補説26

伝説としてのウラジーミル公


 しばしばウラジーミルは「太陽公」と呼ばれていますが、実を言うとこの呼び名は年代記の中に現れるものではなく、また他の歴史史料で使われているわけでもありません。民衆の間で語り継がれた歴史英雄叙事詩、いわゆるブィリーナこそが、ウラジーミルに「太陽公」というあだ名を与えたのでした。


 日本でブィリーナについて知っている人はあまり多くないかもしれません。これは民話と同じくロシアの民衆の中で語り継がれてきたフォークロアの一つで、近代以降に民俗学者の手によって記録されはじめ、広く世に知られるようになりました。
 ブィリーナはロシアの古い時代の要素を様々な形で反映させていると考えられており、それが歴史研究者に注目される理由となっています。すなわち、場所や時代がほとんど設定されていない一般の昔話(「昔々、あるところで」)と異なり、ブィリーナはキエフやノヴゴロドなど話の舞台が具体的に述べられていることが多く、しかもそれらの地名はキエフ公国に繁栄した都市を思い起こさせます。また登場する人物も、キエフの大公ウラジーミルを始め明らかに歴史上の人物をモデルとした例が少なくありません。こうしたことから、数少ないキエフ・ルーシについての史料をブィリーナによって補おうと試みる研究者も珍しくはないのです。

 キエフに座する「麗しの太陽の君」ウラジーミル公は、ブィリーナの中でもかなりポピュラーな存在となっています。といっても彼は重要な役割を果たしているわけではありません。ブィリーナの主人公としてルーシを脅かす外敵(「タタール」など)と戦うのはイリヤ・ムーロメツドブルィニャ・ニキーチチアリョーシャ・ポポーヴィチなどの勇士たちで、ウラジーミルはただキエフの玉座に座り、勇士たちを豪華な酒宴でもてなすだけの存在です。それどころか、邪教の怪物がキエフを占拠すると意気地なくもそれに屈服し、ただただ勇士たちによって助け出されることを待つ、といったシーンすらあります。名目的には高い位置を占めているが実際は空虚な飾りものにしかすぎないという点で、「西遊記」における三蔵法師とどこか共通する性格を持っています。


 このいささか情けない「ウラジーミル公」は、一見したところ歴史上のウラジーミルをあまり反映していないようにも思われます。年代記に見える荒々しいウラジーミルの姿は、ブィリーナにおいては完全にスポイルされていて、名前以外にあまり似たところが見受けられません。歴史と伝説とでウラジーミル像は全く異なっているとすら言うことができます。


 しかしながら歴史的ウラジーミルの要素は、伝説においてもやはりその痕跡をとどめています。例えば、ウラジーミルが人々を酒宴に招くことを好み、その気前の良さを年代記作者に讃えられていたことについては何度か述べましたが、ブィリーナにおける「太陽公」ウラジーミルも、まさにこのような存在として描かれています。すなわち公は超人的な強さを持つ勇士たちを常に豪華な酒宴でもてなし、彼らを楽しませているのです。そしてキエフを脅かす強敵が現れると、勇士たちは進んでそれに立ち向かい、公とキエフの街を守るというのがブィリーナにおけるお定まりのパターンになっています。
 ここでは明らかに、ウラジーミル時代の公と家臣との関係という一側面が現れています。公は配下の戦士団の忠誠心をつなぎ止め、彼らを戦場でよく戦わせるために、自らの美徳として「気前の良さ」を最大限に発揮する必要がありました。また食事などを共にすることで、戦士たちと公との一体感も高まったはずです。もっとも、ブィリーナにおけるウラジーミル公は自ら戦うことはしないので、この辺りのモチーフは不明瞭になってしまっていますが。

 またこれとは逆に、年代記の中にブィリーナ的な挿話が見出されることもあります。年代記作者は当時のルーシを脅かしていたペチェネグ人との戦いに多くのページを割いていますが、そこに現れる超人的な勇士たちは、多少なりともブィリーナの主人公たちと似通った風貌を持っているということができます。
 例えば、原初年代記992年の項には次のような話が記録されています。

ペチェネグの軍がやってきて、ルーシと川をはさんで対峙した。その時ペチェネグの公がウラジーミルに呼びかけ、互いに勇者を出して一騎打ちをさせ、それで決着を付けるべきことを申し出た。ウラジーミルは同意し、自らの勇士を探し求めたが、見つけることができなかった。
するとある年老いた家臣が自分の末息子を推薦した。あるときこの若者は皮をなめしていたのだが、その最中に父と口論し、両手で皮を引き裂いてしまったことすらあるのだという。そこでウラジーミルは彼を召しだし、その力を試すことにした。大きな雄牛に焼けた鉄を押しつけ、その若者の側を走らせると、彼は片手で雄牛の脇腹を掴んで肉をもぎ取ってしまった。
翌日、一騎打ちが行われた。末息子はペチェネグの勇士である大男を片手で締め付け、地面にたたきつけた。これをみるとペチェネグの軍勢は恐れをなして逃げ出し、戦いはルーシの勝利に終わった。ウラジーミルはその親子を身分の高い家臣にし、また勝利を記念してペレヤスラヴリの街を建設した。彼が栄光(スラヴァ)を奪い取った(ペレヤチ)したからである。

…一見して分かるように事実というよりは伝説的な性格が濃いエピソードです。例えばこの時建設されたとされるペレヤスラヴリは年代記のより古い時代の記事にもう現れており、明らかに矛盾しているわけです。もっとも、こうした「北斗の拳」ライクな超人の話を真面目に受け取る人は少ないでしょうが。
 この若者の造形は、ブィリーナに現れる人間離れした勇士たちに比べればまだまだ現実味があるものの、すでに歴史から伝説への境界を乗り越えつつあるということができます。この時代に頻度を増したステップ遊牧民との衝突は、ルーシを外敵から「守るための」戦いという概念を人々に与えていきました。うち続く戦いにおもむいた幾多の戦士達は、人々の記憶の中では特別な存在とされ、その中でも特にめざましい働きを示した者は、多くの誇張的表現を伴って伝説の世界に入り込んでいきました。ブィリーナで有名な勇士イリヤ・ムーロメツなどの原型も、この時代に活躍した名もなき戦士の一人だったのかもしれません。
 

 そしてこうした半神的な勇士たちは常にウラジーミル公の名と結びつけられてきました。実のところ、キエフ公国の「最盛期」と呼べる時代はウラジーミルではなくその息子のヤロスラフ賢公のもとで実現したのですが、にもかかわらず伝説中に「ヤロスラフ」という公の名が現れることはありません。ルーシのキリスト教化という大変動を成し遂げた偉人として、またペチェネグの来寇に身を以て対抗した国の護り手として、ウラジーミル公の名は諸公の中でも特別のものであり続けたのです。

 伝説におけるウラジーミルの役割はいつか低下し、「他人の力を借りなければ何もできない弱い王様」にまで落ちぶれていきます。にもかかわらず彼は依然として勇士たちの中心に位置し続け、命令を下す高貴な存在として残ったのでした。これは自らの力を恃み家臣の武勇を尊ぶウラジーミルの気質を表すと共に、いまだその軍事的機能に多くを依存する当時の公権力のあり方を物語っているのかもしれません。

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(00.01.06)


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