補説36

洞窟修道院 


 ようやくのことで、我等がサイトの名の由来であるキエフ洞窟修道院までたどり着くことができました。以下、ルーシの歴史上巨大な足跡を残したこの修道院について簡単な解説を試みたいと思います。


 本文でも述べた通り、修道院の創始者はアントニーという名の修道士でした。アントニーはリュベチの街の出身、まだ若い頃に信仰の生活に入り、ルーシを離れてギリシアのアトス山へと巡礼の旅に出ました。アトスは東方正教会の「聖山」と呼ばれ、非常に多くの修道院が集まっているのですが、アントニーはここで修道士としての修練を積んでいます。アトスにはスラヴ人によって運営されていた修道院もあり、彼が入ったのはその一つかもしれません。
 やがてアントニーはルーシに戻り、自分の入るべき修道院を求めてキエフにやって来ます。しかし彼は結局「ルーシの街々の母」に落ち着こうとはしませんでした。もともとアトス山の修道院は、断崖絶壁の岩棚などで孤独のうちに修行する古いタイプの修道士が集まり住んだところから発展したものです。アントニーもその伝統を受け継いだのか、都会の喧噪を離れて一人で神に近づくことを求め、安住の地を探して「谷や丘を歩き回りはじめ」ました。
 結局、アントニーが見出したのはキエフ郊外の小さな洞窟でした。原初年代記によると、これはあの府主教イラリオンが若いころ修行した手堀りの洞窟だといいますが、ちょっとできすぎな話という気もします。ともあれアントニーはこの洞窟に入り、神への祈りに全てを捧げる生活を始めたのです。
 これらの出来事が具体的にいつ起こったのかは分かりません。しかし彼の高弟フェオドシーは1032年に同じ洞窟で修行を始めており(フェオドシー聖人伝にある記述)、これを信じるならアントニーが修道生活に入ることを決心したのはヤロスラフ時代の前期と思われます。すなわちウラジーミルの改宗から50年と経っておらず、かくも短期間でアントニーのごとき熱烈な信仰心と修道への強固な意志を備えた人物が現れたという事実には驚かざるを得ません。イラリオンとならび、ルーシにおけるキリスト教の発展を象徴する人物と言えるでしょう。

 時が経つにつれて洞窟の隠者アントニーの噂は広まり、彼のもとに訪れて祝福を請い、あるいは様々な物を喜捨する人が増え始めました。ヤロスラフ没後にキエフの支配者となったイジャスラフ公も、従士団と共にアントニーの洞窟にやって来て祝福と祈りを求めたということです。
 より重要なのは、同じように神の道を求めんとする人々がアントニーの下での修行を望んだことです。彼らは師の周りに集まって、大きな洞窟と、さらには僧房と教会をも掘って作り上げました。こうして一つの修道院が誕生し、全ての出発点となった洞窟(ペチェラ)にちなんでペチェルスキー修道院(=洞窟修道院)の名で呼ばれるようになったのです。孤独な隠者の庵がその弟子たちの集住によって大修道院に発展するというプロセスは先に述べたアトス山の例とも共通しており、東方における修道院成立の一類型と言えるでしょう。
 ただしアントニー自身は、発展を遂げつつある修道院の長として君臨するにはあまりにも孤独を愛する人でした。多くの弟子が集まったことで静寂が乱されると、彼はヴァルラームという修道士を後継者に据え、自らは別の洞窟に移りました。そして40年もの間外に出ることなく、ついにその生涯を終えています。かつてエジプトの砂漠で厳しい修道生活を実践した同名の大先輩・教父アントニオス(356年没)は「修道制の生みの親」というべき存在ですが、ルーシのアントニーもまた自らの生き方によって、後に続く修道士たちへ一つの模範を示したのでした。

 さて、イジャスラフがアントニーの祝福を求めたというエピソードからも想像できるように、ペチェルスキーの本格的な発展はヤロスラフ没後、つまり本文で扱われた時代よりも後になってからの話です。しかしここでは少しだけ先回りをし、修道院の輪郭がはっきりしてくるまでおつき合い頂くことにしましょう。
 後継者となったヴァルラームの時代、修道院は新たな方向へと歩み始めました。彼の指示で洞窟の上に聖母教会が建てられ、今まで人目につかなかった修道院は人々に知られるようになります。すなわちペチェルスキーが(文字どおりの)「アングラ」を脱して大修道院に成長するきっかけが作られたのです。
 ところが、キエフのイジャスラフ公が新しく聖デメトリオス(ドミトリー)修道院を建設すると、ヴァルラームはその修道院長に転身することになります。言うなれば公の側からの引き抜きにあったわけですが、もともとヴァルラームは貴族の出身で、そのつてもあったのかもしれません。ともあれ、指導者を失った修道士たちは協議を行い、また引退した師アントニーの助言も得て新たな修道院長にフェオドシーを選び出しました。
 フェオドシーこそはペチェルスキー修道院の発展を方向づけた人物でした。彼が洞窟にやって来た次第について、聖人伝は非常に面白いエピソードを伝えています。もともとフェオドシーは幼時から神の教えに耳を傾け、聖職者を志す早熟な少年でした。ところが彼の母親は頑丈で大力、声だけを聞いていると「だれでも男とまちがえる」ほどのたくましい女性で、フェオドシーの軟弱な性格を日頃から歯がゆく思っておりました。早くに夫を亡くし、女手一つで育て上げた息子を溺愛していたためでもあったのでしょう。ともかく母はフェオドシーの出家を絶対に許さず、巡礼について家を出てしまった息子を自ら追いかけて連れ戻しています。ところが彼はまたまた隙を見つけて家を抜け出し、今度は洞窟のアントニーの弟子になってしまいました。
 当然、母親は黙っていません。早速アントニーのもとに乗り込むと息子の引き渡しを要求し、聞き入れられなければこの場にて自決すると脅したのです。さすがのアントニーもこれには困り果て、フェオドシーを彼女に引き合わせました。フェオドシーは出てきて自らの決心を切々と語り、最初は頑なに聞き入れようとしなかった母もついに彼の熱意にうたれ、尼僧となってともに神に仕えることを決めたのでした。
 このエピソードには、女が真の信仰への妨げになるという聖職者の偏見が感じられ、フェオドシーの「猛母」も誇張されて描かれている可能性はあります。しかしそうであっても、この当時まだ記録されることの少なかった女性がかくも生き生きと話し、行動し、自らの感情を表現している姿は他ではほとんど見られず、その意味で貴重な史料と言えるでしょう(この話は『ロシア中世物語集』に収録されたフェオドシー聖人伝で読むことができます)。

 少し話がそれましたが、フェオドシーはこのように熱烈な信仰心を持った人物でした。一方で彼はまた(母親譲りか)強靭な肉体にも恵まれ、肉体労働においては他の修道士たちから一目置かれるほどの働きを見せていました。ヴァルラームが去った後に彼が洞窟の指導者として立てられたのも当然であったと言えます。
 そして修道院の長となったフェオドシーは、期待に違わぬ優れた実務能力を発揮しています。洞窟にやって来る修道僧の数はますます増え、また身分高き人々が修道院に財産を寄進することも多くなりました。こうしてペチェルスキーの規模が大きくなると、フェオドシーは洞窟の近くに土地を確保し、教会や僧坊を建設して弟子たちを移り住ませました。彼の伝記によれば「引っ越し」は1062年のことで、少年フェオドシーが洞窟に入ってからちょうど30年が経っていました。
 しかし、フェオドシーの業績としてより重要なのは、彼の時代に修道院の規則が定められたことです。巨大化した修道院を一つのルールに従わせるべく、フェオドシーがお手本に選んだのはコンスタンティノープルの高名なストゥディオス修道院でした。彼はストゥディオスの修道院規則を入手し、そこから礼拝や祈りの方法、聖歌の歌い方、さらには食事に至るまでの秩序を創り上げて自らの弟子たちに与えたのです。
 これをもって、修道院としてのペチェルスキーは完成したと言ってよいでしょう。かつてアントニーが孤独を求めて探し出した小さな洞窟は、今や数多くの修道士が同じ規則の下に暮らす大修道院となりました。そしてこの規則はやがてルーシのスタンダードとなり、他の修道院に借用されていきます。すなわちフェオドシーはペチェルスキーのみならず、ルーシ修道制全体の基礎を定める大きな仕事を成し遂げたわけです。

 実際、ペチェルスキーがルーシにもたらしたものは修道院規則にとどまりません。文学、絵画、音楽等々の側面でも、ビザンツから優れた文物を吸収し、また自ら文化的創作物の発信地であり続けました。キエフ・ルーシの文化が発展する上で、ペチェルスキーは非常に大きな貢献をしています。
 我々が当時を知る上で欠かせない史料である年代記も、多くがこの修道院で作られたと考えられています。とは言え年代記はふつう複数の筆者によって書き継がれるもので、源になった史料はもう分からなくなっている場合が多いのですが、その編集作業はしばしばペチェルスキーをはじめとする修道院で行われていました。原初年代記においても、いくつかの箇所で筆者(編集者)が唐突に「私」という一人称で顔を出し、ペチェルスキーでの生活やフェオドシーについての思い出話を語っています。言うまでもなく彼はペチェルスキーの修道士で、歴史記述の中でさりげなく自己主張する誘惑に抗し切れなかったのでしょう。
 

 …ペチェルスキーこと洞窟修道院の始まりは、以上のようなものでした。アントニーとその弟子たちは、文字通り無から出発してかくも偉大な修道院を築き上げたわけです。これ自体、一つの奇跡と呼べるかもしれません。
 ただしペチェルスキーの急速な発展は、彼らだけではなく彼らの生き方に惹かれた人々によって支えられていたことを忘れてはならないでしょう。全てを捨てて信仰に生きる修道士たち──彼らは、ルーシに現れた新しいタイプのヒーローでした。今まで何度も述べてきたように、ルーシは異教的要素を色濃く残しながら、一方でキリスト教の国として着実に変化し始めていたのです。
 今でもペチェルスキー修道院には巨大な洞窟が残され、その中にはかつてここで生き、そして死んでいった数多くの修道士が眠っています。生前に神の道を求める同志であった修道士たち、彼らは死後もなお同じ洞窟で永遠の「共同生活」を続けているのかもしれません。始祖アントニーが信仰にかけた情熱は、このような形で受け継がれているのです。

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(01.02.23)


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