補説34

聖ソフィアと黄金の門


 ここに名を挙げられている建築物のうち、おそらく最も有名なのは聖ソフィア教会黄金の門でしょう。両方とも今日なおキエフの街で目にすることができ、ほとんどのガイドブックに載せられている有名観光地なのです(もっとも、日本ではキエフを扱ったガイド自体数少ないのですが)。

 聖ソフィア教会(大聖堂)は、キエフの街を幾度も襲った戦乱にも耐えてヤロスラフ時代の姿をとどめています。ただし(遺憾ながらと言うべきか)、外観に限っては18世紀に「ウクライナ・バロック」と呼ばれるスタイルに改装されており、ロシアでふつうに見かける教会建築とも若干異なる印象を与えています。
 復元図を見ると、もともとのソフィア教会はビザンツの教会建築を忠実に受け継いでいるようです。すなわち中央には大きな丸屋根がそびえ、その周辺をより小型の丸屋根がいくつも取り巻いていました。ロシア教会の丸屋根というと、よく「ねぎ坊主型」とも形容される、中央が膨らんで頂上がとんがった形式を想像されるかもしれませんが、キエフ時代のそれはもっと平たいものです。兄貴分にあたるコンスタンティノープルの聖ソフィアに近い、と言えばお分かりでしょうか。面白いことに、やや時代が下った12世紀後半に完成した教会群(ウラジーミルのウスペンスキー聖堂など)の丸屋根は平べったいビザンツ型と「ねぎ坊主型」との中間的な形をしており、ロシア独自の教会建築が進化していく様を象徴しているかのようです。

 建造当時の姿をよりとどめているのはその内面です。四方の壁や丸屋根の天井に描かれた聖像画は、現在でこそ多くが破損しているものの、完成した当初はまばゆいばかりの光を放って見る者を圧倒したことでしょう(正教に属する教会の豪華さについてはご存知の通り)。その中にはヤロスラフ自身を描いたフレスコ画もあり、また彼の石棺もここに安置されています。
 ただし、ここでも注意すべきは壁画の中にモザイクが多いことです。モザイク画はどちらかというとビザンツで流行したもので、ロシアにはあまり導入されませんでした。しかし当時のルーシは建築や絵画など多くの面でビザンツを手本とし、その様式を忠実に真似ていたと思われます。このモザイク自体、ビザンツから招聘された芸術家の手によるものかもしれません。

 ソフィアの内装に関してもう一つ面白い話があります。それは、ここで発見された多くの落書(グラフィティ)です。
 落書といっても、これは釘のように堅く尖った物による引っかき文字です。それだけに長い年月の間にも消えることなく、現代の壁面修復に際して発見されるまで眠り続けていました。同じような落書はルーシの他の教会でも見つかっているようですが、聖ソフィアの場合は建物自体の古さと量の膨大さによって特に注目すべき存在と言えます。
 内容的には、例えば「何月何日に雷が落ちた」というような一種の覚え書き、公や府主教の登位・死没など重大なニュースを示すもの、また「神よ、汝の奴隷○○を救い給え」といった祈祷文、権力者への請願などが大部分を占めています。この他には、純然たる落書きと解される戯画の類も発見されました。年代の分布は11世紀から17世紀までと非常に広いものです。中には創建者ヤロスラフ公に言及されているものもあり、この種の行為がかなり早い段階から行われていたことを物語っています。つまり、まだ新しい聖堂の壁に傷をつけた不届き者もいたわけですね。
 これが研究者によって注目されるのは、まず第一に、簡潔ではあるものの当時のルーシに起こった重大な出来事が記されているからです。中には年代記に知られていない高位聖職者の任命や諸公会議などを伝えるものもあるほどです。また、祈りや請願の文からは、(年代記作者に限定されない)当時の人々の「生の声」を聞くことができるでしょう。さらに落書は、東スラヴ人の言語やキエフ方言がいかに変化したかを証言する、貴重な言語学的資料でもあるのです。
 言うまでもなく落書を書き付けることができたのは文字を知っており、また聖ソフィアに入ることが可能な人々でした。つまり彼らはルーシでもほんの一握りの、特別なエリート層だったはずです。しかし一部ではあっても文字を使って何かを表現し・それを書き残す欲求、また自分の体験を文字の形にして未来に伝えようという「歴史意識」を持った人々がいたことは非常に興味深い現象と言えるでしょう。キリスト教の導入から数世代にして、ルーシの精神文化は確実に成長を遂げていました。

 一方の「黄金の門」ですが、残念なことにヤロスラフ時代のオリジナルは残っておりません。先にも少し触れたようにキエフの街は多くの戦乱を経験し(1240年のモンゴル襲来は特に有名でしょう)、その中で攻撃正面になりやすい門が幾度となく破壊を受けたのはむしろ当然なくらいでした。19世紀には残骸のみが残っていたようで、当時の写生画には見るも無惨な廃墟となった黄金の門が描かれております。もっとも、残骸なりとも残ることができたのは石造りの功徳と言えないこともないのですが。
 そういうわけで、現在キエフで見ることができる黄金の門は復元されたものです。写真で見るとなかなかの偉容を誇っており、ヤロスラフ時代の栄華を偲ぶことができます。ただし周囲の城壁までは残っておらず、まるで凱旋門のごとく孤立してしまっているのですが、これはやむを得ないことでしょう。ちなみに中身は歴史博物館になっているという話です。

 ところで、「聖ソフィア」と「黄金の門」の組み合わせからは何かを連想されたかもしれません。特にビザンツ史に詳しい方であれば。そう、帝国の首都コンスタンティノープルは、キエフにこれらが建設されるよりはるか以前から聖ソフィア教会と黄金の門を持っていたのです。かのユスティニアヌス大帝が築かせた豪壮華麗なソフィア教会、またビザンツの皇帝たちが凱旋する際に使われた正規の入城門である黄金の門。帝都を代表する二つの建築物の名が、ヤロスラフのキエフでもそのまま用いられたことになります。
 これはもちろん偶然ではないでしょう。当時のコンスタンティノープルといえば空前の経済的繁栄、ずば抜けた文化的水準、また古代ローマの流れを受け継ぐ皇帝たちのおひざ元として政治的にも高い権威を持ち、諸民族の尊敬と羨望を一身に集める「都市の女王」でした。とりわけルーシの人々にとっては、コンスタンティノープルこそが彼らにキリスト教を伝えたのであり、言うなれば「救いの源泉」として強い崇敬の対象であり続けました。
 そこでこの偉大な都市と名を同じくする建築物を造り、その権威をいくらかでも譲り受けることができれば、キエフはルーシのその他の地に対して今までに倍する支配権を発揮するであろう、と考えられても不思議はありません。もちろん我々の観点からすると、たかだか名前を真似ただけでは地方都市の商店街にありがちな「~銀座」のようなもので、何の重みも感じられないでしょう。しかし古代的な観念においては、現代と違って「シンボル」がきわめて重要な役割を果たしていたことを想起する必要があります。例えばキリスト教徒たちは十字架の中に無限の意味を見出し、信仰を象徴する神聖な形象として様々な場で用いていました(その伝統は今でも受け継がれています)。キエフの場合も同じことで、建築物というシンボルを通してコンスタンティノープルの持つ神聖なパワーを少しでもすくい取ることが望まれたのです。
 この二つ以外にも帝都のものと同名の修道院がいくつか築かれていますが、コンスタンティノープルを最もよくシンボライズする建築としてはやはり聖ソフィアと黄金の門にかけられた期待は大きかったと考えられます。

 考えてみれば、コンスタンティノープル自身も「新しいローマ」として築かれたのであり、その建設当初には大競馬場などローマを思い起こす建築物が造られ、ローマと同じ行政区画が設けられていました。すなわち様々な面で「古いローマ」を受け継ぐ存在であることを誇示しようとしたのです。
 一方でルーシにおいても、キエフが衰えた後に新たな首都への名乗りを挙げたスーズダリやウラジーミルなどの街では、やはり古い都から何らかの「シンボル」を譲り受ける(もしくは奪い取る)必要がありました。それはコンスタンティノープル→キエフの場合と同じく修道院の名を模倣することの中によく表れていますし、同じ地名さえも観察することができます(ウラジーミルの「ルィベジ川」など)。またウラジーミルでは今でも「黄金の門」の勇姿を見ることができるし、スーズダリの場合だと、キエフの「ウラジーミルの街」と「ヤロスラフの街」に対応した二重構造の街区をも持っていたということです。よくよく念の入ったことだと言えるでしょう。
 しかし我々の祖先にしても、例えば平城京や平安京などの都市プランでは、明らかに文明化の師匠・中国をお手本としています。洋の東西を問わず、「模倣」は先達に対する敬意を表す手段の一つであるのかもしれません。奈良の都人が見た長安とキエフ人の目に映ったコンスタンティノープル──この二つを対比してみると、なかなか興味深い歴史的情景が浮かんでくるような気がします。

 ところで、コンスタンティノープルの「元祖」聖ソフィア大聖堂は、なおその名を高からしめる一つのエピソードによって飾られています。それは西暦537年、大聖堂の完成式典に臨んだユスティニアヌス大帝を主役とするものです。伝えられているところによれば、光輝く壮麗な聖堂に歩を進めた皇帝は巨大な円蓋の下で立ち止まり、「われらがこの事業を完成するに値すると判断なされた神に栄光あれ!ソロモンよ、われ汝に勝てり!」と叫んだのでした。
 こうした「名台詞」は、たとえそれ自体が大きな意味を持たずともやはり我々の注目を集め、歴史に対する関心を呼び起こすことが多いのは事実でしょう。上記ユスティニアヌスの言葉も、ビザンツ関連の歴史書にはよく引用されております。
 それではキエフの場合はどうか?ヤロスラフは聖ソフィアの竣工に際して気の利いた名文句でも残さなかったのか?というと、これがよく分からないのです。少なくとも原初年代記には何も記されておらず、それどころか1037年に起工したこの教会がいつ出来上がったかさえ定かではないのです。ヤロスラフの父ウラジーミルは、996年に聖母教会(デシャチンナヤ教会の名で知られる)を完成させたとき神を讃える一連の演説を行っており、これは年代記に記録されています。従って、キエフの威勢を示す一大イベントであった聖ソフィア完成に際してヤロスラフが何も言わなかったとは思えないのですが、いずれにせよ我々はそれを知ることができません。
 この辺りが歴史の不条理なところで、どんなに興味深い出来事であっても優れた記録者に恵まれなければ後世に伝えられることはない道理です。つまり運に左右されることが多いのですが、記録者云々ではなく文字で記録されたもの自体が少ないキエフ・ルーシの場合は明らかに「不運」と言えるでしょう。もっとも、本当に不運なのは数百年前のキエフ人ではなく、彼らに興味を持ってしまった我々の方かもしれませんが。

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(00.10.19)


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