補説32

立ち上がるヴォルフヴィ ─「異教」的世界いまだ死なず─


 1024年、ムスチスラフとの戦いを目前にしたヤロスラフ政権を震撼させたのは、スーズダリ地方で勃発した異教()の反乱でした。原初年代記はその模様を以下のように語っています。

…ヤロスラフは当時ノヴゴロドにいたが、この年に占師たちがスーズダリで蜂起し、悪魔の教えと唆しによって、「これらの人々は豊かな貯えを持っている」と言いながら、裕福な人々を殺した。この国の全域にわたって大きな反乱と飢えとが起こった。すべての人々がヴォルガに沿ってボルガリのもとに行き、穀物を運びこんで来たので、(人々は)生き返った。
 ヤロスラフは占師たちのことを聞いてスーズダリにやって来た。占師たちを捕らえて追放し、また他の者たちを罰して、「神は罪のためにあらゆる国に飢え、悪疫、旱魃、あるいは他の罰を下される。それなのに人間は何も知らないのである」と言った。

 文中に現れる「ボルガリ」とは古代ロシア語でブルガリア人を意味し、ここではドナウ下流に移住したグループと別れてヴォルガ上流域に定住していた人々を指しています。スーズダリでの発生と併せ、この反乱がキエフから遠く離れた北東ルーシで展開したことが分かります。


 より理解しがたいのは「占師」という言葉だと思われます。これはあくまで古代ロシア研究会の訳語で、他には「妖術師」と訳されることもあります。もともとのロシア語は「ヴォルフヴィ(複数形、単数ではヴォルフフ)」といい、例えば研究社の露和辞典を見ると「古代スラヴの魔法使い」という解説があります。基本的にはこれでいいのですが、ただ一点、彼らがキリスト教導入以前の異教信仰と深い関わりを持っていたことを指摘する必要はあるでしょう。
 実際に彼らが何を生業としていたか、など詳しいことはよく分かっていません。とにかくキリスト教の到来と共に異教の神々など「旧時代」の要素は抹殺され、少なくとも公的な記録の中にはほとんど残されませんでした。ヴォルフヴィもまた例外ではなく、彼らの姿は今回のような「非常事態」に際して多少見え隠れするだけです。しかしいずれにせよヴォルフヴィが本質的に異教時代の産物で、キリスト教が公式に導入されてからは日陰の存在となっていたことは間違いないと言えます。

 彼らについての数少ない記録を見ると、ヴォルフヴィたちに期待されていたのは「予言」の能力だったようです。これがよく表れているのが原初年代記912年の(ヴォルフヴィ関連では最古の)記事で、あのオレーグ公が自らの死因について占師や妖術師に質問し、彼らは見事にそれを言い当てた、というものです。補説31で述べたポロツクの例にも見られるように、ヴォルフヴィは公の身辺近くにあって未来を予知し、必要な助言を行うおかかえ予言者のような側面を持っていました。また公に奉仕する者以外にも、人々の要請に応えて予言の能力を発揮する大小さまざまのヴォルフヴィがいたことは容易に想像できます。
 従って彼らを「占師」と訳すのも妥当ではありますが、このような能力は超自然的な存在=神に由来するものと考えられていたはずで、従って異教神に仕える神官をヴォルフヴィのルーツと見ることもできそうです。実際に年代記作者たちも、ヴォルフヴィのバックに超自然的な力が存在していたこと自体は認めていました。もっとも彼らはキリスト教徒としての立場から、ヴォルフヴィの起こす奇跡を(神ならぬ)悪魔の仕業と非難しているのですが。

 1024年の事件においても同じ状況が現れています。飢饉、当時においては致命的とも言えるこの恐るべき現象に際して、人々が頼ったのはやはりヴォルフヴィでした。何と言っても彼らには神秘的な力があり、かかる災厄から逃れる術をも熟知していると思われていたのです。
 しかし飢饉のような非常事態において、人々がキリストの教えではなく古来から伝わる異教的信仰の中に救いを求めたという事実は、ルーシのキリスト教が表面的にしか浸透していなかった現状を十二分に示しています。いくらペルーンの木像を川に放り込むようなパフォーマンスを行おうと、伝統的な宗教観・世界観はマグマのごとくルーシ社会の底を流れ、機会があれば表面にまで噴出する可能性を秘めていました。1024年のスーズダリ蜂起はその一例にすぎず、記録にとどめられなかった同種の事件も多かったと考えられます。

 ところで旧ソ連(や他の共産主義諸国)では、異教や異端などを一種の社会的プロテストとして、つまり支配層に対する民衆の蜂起、「階級闘争」の一形態として理解する研究者が多数を占めていました。この場合の宗教的モチーフは上辺だけで、本質的には封建的支配層とそのイデオロギー的支柱であるキリスト教会に対する蜂起であった、というわけです。
 しかしながら、宗教など社会内の多様な動きを階級対立とのみ結び付けて解釈するのは、やはり画一的にすぎます。例えばヴォルフヴィにしても、その助言に頼ったのが「虐げられた民衆」だけではなかったことは、前記ポロツク公の事例からもお分かりだと思います。階級によってすっぱりと世界観が別れるという図式は、現実の多様性の前にはあまり説得力を持ちません。 
 さらにもう一歩進んで考えるなら、当時のルーシが「階級」に分化していたという前提にも疑問を呈することができるでしょう。ほとんど全ての社会と同じく、ルーシにも支配層と被支配層が存在したことは確かです。しかしリューリク家に独占されていた公はともかく、それを支えていた戦士層=従士団はいまだ身分的に閉鎖されず、一般自由民から上昇する可能性がありました。彼らを西欧封建社会の騎士=貴族、あるいは日本の武士などと同じ封建的支配階級と見なしてよいか、不明な点が多く残されているのです。

 これに関連して、先に挙げた年代記の記述に異なる訳をつける研究者もいます。彼らはヴォルフヴィの「これらの人々は豊かな貯えを持っている」という言葉を「これらの人々は豊かな実りを妨げている」と解し(古代ロシア語では同じ表現)、特定の人々をスケープゴートにして災いを取り除く異教的観念の表れと見ています。また「裕福な人々」も実際は「年老いた人々」と訳すべきで、長命を保つこと自体が奇跡的であったこの時代に老人は超自然的な力を持つとして恐れられ、しばしば天災の原因として排撃された例の一つである、とされます。全体的に富める者に対する貧者の反乱というイメージは後景に退き、純粋に宗教的なモチーフが前面に出いることが分かるかと思います。
 この訳はまだ少数の研究者にしか支持されておらず、どれほど妥当性を持つものかはよく分かりません。しかしこれまで古代ロシア語で書かれた史料が多くマルクス主義史学の観点から訳されてきたことを考えれば、興味深い試みであるとは言えるでしょう。上記の訳にしても、経済的格差だけに蜂起の原因を見てきたソ連史学では考えられなかった解釈で、今後もより広い観点から史料に接することが望まれます。

 とは言え、公などの支配層が宗教的「逸脱者」を自国の秩序を乱しかねないと見て厳しく取り締まったことも事実です。スーズダリ蜂起へのヤロスラフの対応はその一例にすぎません。もともとキリスト教が公の主導でルーシの国教となった経緯もあり、教会は公権力のバックアップを受ながら異教と対峙していました。「階級的」という言葉で割り切れるかどうかはともかく、対立は確かに存在したと言えます。
 しかし異教的世界観は相対的に低い社会層を中心に生き続け、決して死に絶えることはありませんでした(補説22参照)。そして飢饉などに苦しんだ民衆が権力に対する反抗に立ち上がったとき、その先頭にはしばしば旧い信仰の代表者 ─ ヴォルフヴィが見られたのです。

 ※実のところ「異教」という言葉には「真実ならざる教え」のニュアンスが含まれ、自己の信じる宗教以外を否定・軽蔑する場合に使われがちです。このロシア史ページでも何度となく使ってきましたが、本来はもっと慎重になるべきなのかもしれません(「異端」という表現についても同じことが言えるでしょう)。
 ただしキリスト教やイスラム教のようには体系化されていない宗教を「異教」と呼ぶことは通例のようになっており、それらが「~教」という形ではまとまっていない以上、他に適当な用語がないのも事実です。そうした事情を勘案し、このページで「異教」を使用することをご了承下さい。

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(00.08.01)


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