補説30
「ヤロスラフのプラウダ」
今日、「ルースカヤ・プラウダ」の写本は年代記や教会関係文書など様々な資料の中に見出されています。これら諸写本間には当然のことながら食い違いがあり、もとの形態の復元は容易なことではありません。加えてその条文をどう解釈するかも古くから研究者たちの議論の的となっています。しかしいずれにせよプラウダがキエフ国家の生の姿を伝える貴重な資料であることは間違いなく、年代記とともにルーシ研究の柱と言えるでしょう。
プラウダの写本群は「拡大本」と「簡素本」と呼ばれる二つのグループに大別されますが、ノヴゴロド第一年代記に収められているのは簡素本の方で、今問題としているのはその中でも「ヤロスラフのプラウダ」と呼ばれている部分です。簡素本の後半には「ヤロスラフの子らのプラウダ」が含まれ、これについてはいずれまた取り上げる機会もあると思います。
それでは「ヤロスラフのプラウダ」の内容に立ち入ってみましょう。本論でも述べたように、プラウダはその内容のほとんどが刑法から成り立っており、これこれの犯罪を犯した者には以下の罰則、という規定が何度も繰り返されます。また犯人が不明である場合の捜査や裁判手続きに言及した条項もいくつか含まれています。また全体を見通すなら、単に犯罪者を処罰する方法だけでなく、当時において何が犯罪と見なされたか、どういう形で解決することが望ましいと考えられていたか等、ルーシ社会についてのより深い情報を期待できるものです。
プラウダはまず「血讐」(もしくは「血の復讐」)の規定から始められています。「血の復讐」とは何やら怪しげな響きがありますが、これは「血縁者による復讐」を意味し、ルーシのみならず古代社会においては広く認められた考え方でした。具体的には殺人が行われた場合、その犯人に対して被害者の兄弟、親、子、甥が復讐すべしという規定で、復讐者がいない場合に限っては罰金が課されることになっていました。血讐の問題は非常に重要なものであるため、もう少し後で詳しく述べることにします。
続いて一連の傷害事件に対する刑罰規定が列挙されています。一般的な傷害事件に対しては本人の「復讐」が許され、それが不可能であるときは罰金が課されました。多少の例外を除いて死刑や体刑は存在していません。
死刑の不在は当時の法観念を示すものですが、一方で罰金刑が広く行き渡っていたのはルーシ全土に共通の通貨単位が普及しつつあったことと無関係ではないでしょう。貨幣の普及はまたビザンツ等との交易による商業の繁栄、及びキエフ公の権力によるルーシ諸地域の統一から生起したはずで、この一点からもプラウダがルーシ社会の実状を映し出していることが分かるかと思います。ちなみに当時の通貨単位はグリヴナといい、多くはコインではなく棒状の銀という形をとっていました(その他にアラブやビザンツからの輸入貨幣も存在した。ウラジーミル公などの肖像を入れた純ルーシ製硬貨も存在するが少数にとどまる)。
このカテゴリー中で最も高額の罰金(40グリヴナ)を課されたのは、腕に切りつけて切断するか、またはそれが使いものにならなくなった場合でした。言うまでもなく腕は労働を含め人間の生活に欠くべからざる器官で、これを損なうことが大きな罪と見なされていたのも当然でしょう。面白いのはこれに次ぐ高額の罰金刑(12グリヴナ)の対象の中に「頭髪・髭への攻撃」が含まれていることです。古代社会において頭髪や髭は現代にもまして重要なものと考えられており(こちらを参照のこと)、それらを損なうことは一種の名誉毀損・人格への攻撃となりうるものでした。当時の名誉・道徳観が法に反映されている点で興味深い例と言えます。
続いていくつかの条項が並んでおり、中でも(殺人・傷害と並んでポピュラーな犯罪たる)盗難についての規定がその中核となっています。盗難に対する刑罰は全て罰金でした。
ここで盗難の対象として想定されている品目はそれほど多くなく、衣服・馬・武器(槍と盾)、それに奴隷でした。注目すべきは武器や馬で、これらが財産としてそれほど珍しくなかったことを示唆しています。すなわち当時のルーシ社会は武器や武装する権利が支配層(騎士階級)に独占される段階には至っておらず、戦時には一般自由民も戦士となって戦う可能性のあった、よりプリミティヴな社会であったと言えるでしょう。キエフ時代の軍と言えば公の従士団が有名ですが、一般自由民からなる戦士団もまた重要な位置を占めていました。
同じように奴隷もポピュラーな存在であったと言えます。プラウダによれば自由人が奴隷に殴られたなら彼はその奴隷を打ち殺すとされており、当時の奴隷が置かれた状況を物語っています。奴隷の逃亡・盗難もよくあったトラブルのようで、行方不明になった奴隷が他人の下にいるのを発見した場合についての規定は(他の犯罪に関する規定より)はるかに複雑なものでした。また逃亡奴隷を転売する奴隷商人についての言及も見られます。奴隷は売買の対象であり、おそらくビザンツやアラブなどへの重要な「輸出品目」でもあったのでしょう。*****
「ヤロスラフのプラウダ」を大きな鏡としてみるなら、そこに映し出されたルーシ社会は多くの古い要素を引きずっています。その最たるものは、冒頭に殺人者に対する「血讐」の権利が明記されていることでしょう。これは、言うなれば個人の安全を血縁共同体によって保障する原則で、社会の発展と共に消滅しつつある思想でした。
公の権力にとって、血の復讐は明らかに好ましいものではありませんでした。言うまでもなく殺人は人間社会の中で最も基本的かつ重大な犯罪で、それに対する制裁が公共の裁判ではなく被害者の親族によって行われるのは、つまるところ血縁共同体が一定の力を持ち公の権力といえどもそれに介入できないことを意味しているからです。公はキエフを中心とする統一を進める過程で、それまでルーシに存在したドレヴリャーネなど様々な種族を解体し自己の権力の下に一元化していく必要がありましたが、これらの種族は血縁原理から成り立つ巨大な共同体と言えるものでした。そして「血の復讐」が公の発した法令にまで堂々と明記されているからには、旧来の血縁原理はいまだ色濃く残っていたと考えられるのです。
しかしプラウダは一方で、旧来の血縁原理が解体しつつあり、それに代わる形で公の権力が社会の隅々に行き渡り始めていたことをも物語っています。この場合、殺人者に対する復讐者がいないときに罰金を課すという規定に注目する必要があります。
ルーシの社会が発展し人の交流が激しくなると、どうしても血縁共同体を単位として全てを解決することは難しくなってきます。例えばキエフ人が商用などでノヴゴロドを訪れる場合、彼は自分を守ってくれるであろう親族をひきつれて旅をするわけにはいかず、異郷において「よそ者」とならざるを得ません。このような場合、血縁共同体的なルールしか存在しないとするなら彼にとって事態は極めて不都合になるわけです。従って「復讐者がいない」者をも罰金規定によって保護し、予想される紛争に対応することは、公にとっても社会にとっても重要でした。
更にまた、プラウダに定められた「血讐」の適用範囲にも注意してみましょう。規定によれば、殺害者に対して復讐するのは故人の親・子・兄弟そして甥で、それよりも親等の遠い者への言及はありません。血縁者の誰かが殺されただけで一族全てが復讐に立ち上がるという事態は想定されていないのです。
もちろんこれより血のつながりが薄い者による復讐が禁じられていた証拠はありません。しかしながら、実際に法の中で明記されているのは(上記のように)近い縁者だけで、血讐適用の範囲が狭められつつあった事実が法に反映されているとも考えられます。いずれにせよこの時代は、血讐という考え方が徐々に新しい法概念と交替する、一種の過渡的な時代であったと言うことができるでしょう。
公の権力の伸長を示すもう一つの例として、今度は罰金について考えたいと思います。実のところ、ヤロスラフのプラウダには犯罪に対する罰金の額だけが定められていて、それを誰に払うかという肝心な情報を欠いている場合が少なくありません。常識的に考えれば受取人は被害者かその遺族であるはずだし、現にそう規定した条文もあります。しかし年代記には公が罰金を受け取っていたと考える有力な証拠が残されています。それはウラジーミルの治世のことで、以前に一度紹介したことがあるのですが煩を恐れずここで繰り返してみましょう。
話はまず、キリスト教を受け入れたウラジーミル公のもとに「主教たち」がやってきて、盗賊に対する死刑導入を助言する場面から始まります。公はこれを聞き入れ、罰金刑を死刑に切り替えて治安の維持を図りました。しかし間もなく別の人物が、「戦いが多い」ので罰金刑を復活させてそれを「武器や馬のために」使うことを勧めます。結局ウラジーミルはこれに従い、「父と祖父の定めに従って」、つまり従来からあった法に従って統治を行いました。この記事を信じるなら、公は犯罪に対して支払われた罰金を受け取る権利を持ち、しかもそれを戦費調達のための税と見なしていたことになります。
より決定的な史料は、これより時代が下ってからできた「ヤロスラフの子らのプラウダ」です。ここには人命金(殺人に対する罰金)徴収者が周辺の住民から食糧と金を受け取るという条項が含まれ、しかもそれがヤロスラフ時代に規定されたという但し書きまであるのです。人命金徴収者はおそらく公から派遣されてきた家臣でしょう。彼が住民から一定の期間内に「食えるだけの食糧を提供される」という表現は、これを巡回徴貢の一変種と考えるなら、公から現物税を取り立てる権利を与えられたと解釈することもできます。キエフ時代の公がどのようにして収入を得ていたか、を物語る史料は意外なほど少ないのですが、ここに挙げられている罰金もおそらく重要な財源だったと考えられます。
こうして公は裁判権を独占することで自らの権力を強化し、また収入をも増やしていきました。支配者が法の整備を通じ、「調停者」として社会に服従を要求するという構図は珍しいものではありません。キエフの公も同じ過程をたどりつつありました。
ただし、この時代は公の権力はいまだ社会内で絶対的なものとはなっていませんでした。前記の如く「血讐」はまだ法に明記されていたし、またウラジーミルが罰金を「戦争に使う」ために復活させた事実も、公が収入を恣意的に使う権利はないという通念を表しているかのように思われます。当時の軍勢は閉鎖的な軍事エリート層だけではなく、より広い自由民層からも参加者を得て編成されており、戦争は一種の社会的事業と言えます。とりわけ遊牧民に対する防衛戦においてこの性格は顕著なものでした。従って、公は社会の要請に応える形で軍を整え、指揮しなければなりませんでした。公に与えられた権利や税も、彼の果たした役割に対する代償だったのです。
このように、プラウダの中には崩れつつある旧来の血縁共同体的な結合原理と、それに代わる形で発達してきた公の権力という二つのファクター、両者のせめぎ会いを見て取ることができます。プラウダがルーシを知る一級の史料である理由の一つはここにあります。より時代が下ってから作成(改訂)された他のプラウダと比べるなら、社会のダイナミクスがより明らかなものとなるでしょう。
最後に、ヤロスラフのプラウダが伝えている別の情報のことを述べておきます。それは盗難規定の中にある「ミール」という言葉について、です。この規定によると、もし馬や武器や衣服を盗まれたものが「自己のミールの中で」それを見つけた場合、彼はそれを取り返し、かつ3グリヴナの賠償金を請求することになっていました。
これだけではあまり意味がよく分かりませんが、その次の項目を読むとプラウダの言わんとしていることは比較的はっきりしてくるように思います。すなわち、もし誰かのところで(おそらくは自己のミール以外で)盗難品を見つけた場合、彼はそれを直ちに取り戻すことはできず、保持していた者との「対決」、あるいは保証人を立てるという手続きを経る必要がありました。つまりミールはそのメンバーを保護し、よそ者より強い権利を与えた一種の共同体と考えられます。これがプラウダに明記されているからには、ミールの機能は法的にも認められていたのです。
「ミール」ははるかに時代が下った後、近代以降にも使用されている言葉です。この場合のミールは完全に「農村共同体」を意味し、ロシア農奴制史を考える上で非常に重要な現象となっています。農村共同体としてのミールと直接的な関係があるかどうかはともかく、キエフ・ルーシにおいて同じ名の共同体が存在し、公の法に明記されるほどであったことは注目すべきでしょう。こうした共同体は、ルーシの人々が社会生活を営む際に基本的な役割を果たしていたと考えられます。
通常、年代記で扱われるのは公や教会など「天下国家に関わる」出来事のみで、一般民衆あるいは日常生活が記録されることはほとんどありません。ミールのように社会の末端にある組織は、たとえそれが人々の生活と密接な関係を持っていたとしても、現代の我々にまで届く声を発さぬまま歴史の中に埋もれていくのが常でした。しかしプラウダはさすがに実用に供するための法典だけあって、断片的にではありますがミールのような存在にも言及してくれています。この点においても、プラウダは年代記記述と補完しあってルーシの社会を再現するために欠かせない資料なのです。
(00.06.22)
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