補説35

ヤロスラヴリ創建物語 
あるいは北東ルーシの発展に関する一つのエピソード─


 ヤロスラヴリという街があります。モスクワの北東約260キロ、大河ヴォルガの畔にたたずみ、ウラジーミルやスーズダリと並んで「黄金の輪」と呼ばれる古都群の一つとなっています。教会や修道院などの歴史的建築物に恵まれた美しい街で、かの「イーゴリ遠征物語」の写本が残されていたことでも有名です。中世ロシアの歴史を物語る貴重な遺産の一つと言えるでしょう。
 さてこの「黄金の輪」は、普通モスクワを起点として考えられることが多く、従ってヤロスラヴリの歴史もモスクワに引きつけて考えられてしまうかもしれません。しかし実のところヤロスラヴリはモスクワの付属都市(プリゴロド)として成立したわけではなく、それどころかモスクワよりも以前から発展していた「先輩」とさえ言える街なのです。

 「ヤロスラヴリ」という名前から想像できるかも知れませんが、この街の起源はふつうヤロスラフ公と結びつけられています。ただし原初年代記にはヤロスラヴリ創建に関連した記事は収録されておりません。我々に資料を提供してくれているのは、より信憑性の薄い伝説というのが実情です。
 伝説の一つはこうです。あるときヤロスラフ公がロストフ地方のヴォルガ川沿岸で狩りを行い、従士団から離れて一人になってしまったことがありました。コトロスリ川がヴォルガに流れ込む合流点にまでやってきたヤロスラフは、そこで一頭の熊に襲われたものの、逆に手にした斧でこれを打ち殺したのです。そして公は事件を記念するため熊を倒した場所に教会を建て、自分の名を冠した街を築かせました。それがヤロスラヴリの起こり、というわけです。
 別のヴァリアントによると、この地は以前「熊の土地」と呼ばれており、いまだキリストの教えに耳を傾けない異教徒の居住地でした。ヤロスラフ公は彼らの間で聖なる獣として崇められていた熊を殺し、住民たちを討ち従えて改宗を強制しました。その跡地に築かれたのがヤロスラヴリの街です。ついでに言えば、これらのエピソードに基づいて今でもヤロスラヴリ市の紋章には熊の意匠が使われ続けています。


 もちろん伝説は伝説であって、現実にヤロスラフが熊を倒すような事件があったかどうかは分かりません。しかしこの記述の中に何らかの象徴的な意味合いを認めるなら、なかなか面白い光景が浮かんでくるように思われます。
 まず第一に、ここに現れているのは(言うまでもなく)公の都市建設活動です。例えばウラジーミルの時代にはペチェネグの攻撃からキエフを守るため南方に多くの街を置いたという記事があり、ヤロスラフ自身も同じ場所に街を建てさせています(1031年)。また本文にも書いたように、1030年にバルト地方へ出兵したヤロスラフは征服地にユーリエフ(現・タルトゥ)の街を築きました。街の名はヤロスラフの洗礼名がゲオルギー(ロシアでは「ユーリー」に変化)だったことに由来しているのですが、これはヤロスラヴリの名の起源と正確に対応しています。
 要するに、当時の公にとって都市を建設することは重要な事業だったのです。もちろん、今日的な意味での「都市」というよりは征服地確保のための要塞に近いものが多かったことでしょう。ヤロスラヴリやタルトゥなどは運良く生き残ったのですが、その後の歴史の中で没落・消滅していった都市も少なくはありませんでした。しかしいずれにせよ、支配地の拡張や防衛のために公が活発に都市建設を行っていたことは確かです。


 次に、ヤロスラヴリ縁起に現れる熊の逸話にも注意を向けてみましょう。その中にはルーシのキリスト教化と都市建設との関係がシンボリックに語られているからです。
 熊という動物は、「聖なる獣」として北方諸民族の間で崇拝の対象となってきました。ロシアでは特にシベリア及び(ヤロスラヴリのある)ヴォルガ沿岸地域において熊信仰が盛んに行われています。従って公による熊の殺害は、ヤロスラヴリがこの地方にもともと住んでいた「異教徒」を討伐・キリスト教化するために建設されたことを象徴していると考えられるのです。先に引用した二番目の伝説では、異教の根絶というモチーフがより明確に観察できるでしょう。
 本論でも少し述べたように、ルーシのキリスト教化は都市でこそ進んでいましたが、公の権力が及びにくい広大な農村地域には異教信仰が根強く生き残っていました。ロシア農民の異教的世界観、あるいは「二重信仰」と呼ばれる異教とキリスト教との混交は、常に教会当局による非難の対象となっています。
 都市は、言うなれば「異教」の大洋に散らばる島のようなものでした。都市に住む聖職者は、自分たちを取り巻く膨大な数の住民をキリストの教えに導くという、いわば大海を乾上がらせるにも似た気の長い作業を強いられていました。一方で同じく都市に常駐していた公の軍隊は、教会に対する異教徒の蜂起を防ぐ役割を担っていたはずです。
 堅固な城壁に守られた都市は、公の権力の出先機関であると当時に、教会にとっても地方における拠点の役割を果たしていました。つまり政治的・宗教的に周辺領域を支配していたわけで、ルーシ都市の重要性はまことに大きなものがあったのです。

 ところで、ヤロスラヴリは首都モスクワの近く(と言っても260キロ近くも離れているのですが)にあることから、ロシアの中央部に位置していると表現できます。現在はそれでいいのですが、キエフ・ルーシ全体から見るとこの地方は「北東ルーシ」と表現され、ヤロスラフ時代には辺境の一つにすぎませんでした。
 当時のルーシの中心は、何と言ってもドニエプル水系にありました。それはつまりビザンツとの交流が非常に大きな意味を持っていたからで、とりわけドニエプル中流域の諸都市(キエフ、チェルニーゴフ、ペレヤスラヴリなど)は交易によって大きな富を蓄え、ルーシの花形とも言うべき存在となっています。これら南方都市がステップに住む遊牧民の脅威にさらされながらも人々を惹きつけたのは、やはり対ビザンツ交易の足場という地理的特典があってのことでした。


 一方で北東ルーシはどうだったでしょうか?地平線の彼方まで草原が広がる南部に対し、北部ロシアの特徴は濃密な森林が支配していることです。北ロシアの森は深く、入り組んでおり、人間の侵入を拒むと同時に豊かな恵みをもたらす存在でもありました。。そして元々この地に住んでいた人々は、ルーシの基本住人である東スラヴ人ではなく、ハンガリー人などと祖を同じくするフィン・ウゴル系の人々でした。つまりスラヴ人たちは、最初は植民者としてこの地方に現れたわけです。
 スラヴ人が北東ルーシに植民した理由の一つは、ドニエプルと並ぶ大河・ヴォルガ川にありました。網の目のようにはり巡らされたヴォルガ水系は東方への入り口であり、これを下ってカスピ海に至ればアラブ人たちとの交易も可能だったのです。こうして、少しずつではありますが、北東ルーシに入って鬱蒼たる大森林と格闘する人々が増え始めました。その過程で、先住民の居住地に浸透する形で、あるいは新しく築いた要塞を中心に、スラヴ人の都市が形成されていきます。早くからこの地方で発展したロストフなどは、すでにオレーグの対ビザンツ条約にもその名が記録されるほどでした。
 そしてヤロスラヴリもまた、北東ルーシに置かれたスラヴ植民の中心地の一つでした。それでなくても続いていた北東部への人の流れは、ヤロスラフ治下における国力の充実を背景にして促進され、おそらくは公の力でヤロスラヴリのような「前線基地」が設けられていったのです。

※ウラジーミルが存命の頃、ヤロスラフが一時的にロストフ公になっていたことを考えると、彼とこの地方には一定の関係があったと考えられます。ヤロスラヴリの建設自体も当時の話かもしれません。

 ところで、先にも書いたように北東ルーシには先住民たるフィン系の人々が住んでいました。しかし彼らは数が少ない上に分散しており、スラヴ人の侵入を押し止める力は持っていませんでした。植民が(比較的)平和裡に進んだのか、あるいは単に記録されていないだけなのか、大規模なスラヴ・フィン戦争が行なわれたかどうかは分かっていません。ヤロスラフ公による熊の殺害の物語から、両者の間に生じた摩擦を感じ取ることもできるでしょう。ともあれ、先住民たちはスラヴ人の支配下に入り、彼らとの混血を繰り返すことになります。モルドヴィン人やウドムルト人など今なお元の民族性を保っている集団も存在しますが、多くのフィン・ウゴル系民族は押し寄せるスラヴ人の波に飲み込まれていきました。
 しかしながら、彼らの痕跡は今でもなおロシア語の語彙や地名、また神話の中などに残っています。後に北東ルーシの都市モスクワを中心とした一大国家が発達し、「ウクライナ人」や「ベラルーシ人」とは分かれて今日にまで至る「ロシア人」が形成されるのですが、彼らの肉体的特徴には多くの面でフィン系民族の名残が見られるそうです。様々な民族や文化を呑み込み、長く複雑な混淆のプロセスを経て、現在の「ロシア」は形成されているのです。

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(00.11.11、06.05.10加筆・修正)


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