補説33

死せるムスチスラフ公への頌歌


 しばしば「勇敢なるムスチスラフ」とも呼ばれるこの公は、恐れを知らぬ戦士であった祖父スヴャトスラフの血をもっともよく受け継いだと言えるでしょう。ウラジーミルの子らの中でも、統治能力に長けた兄ヤロスラフと好一対の優れた人物でした。


 ムスチスラフは父ウラジーミルが亡くなったときの内乱には参加していません。当時彼はまだ幼く、かつキエフから遠いトムタラカーニの地を治めていたからだと思われます。しかし間もなく彼の地において独自の活動をはじめ、本論で述べたようにカフカース方面への遠征を開始しました(1022年)。
 原初年代記によれば、このときカソギ人の公レデジャはムスチスラフに一騎打ちで勝敗を決することを提案し、二人は激しく組打ちを始めました。体格で劣るムスチスラフは徐々に押されていきましたが、心の内で聖母に祈り、勝利の暁には教会の奉献を誓いました。こうしてレデジャをはねのけ、大地に打ちつけてからとどめを刺し、カソギ人を征服したのです。凱旋後、彼は誓いを守ってトムタラカーニに聖母教会を建てました。


 この半ば伝説的な記録からは、古い英雄叙事詩キリスト教的な奇跡物語という新旧二つの要素を感じ取ることができます。部下の誰よりも優れた戦士であり、自らも戦いを恐れない──これはオレーグやスヴャトスラフなどの時代から受け継がれた公の理想像の一つで、ムスチスラフはそれを鮮やかなまでに体現していました。配下の戦士たちもまた公の勇敢さを誇りとし、叙事詩にうたって語り伝えたはずで、上記の場面もそのような(今では失われた)口承芸術の名残をとどめています。
 ついでに言えば、一騎打ちの前に記録されているレデジャの提案、もしもお前が勝てば私の財産と私の妻、私の子どもと私の国を取れ。もしも私が勝てばお前のすべてを取ろうという台詞にも注目できます。妻や子の奪い合いという習慣は、例えばイーゴリ殺害後にドレヴリャーネの公がオリガに言い寄った事例にも現れています(第5章参照)。おそらくこの当時には、勝者が敗者のすべてを手にすることでその神秘的な力をも奪うことができる、という観念が普及していたのでしょう(もちろん純粋な欲望の発露もあったと考えられます。いずれにせよ、力弱き者には残酷な時代でした)。全体的にキリスト教道徳にはなじまない考え方であると言えます。
 しかし一方で、最終的にムスチスラフの勝利を呼んだのは聖母への必死の祈りでした。この点で彼はキリスト教伝来以前の猛々しい公たちと決定的に異なっています。これ以降も公たちは神や聖母、聖人に自らの勝利を祈願し、ルーシの戦いには「正しい信仰」を守る一種の聖戦的なイメージが付与されていきました。公の重要な任務である戦争においても、キリスト教の浸透は少しずつ進んでいたのです。

 1036年、ムスチスラフ公は「狩に出かけ」てそのまま病死した、と年代記には記されています。余程の急死であったことが想像され、あるいは何らかの事故だったのかもしれません。かくして「勇敢なるムスチスラフ」は亡くなり、遺骸は彼自身が定礎した例の聖母教会に葬られました。
 ここでまた原初年代記は短い、しかしながら我々の興味を引く記述を残しています。それは以下のようなものです。

ムスチスラフは身体が太っていて顔が赤く、大きな目をしていた。戦いにおいては勇敢であり、慈悲深く、従士団を非常に愛し、財を惜しまず、飲み食いを妨げなかった。

 これは故人となった公に対する、一種の追悼記事と考えてよいでしょう。内乱に勝利を収めながら権力にそれほどの執着を見せず、かえってルーシ国家の拡張に貢献したムスチスラフの個性に対して、同時代の人々と年代記作者が抱いていたシンパシーが感じられます。
 ただしこの「ムスチスラフ頌歌」をよく見ると、その中に(今までに何度も触れてきたような)古いタイプに属する公の理想像を見ることができます。公の美徳として誉め称えられているのは、彼の肉体的な美しさ、勇敢さ、そして部下の戦士たちへの愛情であり、言い替えれば戦士(あるいは戦士の長)としての資質でした。信仰篤いキリスト教徒という側面は後退し、わずかに「慈悲深く」という文言の中にその痕跡が見られるだけです。当時の公は、何よりもまず戦う人であることが求められていました。そして部下の勇士たちを戦わせるために「財を惜しまず、飲み食いを妨げ」ない、つまり彼らを気前良く養うことも必要とされていたのです(雑話5参照)。
 おそらくムスチスラフの部下たちは、このような言葉で公の性格を描写し、そして賞賛していたのでしょう。もしかすると実際の葬儀において、亡き公を悼み送るときにも使われたのかもしれません。生粋の戦士であったムスチスラフにとってこの上ない捧げものであったと言えます。

 もう少し世代が下ると、公の死に際して年代記が記す「追悼文」にも変化が見られます。信仰心の篤さ、聖職者を敬うこと、等々キリスト教的美徳が表舞台に現れ、讃美されるようになるのです。ここには公自身の意識の、また社会が持つ公の理想像の移り変わりをはっきりと見て取ることができます。時代の変化というものは実に様々な場所に現れるもので、それらを発見することも史料を読む面白さの一つと言えるでしょう。

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(00.09.19)


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