[No16] 

精霊の王/中沢新一  エピローグ 

 

世界の王・力の源泉

 

 

 アーサー王=聖杯伝説を、金春禅竹の記述する「翁=宿神」と比較してみると、あまりの近しさに驚かされる。宿神である「翁」は北極星として、天体全体の連行ばかりか、その連行に影響される人間世界の秩序のことにまで、気配りのきいた支配をおこなっている、とそこには書かれているが、この実質的な「世界の王」は王としてのたたずまいをもって表面に出てくることをしないで、石の神の姿をとったり、温泉の熱湯として出現したり、一見みすぼらしい塩焼きの老人として示現しているので、愚かな常識に縛られている人には、目の前に大変なものが出現していることさえ見えない。しかもケルト世界の妖精たちのように、宿神の住む特別な空間は、胞衣の防御膜で遮られていて、世間の人の目から隠されている。「王のなかの王」である宿神=北極星の住む王宮は、ふつうの人の目からは隠されているのだ。

 また「翁=宿神」の内部には、イニシエーションの儀式を司る「人食いの王」のイメージが隠されていることも、私たちはすでに見てきた(第六章)。中世の摩多羅神である。人は生まれたまま、そのまま素直に成長をしても、世界の表面から隠されている真実を見ることはできない。その心が常識でがんじがらめにされているからだ。イニシエーションは、常識によってつくられた心の状態を作りかえて、いままで見えなかった真実を見えるようにしようという、慈悲深い儀式なのである。そのとき、イニシエーションを受ける者の前に、暗闇のなかからさまざまな姿をした「人食いの王」が出現する。

 この「人食いの王」は、イニシエーションを受ける者の古い自我を食い尽くして、破壊する。北方の狩猟文化では、しばしばこの役目を神としての熊がつとめた。熊こそが、死の領域の支配者であるからだ。熊は古い自我を抱えた人間をずたずたにひき裂いて、そこから真実を見る目を備えた新しい主体を生み出すのである。この事態は、イニシエーションを受ける者の側からすると、荒々しい自然力にさらされながら、真実の「主権者」の姿を見届けることによって、認識の構造を根底から作りかえられることを意味するだろう。力と認識力の源泉。「翁=宿神」はそのままで、別の形をした「聖杯」なのである。

 そして、重要なことはアーサー王の王宮にせよ、キリストの血を受けた神秘の聖杯にせよ、また宿神としての「翁」にせよ、世間の目から隠されている特別な時空間に潜んでいるということだ。「王のなかの王」は、世俗の王たちのように人の目に自分をさらすことで権力を得ようとはしない。社会の周辺部、移動しつづける空間、壷や胞衣のような防御膜の内部などに隠れて、この世の「主権」の真実の体現者である「世界の王」は、じっと私たちの世界を見守りつづけているのである。

 

 こうした神話には、現実の世界の国家と王権というものの正当性に対する、根本的な懐疑が表明されているのではないか、と私は考える。

 国家を持たなかった社会では、真実の「主権者」は自然の内奥にひそんでいると思考されていたから、人間の首長などが自分には「超越的主権」が授けられたのだなどと主張しても、誰もそんな主張を認めようとしなかった。そうやって実際、新石器的な文化を守ってきた社会では、国家も王も生まれなかったのである。熊のような偉大な自然界の主のものであった「超越的主権」を、人間の王が保有していると主張しても、それを嘘としてまともには認めない「知恵」が、その社会には残っていたからである。

 そのために、国家というものが生まれてからしばらくの間は、王たる存在は、「超越的主権」のもともとの正統な所有者である自然の内奥にある者の手から、どうして自分はそれを手に入れることができたかを説明するために、動物に変身したり、暴虐な自然の主と戦ったり、近親相姦を儀式的におこなって自然の状態に近づいたりすることによって、その「主権」を正統なやり方で自分の手中におさめたことを、神話や儀礼によって表現しなければならなかった。アーサー王伝説などには、王がまだ自分の内部にいわば「熊の身体」を宿していた時代の記憶が、濃厚に残されている。そのため、いろいろな時代に、さまざまな形態で現実の権力者の正当性を認めない「反権力」的な運動がおこるたびに、アーサー王と聖杯の伝説はくりかえし新たな生命を得て、よみがえってきたのだった。

 

 ヨーロッパでは比較的早い時期から、王権からのこの「熊の身体」の切り離しが実行に移されている。その結果として、王という存在は永遠に続く王権の表現である「王の社会的身体」と、個人としての王の持つ病気したり死んだりする「王の自然的身体」の結合として、王権というものを思考するようになった。ここからヨーロッパの近代が開かれてきたのである。

 ところが日本の王権である天皇にあっては、律令制という合理的なシステムが導入されるようになってから以後もずっと、自然の内奥との深い結びつきを主張する「王の熊の身体」あるいは金春禅竹的な言い方をすれば「王の宿神=翁的身体」を、さまざまな宗教儀礼や神話的な観念をとおして、維持しつづけようとしてきた。

 とくに古代的な天皇の復活をめざした後醍醐天皇による建武の中興にあたっては、おもに密教の道具立てを使って、自然の内奥から「超越的主権」を取り出してくる異形の王としての天皇、という存在の大規模な演出まで試みられたのである(網野善彦『異形の王権』が主題にしていたのはこの問題である)。

 後醍醐天皇の残したトラウマは、室町政権に最後まで深刻な影響を及ぼし続けた。武士という職人のつくる王権である「室町幕府」は、その「主権」の正統性をいったいどこに見出していったらよいのか。この問題に直面した室町将軍たちは、天皇王権の秘密をその「宿神=翁」としての構造のうちに発見したのである。後醍醐天皇が身をもってしめしてみせたように、天皇の持つ「主権」の正当性は、自然の内奥にひそむ力の源泉にそれが触れているという、神話論的な主張であった。つまり、天皇という存在は、「宿神=翁」的な構造を自分の内部に組み込むことによって、武家の権力にはない正統性を主張できることに、将軍たちは気づいていた。

 そこで彼らはこの問題をユニークなやり方で解決しようと試みている。「宿神=翁」を守護神とし、宿神の住まいする空間そのものをさまざまなメチエによって現実の世界に出現させようとする芸能者たちを、将軍の王権の中核部分に組み込むことによって、天皇と同じ構造を手に入れようとしたのである。その結果、さまざまな賎民的職人・芸能者たちが、将軍家の身近に奉仕するという、武家政権としては異例の事態が発生した。あきらかに金春禅竹の『明宿集』も、そのような時代的探求の大きな流れのなかで、思考されたものと考えられる。

 『明宿集』が書かれた背後には、「主権」のありかをめぐる深刻な動揺がひそんでいるように、私には思われる。応仁の乱を体験した禅竹である。自分たちの職能の根源である「翁」の本質を探るという目的で書かれたこの書物を、背後から突き動かしているのは、この国ではまだ誰も取り組んだものがいなかった「主権の哲学」の探求なのである。

 アーサー王と聖杯の伝説の場合がそうであるように、禅竹が展開しているような「翁=宿神」説に、ただ中世的な神秘主義の思考や象徴論理の面白さだけを見ているだけでは、宝の持ち腐れというものだ。宿神としての「翁」の賞揚をとおして、そこでは知らず知らずのうちに縄文的なシャグジの概念にまっすぐな回路が開かれ、社会と自然の関係に新しい視点を持ち込みながら、近代的な「主権」の概念の再検討へと、私たちを誘っている。

 

 

 

 このようにシャグジ=宿神は、「主権」というものの、「力の源泉」というものの人類的な秘密を握っている。それだからこそこの精霊を「世界の王」とも呼ぶことができるのだが、「王のなかの王」たることによって、それは現実の時空間の内部にも中心部にも存在しないのである。

 「世界の王」は見えない空間に王宮を構えている。その王宮はしかもたえず移動しているために定めがたく、またたえず運動し変化しているために同一性をあたえることができない。不確定にメタモルフォーシスしながら動いていくこの王の領土は、欲で濁った人の目から見えなくしてしまうために、不思議な防御膜で覆われている。「世界の王」はいついかなるところにも存在し、働きをみせているのに、まるで現実の時間のなかにはいないように感じられるのである(「在々所々ニ於キテ示現垂迹シ給フトイエドモ、迷イノ眼ニ見タテマツラズ、愚カナル心ニ覚知セズ」『明宿集』)。

 ここから、「世界の王」はいたるところ、あらゆる時間に遍在しているのに、「現在」の時空のなかには見つけることができずに、ただ「過去」と「未来」の時空間にしか存在できないもののように思われるのだ。今という時間だけが、「世界の王」の出現を阻んでいる。しかし、その王はすでにあった時間、これからやってくる時間のなかだけ、存在しているように、私たちの目には見えてしまう。

 いや、もっと正しく言おう。人間が「力の源泉」を自分の能力の外に求めていた頃には、「世界の王」はまさしく世界の中心に、はっきりと認められていたのである。ところが、この世の王、世俗の王なるものが出現し、そこから国家という怪物が立ち上がって以来、真実の力(主権)の秘密を握る「世界の王」は、私たちのとらえる現実の表面から退いて、見えなくなってしまった。そうなってしまうと、「世界の王」はむしろこの世で虐げられた人々、賤しめられた人々、無視された人々のもとに、心安らかに滞在するようになり、現実の世界の中心部には、「主権」を握っていると称する偽の王たちが君臨するようになってしまったのだった。

 

 正統なる「主権者」を、現実の権力者たちの間を廻って探し求めるのは無駄なことだ。そうした「主権者」たちは、国家が出現して以来、地上を支配し続けてきたが、彼らのすべてが偽物なのだ。世界をなりたたせている「力の源泉」の秘密を知っている者は、そこにはいない。歴史のゴミ捨て場、記憶の埋葬場にこそ、それはいまもいる。

 「世界の王」は人間がまだ偽の主権者に支配される以前の、地上に国家が出現する以前の記憶をはっきりと保持している。新石器文化をつくりあげていた人間たちの「野生の思考」が生み出した、粗末だけれど豊かな心の産物を、この精霊はなによりも美しいものとして大切に守っている。ミシャグチやもろもろのシャグジたちや宿神たちがそうしてきたように。

 またこの王は、未来の人間の世界に出現しなければならない「主権」の形についての、明瞭なヴィジョンを抱いており、それをなにかの機会には、心ある人間たちに伝えようとしているように、私には見えるのである。古代の王たちから現代のグローバル資本主義にいたるまで、偽の「主権者」たちによってつくりあげられてきた歴史を終わらせ、国家と帝国の前方に出現するはずの、人間たちの新しい世界について、もっとも正しいヴィジョンを抱きうるものは、諸宗教の神ではなく、長いこと歴史の大地に埋葬され、隠されてきた、この「世界の王」をおいて、ほかにはない。しかし、すべては私たちの心しだいである。この王の語りかけるひそやかな声に耳を傾けて、未知の思考と知覚に向かって自分を開いていこうとするのか、それとも耳を閉ざして、このまま淀んだ欲望の世界にくりかえされる日常に閉塞していくのか。すべては私たちの心にかかっている、と宿神は告げている。

 

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