補説37

1054年


 ヤロスラフ賢公の長い治世が終わりを迎えた1054年。言うまでもなく彼はキエフ・ルーシの「黄金時代」を導いた支配者で、その死がロシア史における一つの転換点となったことは確かです。それでは、同じ頃に世界で何が起きていたか、少しだけのぞいてみることにしましょう。

 まずはおおよその見当をつけるために、日本から始めたいと思います。ちょうどこの時期、東国では前九年の役が戦われている最中でした(1051~62年)。いまだ地方的な存在ではあったものの、武士という新しい種族がすでに胎動を始めていたのです。そして中央でも、これより30年の後には院政が開始され、栄華を誇った藤原摂関家を権力の座から追い落とすことでしょう。長らく続いた貴族政治の時代は、ゆっくりとした足どりで終焉への道を歩み始めていました。
 ついでに言えば、ヤロスラフの父・ウラジーミル公が亡くなった1015年の翌年、日本では藤原道長が摂政に就任しています。ルーシでやっとキリスト教文化の礎石が置かれた頃、日本では平安貴族が洗練された文化を楽しんでいたわけです。老大国というイメージとは裏腹に、ロシアの国家と文明はわが国と比べてもはるかに若いものでした。ただし、ヤロスラフ一代で得られた文化的達成を考えるなら、ルーシが短期間で大きく飛躍する潜在力を秘めていたこともお分かりいただけるかと思います。

 さて、その日本に大きな影響を与えた中国はというと、1054年当時は(北宋)が成立してからすでに百年近くが経過していました。幾多の王朝が交替したこの古い文明に比べれば、ルーシ国家などは生まれたばかりのヒヨコにすぎないと言えるでしょう。
 ただし、宋帝国の北辺は契丹(キタイ)族の打ち立てたによって制圧されていました。この強力な遊牧国家に対し、宋は(1004年以来)毎年銀や絹を贈ることで何とか平和を保っている有り様でした。一方で北西部ではタングート族が勢力を強め、1038年に西夏王国を建国しています。この西夏も宋と戦争を繰り返し、やがて遼と同じように毎年の贈り物を受け取る条件で講和を受け入れました。中国史の中でも、宋はとりわけ外患によって苦しむことの多かった王朝と言えます。
 この三王朝とキエフ・ルーシとの間には何の接点もありません。はるか後に冒険好きなコサックがシベリアを越えるまで、ロシアと中国が直接交流する機会はなかったと見ていいでしょう。にもかかわらず、この4国はいずれも後に「モンゴル帝国に滅ぼされた」という一点で共通しています(ただし宋は南宋、遼は西遼と形を変えていた)。歴史ある中国も若いロシアも、ユーラシア大陸を東西に疾駆したモンゴル民族の前には等しく無力な存在でしかありませんでした。

 次に、空間軸を西にずらしてイスラム世界を見ることにしましょう。ヤロスラフ没年の前後に注目すると、セルジューク朝の成立(1038年)とバグダード入城(1055年)という事件が目につきます。元来中央アジアで遊牧生活を送っていたトルコ系民族は、多くがイスラム帝国の支配下に入っていたのですが、セルジューク・トルコの時代から西方にも姿を現し始めました。間もなくビザンツ領小アジアもトルコ人に浸食され、イスラム化が進んでいきます。
 一方、彼らの圧迫をまともに受けていたビザンツ帝国は昔日の輝きを失おうとしていました。マケドニア朝最強の君主・バシレイオス2世の没(1025年)後、皇帝の権威はとみに衰え、逆にそれまで押さえつけられてきた貴族の力が上昇を始めたのです。「皇帝専制」という従前の統治スタイルはすでに大きなほころびを見せていました。こうした政治的混乱に加え、11世紀半ばの帝国は財政難にも悩まされています。マンツィケルトの戦い(1071年)でセルジューク軍に大敗したのは、以上のような条件が重なり合ってのことでした。
 ただしビザンツはこのまま死を迎えたわけではなく、英主アレクシオス1世(1081年即位)の下で見事な立ち直りを見せます。彼は内政・外交の両面に優れ、国内に秩序を取り戻したばかりかある程度の失地回復にも成功しました。もっとも、この時代には十字軍やイタリア商人など西欧からの波が押し寄せ、やがて帝国を押し流す奔流となっていきます。

 最後に、その西欧諸国について述べたいと思います。長らくビザンツの後塵を拝してきた西ヨーロッパは、当時すでに政治的な安定を獲得し、経済面でも大きな成長を遂げていました。躍進するヨーロッパのエネルギーはやがて外にも向けられ、十字軍(1096年)となって爆発することになります。
 今話題としている1054年により近い事件では、ノルマン・コンクエスト(1066年)が注目できるでしょう。すなわち、ウィリアム征服王はヤロスラフの息子たちと同世代の人物になるわけです。一方で敗者となったハロルド王の娘は後にキエフ大公ウラジーミル・モノマフ(ヤロスラフの孫)の妻となっており、当時のルーシと西欧が意外に強く結びついていたことを物語っています。


 しかし、何と言っても見逃すことができないのは、ヤロスラフが没したその1054年に起きた東西教会の分裂という大事件です。東西教会すなわち東方正教会とカトリック教会は、これまでもことあるごとに反目と衝突を繰り返してきましたが、1054年に至って両者の関係は修復不能なまでに破壊されてしまったのです。以後、両教会は相手を異端的な存在と見なし、同じキリスト教徒でありながら多くの血を流しあう不幸な事態を招くことになりました。
 分裂から大きな不利益を被ったのは東方正教会の側であったと言えます。カトリック教会によって鼓舞された西ヨーロッパ諸国は、ビザンツ帝国に対してより攻撃的に振る舞い始めたからです。すでに弱体化しつつあった帝国の没落は決定的となり、その影響下にあった正教会の勢力も縮小していきました。今に至るまで、キリスト教世界のパワーバランスはカトリック優位に傾いたままです。
 しかし同時に、正教徒たちが西欧・カトリックに抱く不信感も抜きがたいものとなりました。キリスト教世界を「東西」に分けた溝は、ある意味で20世紀の冷戦体制におけるそれより深くて暗かったと言えます。そして正教圏に属したルーシ/ロシアもまた、否応なくこの争いに巻き込まれていくのでした。

 …ヤロスラフ賢公が聖ソフィア教会に葬られた1054年、世界はこのように動いていました。とりわけビザンツ帝国の衰退と東西教会の分裂に注目するなら、ルーシを取り巻く国際環境が大きく変化していたことが分かるでしょう。
 偶然とはいえ、教会分裂とヤロスラフの死が同じ年の出来事であるのは印象的です。ルーシの歴史における内外の転機が、ちょうど同じ年に重なっているわけです。こう考えると、ヤロスラフの治世は単なる「黄金期」である以上に、一つの道標としても大きな意味合いを持っているのではないでしょうか。


 長らくのおつき合い、まことにありがとうございました。これをもちまして「キエフ・ルーシ概説」の幕を一旦下ろさせて頂きたいと思います。
 もちろん、キエフ国家の歴史はまだまだ続いています。また、ヤロスラフ賢公の死によって何の価値もない卑小な時代が始まった、と言うつもりもありません(そもそも「価値のない時代」などあり得るでしょうか?)。ただし、これ以降ルーシの社会がより複雑化したこと、とりわけヤロスラフの子らの代から公一族の成員が急激に増加したことなどから、この続きを書くのにはかなりの困難が伴うのも事実です。しばらく時間を頂くために、やはり区切りとなるヤロスラフの治世で一応の締めくくり、としておきましょう。
 ロシア史ページの今後ですが、「雑話」や書評などのコーナーは折を見て更新していきます。また、キエフ・ルーシに関しても通史以外の新しい企画を考えているところです。今後ともよろしくお願いいたします。

 さて、最古代から1054年までのキエフ史、いかがでしたでしょうか?もとより小生の拙い文章によって、どれだけその実像が伝えられたかは分かりません。もしもこれがきっかけとなってキエフ・ルーシに興味を持った、またはロシア史への興味が増した、という方がおられれば幸いです。
 最後に、ここまでお読みいただいた方々にもう一度御礼申し上げます。本当にありがとうございました。またいつの日にか、「キエフ・ルーシ概説2」でお会いしましょう。その時まで、さようなら。

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(01.03.12)


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