創価勝利の年、あけましておめでとうございます。
滔々と流れる時間に区切りはありません。気持ちのうえでは、革新こそ総てとテーマと目標をセットアップし、自分自身の怠惰な精神克服に挑戦していきたい思います。
創価勝利は民衆運動です。その根底は強情な弘教の精神によって成り立っています。大聖人以来、迫害や非難をまともに受けながら、怯むことなく、パイオニアの誇りとたくましさで道を切り開いてきました。形あるものは崩れ、古きものは忘れ去られる時代の変遷のなかで、五十展転の法水は、源から流れ出た清浄さで、命の山脈から山脈を越えてきました。
現代ほど難しい時代はないでしょう。普遍的なものが失われようとしていても、それについての十分な哲学的、批判的思考が欠如している。そもそも組織的都合が優先されて、宗教的信頼と確信、革命用語を多用しても、心は形骸化しているという有様。より良く生きるために苦難を強いられる時代は不幸です。同時に不幸の背景をたどるならば、現代人が抱える深い迷いと虚無、真理を共有することが不可能なほど、硬直し低俗化した思想の氾濫があります。基準もルールも自制もない無惨な排他性は、暴力的な闘争心を引き起こし、デリケートな心の肌を傷つける。人間が中心にいない人間社会とは、奇妙な星の奇妙な出来事なのでしょうか。
『新しきヒューマニズム、人間存在の精神的価値は、人間自身のなかに求められるべきです。人間こそが、すべての尺度であり、あらゆる主義主張の真偽を見極めるうえでの、評価基準とならねばなりません』M・ゴルバチョフ(「二十一世紀の精神の教訓」聖教ワイド文庫)
池田思想の核心ともいうべき「すべてを活かす哲学=妙法」の総体性、大乗的人間像は、近代的理性を超え、強靭な自由、自在な境涯を約束するものです。幸福とは価値創造。無限の可能性を信じることは、信仰だけが内包する奇跡と言ってもよいでしょう。そのために先生は、自己と他者をともに活かす対話を実践されてきました。
『幾多の古今東西の偉人の箴言を通して、同志を激励してきた。日蓮仏法は「活の法門」であり、この妙法を根底とする時、すべてが無駄なく活かされていく・・・歴史上の、あらゆる偉人の英知も、人間を励まし、幸福にしゆく智慧の一分として自在に現代に活かし、実生活の上に活かし、価値創造していくことができる』(随筆「人間世紀の光」聖教・06年)
実生活の上での自由な生活者としての意見は、仏法の本義に適うものです。中道の真理を理解しなければなりません。青年部の使命は大きい。過酷な時代背景のなかで、青年は悲哀と無理解に負けない柔軟な思考ができます。新しい発想ができる。苦しみに耐えることができる。自分を制御できる力を持つ。再試行する時間的余裕が十分にある。組織に埋没しない行動力がある。
青年部の皆さん! 英知を結集することです。中央を待っていてはいけません。指示を待っていては、いくら祈っても信仰ではありません。
自分の考えがない友人に言いたい。
個人的な問題ではなく創価の特徴的人格を代表しているように思えるからです。
あなたの意思は一体いかなるものなのでしょう。あなたは葦のように風になびき、空に飛んだ花の種のように、どこへ行きたいのか、どこで花開きたいのか見当もつかない。幸せになるのは戦いです。自分のことばかりではなく、他者に与えてこそ、人間の尊厳を感じることが可能なことを知ってほしい。人間は何がなくても、人生を支える哲学があれば生きられるのです。慈悲が、人間という生き物を、価値ある人間たらしめる唯一のものであることを知るべきです。それは、信仰に関係なく、人間であることの基本なのです。
今、一番見過ごすことができないのは、自分の価値観を持つことにためらいがある生命の傾向性です。社会や組織の価値観で動き、自分を見失っている。自立と自律の精神が欠落しています。画一的な教育制度の結果でしょう。自己こそ最高に尊貴である、という思想は、個人尊重という表題だけは勇ましい戦後教育とは、似て非なるものです。
問題意識が低い多くの会員がいくら集まっても、100周年の道程で必然的に生ずる課題に対し、適切な解決方法を選択できるのだろうかという危惧があります。
ブッディズム・リカヴァリーという人間主義の行動は、新鮮な問題提起から生まれるものです。それは、池田思想研究がこれからますます盛んに行われるであろう世界的趨勢と同じくしています。まさに仏智という三世を見通す深い歴史への理解と人間精神の同調を表わすものと言えるでしょう。個々の祈りは、一人の人間の命の変革とともに、歴史を動かす力に寄与するもの。あなたの悩みは人類の悩みです。あなたの不幸は世界の不幸なのです。
創価には創価風、創価的文字の使い方があり、ひとえに先生の文章、スピーチの影響です。弟子が師に似るのは仕方がありませんが、高度な法は、必ずしも、高度な人間を作るわけではないのですね。
わたしたちが住む娑婆は、物事が相対し、並列し、差別を受ける世界です。悪は罰せられ憎まれ、善は称賛されます。人間倫理は、慈悲に依っているとはいえ、善悪は厳しく峻別されてこそ社会秩序が保たれます。仏教は慈悲を根本にした思想体系。慈悲が行為として現れたとき、自己を制御する法が深い喜びとなって実感できるでしょう。
善悪一体と説くのは、法華経のみです。仏は悪を罰しない。慈悲をもってあわれむ。善と悪が、矛盾なく混じりあう心の泉。過去の峰から、伏流水のように湧き続ける自律の法が、善悪を越えた行為的努力を促し、自他を蘇生させるのです。すべてを受け入れる法華経は、母性の法です。
『自己を制し、他人を益し、慈しみにみちた心が法であり、それはこの世及び死後における果報の種子である』(「中論」:龍樹)
「以信代慧」は、釈尊とその後の聖者の実践的慈悲から導きだされた美しい言葉です。その光輝く言葉をいつもまぶしく眺めている者は、竜女の意志を受け継ぐ無数のなかの一人・悩める子どもに変容したわたし。残念ですが、母のように、須臾として、他国を教化する神通力はございません。
世界に慈しみがあふれ、幸福の花々が咲き乱れる一年でありますように。
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