補説28
ポーランドという隣人
最初期のルーシにおいてとりわけ南(ビザンツ帝国・ステップ勢力)と北(ヴァリャーギ)との関係が目につくのに対し、ウラジーミルの頃になると西方との関わりが重要性を増してきます。西方すなわちポーランド、チェコ、ハンガリーなどカトリックに属する国々ですが、中でも直接国境を接するポーランドとの関係はルーシの外交史を考える上で無視し得ないものになっています。
ポーランド(ポーランド人自身の呼び方によればポルスカ)は西スラヴ人の国家で、ポラニェ(「平地」の意)という名の種族を中心に形成されました。記録に初めて現れるのは10世紀半ば以降ですが、それまで徐々に諸種族統合の過程が進んだと考えられています。あたかもルーシではスヴャトスラフ・ウラジーミルの治世、東スラヴ諸族にキエフの権威を認めさせるべく戦いを繰り返していた時期で、国家形成のペースとしてはそう変わらないことが分かります。
伝説によれば初代のポーランド公は農夫出身のピャストという人物で、ポーランド最初の王朝も彼の名をとってピャスト朝と呼ばれていますが、リューリクと同じく実在性には疑問が持たれているようです。
その存在が確実になるのはミェシコ1世(992年没)以降です。ミェシコは西スラヴ諸部族の統合を進めてポーランド国家の基礎を築き、更にキリスト教の導入(966年)によってヨーロッパ世界にも独立国として認められるようになります。この点で彼の事業はキエフのウラジーミルと似通っています。ただし、ウラジーミルの正教に対し彼が受け入れたのはカトリックでした。ポーランドはルーシと違ってビザンツ帝国との接触をあまり持っていなかったため当然の選択とも言えるのですが、しかしこれによってもう一つの「帝国」すなわちドイツの神聖ローマ帝国に強い影響を受けることになります。
神聖ローマ帝国は西方キリスト教世界で最高の権威を持ち、またこの時代には政治・軍事的にも強い力を保っていました。これはポーランドとしても他人事ではなく、キリスト教を受け入れない限りこの強力な隣人から「異教徒」として戦争を仕掛けられる可能性がありました。しかし一旦改宗してしまえばその危険からは免れ、キリスト教国の一員として対等の外交が期待でき、しかも自らが「異教徒の改宗」という錦の御旗を掲げて周辺諸部族を併合することができたのです。このように、キリスト教化はミェシコのポーランドに多大な利益をもたらすはずでした。
ただしミェシコは事を運ぶにあたっては慎重でした。帝国に近いザクセン系の聖職者を通じての改宗はポーランド教会の独立性を守る上で非常に危険であり、また当時の教会が国政の上でも大きな役割を果たしていたことを考えれば、ポーランド国家自体に対する帝国の干渉につながる可能性もあったのです。このためミェシコはまず先に改宗していたボヘミア(チェコ)公の娘と結婚し、それを契機として洗礼を受けました(966年のことです)。またポズナンに置かれた司教座はローマ教皇に直属し、帝国内の大司教座には監督されていません。更にミェシコは死の直前にポーランド自体を教皇に寄進し、あらためてそれを領地として受け取るという手続きを行ったと伝えられています。
これらは一種の遠交近攻策で、ローマの権威を利用して帝国からの影響力を封じる目的があったと思われます。以後ポーランドは熱心なカトリック国となり、ローマ教皇とも比較的近い関係を保ちますが、その出発点はこのような状況でした。
ウラジーミル及びその子らの世代のルーシと大きな関わりを持ったボレスワフ1世はミェシコの子に当たります。彼は「勇敢王」(または勇敢公)というあだ名を奉られるほど優れた武将で、ルーシの記録(原初年代記)でも次のようなエピソードを伝えています。ポーランド軍がヤロスラフ軍と対峙しているとき、ヤロスラフの部下が大声でボレスワフを罵りました。これを聞いたボレスワフは配下の従士団に向かって「もしもお前たちがこの悪口を口惜しく思わないなら、私は一人で生命を捨てよう」と言い放ち、先頭に立って突撃しました。彼の軍勢はこれに続き、ヤロスラフ軍は不意をつかれて壊滅しています。同じ箇所の記述によれば彼は「馬に乗ることができないほど大男で重かった」とされ、大兵肥満の豪傑というイメージが浮かび上がってきます。
ただしボレスワフは単なる勇士というにとどまらず、多方面でその辣腕を振るっています。彼の時代にポーランドはその領土を拡大し、国際的な威信を大いに高めました。本文で述べたとおり、東方においては1018年のキエフ遠征を通じて東ガーリチの町々(西ブグ川沿いのチェルヴェン、ペレムィシリなど)を奪い返し、また西方ではボヘミアに軍を進めて一時的にそれを併合さえしています。
領土面でと同じく、あるいはそれ以上の成功を収めたのが教会政策でした。1000年、ボレスワフは聖アダルベルト(ヴォイチェフ)の墓参りにやってきた神聖ローマ皇帝オットー3世と会談し、首府グニェズノに大司教座を、またその下に4つの司教座を設置することに成功します。ほどなくしてオットー3世が亡くなると帝国との協調路線は破綻しますが、ともかくもポーランド教会が飛躍的に発展したことには変わりなく、宗教的にはほぼ独立を勝ち取ったと言えるでしょう。
こうしてボレスワフ1世の治下、ポーランド国家は東ヨーロッパの一大強国にまで成長します。その総仕上げとなったのが1025年、ボレスワフ最晩年に行われた戴冠式でした。これによってポーランドは王国となり、帝国によっても独立を脅かされることのない確固たる地位を獲得したのです。王冠はまた、ポーランド国家の不可分性・一体性を象徴するものでもありました。
ボレスワフの死後、彼の剛腕によって築き上げられたポーランドは縮小を余儀なくされます。後継者ミェシコ2世は兄弟達に対する抑えが効かず、それにつけ込んだ近隣諸国(その中にはキエフ・ルーシも入っています)に領土を蚕食され、父が得た王号をも失っています。また国内では大規模な農民反乱も起こり、ポーランド国家は内憂外患の中に消滅する危険性すらありました。強大な君主による急速な強国化とその没後の転落というパターンは、シメオン没後のブルガリアを襲った運命と酷似しているかに見えます。
しかしミェシコの子で「復興者」と呼ばれたカジミェシ1世の治下、ポーランドは見事に立ち直ります。彼は神聖ローマ皇帝の支援を得て公位につき、国内の安定化と喪失領土の奪回に尽力してその大半に成功を収めました。そして次代のボレスワフ2世(「大胆王」の呼び名を得た)は国力の回復を背景に再び王冠を獲得しています。彼の治世にもまたキエフ・ルーシの歴史を大きく揺さぶる大きな事件が起こっていますが、それについては後に語られるはずです。
以上見てきたように、ポーランドはルーシと国境を接しまた同じスラヴ人の国家でありながら、全く異なる歴史の道のりを歩んできています。すなわちビザンツから正教とギリシア文化を受け入れ、北のヴァリャーグ・南の遊牧民と深いつながりを持ったルーシに対し、ポーランドはローマ教皇に忠実なカトリック国で、また神聖ローマ帝国及び西方カトリック諸国の動向に大きな影響を受けていました。表にして比べたくなるくらい見事な対比で、近代以降のロシア・ポーランド対立のルーツはこの当時からあったかのように見えますし、実際こうした環境の違いが両国の関係を(ある程度まで)困難にしたことは否定できません。この両国が長い間「近くて遠い国」という関係にあったのは周知の事実です。
しかしながら、ロシア(ルーシ)とポーランドの関係を何か「宿命的な」対立としてとらえ、完全な断絶のみをそこに見いだすのは誤りでしかありません。例えばウラジーミルとボレスワフが、国境問題をめぐって激しく戦うかと思えば子供同士を結婚させて同盟関係に入ったように、国家対国家のやり取りだけを見ても非常に複雑な様相を呈していました。同様に文化交流や交易の側面でも、両国が密接な関係にあったことは容易に想像できます。そしてこれ以降も、ルーシとポーランドは互いに無視し得ない存在として影響を与えあっていくのです。(00.04.03)
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