持を貫いた。太く短く生きた名優だった。