補説29

ヤロスラフの戦後処理


 ヤロスラフの治世は非常に長いだけでなく、ルーシに様々な転機をもたらした重要な時代でした。それについては次章以降で語られますが、ここではさしあたって内戦に勝利を収めたヤロスラフの「戦後処理」と言える事績を、主に原初年代記以外の史料から描き出してみたいと思います。

 「聖人」となったボリスとグレープの伝記(つまり聖人伝)、及びそれを典拠としたと思われるいくつかの年代記は、ヤロスラフがルーシの全権を握った後でボリスとグレープの埋葬を行う話を記録しています。ここで問題になったのが亡骸の所在で、ヴィシェゴロドに葬られていたボリスはともかくグレープの行方は杳として知れませんでした。しかし間もなくグレープの殺されたスモレンスク地方の荒野で不思議な灯を見たという報告があり、ヤロスラフがその場所を探索させたところ遺体を見つけることができました。そこで人々は彼をヴィシェゴロドなる兄ボリスと同じ場所に葬ったのですが、何という奇跡か、幾年も荒野に放置されていたにも関わらず遺体は清らかで芳香すら漂わせていたのでした。この後も両聖人の遺体は盲人に視力を与えるなど驚くべき奇跡を起こし、人々の尊敬と崇拝の対象になっていきます。
 これらはまず標準的な聖人伝記術と言える内容ですが、しかし考えてみるとおかしな部分はあります。ボリスとグレープが殺害されたのが1015年、一方ヤロスラフが最終的に勝利したのが1019年で、この間に4年もの歳月が流れ去ったわけです。ましてヤロスラフは一時的にキエフを奪回しているのに(1016~18年)、気の毒にも両聖人の遺体は放置されていたことになってしまいます。予想されるスヴャトポルクの反撃に対処するためそれどころではなかったのかもしれませんが、ちょっと薄情な印象は拭えません。

 こうした細部における矛盾は聖人伝の常で、神の偉大さを示すという最終的な目標さえ達成できれば少しばかりのリアリティには拘泥しないのがルール(?)でした。行方不明であったグレープの遺体をヤロスラフが探し求める、という逸話は原初年代記には収められておらず、これがボリスとグレープの聖性をいや増すために作られた物語であるとも考えられそうです。


 ただしヤロスラフにとって亡き弟たちを聖化することは自然であり、あるいはそれ以上に必要ですらありました。彼は父ウラジーミルからストレートに権力を継承したわけではなく、逆に反抗的な態度をとって懲罰的遠征を受けそうになったことは本章で述べたとおりです。
 従って、父の死に引き続いて正当な後継者たるボリスがスヴャトポルクに殺害されたのは、言葉は悪いですがヤロスラフにとっては非常なる幸運だったとさえ言えます。これによって彼は正当な後継者の「仇を討つ」チャンスを得、今までのいきさつを反故にして権力を手中にすることができました。もちろん死んでしまったボリス(とグレープ)は最早ライバルたり得ず、いくら彼らの評判が上がろうとヤロスラフの地位を脅かすことはないわけです。
 ヤロスラフがスヴャトポルクとの最後の一戦を前にして弟たちのために祈った、とは原初年代記にも伝えられるエピソードですが、さらに一歩進んで彼が(聖人伝記事のように)二人を改葬し、聖人としてルーシの人々の記憶の中に定着させようとしたのは十分に考えられることです。二人の存在が高められるほど、その「後継者」たるヤロスラフの地位も高まるわけですから。そして一方スヴャトポルクは、ますます呪うべき兄弟殺しとして忌み嫌われていくようになります。結局のところ彼はヤロスラフの継承劇の中で必要不可欠な、だがろくでもない役割を割り振られたのでした。

 さてこれとは別に、原初年代記では語られていないもう一つの幕間劇がありました。その主役はノヴゴロド代官コスニャチン、すなわちヤロスラフの権力掌握に重要な役割を果たした人物です。彼はウラジーミルの伯父にして腹心・ドブルィニャの息子(つまりウラジーミルのいとこ)にあたり、公一族と血縁関係を持つ上に今回の働き、この後もさぞヤロスラフに重用されたのでは…と思われるかもしれません。ところが原初年代記では以後彼の名前が現れることはなく、ドブルィニャの子・コスニャチンはこの時点で消息を絶ってしまうのです。
 これに対応する情報は「ニコン年代記」の中にありました。すなわち1020年、勝利者ヤロスラフが統治を始めたことを伝える記事の直後に次のように書かれています。

「この時、コスニャチンはノヴゴロドにいた。ヤロスラフは彼に対して怒りを抱き、彼を3年の間ロストフに閉じこめた。そして彼をオカ川なるムーロムにおいて殺すよう命じた」

つまりコスニャチンはヤロスラフへの功績に報いられるどころか、却って彼と対立して死を賜るという筋書きになっているのです。確認した限りでは「ノヴゴロド第四年代記」でも、同じ場面でコスニャチンの処刑が伝えられています。
 この情報をどこまで信用していいのか、にわかには判断できません。というのも「ニコン年代記」は比較的後期に成立し、扱われている年代が長い(最古代~16・7世紀)だけでなく他の年代記にはない豊富な記事を含んでいるのですが、一方で民間伝承などから無批判に取り込まれたり、あるいはルーシの栄光を讃えるための粉飾が見られたりと、信憑性という点で疑問符がつけられる記事も少なくはないからです。つまり余所では見られない貴重な情報とまったくのまがいものが混在している、いわば研究者泣かせの史料と言えるのです。


 しかし事件そのものを考えるなら、これは充分あり得たことではないか、という印象を受けるのも事実です。内戦の終盤でコスニャチンがヤロスラフを助け、スヴャトポルクへの勝利に決定的な役割を果たしたのは先に述べたとおりですが、一方また「(ヴァリャーグの地への)逃亡を実力で阻み、今一度スヴャトポルクと戦うことを強要した」という点で、公の意志を越えた自立的な行動にすら出ていました。従ってヤロスラフがコスニャチンに対して感謝の意よりもむしろ警戒感を強く持ち、全てが終わった後に彼を抹殺したことは充分考えられるのです。


 またもう一歩踏み込んで、公がコスニャチン個人ではなくノヴゴロド人全体に対して抱いていた警戒感を考慮してもよいでしょう。当時のノヴゴロドは海外貿易から大きな利益を得、力を蓄えていました。ヤロスラフは既にウラジーミルの存命中からキエフに対抗する動きを見せていましたが、これもノヴゴロド市民の力に支えられてのことと言えますし、ヴァリャーグ傭兵とノヴゴロド人との間に紛争が起きたときも最終的には後者に対して協力を要請しています(補説25、なお17も参照)。また民会が早くから組織され、公の権力と並ぶ重要な役割を果たしていたのもノヴゴロドの特色の一つでした。
 要するにノヴゴロド人は公の権力からの自立さえ可能な、大きな潜在力を持っていたと言えます。特に彼らが「海の彼方」からヴァリャーグを引き入れたとき、キエフに与える脅威は巨大なものでした(いにしえのオレーグ以来、キエフの征服者は全て北方からやって来たことを思い出して下さい)。ルーシの政治的中心がキエフに移ったにもかかわらず、と言うよりはむしろそれゆえにノヴゴロド人たちはキエフに反抗し、荒々しい戦士達を何度も南に向けて解き放ってきたのです。
 ヤロスラフもまたそのようなエネルギーを利用してルーシの支配者となったのですが、いざキエフの玉座に着いてしまうと逆に北方に対して警戒せずにはいられなかったと思われます。その手始めとして、ノヴゴロドで大きな力を有していた代官コスニャチンを葬り去ったのではないでしょうか。一方で「ノヴゴロド第一年代記」などでは彼が勝利の後ノヴゴロド人たちに褒美を与えたという記事があり、いわばアメとムチとを使い分けることでノヴゴロドをキエフの支配下につなぎ止めようと試みたのです。
 また「原初年代記」によれば、ヤロスラフはその治世を通じて何度もノヴゴロドに滞在している様子がうかがえます。これはヴァリャーグ傭兵をはじめとしてノヴゴロドの力を借りると同時に、その自立的な動きを押さえる意図もあったと考えられます。最終的にヤロスラフは長子ウラジーミルを送り込み、ノヴゴロドをキエフのコントロール下においたのでした。

 ここで述べたことがどれだけ現実と合致しているか、はっきりとは分かりません。しかし有能で抜け目のない支配者であったヤロスラフが、内戦の混乱を収拾するにあたってこのような「戦後処理」を行い、自らの治世の布石にしようとしたことは充分考えられるのです。ともあれルーシはウラジーミルに引き続いて強力な支配者を迎え、新たな段階へと進みつつありました。

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(00.04.23)


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