補説23

「スラヴ人の使徒」が残したもの


 ルーシがキリスト教と共に様々な文物をビザンツから輸入したのは本編に見える通りで、これによってルーシの文化は飛躍的に高まっていきました。しかし考えてみればビザンツで使われているのはギリシア語で、スラヴ人たるルーシにとってはまったく理解できない言葉であります。例えばキリスト教の基本・聖書一つとっても、自らギリシア語に習熟するか、あるいはルーシの言葉に翻訳するしかその内容を知る手だてはありませんでした。幸いにして、当時すでにギリシア語からスラヴの言葉へ様々な書物を翻訳する事業が行われていました。その起源は古く、ルーシの洗礼より100年ほど前にさかのぼることになります。

 それは862(もしくは63)年のこと、ビザンツ皇帝のもとに大モラヴィア国からの使節団がやってきました。モラヴィアとは聞き慣れぬ名前ですが、現在のチェコ・スロヴァキアを中心に広がっていたスラヴ人の国家で、当時はロスチスラフという名の公が支配していました。
 ロスチスラフの依頼は、簡単に言えばビザンツ教会から宣教師を派遣してもらいたいというものでした。実のところモラヴィアはすでにキリスト教を受け入れていたのですが、西方カトリック教会、ひいてはドイツ人勢力が自国に浸透することを恐れたロスチスラフが、遠方のビザンツ教会を引き入れることでこれに対抗しようとしたわけです。

 これを聞いた皇帝ミカエル3世は早速人材の派遣を検討し、その結果キュリロス(修道名、俗名はコンスタンティノス)とメトディオスという兄弟に白羽の矢を立てます。彼らは何者かというと、まず弟キュリロスは首都の大学に学び20代でその教授となった人物で、畏敬の念を込めて「哲人」と呼ばれていたほどの秀才でした。また彼は外交官としてのキャリアも持ち、ハザール人やアラブ人のもとへ使わされたという経験も持っています。一方兄メトディオスも地方長官として活躍し、その後は引退して修道生活を送っていました。要するに当時の帝国きっての知性を持つ兄弟だったわけです。


 しかし彼らがこの任務に最適であると判断されたのは、兄弟の故郷、ギリシアのテッサロニケ(現サロニカ)にスラヴ人が多く住んでおり、兄弟もまたギリシア語とスラヴ語の両方を理解するバイリンガルであったからです。出発に際して彼らは、主にキュリロスが中心となったようですが、スラヴ人にキリストの教えを伝えるための文字を作りだし、また福音書をギリシア語からスラヴ語に訳しています。もちろん彼らの知っていたバルカンのスラヴ語と西方・モラヴィアのスラヴ語は違うものでしたが、しかしスラヴ諸語というものは現在においても非常に似通っているほどで、兄弟訳のスラヴ語はモラヴィアでも十分に通用したのでした。
 当時のキリスト教においては、典礼はラテン語・ギリシア語もしくはヘブライ語のどれかを用いて行うのが一般的でした。従って、兄弟が現地人の言葉であるスラヴ語を採用し、それを用いて神を称えさせようとしたのは非常に驚くべきことだったのです。

※この時スラヴ人のために作られた文字が何であったか、はっきりとは分かっていません。現在でもロシアその他で用いられているキリル文字がそれだ、と考えられていた時期もありましたが、今ではほぼ否定され、グラゴル文字と呼ばれる文字が有力になっています。グラゴル文字を見たことのある人は少ないでしょうからここにリンクをはっておきます。
 ちなみにキリル文字はこれより半世紀ほど後、ギリシア語を母体に作られたと言われています。キリル(キュリロスのロシア語読み)が作ったのはキリル文字ではなくグラゴル文字というわけで、ややこしいですがお間違えのないよう。

 結果から先に言うと、兄弟の任務は失敗に終わりました。というのも、間もなくモラヴィアでは政変が起こって親ドイツ派が実権を握り、カトリック勢力が支配的となったからです。兄弟が心血を注いで作ったスラヴ語訳の典礼は、ラテン語典礼を行うカトリックの目には異端的なものに映り、兄弟の死後その弟子たちは逮捕され、あるいはモラヴィアから追放されてしまいました。

 しかしスラヴ語典礼の教育を受けたこれらの弟子たちを温かく迎え入れた国がありました。それがブルガリアです。
 当時ビザンツからキリスト教を受け入れていたボリスにとって、いかにビザンツの影響力を抑えながら教会の発展に努めるか、が大きな問題でした。典礼がギリシア語で行われている限りはギリシア人の聖職者を帝国から「輸入」せざるを得ず、これではブルガリア教会がコンスタンティノープルに全面的に依存することになります。しかしスラヴ語典礼が可能になれば、ブルガリア教会はビザンツからの独立を勝ち取ることができるはずでした。
 ボリス、そして後継者のシメオンはキュリロスとメトディオスの弟子たちを保護し、スラヴ語典礼の普及に力を注ぎました。多くの書物がギリシア語からスラヴ語に訳され、ブルガリアはスラヴ語文化の一大センターとなったのです。ちなみに兄弟が作り上げ(正確に言うと記録し)、ブルガリアで発展したスラヴ文語を「古代教会スラヴ語」と呼ぶこともあります。

 そしてこれらのスラヴ語文献は、ウラジーミルがキリスト教を受け入れるに及んでルーシにも流入していきました。これはビザンツの攻撃によってブルガリアが崩壊し、教会の独立も失われたため、ブルガリア人聖職者が多数キエフに亡命した結果でもあります。
 先にも述べたようにこの当時のスラヴ諸語は(現在にもまして)互いによく似ており、ブルガリアから入ってきたスラヴ語書物はそのままルーシでも通用しました。とは言ってもやはりルーシ特有の方言は存在していたので、ルーシの文語には南スラヴ(ブルガリア)と東スラヴ(ルーシ)という二つの要素が混在することになりました。例えば「街」を表すのにградとгородの二つがあるがごときで、現代ロシア語の語彙数(同義語)の多さも一部はこれに由来しているようです(雑話14参照)。

 こうして、ギリシアはテッサロニケを振り出しに始まったスラヴ語文化は、ついにルーシの地にまで届きました。これは言うまでもなく重要なことと言えます。それまでルーシは(他のスラヴ人もそうですが)自らの話している言葉を書いて記録することができず、そのための文字も持っていませんでした。キュリロスとメトディオスの事業によって初めてスラヴ人は「文語」を手にし、それまでは口づたえにしか継承されなかった文化を文字の形で残すことが可能となったのです。兄弟のスラヴ文化への貢献はまことに大きなもので、彼らが後に「スラヴ人の使徒」の名で称えられるようになったのも十分に理由のあることでした。

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(99.08.15)


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