補説25

初期の民会


 997年のベルゴロド包囲について、年代記はある興味深い挿話を伝えています。この時ウラジーミルはノヴゴロド地方に、おそらくはヴァリャーグからなる戦士達を集めるため出かけており、包囲されたベルゴロドは公の援軍を期待することができませんでした。やがて街の人々は飢えに苦しみ、民会ヴェーチェ、вече)を開いて協議した結果、ペチェネグ人に降伏しようという案が大勢を占めるに至りました。ところがそれに出席していなかった一人の長老が自分に任せてほしいと言い、二つの井戸を掘ってその中に残り少なくなった食糧を入れさせました。そしてペチェネグの軍使を街に入れて、この様子を見せたのです。ペチェネグは街の人々が食べ物が湧き出る不思議な井戸を持っていると思い込み、恐れをなして逃げていきます。こうしてベルゴロドの街は救われたのでした。
 これは楽しい歴史物語と言うべきで、おそらくはペチェネグ人との戦いの中で生まれた民間の伝承が年代記作者によって記録されたものと考えられます。ただここで問題にしたいのは、老人の驚くべき機知の引き立て役となっている民会のことです。というのも、実にこれがヴェーチェについて初めて言及された箇所であるからなのです。

 一般自由民からなる集会で重要な問題を論ずる、というのは古代ギリシアやローマ、またゲルマン人の間に見られた現象で、これ自体は取り立てて珍しいことではありません。しかしルーシの民会(ヴェーチェ)については、史料も少ない上に研究者の解釈も様々で、はっきりと「定説」を提示することは非常に困難です。とにかくヴェーチェという名の集会が存在したことは事実なのですが、それがいかなる権限を持っていたか、どの程度の頻度で行われたのか、またルーシのどの範囲で行われたのか等々、まったく分かっていないのが実状です。

 既述の通りヴェーチェの史料所見は997年のことですが、しかしこれ以前に同種の人民集会が行われていなかったとは考えられません。原初年代記のより古い時代に関する記事でも、例えばハザール人の徴税に対してポリャーネが「相談して」対応を決定したとあり、合議による意志決定という慣習がスラヴ人の中に存在したことをうかがわせます。
 より興味深いのが、ベルゴロドと同じくペチェネグ人に包囲されたキエフの例です(968年)。当時スヴャトスラフ公はバルカンに遠征しており、留守を預かるのは年老いた母オリガと幼い息子たちだけで、キエフは深刻な危機に陥りました。この時立ち上がったのがキエフの「人々」自身で、彼らはバルカンにいたスヴャトスラフに使者を送り、至急帰国するよう要請しました。
 ここでは「ヴェーチェ」という言葉は使われていませんが、しかし「人々」が行動を起こすにあたって民会を開き、対策を講じたと考えることもできます。とにかく年代記によれば、公の家臣ではなく、あくまで「キエフの人々」が主体となっているのです。 


 ところで、言うまでもなくルーシには公という立派な「主権者」が存在しており、民会と公との関係は避けて通れない問題です。ゲルマンその他の例でも、民会は王の権力が成長すると共にその重要性を失っていき、やがては過去の遺制となっていきます。ルーシでも古い種族社会の崩壊と公の権力の伸長という事情は共通しているため、その民会も同じ運命をたどった、と考える研究者は少なくありません。実際年代記その他の史料では公についての既述が中心的で、民会について詳しく触れられることはほとんどありませんでした。従って、公の統治下で民会が何ら重要な役割を果たしてはいなかった、と見ても不思議はないわけです。


 これとは逆に、公支配のもとでも民会が大きな力を有していたと考えている研究者もいます。上記ベルゴロドの例にせよ、また民会とは明記されていない968年のキエフの例にせよ、事件は公の不在中に起こっており、従って都市民衆は公の権力を代行したという形になります。また両者とも、ペチェネグ人の包囲という都市の存亡に関わる重要事に関して決定を行っていることも無視できません。事態に対処したのは、明らかに公の代官ではなく都市民でした。

 ところで、ベルゴロドの次に年代記がヴェーチェを記録するのは1015年のノヴゴロドにおいてです。多少本文の先取りをすることになりますが、これも興味深い例なので取り上げてみたいと思います。
 キエフにいる父ヴラジーミルに反抗を開始したノヴゴロド公ヤロスラフは、来るべき戦いに備えてノルマン人傭兵(ヴァリャーギ)を呼び寄せました。ところがヴァリャーギはノヴゴロドで乱暴狼藉の限りをつくし、婦女子への暴行にまで及んだため、怒った街の人々は蜂起して彼らを殺害しました。これに対してまたヤロスラフが立腹し、市民たちを騙して呼び集め、斬り殺しています。
 しかしキエフにおける父の死、そして兄スヴャトポルクの権力掌握を知ると、ヤロスラフは方針を転換します。彼は生き残ったノヴゴロド人を民会に集め、今までのことを水に流し、共にキエフと戦うよう呼びかけました。人々もこれに応え、かくしてヤロスラフはヴァリャーギとノヴゴロド人の混成軍を率いてキエフに向かって行ったのでした。


 この記述は、公が都市民の協力を要請している点で注目できます。キエフとの決戦の如き重大事件において、公は軍を編成するため都市民の力を借りる必要があったのです。そしてその窓口になったのが民会でした。
 少なくともこの時点において、公の権力は大きな都市の意向を無視できるほど強くはなく、また都市の側でも民会を通じて自らの意志を決定する伝統を持っていたと言えます。公の事績を中心においている年代記の記述からでも、このことは読み取れるのです。
 ただしこれがルーシのどの地でも行われていたのか、またどの程度の頻度で、いかなる手続きの上で開催されたか、など明らかになっていないことも依然として多くあります。また民会の参加者、すなわち文字どおり全ての人民が集まったのか、あるいは寡頭制的なものであったのか、も解明されるべき問題の一つでしょう。従って一部の研究者のようにルーシの支配者は公ではなく民会であった、とまで主張できるかは疑問です。ともあれ、民会についての研究はこれからも続けられていくはずです。

 これまでの例では、民会と公は協力しあい、一種の相互補完体制をとっています。しかしキエフ国家の発展の中で、両者が激しくぶつかりあう事態も生じてきます。それについては今後触れる機会があることでしょう。

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(99.10.06)


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