補説31

ポロツク公国の起源


 「ポロツク」と聞いてすぐその地理を思い浮かべることのできる人は余程のロシア通と言えるでしょう(地図はこちらを参照)。現在のポロツクはベラルーシのヴィテプスク州に含まれており、「ロシア通」というのも正確ではないのですが。ルーシの中心と言えばもちろん現ウクライナの国都キエフ、そのキエフと並んで大きな役割を果たしていたのがロシア領ノヴゴロド、そして北西ルーシの重要都市が今ではベラルーシに属しているこのポロツクと、当時の東スラヴ三民族がいまだ共通の歴史的舞台の上で活動していたことが分かります。そして同時に、現代の「国家」による区分をこの時代にまで遡らせるナショナリスティックな主張が無意味であることも。

 ポロツクは北西ルーシの低湿地帯にあり、西ドヴィナ川に面して建設された古い都市です。西ドヴィナを通じてバルト海に近く、またこれを遡上しドニエプル水系に移れば黒海にも到達可能という地理的条件はノヴゴロドに似通っていました。つまりは対バルト交易に有利な環境下にあり、冒険好きのヴァリャーグたちがしばしばバルト海からやって来た点でも共通していたわけです。
 980年、ウラジーミルが兄ヤロポルクと事を構えたときにポロツクを支配していたのはこのようなヴァリャーグ首長の一人、「海の向こうから来た」ログヴォロドでした。リューリク家がノヴゴロド-キエフの線を支配するようになってもなお、ポロツクはログヴォロド公(年代記で彼ははっきり「公」と呼ばれている)の下で独自の国家とも言うべきものを形成していたようです。ウラジーミルがヤロポルクとの開戦に先立ちログヴォロドの娘・ログネジに求婚したのも、この婚姻を通じて「ログヴォロド王朝」を吸収しようという意図があったのかもしれません。しかしログネジが侮辱的な返答をもってこれを拒絶するとウラジーミルは問答無用でポロツクを攻撃し、ログヴォロドを殺してログネジを自分の妻妾の一人に加えました(この間の事情については第7章を参照)。その後ウラジーミルが全ルーシの君主になると、ポロツクは自動的にその属州というべき地位を押しつけられます。このように、リューリク朝以前から各地に存在していた地方勢力は次々とキエフの覇権に飲み込まれていきました。

 しかしポロツクはそうやすやすと自らの独自性を失う運命にはなかったようです。原初年代記988年の項にはウラジーミルの子供たちに関する記述があるのですが、ここでは公子イジャスラフがポロツクに据えられたと明記されています。すなわちログヴォロド殺害からいくらも経たぬうちに、ポロツクは固有の公を持つという地位を回復したわけです。
 このイジャスラフはウラジーミルとログネジとの間に生まれた長子、つまりログヴォロドの嫡孫でした。彼がポロツクに派遣された事情について、諸年代記の中で次のような話が伝えられています。

誇り高いログネジは、彼女を力づくで奪ったウラジーミルが多くの妻を持ち、自分を軽んじていることに耐えられなかった。ある夜、ウラジーミルが傍らで眠っているときログネジは思い切って彼を殺そうとした。間一髪それに気づいた公は自分の手で彼女を殺そうとし、せめて「婚礼の日の晴れ着を着て」死を待つように命じる。しかしウラジーミルが支度をすませたログネジの部屋に入ると、そこには幼い息子・イジャスラフがおり、抜き身の剣を父に渡してこう言った:「父よ、私がここで起こったことの証人となるでしょう」。かくしてウラジーミルはログネジを殺すのをやめ、母と子をポロツクに送ったのである。

 この逸話が実際に起こったかどうかは甚だ疑問ですが、しかし内容的にはある程度まで現実を反映しているように思われます。その第一はログネジ、そして彼女に象徴されるポロツクとキエフとの間に抜きがたい敵意があったこと、第二はイジャスラフがポロツクと深い結びつきをもっていたことです。
 ウラジーミルの統治を嫌々ながら受け入れていたポロツク人たちが、旧主ログヴォロドの血統を最もよく伝えるイジャスラフ公を歓迎したことは容易に想像できます。ウラジーミルにとっても、ポロツクの「不平分子」への妥協としてイジャスラフの派遣は有効と考えられたのでしょう。もし上記の伝説が事実なら、ログネジもまたなつかしい故郷の土を踏んだことになります。


 さらに興味深いのは、イジャスラフ没後もポロツク公の後任人事が行われていないことです。これは、例えばノヴゴロドを治めていたヴィシェスラフの死後、弟のヤロスラフがロストフからノヴゴロド公に転じた事実とまったく対照的です。イジャスラフの死は1001年、生年は分かっていませんが母ログネジがウラジーミルに奪われた980年以降のはずで、おそろしく若死にでした。当然その息子たちも幼かったであろうに、キエフから代理として別の公子がポロツクに送られた形跡はなく、1021年にイジャスラフの子・ブリャチェスラフが登場するまでポロツク公に関する記述はありません。どうやら幼いブリャチェスラフはポロツクに残り、将来この地の公となるべくずっと養育されてきたようなのです。
 おそらくポロツク人たちはイジャスラフとその家系を唯一の支配者としてとらえ、他の公子の派遣を拒んだのでしょう。ブリャチェスラフもまた成長の後にポロツク公として行動し、キエフ政権に対して敵対的な態度すら示したことは本論に書いた通りです。また、ポロツクの公位はこれ以降もイジャスラフの子孫によって占められていきました。「ルーシ」という大きな枠組みからは外れないものの、これはすでにキエフの権力から半ば独立した一つの公国であった、と言うことができます。

 なぜルーシの諸地方の中でポロツクが自立性を保つことができたのか。歴代ポロツク公の独立政策だけをその理由として挙げることはできないでしょう(逆に、必要な前提条件が満たされていたからこそこのような政策が可能であった、とも言える)。
 やはり地理的な条件は大きかったと思われます。先に書いたごとくポロツクは西ドヴィナ水系を掌握する位置にあり、対バルト貿易で利益を上げることができました。従って、(ノヴゴロドなどを通じて)バルトへの交易ルートを独占しようとするキエフ政権に対し、遠心的な傾向が生まれるのは自然な成り行きでした。一方でポロツク地方が鬱蒼たる森林と沼沢地とでキエフから隔絶されていたことも、こうした動きに拍車をかけたと考えられます。
 さらに、この地方に住んでいた種族の問題に目を向けることにします。イパーチー年代記1128年の記事、すなわちヤロスラフ時代からすでに一世紀も後のことですが、ここではキエフ大公ムスチスラフの対ポロツク遠征が「クリヴィチへの遠征」と表現されています(ちなみにムスチスラフはヤロスラフの曾孫に当たる人物)。このクリヴィチというのは、ポロツクをはじめとする北西ルーシに広く居住していた種族でした。
 これまで何度も触れたように、オレーグ以来の歴代キエフ公は諸種族を押さえつけてルーシ全土を統合するのに腐心してきました。例えばドレヴリャーネ族との死闘などは記憶に残るところですが(第5章など参照)、努力の甲斐あってかヤロスラフ公の時代ともなると年代記に種族の名前はほとんど現れなくなり、キエフの覇権の下でルーシの同質化が進んでいく様子が分かります。しかしそれからさらに100年後、ポロツクの地はいまだに種族の名で表現されているのです。
 もちろんこの時代にまでかつての種族が完全な形で残っていたとは限りません。クリヴィチの故地に住んでいた住人をただ漠然とそう呼んでいた可能性もあります。しかしそうであってもポロツクでいにしえの種族名が生き残っていたことは事実で、おそらく比較的後期まで種族時代の記憶が保たれていたのでしょう。「ログヴォロド朝」のみならず、クリヴィチ族の伝統もまたポロツクの独自性を形成する上で大きな役割を果たしたものと考えられます。

 もう一点、原初年代記に現れた興味深い情報を紹介しておきましょう。それは例のブリャチェスラフの子で彼の死後にポロツク公となったフセスラフ(この人物についてはいずれ詳しく述べる機会があると思います)の誕生に関する、以下のような記事です。

彼(フセスラフ)は母が魔法によって産んだのである。母が彼を産んだとき、彼の頭に大網膜があった。占師たちは彼の母に「見なさい、大網膜があります。彼に(それを)結び付けて下さいそしてそれを一生の間身につけさせて下さい」と言った。フセスラフはそれを今でも身につけている。このために彼は血を流すことを容赦しないのである。

 フセスラフ公は同時代人に一種の半神的な超人というイメージを持たれていたようで、あの『イーゴリ遠征物語』でも狼に変身する異能の持ち主として描かれています。その源流がここに挙げたエピソードにあることは間違いないでしょう。
 興味深いのは、フセスラフ及びその母が「占師」を身近におき、彼らの助言に従っていたことです。占師についても後に触れる予定ですが、要するにこれは異教時代の神官の生き残りで、キリスト教の普及によって当然姿を消すべき存在でした。それが、ここポロツクでは支配層の近辺にまで現れているのです。
 本文で述べたスーズダリ地方の反乱にも見られるように、キリスト教化されたルーシで異教がなおも生き残っていたことは確かです。しかし「占師」が公の日常生活に深い影響を与えている、少なくともそれが年代記に公然と記されているという例は他にありません。もちろんポロツクにもまたキリスト教は浸透していたのですが、それでも異様的要素が他地域より強く残り、文化面での独自性を支えていたことは十分考えられます。


 南方のはてしない平原に向かって開放され、ビザンツと強い結びつきを持ち、そのキリスト教文化をルーシ全土に広めようとするキエフに対し、北ルーシの森と沼地に囲まれたポロツクはバルトとの交易に立脚し、いまだ異教時代の魔術的な雰囲気を漂わせていました。両者の違いは明らかです。
 表面上はキエフの支配権を受け入れながらも、ポロツクは固有の文化的・政治的伝統を保ち続けていました。今日のように通信・交通が発達していない時代にこうした地方的独自性を圧殺することは難しかったと言えます。とりわけルーシのように巨大な国家ではなおさらでした。ここに、キエフによる「統一」の困難さと限界を見ることができるでしょう。

◆◆◆◆◆◆◆

 最後にもう少し補足をしておきます。現在のポロツクがベラルーシに属していることは先に述べたとおりですが、実を言うとこのポロツク公国こそがかの国のルーツであった、とする見方があるらしいのです。
 キエフ・ルーシの崩壊とモンゴルの侵入(13世紀中葉)後、ポロツクを含む西方ルーシ諸地域はリトアニア及びポーランドの傘下に入っていきます。この中でもかつてポロツク公国に属していた地方は一体性を保ち続け、やがて近代にベラルーシ民族として再生する ─── 簡単に言うとこのような図式になります。ちなみにベラルーシの首都・ミンスクがポロツク公国の一都市であったことは確かです。しかし「ポロツク人」のアイデンティティがそれほど後代にまで保たれたか、近代以降のベラルーシに直結できるか、には疑問なしとしません。自民族のルーツをなるべく古い時代に求める心性もよくありがちと言えます。言語的な連続性(古代ポロツク方言と現代ベラルーシ語)など、他にも検討が必要とされる問題はあるでしょう。
 ところで、ベラルーシはウクライナなどと比べてそれほどナショナリズムの高揚が激しくない、言うなればおとなしい印象を与えている国です。しかしそのベラルーシで、「反抗的な」ポロツクを自らの源流と見なす考え方があるのには何となく面白味を感じます。こんなことを言うとベラルーシの人に怒られるかもしれませんが。

(第12章へ�)

(00.07.14)


キエフ史概説へ戻る

ロシア史のページへ戻る

洞窟修道院へ戻る