補説24
ペチェネグ人
ペチェネグ(複数形はペチェネギ)人について、これまで詳しく触れる機会がありませんでした。
彼らはトルコ系に属し、他の多くの遊牧民と同じく東方から南ロシア平原に現れました。彼らの活動が活発になるのは10世紀、それまで強盛を誇ったハザール国が衰退を始めてからです。
スヴャトスラフ公がペチェネグと戦い、自らもそのために命を落としたのは何度も書いたとおりですが、これにはスヴャトスラフに苦しめられていたビザンツの策動があったと見られています。皇帝コンスタンティノス7世の著作には、ペチェネグは「パツィナキタイ」の名で現れ、ルーシなど黒海北岸に展開する諸「蛮族」を背後から牽制してくれる潜在的な同盟者として描かれているのです。ビザンツ伝統の「夷を以て夷を制す」外交政策の一例ですが、とにかくスヴャトスラフのバルカン遠征は、ビザンツに指嗾されたと見られるペチェネグの攻撃によって非常に制約されたのでした。しかしウラジーミルの時代、ルーシとビザンツが友好的な関係に転じてからも、ペチェネグとの緊張関係は続きました。当然のことながら、ペチェネグ人もビザンツの外交政策の持ち駒だけの存在ではなかったのです。ルーシの街や村、そしてドニエプルを往来する隊商は彼らの格好の獲物となり、その脅威にさらされました。機動力に勝るペチェネグの騎兵は茫漠たる草原のあちこちから襲撃をかけ、ルーシの正規軍といえどもしばしば遅れを取ることがありました。その対策としてウラジーミルが国境線を防御ラインで固めたことは本文で見たとおりです。
…と、ここまではルーシとペチェネグの対立点ばかりをクローズアップしてきました。実際、特にソ連/ロシアの研究者はこの側面を強調することが多く、文明的なルーシVS野蛮な遊牧民、という片寄った見方が一般的でもありました。
しかし一方で、ルーシは草原世界と様々な側面で交流を見せており、ペチェネグもその例外ではありませんでした。例えばコンスタンティノス7世は、ルーシはペチェネグに刃向かうことはできぬ、なぜなら彼らは自らの国では産しない牛・馬・羊をペチェネグから買っているからである、と語っています。実際には考古学その他の研究から、ルーシでも牧畜が行われていたことは明らかで、皇帝は同盟者であるペチェネグを過大評価しているとも言えます。しかし森の多いルーシの人々が、牧畜にかけてはプロであるペチェネグから家畜を輸入していたこと自体は否定できないでしょう。彼らの間には商業的な交流があったと考えてよいと思われます。
一方でペチェネグ人がルーシの傭兵や同盟者として現れることも珍しくありませんでした。すでにイーゴリ公の時代、ルーシがコンスタンティノープルを攻撃するのにペチェネグと手を組んだことがあります。またウラジーミルと公位を争ったヤロポルクはペチェネグと結ぶ可能性がありましたし(第7章)、ウラジーミル没後の内戦においてもスヴャトポルクはペチェネグの力を借りています。
確かにルーシとペチェネグとは激しい戦いを繰り返していますが、同時にこのような交流の場もあったわけで、両者の関係はそれほど単純なものではなかったようです。
ところで、本文でも紹介した宣教師ブルーノは、ペチェネグ人の生活についても興味深い報告を残しています。布教のためペチェネグ人と接触した彼の一行は捕らえられ、ペチェネグの全人民からなる集会での審議を受け、最終的には「長老たち」の判断で布教を許されました。その後、ペチェネグの4つの集団のうち3つまでを訪問し、第4の集団からは使者が派遣されてきた、ということです。
これで見る限り、ペチェネグ人はいくつかのグループに分かれて遊牧生活を送り、重要な事項に関しては人民集会によって決定を行っていました。ただしブルーノの言う如く本当に「全人民」に参加資格があったかについては疑うこともできますが、一方でこの集会のために一週間の準備期間を要したとも書かれていて、相当広範囲から参加者があったと考えられます。
「長老たち」とは一種の上級機関(元老院の如きもの)であったのか、或いはそれぞれの遊牧集団の族長であったのか、ともかく最終的な決定をなすにあたって大きな力を持っていたようです。ルーシの年代記に出てくるペチェネグの「公」も彼らのことを指していたのかもしれません。ただしハザールや後のモンゴル帝国のように、絶対的な力を持つ首長の下に統一されていなかったことは確かで、それゆえルーシも、(ハザールに対して行ったように)彼らの政治的中心を攻撃して一挙に覆滅することはできず、戦いは長引かざるを得ませんでした。
こうしてペチェネグ人はルーシとしばしば干戈を交えつつ南ロシア草原で活動していましたが、12世紀半ばになると西方に移動していきます。理由の一つは1036年にヤロスラフ公の率いるルーシの軍勢に大敗したからであり、もう一つは東方から新たなるトルコ系遊牧民、ポロヴェツ(ポロフツィ)が台頭してきたからです。かろうじてロシアに残ったペチェネグ人グループも、やがて他の遊牧民とともに「黒帽子」(チョールヌィエ・クロプキ)と呼ばれる集団を構成し、元来の民族的アイデンティティを失っていきます。
他の大部分は西方、バルカン方面に移動していきます。これはかつてブルガール人が、また古来多くの遊牧の民がたどったのと同じ道でありました。
しかしビザンツ帝国はすでに利用価値がなくなったかつての「同盟者」を受け入れようとせず、幾度かの戦いによってペチェネグはビザンツ軍に撃破されるに至りました。その後の消息はよく分かりませんが、帝国領に定住してその傭兵軍となった者もいたようです。
はるか東方でスタートしたペチェネグの歴史は、このようにしてバルカンの地で終焉を迎えました。しかし彼らの道のりは、その後ポロヴェツ・モンゴルといったより強力な遊牧民によって再びなぞられることになります。(99.09.03)
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